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ジェンや子どもたちの明るい姿から失念していたが、〈バックトゥバック〉を利用する母子は愛する人を失った悲しみを抱えている。その傷口が乾いているとは限らない。
ミグはすすり泣く女性の患部に障らないよう、足音を殺して冷気漂う廊下から離れた。植物のつるが描かれた深緑色のじゅうたんに視線を落とし、思い浮かべたのはテッサのことだった。
ここには拭いきれない悲しみと死のにおいが漂っている。親友がここへ引き寄せられた理由がわかった気がした。
「おねえちゃん」
心細い男の子の声に呼びかけられたのは、ミグが朽ちた階段の踊り場まで戻ってきた時だった。見るとエントランスホールの真ん中でジェンの次男シャルがちょこんと立ち、すがるような目をミグに向けている。
「なあに。どうし、どおわあ!?」
足を下ろした瞬間、階段の横板が抜けてミグは背中で滑り落ちた。板チョコのような天井とにらみ合って、テッサの言葉を訂正させて欲しいと思う。この建物は、柱とガラス《《だけ》》が頑丈だ。
「だいじょうぶ?」
ぷっくりとしたシャルの手が、遠慮がちにミグの頭をなでる。痛いのはそこではなく腰や背中だったが、シャルは兄と違っていい子だと無闇に感動した。
「ありがとう。シャルのお陰でもう痛くないよ。それよりなにかあったの?」
お礼を言ったとたんはにかんだシャルは、言葉を探しながら一生懸命に話し出した。
「あのね、湖は子どもだけで行っちゃいけないの。あぶないから」
ミグはうなずいて、シャルの言葉をゆったりと待った。
「でもね、行っちゃった。おにいちゃんがナキがいるって」
「えっ」
「だからぼく、おとなの人呼ばなきゃと思って。ミグおねえちゃん、いっしょにきてくれる?」
クールが行ってはいけない湖に向かった。その危険性を瞬時に理解し、ミグはシャルの手を引いて案内を頼んだ。




