スライムの恩返し
どうして人はスライムを殺すの?
スライムは悪いことしてないよ?何で殺すの?
生きるために殺す。襲われたら身を守る為に相手を倒す。これは分かるの。
食べるために殺す。生きていくための糧にするのも分かる。けど、人間はスライムを食べない。
脅かされるから殺す。生活圏を侵したり餌を奪われたり害となるから殺すのは分かる。でも、スライムは森の奥にいる。人と縄張りは交わらないよ?
魔石?生活を便利にする魔道具を使うために、魔物の核である魔石を使うから殺すの?自分たちの便利の為に、何も悪いことしていないスライムを殺すんだね。
ちょうどいい訓練?人を害する魔物を退治する練習の為に、攻撃力が低くて反撃しても自分の身が危うくならない魔物だから練習の為に殺すんだね。
幾ら殺してもいつの間にか増えているから問題ないと人は言うんだ。新しく生まれた命は殺された命とは別なのにね。
そんな、小さな小さな弱くもろいスライムに生まれたから、殺されても仕方ないんだって、人はそう言うんだね。
そして、わたしもそんな理由で殺されるんだね、今。
同族の中でわたしは異質だった。周りの仲間はなぜ殺されるのか、なぜ人は攻撃してくるのかなんて考えることもなく、ただ見つからないように隠れ、見つかったら逃げ、そして結局は殺されていった。考えるスライムを、わたしはわたしのほかに知らない。
同族の中でもひと際小さなわたしは弱さゆえに用心深く、異質ゆえに人の行動に疑問を持ち、同族を殺す人間を観察していた。今までは上手く逃れていたけれど……。
わたしに剣を振り上げたのは、まだ子供と言われる小さな人間。小さいといっても、わたしよりはずっとずっと大きい。光る剣はきっとよく切れるのだろう。わたしの脆い体なんて、抵抗すら感じられないほど簡単に裂いてしまうのだろう。
なぜ人はスライムを殺すの?なぜスライムは殺されても仕方ないの?そんな疑問ごとわたしは殺されるんだなぁ。わたしたちがいる森の奥まで勝手にやってきた人間は、きっと、わたしがそんな事を考えていることに気付きもしない。
そう思った時、剣を振りかぶった子供とは別の、もっと小さな子どもが剣を持った子供を制した。
「何故、このスライムを殺す?」
「んだよ、邪魔すんなよ」
「この小さなスライムからは使える魔石は手に入らない。殺す必要はないだろう」
「何言ってんだよ、てめー。スライムなんかどうせ幾らでも増えるんだ。だから俺が減らしてやるんだ。俺は大きくなったら魔獣退治をする第四騎士団に入ってバンバン魔物を殺して、英雄になるんだ!練習の為にスライムをやっつけるんだ!」
剣の子どもは練習の為に弱い者いじめをするんだね。練習の為に何もしていないわたしを殺すんだね。
「この小さなスライムを殺すことが訓練になると?ふふっ、君はその程度の腕なのに随分と壮大な夢を持っているんだね。僕には理解できないほどの人物らしい」
「うっ、うるせーっ。お前は何なんだよっ、カンケーねーだろ、放っておけよ」
剣の子どもは小さな子どもに向かって、私に振り上げていた剣を構えた。すると、いつの間にか傍に寄ってきた大きな人間たちが剣の子どもから剣を取り上げて、その体を拘束した。
「スタニスラス様、仰っていることは一々ご尤もですが、たかがスライムの為に剣の下を潜るような真似はなさらんで下され。スタニスラス様に傷でもついた日には奥さまと大奥さまに爺がどやされます」
「父上が抑えて下さるよ。……多分」
「それはどうでしょうなぁ」
私を助けてくれたスタニスラス様?が、しゃがみこんで私をそっと撫でてくれた。
「こんなに小さな子に剣を振りかぶるような子どもは、弱い者を使って力を証明しようとする卑怯者だから質が悪い」
「子どもとおっしゃいますが、スタニスラス様はまだ五つでございましょう。あの少年は十は超えていそうですぞ」
「そうだね。十を超えているような子どもが、スライムを倒して自己陶酔に浸るのは情けないよね」
「――スタニスラス様は、本当に五つでしたかの。生まれたときから存じておりますが、それでも年齢を謀っているのではないかと思う時がございます」
酷いな、とスタニスラス様が笑う。
「大体、この辺りは我が家の敷地内だ。有事ならともかく、平時にここまで侵入してくる方が悪い」
「あの子どもは知らなかったのでしょうな」
「知らなかったからと言って良しとは出来ない。示しがつかないからね。境界の柵を設けたいところだけれど、この森は大きすぎるから難しいね」
「左様ですな。さ、そろそろお茶の時間でございましょう。森の散策はここまでにして屋敷に戻りましょう」
わたしは人の領域に入っていたのか。人の住む地の傍は避けようとしていた筈なのに、失敗してしまった。森の奥へ奥へとどんどん進んでいくと森から外れてしまう事は知っていたのに。
「ああ、そうしよう。小さなスライムくん、人に見つからないように気をお付け。君たち”森の掃除屋”がいるから森の美しさが保たれているということを知っている人間は多いが、それでも魔石を狙われたり練習と称して殺そうとする人間はとてもとても多いからね。そんな輩を避けて、これからも森を宜しくね」
”森の掃除屋”
これは初めて聞く言葉だ。人という種族はスライムをどう扱ってもいい魔物としか見ていないのだと思っていた。
なんて嬉しい呼び名だろう。
スライムは生き物を襲わない。糧とするのは死した獣や魔物、落ちた果実などだ。それをして”森の掃除屋”と呼ばれるのは、ただ生きているだけで褒めてもらえるような心持ちになる。存在を許されている気持ちになる。
スタニスラス様、ありがとう。わたしはこれからも森を綺麗にするために頑張る。この小さな体ではあまり多くを食べられないけれど、それでも頑張る。わたしを助けてくれたスタニスラス様が喜んでくれるなら、いっぱいいっぱい食べる。
去っていくスタニスラス様と大きな人間たちを見送って、わたしは森の奥へと戻る。
その途中で、スライムなどどう扱ってもいい魔物としか見ない人間に見つかることも知らずに、幸せいっぱいの気持ちで。
◇◇◇
私は昔、スライムだった。
スライムとして死んだあとその記憶を持ったまま人間として生まれた。せっかくスタニスラス様に命を救ってもらったというのに、私は森の奥へ戻る途中で人間に殺されたのだ。
あの時の私は小さな弱い生き物だったが、今も実はそうだ。
貧しい村の貧しい夫婦。その夫婦の五番目の子として生まれた私は、生まれたときから体が小さかった。それは母親が栄養不足だったからかもしれないし、ただ単に私という個体が弱かったせいかもしれない。
10歳になってもやはり小さいままだ。
物心ついたときにはもう、人間として生まれる前はスライムだったことを自覚していた。大きくなってから「生まれ変わり」という言葉を知ったけれど、それはお兄ちゃんが死んだときに「いつかどこかで生まれ変わって、今度は幸せになって」というお母さんの言葉からだったので、私は「幸せになるために生まれ変わった」のだと思い込んだ。7歳の時だった。
10歳の今はそうは思っていない。あれはお母さんが自分を慰めるために吐いた言葉だと理解したからだ。なら、私は何故生まれ変わったんだろう?
11歳になっても12歳になってもその疑問に答えは出ないまま。生まれ変わりってなんなんだろう。
私が13歳になった年、大雨と日照不足による飢饉が村を襲った。ただでさえ貧しい村は大打撃を受け、貧しい村の中でもさらに貧しく、もともとお腹いっぱいに食べることも叶わなかった我が家は、家族が生き延びる事すら厳しい状況になってしまった。
私は売られることになった。
我が家の状況を考えたら、私はもっと早く売られていてもおかしくなかった。子供五人のうち、兄の一人は早逝したものの残りの四人を両親はそれは慈しんで育ててくれた。風変わりな私のことも愛してくれた。
スライムの過去を持つだけでなく、村はずれに隠遁している元は国の中央にいたというお爺さんの元へ幼いころから通っては、読み書きや計算の教えを請うては本を読み、広い世界の話を強請っていた私。スライムの頃から異質だったが人となってもやはり異質なようだ。
知ることに対する欲求は抑えられず、考えることは日常の一部だ。なぜみんなは知りたいと思わないのだろう。この狭い村の中だって、不思議はいっぱいあるのに。なぜみんなは考えないんだろう。自分たちがどんな存在なのかを。
知ったからって何の役に立つ。考えたって仕方がない。
村の子供たちにはそう言われた。そんな暇があるなら畑を耕し、森で狩りをし、川で魚を捕ったほうがずっと有意義だと彼らは言った。それは確かに私もそう思う。人は生きていくために食べねばならないのだし、働かなくては食料は得られないのだから。
それでも、私は知りたいと思う事も考えることも止められなかった。そして、そんな異質な私を愛してくれた両親には感謝しかない。
だから、売られて行くことは甘受する。私を売ったお金で、家族がお腹いっぱいにご飯を食べられるといいのだけれど、こんなちっぽけな私はとても安いかもしれない。安すぎたら申し訳ないなぁ、と思う。私の持つふわふわした赤毛も茶色の瞳もありふれていて価値はなさそうだ。
「先生、私は売られて行くことになりました。今までお世話になりました」
私が幼かった頃からたくさんの物事を教えてくれたお爺さんを、私は先生と呼ぶ。売られることは仕方ないけれど、先生に教えを乞うことが出来なくなるのは残念だ。
「そうか」
「先生、私は幾らになるでしょう?そのお金で家族はお腹いっぱい食べられますか?」
先生は何でも知っているから聞いてみた。
「大した金にはならんだろうの」
「それはやはり私がちっぽけで痩せっぽっちだからですか?」
「それもあるが、国中が飢饉で困窮している今、売り手が過剰で買い叩かれるからの」
そうか。売られる子供が多ければ、高いお金を出して買う事も無いのか。それは残念だ。それにやはり、ちっぽけで痩せっぽっちの私の価値は低いのだ。
「両親に申し訳ないです。ここまで育ててくれたのに、お金にもならない娘で」
「相変わらず妙な事を気にする娘だ。売られて行くことに恨みはないのか?」
恨みなどない。両親だって子供を売りたくなんてない筈だ。それでも一家が全滅するくらいなら、一番小さくて役に立たない私を売る方がいいに決まっている。
「無いようだな。売られた先は地獄かもしれんのに」
「どこにいても考えることだけはできると思います」
知る欲求を満たすことは難しいかもしれないけれど、頭の中は侵されないだろう。
「そうとは限らんぞ?人を壊す事など何とも思わぬ人間もいる。お前の心が今のお前のままでいられるかどうかは、売られた先によるだろう」
「そうなんですか。それは残念です」
「娼館か奴隷商か、とてつもなく運が良ければ子を亡くした夫婦に引き取られる可能性もあるが、まぁ、それはまずあるまいな」
どういう所へ売られて行くかを私は選べないのだから、せめて考えることだけは守られる状況であれと願うしかない。
「やはり頓狂な娘よ。売られることよりも知識欲と探求心を満たせなくなることの方が辛いか」
「頓狂でしょうか?」
「であろうよ。得体のしれぬ儂を村の者は遠巻きにしていると知っていて、五つの幼子の頃から寄ってきたのはお前くらいじゃ、カシ」
先生が村はずれに居を構えたのは私が五歳の時。外からやってきた人に興味津々だった私は、すぐさま先生の所へ突撃して、13歳になる今まで頻繁に訪問していた。
「村のみんなは、先生にどう対していいのか分からないだけです。先生は遠くの都でとても偉い方だったとか、高名な魔術師だったとか、お貴族様だったとかいろんな噂があって、そんな方に縁の無いこんな小さな村では仕方ないんです。私は、幼過ぎて先生の凄さを知らなかったので平気だったのです」
幼かった私に斟酌する賢さが無かったことも本当だけれど、そういう噂がある先生ならば私の知らない事をたくさん知っているだろうと押しかけたのが実際の所だ。これが知識欲と探求心なんだろうか。
「幼い者なら他にもいただろう。この家に押しかけて来たのはお前だけだがな」
「それは、先生が怖そうだからです」
細身ではあるけれど村の大人よりずっと背も高く、男の人なのに白い髪が腰まで長く、同じく真っ白な髭が顔の下半分を覆っていて、そして目つきが悪い。いつも睨んでいるように見える表情は、目つきの悪さだけでなく普段は真一文字に結ばれている口元のせいもある。顔に深く刻まれた皺は老人の柔らかさでは無く厳めしさを際立たせていた。
怖い顔をしていても、冗談を言ったり小さな悪戯を仕掛けては笑い転げたりする可愛いお爺さんなのだけれど、それは傍にいないと分からない。
「怖そうか……前にいた所でもよくそう言われた。そこはこの村よりもずっと人が多かったが、お前ほど物おじしない子どもは一人しかいなかったな」
たくさん人間がいるような場所でも、先生の事を怖がらない子どもは一人しかいなかったんだ。
「スタンという少年でな、やはり五才の頃に出会ったのだが、お前と同じくらいに知識を得ることに貪欲な子どもだった。吸収する力も知識を賢く使う術も他に類を見ぬほどで、これを天才というのであろうと、たった五つの子どもを恐れ入って見たものよ」
「先生がそこまで言うなんて、スタンさんは凄い人なんですね」
「そうじゃの。お前と同じくらいに凄い子供だったよ、カシ。五つから十までしか知らぬが、今はもう十八になるか。立派になっているであろうな」
「私はすごくないです、先生」
先生にとっては、先生を恐れない子どもは凄い子どもなんだろうか?そんなに怖がられているのなら、もう少しにこやかにしていればいいのに。
「お前が何を考えているのか分かるぞ?しかしな、儂は笑顔の方が余計に怖がられるのよ」
そう言って笑って見せてくれた先生は、確かに怖かった。
「それ、笑顔ですか?」
「違うか?」
「えーと、率直に言いますが、私の知っている先生の笑顔と全然違います。私が知っているのは楽しいとか面白いとかそういう気持ちが伝わってきていたんですけれど、今の先生のお顔は、裏がありそうというかニコリじゃなくてニヤリでしたし、後が怖そうだし脅されているようだし、やっぱり怖いです。どうしていつもの笑顔じゃないんですか?」
いつもの先生の笑顔は、柔らかくて優しくて温かい。悪戯成功の笑顔においては被害者は私なのだけれど、ついつい許してしまえるくらいに可愛い顔をするのだ。
「面白くも無いのに笑えるものか」
これ!ちょっと口を尖らせ気味の先生のお顔はとても親しみが持てるものなので、いつもこうなら怖がる人なんていないと思う。そうかと思うと、先生が真顔になった。眉間に皺をよせ、私を見つめる先生が言う。
「カシ、もしお前が良ければだが――儂がお前を買いたいと思うがどうか」
「先生が?私、先生のお役に立てることはありますか?」
先生に買ってもらったとして、そのお金に見合う何が私はできるだろうか。ちびのやせっぽっちだから力仕事は多分それほど出来ない。自分の全力を尽くしても役に立てる自信は無い。料理も野草やキノコの塩味スープが作れるくらいだ。貧乏な我が家は材料も調味料も不足ばかりだから。
「お前には儂の家族になってほしいのだよ。儂は今まで結婚したことも子を成したこともない。生まれたときにいた家族はとうにみな墓の中だ。そもそもカシの家のような温かい家族は知らんしの」
家族になることなら私に出来るだろうか。
「お前が家族を愛しているのは知っていたので口には出さなんだが、儂はお前を娘のように思っておる。いや、年齢を考えれば孫であろうがの。家族からお前を奪いたいなどとは考えたことも無かったが、売られるというのなら話は別であろう?」
「私が先生の家族になれますか?」
「儂こそ、お前の父になれるかの?」
先生がお父さんになる。売られた先で客を取らされるか奴隷として鞭打たれ重労働をするかだと思っていたのに、こんな分不相応な事を望んでいいのだろうか。
「金だけ出してお前をあの家に戻すことも出来るが、村の者たちがそれでは納得すまい。お前も施しを受けて平然としていられる類でもないし、儂は善人ぶって施しをした結果が良い物にはならんことが多いと知っている。だから、子買いに売られたように見せてこの村を出ることになる。お前が諾とするならばだが」
先生の真剣な顔を見て、この申し出が本気であると感じられた。冗談や悪戯の好きな先生だけど、さすがにこんな質の悪いそら事をいう筈がないと分かってはいたけれど、私自身が望外の提案を信じられなかったのだ。
「私は先生が買って下さるならとても嬉しいし、家族にというお話も光栄だと思います。けど、先生はいいのですか?先生もこの村を出ることになってしまいます」
先生は色々な事を教えてくれたけれど、ここに来る前の事や村に来た理由などは一言も話さなかった。訳あってやってきたのだろうに、私のせいで村を出ることになってしまう。
「儂の事を心配してくれるのか、お前は良い娘だ、カシ」
柔らかく笑う先生の顔を見て、ああ、先生と一緒に居たいと素直に思えた。
「この村に居なければならぬ事情は無いよ。たまたまここに辿り着いただけじゃ。元いた所に戻れぬ訳もない。面倒くさくなって放り投げてきただけで誰ぞに追われているという事でもないしの。だから、お前の気持ちを正直に答えておくれ」
先生が望んでくれるなら。
私の答えは一つしかない。
◇◇◇
そこからの展開は早かった。
普段は村に立ち入らない先生と、先生の家に近寄らない私の両親との話し合いをどうしようかと思っていたら、先生は周囲にそれとは知られずに村の中を歩くのは茶飯事だと笑った。そういう魔術があるのだそうだ。
噂の中の「魔術師だった」というのは本当の事なんだ。
教えを乞うて八年の間、先生は魔術を私に教えようとはしなかった。私に才が無いのか先生が魔術師であることを知られたくなかったのか。もしも後者ならいつか私も教えてもらえるだろうか。
その魔術を使い我が家まで来た先生は、私を外して両親と話し合いをした。なぜ私を外すのだろう?私のことなのだから同席したかった。先生が帰った後に両親に先生に売られることに否やは無いのかと聞かれたが、売られることが確定した私の行く先で先生の所ほど行きたい場所は無いと答えた。
狭い村の狭い世界しか知らない私だから、行きたい場所なんて端から無いのだけれども。
驚くことに先生の話を受けてから三日で子買いの役である男が現れた。本当に振りをしているだけなのだろうかと、こっそりと同席している先生に目をやると無言で頷かれた。先生は外との交流があるようだ。考えてみれば村で買い物をすることも自分で畑を耕すことも、狩りや漁をすることも無い先生だ。なのに、食糧庫はいつも充実していて、衣服や本なども増えていたのだ。外部とのやり取りがあると思いつかなかった私が浅はかだった。
両親と兄姉たちと抱擁を交わし、私は子買い役の男と家を出る。村の人たちが集まっていて、痛ましげに私を見るが、このあとは先生と家族になるこの状況ではとても申し訳ない気持ちになる。きっと、私のほかにも売られて行く子どもはいるだろう。しかし、彼らの身の上に、私に降ってきた幸運が与えられる可能性はとても低いと思うから。
子買い役の男とは村から歩いて三日の町の入り口で別れた。そこで待っていた先生と一緒に、私は村の外の世界を見ることになった。
村の外はビックリすることばかりだった。
先生は国中が飢饉で困窮していると言っていたけれど、初めて見る町にそんな様子は見えなかった。村では見たことも無いような綺麗な服を着た人々が行き交い、店先には食料や道具類やふんだんに並べられている。それを先生に問うと「この町とて裏通りに入れば、今までにないほどの流民や浮浪者や孤児で溢れておるよ」と言う。村ではみな等しく貧しかったが、町では貧富の差が激しいのかもしれない。
町で先生に服を買ってもらった。遠慮する私に「可愛い娘を更に可愛くさせるのは親の特権じゃ」と言う。いままでこんな甘い言葉を聞いたことが無い。町に降りて先生の性格が変わってしまったようで、少し不安になる。
「それで、儂はいつまで”先生”なのかの?」
「あ……父さん?」
言葉にしたら、村にいる父の顔が浮かんだ。
「その言葉は村の父親にとっておきなさい。そうじゃの、父上かお父様か……パパでも良いぞ?」
父上……お父様……パパ……どれがいいんだろう?自分では判断できずに先生を見上げると満面の笑みで私を見下ろしている先生が見えた。村の大人よりも大きな先生と13歳にしては小さな私が並ぶと、私は先生の胸あたりにやっと頭が届くくらいなので見上げると首が痛い。見下ろす先生の首は大丈夫なんだろうか。
「ふふふっ、困っておるか、カシ。そうじゃなお父様あたりが妥当かの」
「はい、お父様」
先生が決めてくれて良かった。あ、先生じゃない、お父様だ。
「お前には新しい名を贈ろう。お前はこれからカサンドラだ。愛称はカシなのでちょうどよかろう」
「はい、お父様」
こうして私はカサンドラになった。けれど、先せ……お父様はカシと呼ぶのであまり変わった実感が無い。
町を出るときは馬車に乗った。村にあったような荷馬車ではなく、とても立派な馬車で乗っていてもお尻が痛くならないので驚いた。座席はフカフカなのにクッションまである。初めて見る、レースをふんだんに使って更に細かい刺繍の入った手触りのいいクッションに座る勇気が出なくて、お父様に笑われた。
これから行く場所はどんな所なんだろう。お父様に地図で説明してもらったけれど、とても遠いという事しかわからなかった。この立派な馬車を使っても半月掛かるというので、徒歩しか移動手段のない村の人は一生たどり着けない場所だと思う。村の荷馬車は商売用で人の移動用ではないのだ。
馬車の旅は楽しい。居心地の良い車内で窓の外を見ると、見たことも無い景色が広がっていて全く飽きない。植生が移り変わっていく様も面白い。村と最初の町は高所にあったので、低地にある植物群は初めて見るものが多い。村でお父様に見せてもらった図鑑で覚えた花や木々、飛ぶ鳥さえも美しい。
目的地まであと二日と言う所でお父様が知人の家に寄ると言い出した。
「以前に話したことがある天才児スタンの家じゃ。いや、18になっている筈だから天才児と言う年ではないの。十までの事しか知らんから、はてさて見ても分かるかどうか」
「お父様を怖がらなかったというスタンさんですね、お会いできるのが楽しみです」
この時はそう思ったのだけれど、お父様の言う知人の家を見たときに私は固まった。これは、お家ではなくお屋敷と呼ぶべき建物だ。門をくぐり屋敷が見えるまで馬車で十分もかかるなんて、どれだけ広い敷地なんだろう。私のいた村全部が入るほどに大きなお屋敷。その後ろには鬱蒼とした森が見える。お父様はこんなお屋敷に住む方――お貴族様だろう――と知り合いなのか。
不安に思っている私にお父様は優しく声を掛けてくれた。
「大丈夫だ、カシ。お前が想像した通りにここは貴族の屋敷ではあるがの。主は頭が固くてまじめな男だが話が通じぬ訳でもない。嫡子のスタンは常識の枠に捕らわれぬ型破りの子どもじゃったの」
駄目だ。お父様の説明に安心できる部分が無い。尚も心許ない思いを消せない私に「会えばわかる」とだけ言って、お父様は馬車を降り私に手を差し出した。教わった通りに手を預けて私も馬車を降りる。目の前の大きなお屋敷から逃げ出したい気持ちでいっぱいだ。
お父様にエスコートされお屋敷の使用人に案内されて足を踏み入れると、そこは別世界だった。貧しい村の貧しい暮らししか知らなかった私には、調度がどうとかは一切分からないけれど、まるで物語で読んだお城のように思える。
「先生!お久しぶりです!お元気でしたか?」
駆けるように階段を降りてきた黒髪で黒い目をした美しい青年を見て、私の鼓動が跳ねた。
なぜ?なぜ?なぜ?
「スタン、久しぶりじゃの。しかしもう、儂は先生ではなかろう。あの当時でさえそなたを教え子と言えるほどのことは出来なんだしの」
「いえ、先生は先生です。ああ、お元気そうだ」
「ああ、儂は元気じゃ。スタンは男前になったのう。元気そうで何よりじゃ。この度、儂に娘が出来ての。カサンドラと言う。お主と同じで、初対面から儂を怖がらずに教えを乞うてきた稀有な娘よ」
「娘……孫ではなく?」
「子がおらぬのに孫が出来てはおかしいだろう。孫はカシが子を成したときの楽しみにしておくのじゃ。まだ十三じゃからずっと先の話になるがの」
なぜ?なぜ?なぜ?
スタニスラス様だ。間違いない。私を助けてくれたスタニスラス様が私の目の前にいる。あなたが救ってくれた命を散らしてしまってごめんなさい。”森の掃除屋”と呼んでくれたのに、あのあと一度も役目を果たさずに死んでしまってごめんなさい。
「カサンドラ嬢……どうしました?」
「――カシ、なぜ泣いておる」
泣いている?頬に手をやると確かに濡れていた。泣いていたなんて気づかなかった。
「ごめんなさい、お父様。ちょっと緊張が過ぎてしまったようです。スタ……スタン様、お見苦しい様をお見せいたしまして誠に申し訳ありません」
スタニスラス様と言いかけて寸での所で止めることが出来た。まだ紹介をされていないのにその名を私が知っていてはおかしい。
「いや、気にしなくてもいいよ、カサンドラ嬢。先生、部屋を用意しますのでどう彼女に休憩を取らせてください」
「済まんの、スタン」
「何を言っているんですか、先生。先生の為なら造作もない事です」
スタニスラス様が背後に向かって合図をすると、背の高い金髪の男が現れた。その男が近寄ってきて顔を見た瞬間に私の体は勝手に動いた。私にはスタニスラス様を守る力どころか自分を守る術すらない。出来るのは身を挺することのみ。
「スタニスラス様、ご用でしょうか――って、このちびっ子は何ですか?」
私は金髪の男とスタニスラス様の間に割って入り、両手を広げて男を睨む。この男は敵だ。大きくなった剣の子ども。
「先生のご息女のカサンドラ嬢だが……どうなさいましたか?」
スタニスラス様が不思議そうに私に問う。
「この男は敵です、スタニスラス様」
「え?いや、そんな事はありませんよ、カサンドラ嬢」
「スタニスラス様……どういう事でしょう?」
「カシ、どうしたんだ。お前、この屋敷に来てからおかしいぞ?」
おかしい……のかもしれない。スタニスラス様を見てから心臓が壊れそうなほどに騒ぐし、大きくなった剣の子どもを見たときは体が冷たくなるほどの恐怖を感じた。でも、私は、私を救ってくれたスタニスラス様を守るんだ。
大きくなった剣の子どもが私へ向かって手を伸ばしてきた時、スタニスラス様を守るのだと意気込んでいた筈の私の体が震えた。震えている場合じゃない。でも怖い。剣を振り上げられた時の記憶がよみがえる。怖い。あの時は生を諦めたけれど、今は死にたくないから怖い。お父様とスタニスラス様にご恩返しする前に死ぬわけにはいかない。スタニスラス様を守らなくちゃ。
今までにない位に思考が乱れていると自分でも分かった。
「テオ、君はご令嬢にこんなに怯えられるような心当たりは?」
「無いですよ、スタニスラス様。初めて会ったちびっ子に怯えられて敵認定されるほど、俺の顔は怖いですかね?」
「いや、端正で甘い、いかにも女性にもてそうな顔だと思うよ。実際モテているのは知っているしね」
「なっ、なんでそんなこと」
「あ、隠していたつもりだったかい?それは本意無い事を言った」
「嘘だっ、絶対わざとですよね、スタニスラス様!」
スタニスラス様と大きくなった剣の子どもが気安く話をしている。――敵じゃないの?私を殺そうとしたこの男は、それだけでなくスタニスラス様にも剣を向けたのに?
「お……お父様」
「カシ、落ち着きなさい。テオは十年前からスタンに仕えている。決して敵ではないからの」
「十年……」
ああ、あれから長い時間が経ったんだ。剣の子どもはスタニスラス様に受け入れられていたんだ。
「良かった。敵じゃないんだ」
魔獣を倒して英雄になるって言っていた剣の子ども。私を殺そうとして、それを制したスタニスラス様に食って掛かった剣の子ども。
スタニスラス様が受け入れているのなら、問題ない。ああ、
「カシ、どうした?おい、カシ!」
お父様の声が聞こえたけれど、私の意識は暗がりに落ちるように薄れて消えてしまった。
◇◇◇
目が覚めたときにはもう夕方だった。お父様の予定を狂わせたことと、スタニスラス様とお屋敷の方々に迷惑かけたことを詫び、申し訳ない事に一泊させてもらう事になった。寝かせてもらった部屋から出て、お父様たちがお茶をしている部屋に案内してもらって、皆に詫びた。
「自宅だと思って、ゆっくり過ごしてください。遠慮はいりませんからね」
優しい優しいスタニスラス様。
「グレッグが戻るのは夜になってからじゃからの。元々泊めてもらう予定だったんじゃ、気にするでない。ああ、グレッグと言うのはスタンの父でこの屋敷の主じゃ。ギーズ公爵家の当主ということになるかの」
私を気遣ってくれるお父様。
「ちびっ子、大丈夫か?マジで、俺はスタニスラス様に仕えているモンだからよ、敵じゃないからな」
大きくなった剣のこども――テオさんは敵じゃない。でも、その姿を目にするとどうしても体が震える。
「スタニスラス様、なんで俺はこんなに怯えられなきゃならないのですかね?」
「何故だろうね?」
私は今はもうスライムじゃない。テオさんに剣を向けられることも無い。テオさんはスタニスラス様の敵じゃない。仲良しに見えるし、私に配慮してくれるのだから悪い人ではないんだろう。頭では分かっているのに、体が言う事を聞かない。どうしても竦んでしまうのだ。
「仕方ないよ。見るだけで虫唾が走るほどに生理的に忌避感が湧くとか、前世で仇同士だったとか、ついている守護精霊同士が相性が悪いとか、君の咎ではない理由があるんだよ、きっと」
「それ、フォローしてくださってると思っていいのですかね?ちっとも嬉しくないんですが。特に一番最初のヤツ。それに、俺はちびっ子を見てもそんな気持ちにならないんですが」
「それは君が愚鈍……薄鈍い……ボンクラ……じゃなくて、感受性能が低いからなんじゃないかな。カサンドラ令嬢には何か感じるところがあるんだと思うよ?」
「スタニスラス様、何気に俺の事を嫌いでしょ?」
「まさか!頼りにしているし、信頼しているよ、テオ。でなければ十年も傍に置かないさ。君との会話はとても楽しいしね。何しろ君は壮大な人物だから」
「……ありがとうございます。って言ってもいいのかどうか悩むところですね。そして、ガキの頃のやんちゃを折に触れて引っ張り出すのはやめて下さいよ」
私はお父様が体を気遣ってくれているのに、スタニスラス様とテオさんとの会話が気になって仕方が無く、ついつい耳をそばだててしまう。
「カサンドラ嬢、お体が辛くなければ気分転換に私が庭の案内を致しましょう。外の空気を吸い、庭師が丹精した我が家自慢の庭園をご覧になれば気分も晴れるかと思いますよ」
「ありがとうございます。あの、スタニスラス様、私などにそのような丁重なお言葉は無用でございます。私は公爵家のご嫡男様に折目高に扱っていただけるような身分の者ではございません」
「ですが、あなたは先生のご息女だ」
「娘と言っても、ついこの間、先生に掬い上げて頂いただけで、本当はただの貧しい村の民です」
スタニスラス様がお父様をチラリと見た。その視線を受けてお父様が私が売られることになったいきさつから娘にしてくれたまでの過程を話すと、スタニスラス様はとても驚いた顔をした。
「では、カサンドラ嬢は教育をうけてはいないのですか?言葉遣いや礼儀作法など、とても田舎で貧しい生活としていた庶民とは思えません。まだ子供だというのに、テオなどよりよほど上流階級に対する作法を習熟しているではありませんか」
テオさんが「何で俺を引き合いに出すんだよ」とこぼす言葉をお父様もスタニスラス様も無視している。
「教育を受けていない訳ではないわ。儂が八年間面倒を見て来たからの。まぁ、魔術は教えておらんし、淑女教育は流石に儂に手に余る」
「いえ、とても立派なレディだと思います」
「作法に関しては、カシの独学よ。本棚にその手の本をこっそりと足しておけば、いつの間にか完読しておる」
ああ、マナーの本がお父様の本棚にあったのを不思議に思っていたけれど、私の為に揃えてくれたんだ。私が気が付かない所で、お父様はたくさん気を配ってくれたんだ。嬉しくて顔が緩んでしまう。童話や物語の本も、私の為に購ってくれたんだ。
「それは素晴らしい。向学心・向上心のあるカサンドラ嬢のような立派なレディに出会えたことは喜ばしい限りです」
私はただ知りたい欲求が他の人より多いだけの異端なのに、スタニスラス様に褒めて貰えて嬉しい。
「先生、ご息女をお借りしても?」
「カシが良いなら構わんよ」
「では、レディ・カサンドラ、私に庭をエスコートする栄誉を与えて下さいますか?」
「喜んで、スタニスラス様」
差し出された手に自分の手を重ねると、また、心臓が跳ねた。マナーは本で読んだだけで、勿論のこと村で実際に必要になった事は無い。本の内容は覚えているけれど見苦しくないかと不安になりつつスタニスラス様に従った。
庭園はとても美しかった。私は野趣あふれると言えば聞こえの良い、手の入らない草花や木々しか知らなかったので、見栄えを意識して人の手をかけるとこんなに見る者の心を打つものだとは知らなかった。スタニスラス様の紳士的なエスコートとお父様が見立ててくれたワンピースとで、まるでお姫様にでもなったような気持ちだ。ついこの間まで継ぎのあたったサイズの合わない粗末な服を着ていたのに。
自分が幸せだと思う時、村の家族の事を思い出す。私一人が美味しい物をお腹いっぱい食べ、上等な衣服を着て快適に過ごしているこの時間も、家族はお腹を空かせているかもしれない。暑さに、寒さに辛い思いをしているかもしれない。体を壊しているかもしれない。
ふとした時に顔を曇らせる私にお父様が言ったことがある。家族は、お前が売られた先でどんなに辛い思いをしているだろうと考えて嘆くより、幸せに暮らしていて良かったと思う方が慰めになるのだから、気を塞いではいけない。家族のためを思うなら笑顔で過ごして、彼らの「娘を売ってしまった」という罪悪感を減らしてやりなさい、と。
お父様は本当に優しい人だ。みんなに怖がられていたけれど、近しくなればこんなに素晴らしい人だと分かるのに、村の人たちは勿体ない事をしたと思う。
「この温室では、バラが見ごろなのですよ」
スタニスラス様が私を誘ってくれた温室は、薄いピンクから深紅までの赤系統のバラが咲き誇っていた。温室だからなのか、甘い香りが逃げずに空間を満たしている。
「素敵です。こんなに美しいバラは初めて見ました」
私が見たことがあるのは森の中の野バラだから。
「カサンドラ嬢、二人きりになれましたね」
テオさんは温室の入り口にいるけれど。チラリとそちらを見るとスタニスラス様が肩をすくめて笑う。
「アレは数のうちに入りませんから」
テオさんの「ひでぇ」と言う声が小さく聞こえた。
「明日には出立されるのですから、回り道をしている時間が無い。率直に言わせてもらうが――君は前世の記憶があるね?」
「……っ!」
心臓が止まるかと思うほどの衝撃に声も出ない。
「ああ、やはり。テオを苦手にしている理由を私が連ねたとき、君は”前世”という言葉に反応した。そして、今の表情で確信したよ。大丈夫、怖がらなくていい。私にも前世の記憶があるのだ。七つの時に記憶がよみがえってね。驚いたよ」
「スタニスラス様も……ですか」
「そう。君は何処から来たのかな?日本?もしかして、この世界が乙女ゲームの世界とか言わないよね?ヒロインとか攻略対象者とかが身近にいたら、すっごく迷惑なんだけど」
スタニスラス様が何を言っているのか分からない。
「ん?違うの?あー、良かった」
先ほどまでの貴族然としたスタニスラス様とは違って、今はずいぶん気さくだ。こちらが素のスタニスラス様なんだろうか。
「乙女ゲーはやった事ないけど、ネット小説なんかで読む限り、関わるのは面倒くさそうだと思ってたんだよ」
にほん……一本二本の二本では無いようだ。おとめげーむもねっと小説も分からない。
「ごめんなさい。スタニスラス様の仰っていることが私には理解できません。私はスライムでしたから」
「……はい?」
「スタニスラス様に助けて頂いたスライムです。テオさんが私を剣で殺そうとした時に、スタニスラス様が止めて下さいました」
「…………」
「スタニスラス様は、こんな小さなスライムからは使える魔石は出ないと仰いました。テオさんは、魔獣を倒して英雄になるための練習に私を殺すのだと言いました」
スタニスラス様は何も言わない。信じてもらえないのだろうか。
「私に”森の掃除屋”と言う言葉を下さいました。私たちがいるから森は美しいまま保たれるのだと。あ、そうです、爺と呼ばれた方がスタニスラス様に傷が付いたら奥さまと大奥さまに怒られると言っていました。その時に五歳だと言っていました」
私はスタニスラス様にご恩を返したい。それには、私があの時のスライムだという事を信じてもらわなくてはならない。覚えていることを伝えて頭を下げる。
「ごめんなさい。スタニスラス様に助けていただいたのに、私はあの後すぐに人に殺されました。森の掃除屋として頑張ることが恩返しになると思ったのに、あのあと一度もお役目を全うすることなく死んでしまいました。ごめんなさい」
頭を下げ続けた私に、スタニスラス様からの返事は無かった。怒っているのだろうか。せっかく助けたのに、役目も果たさず死んでしまった間抜けなスライムだと呆れられたのかもしれない。
「カサンドラ嬢……私も先生と同じようにカシと呼ばせてもらっても?」
「は、はい、勿論です」
「では、私のことはスタンと呼んで」
「え、でもそれは」
「私は君の恩人なんだよね?言う事を聞いて」
「――はい、スタン様」
しゃがみこんでしまったスタン様は、なんだかとても疲れたように見える。
「だよねー。前世の記憶があるからって、異世界転生とは限んないよねー。やべーな、俺、ネット脳だったわ、いや、ラノベ脳か?」
「いせかいてんせい……ねっとのう……らのべのう……」
また、知らない言葉だ。スタン様は本当に沢山の知識をお持ちだ。私も勉強を続ければスタン様のように賢くなれるだろうか。
「あー、うん、その辺の言葉は気にしなくていいよ、カシ。――テーオ、お前が怖がられている理由が分かって良かったじゃないか」
「スタン……お前の仕込みとかじゃないだろうな?」
「テオを嵌めるのに私が先生を使うとでも?」
「無いよなぁ……。俺のガキの頃のやんちゃがまた掘り返された」
テオさんが困ったように私を見つめる。スライムの私も人間の私も同じ私だけど、人間であるテオさんから見たら理解しにくい事だろう。
「カサンドラ嬢、申し訳ないが謝ることは出来ない。スライムを殺すことが悪い事だとはどうしても思えない。ただ、あなたが俺を怖がることも敵だと思う理由も分かった」
「人はどうしてスライムを殺すんですか?襲われるわけでもなく、殺して食べる訳でもないのに」
これは、人間になってからも答えの出ない前世からの疑問だ。
「どうしてって……」
「スタン様は、スライムが森を美しく保つ為の役に立っていると仰ってくださいました。人の役に立ち、害のない魔物を殺す理由はなんですか?」
テオさんを目の前にすると、やはり体が震える。それでも聞きたかった。なぜ人はスライムを殺すの?しかし、待ってもテオさんからの答えは無い。
「テオはカシに答える言葉を持ってい無いようだね。私が思うに、人は自分たちをすべての生き物の上に立つ存在だと考えている。そして、弱い物を虐げたがる傾向にある。弱い魔獣はもちろんのこと、同種である人間に対しても相手が自分より弱いとなれば嵩に懸かるものは少なくは無いよ。嗜虐することによって、自分を強者だと思いたいんだろうね。自分より強いものには向かっていかないのだから、本当は弱いのだと認めるのを忌避しているんじゃないのかな?あくまで私見なので参考程度に聞いておいて。もちろん、私だって人間だからそういう傾向はあるだろうし」
スタン様は弱い私を助けてくれた人なのにそんな事を言う。
「だから、カシは前世がスライムだったことを人に話してはいけないよ。もちろん、私もテオも沈黙を守る。人は自分と違うものを恐れるのだからね。あ、私に前世の記憶があることも秘密にしてくれるね?」
「はいっ、絶対にスタン様の秘密を誰かに話したりしません!でも、私のことはお父様にも秘密にしなくちゃいけませんか?」
話す必要があるとも思っていなかったけれど、スタン様に打ち明けた今となってはお父様に隠し事をしているようで胸がざわついてしまう。
「先生になら言っても大丈夫。あの方は真っ当な方だから」
お父様のどこを指して言っているのかは分からないけれど、お父様がスタン様の信頼を獲得していることは嬉しい。お父様もスタン様も大好きだから。
テオさんは居心地悪そうに私から目を逸らしている。秘密を守ってくれるだろうか。スタン様が秘密にするように言うのだから、私はその約束を守りたいのだ。
お父様に前世の事を告白すると、一瞬だけ驚いた顔をしたがすぐに笑いだした。信じてもらえなかったのだろうか。そう思ったが
「それでテオを敵と認識しておったか。そういうことならお前のあの態度も納得じゃ」
実にあっさりと受け入れてくれた。
そして、スタン様と同じくこの話は他所ではしないようにと言われた。理由も同じ。人は自分と違うものを排除したがる生き物だからと。
「お父様、私は命を救ってくれたスタン様とお父様に恩を返したいのです。スタン様に申し上げても、私は結果的に命を落としたのだし今が幸せならそれでよいと仰いました。私に何かできることは無いのでしょうか」
「ふむ……。お前は自分に何が出来ると思っているんじゃ、カシ」
問われて固まる。私に何が出来るのだろう?恩返しをしたい、お役に立ちたいという気持ちしか持っていない。何もできないちっぽけな子どもだ。
「先ずは学びなさい。明後日には王都に入る。そこで知識を蓄え、自分に出来ることを探しなさい。恩返しをするための力を付けるのじゃ」
そうだ。何もできないのなら出来るようになろう。
「はい、お父様。頑張ります」
「儂への恩返しはもう済んでおるからな」
「私、何もしていません」
「家族になってくれたろう?儂が望むことすら出来なかった夢を叶えてくれたのじゃ。あとは、そうさな、いつか嫁に行くまで儂に可愛がられてくれることじゃの」
それでは私に得しかなく、お父様への恩返しとは思えない。けれど私はまだ何もできないのだから、お父様のお役に立てるよう、学んで出来ることを増やそう。恩返しはそれからだ。
◇◇◇
王都に移り住んで三年。あの時に国中を襲った飢饉も、翌年からの豊作で大分緩和されたと聞く。お父様が調べてくれたところによると、村では餓死者は出なかったが、やはり何人かの子どもは売られたそうだ。その後の様子は分からないが、私の上に降った幸運が彼らの元にも注がれたことを祈るしかない。
王都に来て驚いたが、お父様はお貴族様で魔術省の元長官だった。村での噂の「お貴族様」「魔術師」「中央の偉い人」は全て真実だったのだ。立派な屋敷に案内され、執事だと紹介された人はたまに村に来ていた行商のおじさんだった。子買い役だった人もいた。
きっと、執事さんが真実を噂として撒いたのだろう。お父様が無意味に迫害されないように、望みどおりに遠巻きにされるように。お貴族様だというのに型破りだと思う。
もともと貴族の出だったお父様の実家は弟さんが後を継ぎ、現在の当主はお父様の甥にあたる方だそうだ。お父様が現在持っている爵位は一代限りで後継は必要ないので好き勝手しているとお父様は笑った。功績の褒美で頂いたというけれど、本人は「欲しくなかった」「首輪を付けられただけだ」と苦い顔をする。そしてその功績を話したがらない。お父様はいったい何をしたんだろう?
王都に来てから、お父様は魔術を教えてくれるようになった。元々素質はあるとみていたと聞かされ驚いた。田舎の村では魔術は怖いものだと思われていたので、私が村人から疎外されることを恐れて魔術の勉強はさせなかったと言われ、やはりお父様は私のことをたくさん考えてくれていたのだと温かい気持ちになった。
お父様の言う通り、私は魔術に関して才があったようで現在は魔術省で見習いのようなことをしている。驚いたことにスタン様も魔術省所属で、とても優秀なためにお貴族様の子弟が通う学院で魔術を教えているそうだ。お目にかかることはあるが、まだ、恩返しは出来ていない。
「カシ、愚痴を聞いてくれ」
「はい、スタン様。何があったんですか?」
たまにスタン様はテオさん同伴で屋敷に訪ねてきてはひとしきり愚痴を吐き出していく。私がスタン様に忠実であること、口が堅い事を信じてくれているのが嬉しい。
応接間のソファでスタン様とテオさんが並んで座ったのを確認してお茶を淹れる。お父様の娘になってから覚えた作法だけれど、お父様もスタン様も何時も美味しいと言ってくれる。
お茶を供して私が向かいに腰かけた後、スタン様は話し始めた。
「また、お前には訳の分からない事を言うけど勘弁な」
以前にスタン様の言った「おとめげーむ」「いせかいてんせい」などの言葉はいまだに意味が分からない。勉強を続ければ分かるようになるかと思ったのだけれど、スタン様が言うには「俺の前世の話だから、この世界じゃ誰も知らないよ」とのことだった。テオさんにも理解できないらしい。私が頷くと、スタン様は不満をこぼし始めた。スタン様は、初めて会ったころとは違って私に対して砕けた口調でざっくばらんな話し方をするようになっていた。
親しく思ってくれているようでとても嬉しい。
「マジで!マージーで乙女ゲームかもしんねーわ。じゃなきゃラノベ。だってピンク頭のツインテールで光属性特化の元庶民で子爵家に引き取られた庶子ってだけで地雷の匂いプンプンなのに、なんで第二王子殿下と同じ学年に編入してくんの!?あー、関わりたくねー。絶対に面倒くさいことになる。逃げたい。講師辞めたい。誰か代わりにやってくんねーかなぁ」
「学院でのお仕事で困ってるんですか?」
「いや、今のところ何があったと言う訳でもないんだ。でも、これから厄介事になりそうな気配がして怖い」
「講師のお仕事を誰かに代わってもらう事は可能ですか?」
「無理だろうなぁ」
魔術省は、いつでも人材不足だ。魔術に秀でているものは華やかな騎士団や魔術師団に流れることが多い。魔術省の仕事は大事だけれど地味で目立たないため、志望者が少ないと聞く。
お父様の後押しがあったとはいえ、もともと村人だった私が見習いとは言えお勤めできるようになったのは、人手が足りないからだ。魔術省はスタン様を外に出したくなかったのだけれど、現在の人材育成が将来の人材不足解消につながるとごり押しされて、魔術省もスタン様も仕方なく出向指示に頷いたと言う経緯がある。長官は「その顔で釣って来い」と言っていた。
そこそこの人間では人材育成に時間がかかるだろうと、優秀なスタン様に白羽の矢が立ったのだけれど、スタン様は本当に厭々通っているようだ。曰く「俺を取り込んで専属にしようとしてるが、そうは問屋が卸すもんか」と。
「私がもっと優秀だったら、スタン様の代わりに講師のお役目を承れたのに」
自分の無力さが口惜しい。もっともっと勉強して鍛錬しなくてはスタン様のお役に立てない。
「あー、カシはいい子だなー。学院の貴族子弟共もみんなカシ位にいい子だったら講師の仕事も嫌じゃないんだけどなー」
立ち上がって私の隣に移動してきたスタン様が私の頭を抱え込み、頬をすりすりと押し付けてくる。最初は戸惑ったこの行動も今は慣れたもの……と言いたいところだけど、何度されても心臓が跳ねて顔が熱くなってしまうので困っている。
「癒される―。カシは俺の癒しだ。もう、カシがいないと頑張れない」
「お……お疲れ様です。私はいつでもスタン様のお味方です」
「スタン、そろそろ離れておけー。メイドさんが部屋を出て行ったぞ。先生がやってくるぞー」
スタン様と私の距離が近くなるとメイドさんはお父様に報告する為に、音もなく部屋を出て行く。最初にお父様が応接間に乱入したときは分からなかったことだけど、回数を重ねたのちにテオさんが因果関係を教えてくれた。
「スタン!またお前は儂の娘に勝手に触れおって!」
あ、早い、お父様。もしかしたら階上の私室ではなく、近くにいたのかもしれない。
「先生は毎日カシに癒されているではありませんか。たまに会った時くらいは私にもカシの癒しを分けてください。面倒くさい仕事を押し付けられても鋭意努力している私の精神安定には、定期的なカシとの触れ合いが不可欠なのです」
キリリとしてスタン様が言うが、私の頭を抱き込んでいる状態では凛々しさが激減だと思う。激減しても格好いいし、大好きだけれど。
「馬鹿を言うな。カシは丸ごと儂の癒しじゃ。儂の娘なんだからの」
「私はカシの恩人です。癒しの分け前を貰う権利はある筈です」
「ほう……。スタンは恩をきせて妙齢の淑女にみだりに触れるような破廉恥漢だったのかのぅ。儂はスタンを見誤っていたようじゃ」
「え、それは……うっ……カシ、ごめんね」
お父様がスタン様に言った言葉が、どうやら突き刺さってしまったらしい。スタン様は私から手を離すと体を離して項垂れてしまった。
「あの、私は確かに丸ごとお父様の娘ですが、スタン様がお望みならば幾らでも癒しになります。遠慮なさらずにどうぞ」
スタン様が身を引いて開けた隙間を詰め、スタン様の胸に自分の頭を当てた。私の頭のどこが癒しになるのか分からないし、気恥ずかしくもあるけれど、スタン様のお望みなら喜んで!
なのに、スタン様の反応は無い。広げた両手の指を握ったり開いたりしている。どうしたんだろう?癒しにはなれなかったんだろうか。
「先生、つかぬことをお伺いいたしますが、カシへの淑女教育――とりわけ男女の理などの教えの進捗はいかがでしょうか」
「そんなもんしとらん。カシは可愛い儂の娘じゃ。男なぞ要らんじゃろうが」
「いえ、それは拙いですよ。それでは、この先のカシの身が危ない」
「今、一番危ないのはお主じゃ。魔術省の面々は背後に儂がいることの意味を承知しておる。分かっておらんのはお主くらいじゃ。魔術省以外の男と言うとこの家の者じゃて、更に安全じゃ」
私は危ないらしい。
「先生は将来的に孫が欲しいと仰ってましたよね?であれば教育は必須です」
「好いて好かれた男が現れてからで良し。現れなんだら不要じゃからの」
「嫁に出す気ないですね、先生!?」
スタン様とお父様の会話がよく分からないのは、私の勉強不足なんだろう。
「勉強が足りないようで申し訳ありません。お父様、スタン様の仰る男女の理についての本は屋敷内にありますか?」
「な……無いのぅ」
「そうですか」
本は高い。見習いの給金では買うのは難しいかもしれない。
「カシ、君は娼館か奴隷商に売られるところだったと言っていたね?娼館がどういう所だか知っている?」
「お客様を取るところだと聞きました。詳しくは売られた先で教えがあるけれど、痛さを我慢しなければならない所だと言われました」
「なるほど……。先生、カシは十三まで村で育ったのですよね?田舎の村ではその、子供は早熟に育つものだと聞いたことがありますが」
「ふん、カシは五つから儂が見ているのじゃ。そのような隙が出来る訳なかろう。カシの知識欲や探究心は村の者たちには理解され難く、家族以外に親しい者もおらんかった。それに、今でこそ年相応になったが三年前までは痩せておって、見た目も幼かったしの」
「ああ、それは確かに。幼いころから先生が後見し障壁を張っての隔離状態だったゆえに、その手の知識を得る機会もなかった、ある意味では無菌状態だということですね。魔術省にもたまにいるタイプですよね。子供のころから研究一筋で他に気が向かないというか」
どうやら、私が痩せっぽっちだったせいで足りない知識があるらしい。お父様の娘にしていただいて、食事の量も内容も村でいた頃とは段違いになったので、今はしっかりと肉が付いている。背はあまり伸びていないけれど。いまなら、やせっぽっちでは得られなかった知識を得ることが出来るだろうか。
「屋敷に無いのであれば、魔術省の先輩方に貸していただけないか聞いてみようと思います。スタン様のお役に立つために、足りない知識があってはなりませんから」
「いや、それはちょっと待って。あ、え、でも、私の為に……」
「カシにはまだ早いのじゃ。頃合いを見て儂が用意するからそれまでお待ち。スタン、ちょっと儂と二人で話をしようかの」
お父様がスタン様を引き摺って部屋を出て行ってしまった。
「テオさん、お父様はスタン様に何のお話があるのでしょうか?」
「あー、その辺は俺もワカラナイカナー」
棒読みだ。思い当たることはあるが私には言いたくないという事なら仕方ない。
◇◇◇
「カサンドラちゃん、それが終わったらお使いを頼みたいの」
魔術省で先輩のジェシカ先輩が厚みのある封筒を持って声を掛けてきた。
「はい、どちらまででしょうか?」
「ふふふっ、スタン君のところよ。彼、学院でいま缶詰なのよ。ちょっと急ぎの書類だから、確認してもらってサインを貰って来て欲しいの」
「ハイっ、喜んで!」
もちろん、目的地がどこであってもお使いにはいくが、行く先がスタン様のところだと聞いて、気持ちが弾む。
「カサンドラちゃんはスタン君の事が大好きねぇ」
ジェシカ先輩が笑って言う。私がスタン様の事を慕っていることは魔術省の誰もが知っていることなので、大きく頷く。
私は出来得る限り迅速に仕事の片を付け、学院へ向かった。
「カシがいる。これは……夢だろうか?私は学院にいた筈なのだが、いつの間に眠ってしまったのだろう」
「スタン様、夢ではありません。本物のカシです。お仕事、お疲れ様です」
「幻……白昼夢……」
「スタン様はずいぶんとお疲れなのですね、テオさん」
「そうですね。スタニスラス様、しっかりなさってください。本物のカサンドラ嬢ですよ、夢ではないです」
ここは学院の中庭。衆目があるからか、テオさんは私的な場とは違って従者としてスタン様に声を掛けた。
「夢でもいい。カシの癒しが足りなかった。堪能させておくれ」
スタン様がいつものように私の頭を抱えて、頬を摺り寄せる。私の頭からスタン様を癒やす何が出ているのかは分からないけれど、スタン様のお役に立てて嬉しい。跳ねる心臓と熱い顔を無視して、お疲れのスタン様の癒しになろう。
「スタニスラス様、周囲の目が……」
「どうでもいい。カシの癒しが無いともう無理だ」
学院でのお仕事がそんなに大変なのか。スタン様がこんなにお疲れになるほど仕事をさせるなんて酷い。
そういえば、別室でお父様とのお話があった日からスタン様は家に来ていない。あれからもうひと月になるから、週に一度は来ていた頃より癒しが足りないのかもしれない。どうしたら癒しが増やせるだろう?
「スタン様、どうしたらもっと癒やせますか?何か私に出来ることはありませんか?」
「カシが優しい……癒やされる。俺、ヤバい。妄想癖は無かったつもりだったのに。それもこれもあのピンク頭のせいだ。第二王子殿下といちゃらぶしたかったら勝手にやってろ、俺は知らん。宰相の息子だの騎士団長の弟だのテンプレ展開してたって関係ねぇよ。こっちにまで秋波おくってくんじゃねぇ。お前のせいで殿下方に睨まれてんだよ、ピンク頭め。何で俺の前でわざわざ転ぶの?衆目もあるし、手を差し出さなかったら俺が講師失格、紳士失格の烙印を押されんだろうが。わざとらしく物を落とすのも止めてくれ。見え見えなんだよ、マジで。あー、カシがいい。カシじゃなきゃ嫌だ。俺の癒しはカシだけだ。夢なら先生も怒らないよな。カシを抱きしめるだけじゃなくてカシに抱きしめられたい。夢なんだから思い通りになってくれてもいいのに」
また、私の知らない新しい言葉が出てきた。言っていることはよく分からなかったけれど、抱きしめればいいんだよね?
ちょっと恥ずかしいけど、スタン様の背に手を回してぎゅっと抱きしめてみた。テオさんが「あーあ」と何か言いたげにこっちを見ているけど知らない。学院の生徒さんたちが指さして見ているけど関係ない。スタン様が癒やされることの方が大事。
どのくらい時間が経っただろう。スタン様に抱きつくといつもより心臓が早く脈打つし、顔だけじゃなくて全身が熱くなる。体中が心臓になったかのように脈打っている気がする。まだ、癒しは足りないかな?このままだと、なんだか私が壊れちゃいそうな気がするけれど、スタン様の為なら壊れちゃってもいい。頑張る。
「……カシ?」
「はい、スタン様」
「本物?夢じゃなくて?妄想じゃなくて?幻じゃなくて?」
「はい、本物のカシです、スタン様」
癒しは足りたかな?そう思ってスタン様を見上げると、真っ赤な顔をしたスタン様がぽかんと口を開けている。
「申し上げましたよ、本物のカサンドラ嬢ですと」
「え、いや、だって、カシがこんな所にいるとは思わないだろ。俺が会いたいと思ってるから幻影でも見ているのかと思うだろ」
「冷静になられましたら、先ず、周囲を見て下さい」
テオさんの言葉を聞いて周りに目をやったスタン様は、慌てて私の肩に手を置いて体を離した。
「ごめん、カシ。こんな所で抱きしめたりして」
「謝らないでください、スタン様。私はいつでもスタン様のお役に立ちたいですから、どうぞお望みのままに」
「え、それ、男に言っちゃダメなヤツ……」
「カサンドラ嬢、スタニスラス様に何か用事があったのではないですか?」
赤い顔を手で覆ったスタン様を無視したテオさんに言われ、用件を思い出した。
「スタン様、ジェシカさんに頼まれて、魔術省から急ぎの書類をお持ちしました。目を通してサインを頂きたいとの事です」
「うん、分かった。そうだよな、俺に会いたくて来たとかじゃないよな。一カ月も会ってなかったのに幻を見たかと思うほどに、ただただ会いたいと思ってたのは俺だけだよな、うん、知ってた」
「スタニスラス様、落ち着いてください。カサンドラ嬢がお困りになります。っつーか、落ち着け!」
「うん、落ち着く。――大丈夫だ。カシ、すまないがそこのベンチで少し待ってもらってもいいだろうか?講師室へもどって書類に目を通し、署名をして来よう。少し時間をくれ――冷静になって戻って来る」
「はい、スタン様。お待ちしております」
何度も振り返りながら去っていくスタン様が見えなくなるまで見送って、私はベンチに腰掛けた。先ほどの光景を見ていた生徒さん達が、私を見てひそひそと話をしている。と、その集団の中から一人の女性が私の方へやってきた。その女性はピンクの髪を頭の両脇で結わいていた。
この人がきっとスタン様の言うピンク頭さんだ……お名前は何というのだろうか、スタン様はピンク頭としか言ってなかったから名前を知らない。
座ったままでは拙いので立ち上がって礼を取る。ピンク頭さんは礼を返すことなく、腕組みをして私を睨め付けた。私は伯爵家の娘という態になっているけれど、お父様に拾っていただいただけの娘、ピンク頭さんは庶子とはいえ子爵家当主の実の娘だ。立場としてどちらが上なのか。それは挨拶する順序に関わることなので下手なことは出来ない。下の者が上の者を先して名乗るわけにはいかないのだ。
そういう私の葛藤も何のその、ピンク頭さんは名乗りもせず荒げた声で私を詰った……のだと思う。
「何故、スタニスラス様の傍にあなたのようなモブ以下の女がいるの!?隠しキャラの攻略が上手くいかないのはあなたのせいよね!?邪魔しないでほしいんだけどっ!」
もぶ……隠しきゃら……もしかしてだけれど、ピンク頭さんはスタン様と同じいせかいの知識があるのではないだろうか。知らない単語の醸し出す雰囲気が似ている気がする。
「私はスタニスラス様推しなのっ。せっかく出会えたんだから攻略することは決定なのっ。何でだか分かんないけどスタニスラス様には魅了が効かないし、アンタみたいなモブ以下の女を抱きしめてるしっ!聞きたいんだけど、まさかアンタはスタニスラス様の婚約者とかじゃないでしょうね!?」
私が慌てて首を横に振ると、そうね、スタニスラス様に婚約者がいる設定なんか無かったから違うわよね、と言いながらもピンク頭さんは私を追求する姿勢を緩めない。なぜ、この人はこうも私を責めるのだろうか。初めましての挨拶すらしていない人で、今まで全く関わりの無い人だったのに。
「殿下は落ちてると思うのに、婚約者とも仲がいいし名前呼びを許してくれないし。婚約者は悪役令嬢してくれない。宰相の息子だってイベントこなして好感度はバッチリ上げてるのにイマイチ手応えないし、騎士団長の弟は脳筋のままで一向に甘い台詞を吐かないし、全然スチルが回収できないじゃないっ。他に転生者がいて私の邪魔をしているとしか思えないんだけど、モブ以下のアンタが裏で何かしてんじゃないでしょうね!?」
責められているのは分かるのだが、何を言っているのかさっぱり分からない。困って首をかしげると「反応がイマイチ。この子は転生者じゃなさそうね」とピンク頭さんは一人合点して頷く。
「そもそもアンタ誰よ!?」
えーと、妙な流れだけれど、ここで名乗るという事でいいのだろうか。
「私はリュドヴィック・コルベールの娘、カサンドラと申します」
「……コルベール?知らない家名だわ。ってことはたいした家じゃないわね。カサンドラって名前もゲームで出てきていないから、やっぱりモブ以下」
ピンク頭さんがブツブツと小声で話している声は聞こえるが、未知な言葉もあり意味不明だ。しかし、きちんと覚えておいてスタン様にお伝えしなければ、と決意する。
それにしても、やはりピンク頭さんは名乗らない。何と呼べばいいのだろう?ピンク頭さんと呼ぶのが失礼だという事くらいは重々承知だが、名乗らない彼女に呼びかける言葉が無い。
「とにかく。スタニスラス様から離れなさい。攻略の邪魔だから」
そんなことを言われて困る。私はスタン様に恩返しをするのだ。それに、ピンク頭さんに言われる筋合いは無いと思う。
返事をしない私に焦れたのか、ピンク頭さんは私に詰め寄って握りこんだ拳を私の顔の前に持ってきて更に言う。
「いいこと?私は光の聖女となるべきヒロインなの。アンタのようなモブ以下はスタニスラス様のおそばにいる資格なんてないの。それをちゃんと承知しておいて頂戴」
光の聖女は拳で何かを成すのだろうか。
「カシ、待たせたね」
スタン様が戻ってきた。良かった。ピンク頭さんとの会話は、彼女の言っている内容が理解できなくて疲れる。
「スタニスラス様!」
ピンク頭さんがスタン様の名を呼ぶ。さっきまでの苛立った形相が嘘のようににこにこして可愛らしい。握っていた拳は緩められて口元に持っていかれ、小首をかしげて上目遣いでスタン様を見つめている。体をくねらせているけれど、痒みでもあるのだろうか?ともあれ、私と話していた時とは別人だ。もしかして、これが光の聖女の力なのかな。何の役に立つのかよく分からないけど。
「何点か問題がある部分の朱を入れてある。ジェシカさんに差し戻しだと伝えてくれ」
「はい、わかりました、スタン様」
「急ぎだと言っていたから、また使いを頼まれるかもしれないがよろしく頼む」
「はい、スタン様」
渡された封筒を受け取り、スタン様のところにまた来られるかもしれないと考えて嬉しくなる。
「カシ、また近いうちに癒しの補充に行きたいから先生の不在の日を教えてもらえると嬉しいな」
「スタニスラス様、それはダメですよ。出入り禁止になります、きっと」
「それもそうか……」
スタン様が肩を落とすけれど、お父様がスタン様を出入り禁止にすることは無いと思う。お父様もスタン様の事が好きだから。
「スタニスラス様!癒しでしたら私が!いずれ光の聖女となる光属性の私が!癒やして差し上げます!それと、私もスタン様とお呼びしても宜しいでしょう?」
「テオ、カシを送ってくれ」
「畏まりました」
「カシ、また近いうちに訪ねていくからね」
スタン様もテオさんもピンク頭さんを無視しているけどいいんだろうか。ピンク頭さんは学院の生徒なのだから、スタン様にとっては教え子だろうに。困惑してスタン様を見ると、やれやれといった様子でやっとピンク頭さんに声を掛けた。
「私は君に名を呼ぶ事を許していない。ギーズ先生と呼ぶように。この注意も何度目なんだか……。学院内であるからこそ、講師である私に話しかけることを許されているが、子爵家令嬢が公爵家継嗣たる私に馴れ馴れしくしてもらっては困る。私は出向してきた臨時講師故に学院に籍を置く他の先生方とは立場が違う。そもそも魔術指導以外に生徒である君と関わる理由は無い。分かったらここから立ち去り給え。私は今、大事な人と話をしている」
「でも、私、スタニスラス様が……」
「名前を呼ぶなと言っている!」
ピンク頭さんはスタン様の言っていることを聞く気が無いんだろうか。ピンク頭さんがスタン様のお疲れの原因だという事は聞いていたけれど、この短い時間で私にもよくわかった。
目を潤ませてスタン様を見つめていたピンク頭さんは、私を一睨みした後で足音荒く去っていった。
「本当にしんどい……」
「お疲れ様です、スタン様。癒しが必要ですか?」
抱きしめると癒し効果が増えるようなので、両手を広げて問うてみた。
「カシ……」
同じく両手を広げたスタン様を、テオさんが物理的に止めた。襟首を掴んだのだ。外だからとさきほどまで従者然としていたのにいいんだろうか。
「お前、いい加減にしろ。注目集め過ぎ。カサンドラ嬢の醜聞になるだろうがっ」
テオさんはそのままスタン様の体の向きを変えて背中を押し、私を送ると言って門の方へとエスコートをしてくれた。スタン様を癒やせなかったけれど大丈夫かな。
「カサンドラ嬢も、もうちょい周りの目を気にしてくれないか」
テオさんが言う。
「ごめんなさい。それはできません。スタン様とお父様以上に優先するものはありませんから、周りの目とかはどうでもいいです」
「スタンもそうだけど、あんたも大概だよな……」
テオさんは必要以上に私に近づかない。エスコートと言っても手を取ったり背に手を当てたりはしない。初めて会った時から三年経っても、私はまだ彼に対する苦手意識が消えない。悪い人ではないことを知っていても、ふとした時に体が強張ったり震えたりするのだ。テオさんは「殺されかけた記憶があるんだから当たり前だ」と言って、距離を取りつつも忠告してくれる親切な人だ。
「テオさんはどうしてスタン様についているのですか?あの時は第四騎士団に入りたいと言ってましたよね?」
「あー、あの後さぁ、ギーズ家に連行されて、剣でスタン様にぼっこぼこにされたんだよ。自分の半分しか生きていない五歳の子どもにだぜ?いくら貴族で教育受けているからって言っても、まだたったの五歳だったんだぜ?俺の自信もプライドも一緒にぼっこぼっこのめっためたにされたさ」
しかも、とテオさんは続ける。
「後々、前世の記憶があると聞かされて、そのせいで経験値が違うのかと思っていたら、前世の記憶が戻ったのは七つの時だっていうじゃねぇか。つまり、俺はただの五歳の子どもにしてやれられたわけだ。天才という人種を見てさ、自分の身の程を知って、でもこの方の傍にいれば俺の夢が実現する光景を見れると思ったんだよ。自分で出来なくてもさ」
スタン様は剣もお強いのか、凄い。やっぱり格好いい。
「それなのに、スタン様は騎士団じゃなく地味な魔術省に入るしさぁ。俺の粉々にされた自尊心と夢の責任をどう取ってくれるんだって思ったさ。しかもやっぱり天才で、飛び級を重ねて14の時には学院を卒業するわ、魔術省がもろ手を挙げて歓迎するわで。もっとも、魔術省を選んだのは先生に影響されてだからさ、しょうがねーかなぁと。まあ、どんな道を選んだスタン様でも、おそばを離れるつもりは無いけどな」
「ふふふっ。つまりスタン様の事が大好きだからお傍にいるという事ですね。私たち、おんなじですね」
「……カサンドラ嬢と一緒にはされたくねぇなぁ」
おんなじだよ。私もスタン様が大好きだからお傍にいたいんだもの。ピンク頭さんが何と言っても。
魔術省へ戻りスタン様の伝言を伝えると、ジェシカ先輩は目に見えてがっくりと肩を落としていた。
「カサンドラちゃん、直したらもう一回、お使いを頼むわ」
「はい、喜んで」
「スタン君はまさか、カサンドラちゃんに会いたいがために粗を探して差し戻しにしたんじゃないでしょうね」
スタン様がそんな事をするとは思えないので「まさか」と首を振った私に、ジェシカ先輩はにやりと笑って肩をすくめ、仕事に戻っていった。ジェシカ先輩が書類の手直しをしている間に私も仕事に手を付け始めたけど、修正はすぐに終わったようで、またお使いに出ることになった。
「さっきのは訂正する。さすがスタン君だわ。私が見落としていた部分をしっかりチェックしてくれて助かった」
「そうです、スタン様はすごいんです!」
「カサンドラちゃんのスタン君への愛はぶれないねー」
「はい、一生ぶれません」
「……揶揄うとこっちにダメージが来るってどうなのよ。私は独り身で婚約者もいないってのに」
さっさと結婚しちゃえばいいのに、とジェシカ先輩に送り出されたが結婚なんてとんでもない。私はスタン様に恩返しをするために、お役に立つためにいるのだから。
学院では、今度はピンク頭さんに会う事もなく、スタン様に与えられている講師室に着いた。そういえば、結局ピンク頭さんの名前を聞きそびれていたけれど、もう会う事も無いだろうからいいか。
「スタン様、先ほど差し戻された書類をお持ちしました」
入室の許可を得て入れば、やはりスタン様は疲れているように見える。
「ありがとう、カシ。手間を取らせてしまったね」
「いえ、お仕事ですから。それに、スタン様にお会い出来るお仕事なら、もっとたくさんあってもいいです」
「……作るしかないだろう、そういう仕事」
今度こそサインを貰ったので、これで任務完了だ。お茶に誘われたので、お言葉に甘えてソファに座らせてもらった。
お茶を頂きながら、私はピンク頭さんとの会話をスタン様に伝える。理解できないなりに記憶していた言葉も伝える。
「あー、覚悟はしていたけどやっぱ乙女ゲーかぁ……。俺が隠しキャラとか推しとか勘弁してほしい。でも、殿下方は攻略成功ではないっぽいよな。それにしては秋波を送られる俺に当たりがキツイんだけど」
「やはり、ピンク頭さんはスタン様と同じ”いせかいてんせい”の方なんでしょうか」
「ピンク頭さんって……。あー、うん、多分そうだろうね」
「スタン様を攻略?したいのに『魅了が効かない』から私が邪魔しているんだろうと言われました」
「魅了?」
「はい、そう言っていました」
その言葉を聞いたスタン様はしばらく考え込んだあと、お父様へ面会を申し込むようテオさんに指示をした。テオさんが頷いて部屋を出て行き、スタン様と私の二人きりになった。
「ここまでテンプレじゃなくてもいいのに。っつーか、魅了は反則だろう。ヒロインが使っていい手じゃねえわ。……ほんとうにヒロインなのか、ピンク頭は?」
スタン様が困っている。ピンク頭さんは本当にスタン様を困らせることばかりのようだ。私が心配して見ていることに気付いたスタン様が、両手を広げて「おいで」と言った。
「カシ、俺を癒やして?」
「はい、スタン様」
私が席を立って対面に座っていたスタン様の隣に腰かけようとすると「それじゃ足りない」と、何故か右膝の上に座らされてしまった。
「あ……の、スタン様、これは」
まるで小さな子供のように膝に座らされて、戸惑ってしまう。三年前の痩せっぽっちの頃ならともかく、今はしっかり肉の付いている私だ。
「私、重いです」
「ちょうどいい重さだよ、カシ」
そう言ってスタン様が正面から私を抱きしめる。頭を抱えられた時と違って、スタン様の顔が近くに見える。
「全部でカシに癒されたい。頭を抱きかかえるだけじゃ足りない」
「そうなんですか?私の頭になにか癒しの効果があるのかと思っていました」
「カシは面白い事を言うね。カシの全部が俺の癒しだよ」
なるほど。だから、スタン様が私の頭を抱えるだけの時よりも、私からも抱きしめた方が癒しの効果が高いのか。そう思って、私もスタン様の背に手を回して抱きしめる。
「カシ……?」
「スタン様の癒しになれるのならとても嬉しいです。スタン様のお役に立てることが嬉しいです」
「顔、真っ赤だよ?」
「すみません、凄く凄く嬉しいんですけど、勝手に顔が熱くなっちゃうんです」
自分から抱きつくと顔の熱さが倍増してしまうのが困る。
「心臓の鼓動が早いね」
「か……勝手にそうなっちゃうんです」
全身が脈を打っているように感じるが、それがスタン様にも伝わってしまうのか。それは恥ずかしい。
「カシ、可愛い。ねぇカシは俺の事を……」
スタン様が何か問いかけようとした時、ノックの音がした。
「テオ、もう帰ってきたのか、早いな――――って先生?」
「スタン……儂の娘に何をしている」
入ってきたのはテオさんだけでなくお父様も一緒だった。
「えー、と、先生、わざわざ足を運んでいただいて恐縮です。此方から伺うつもりだったのですが」
お父様たちは話があるというので、私は仕事に戻ることになった。スタン様の顔色が悪かったことが気になる。癒しがまだ足りなかったのかもしれない。それにしても、ピンク頭さんの魅了の話とお父様と何の関わりがあるのだろう?
その日の夕食のとき、お父様になぜあんなに早く学院に来られたのか聞いてみた。
「ちょうど、用があって学院にいたのだよ」
「珍しいですね」
「カシへの教育は儂が行ってきたが、それだけでは不足かと思っての。何が足りぬかを考えておったんじゃ。それで、今の学院の教育内容を確認に、だな」
「不足だなんて」
「カシはスタンと仲がよかろう?スタンの隣にいる為に淑女として必要になる知識は、儂やマナーの本だけでは教えきれんのよ」
「スタン様のお傍にいるために……お父様、ありがとうございます。私のことを色々と考えて下さって」
そうか、スタン様は公爵家の継嗣だ。今は魔術省に所属されているけれど、ギーズ公爵の跡目を継ぐときがいずれくるんだ。
「となると、私がスタン様のお役に立つためには、ギーズ公爵家で雇ってもらえるだけの人間にならないといけませんね。どういう勉強をしたらいいんでしょうか?」
「……雇われる?カシ、お前はスタンを好いているのではないのか?」
「大好きです!命の恩人だからと言うだけではないです。テオさんとおんなじでスタン様の事が大好きだからお傍にいたいと思っています」
お父様が深く深くため息をついた。
「テオと同じか」
「はい、でもテオさんには負けません。私の方がスタン様のお役に立てるように頑張ります」
「そうか。儂はスタンの邪魔をしてきたが、なんだかのぅ……応援したい気持ちが湧いてきて困ったものじゃ」
「え!?お父様、スタン様の邪魔をしていたんですか!?ダメです、応援してください。大好きなお父様と大好きなスタン様が仲良しじゃなくなるのはダメです」
「……善処しようかの。スタンが気の毒になってきたからの」
お父様は「カシがこうなのは無性であったスライムの前世のせいか、村で儂のところに通い詰めていて年の近い者たちと馴染めなかったせいか、それとも儂の教育が悪かったのか」と独り言を溢した。私に何か問題があるらしいが、お父様ならきっと改善するための勉強の機会をくれると思う。その時は頑張ろう。
それから一か月後、スタン様が家にやってきた。
満面の笑みで、今日は愚痴も無いという。何かいい事があったのだろうか。そうなら私も嬉しい。癒やしの時間が無いのは少し残念な気もするけれど、スタン様がお元気ならそれが一番だ。
「カシ、やったぞ!俺の憂いは晴れた!お前のおかげだ」
部屋に入るなり、スタン様は出迎えた私を抱きしめた。これは、癒しではないと思う。だって、スタン様は元気いっぱいだもの。
「ピンク頭の修道院入りが決まった!」
「え?ピンク頭さんがですか?」
テオさんが「もはや癒し云々という大義名分もかなぐり捨て去りやがった」と呟いて頭を振っている。大義名分ってどういうことだろう?
お茶を淹れてソファを勧めると、いつもは対面にすわるスタン様が私の横に陣取って、ピンク頭さんの事を説明してくれた。
なんでも今回の修道院送りは、私がピンク頭さんから聞いた「魅了が効かない」が鍵になったのだそうだ。
そもそも学院や王宮には魅了封じの魔術障壁が展開されていて、更に王族方や高位貴族の方々は魅了除けの護符を身に付けているという。そして、その始まりがお父様だったというから驚きだ。
四十年近く前のこと、かなり力の強い魅了の力を持つ女性が現れ、当時の王太子殿下やその側近の方々を惹きつけて狂わせ、貴族社会は混乱の渦となった。当時、魅了は未知のもので対策などは当然取られていなかったが、その女性の力に気付いたのがお父様だったそうだ。お父様、凄い!さすが私のお父様。
現在の魅了封じの護符や障壁もお父様が構築したものだとか。その功績を以て爵位を賜ったのだけれど、苦労をして弟に家督を譲ったのに、なぜこんな枷を付けられねばならないのかとたいそう憤慨していたという所が面白い。
それ以来、魅了に関しては研究が進められ国民すべてが十才の洗礼時に教会の魔道具で精査されることとなった。その魔道具もお父様が発案・制作されたとの事。なんて格好いいお父様!
現在は、当時の二の舞にならないように魅了の素養があるものは国に申告を義務付けられている。申告後は魔術で魅了を封じられることになっているのだそうだ。魅了を防ぐ技術はあるが、そもそも発動させない方向で混乱を封じているのである。それでも、洗礼を受けられなかった者や洗礼後にその素養が芽生える者もいるため、護符は必須だそう。本人が自覚のないままにその力をふるっている場合もあるからだ。
今回、ピンク頭さんは洗礼以降に魅了の力が芽生えたものの、本人に魅了の力の自覚があったため悪質だったのだ。彼女は魅了だけでなく魔力を全て封じる措置が取られたのちに国の北限にある、気候も戒律もこの国で一番厳しい修道院へと移送されることが決定したとか。
「第二王子殿下やその側近らが持つ護符が魅了の反応を示して変色したために、早々にピンク頭の魅了能力は把握されていてね。ただ、それが彼女の意識下か無意識かの見極めと共に、彼女の背後に作為や謀略が無いかの捜査をしていたんだって」
「無かったんですね?」
「そう、ピンク頭は故意に殿下や側近にその力をふるって篭絡しようとしていた。本人は”篭絡”ではなく乙女ゲーム的”攻略”のつもりだっただろうけど」
「でも、護符で殿下方にはその力は及ばなかった」
「護符の事を知らなかったのか、知っていてなお自分の力に自信があったのかは知らないけどな。殿下方は背後関係の調査の時間稼ぎに、ピンク頭が傍にいることを許容していたんだと。で、ピンク頭に近づく男を排除してた。罪状がハッキリするまでは魅了持ちであることの公表は差し控えられていたからさ」
でも、俺は近づいてたんじゃなくて纏わりつかれていた被害者なのに威嚇されてたんだぜ?すげー、かわいそうじゃん。そういうスタン様がしょんぼりして見えたので癒やしてあげたいと思ったけれど、癒しを求めてきたスタン様を抱きしめるのと違って、自分から抱きつくのは中々難しい。
「で、カシを恫喝したときの”魅了が効かない”発言だ」
「無意識ではなく故意であることが確定ですね」
「そう。で、ピンク頭の家が無関係であることも調査の結果はっきりした。カシのお手柄だ」
「スタン様のお役に立てましたか?」
「うん、ばっちり役に立ってくれたよ、カシ、ありがとう」
やった!褒めてもらえた。
「魅了の力は使っているうちに本人も蝕まれるのではないかと言うのが、以前の魅了事件を見てきた先生の見解だ」
「そうなんですか」
「ああ。だから、ピンク頭もその力さえなければもっとまともにこの世界で生きられたのかもしれない。現実と空想の境目が曖昧になって、思うようにならない周囲に苛立ちを感じながら生きていたのは結構しんどかっただろうと思う。光の聖女だなんて、誰も聞いたことのないような称号を勝手に自分でつけてたけど、この世界に似た乙女ゲームが本当にあったかどうかも怪しいしな。もうそれは確認のしようがないけど。……魅了の力を封じられたことで、本人も楽になれるといいんだけどな」
「ピンク頭さんも大変だったんですね」
「第二王子殿下らも俺も迷惑はかけられたけど、実際に本人も気の毒だとは思う。洗礼時に魅了の資質が確認できれば、その時点で封じられてピンク頭も生き易かっただろうから。まあでも、修道院入りと言っても永預かりじゃなく短預かりだから、本人次第で社交界は無理でも普通の生活に戻れるんだし、しっかりやって欲しいよ」
永預かりは本人希望の元で修道院で一生を神に捧げる生活を送ること。短預かりは、今回のように騒動をおこしたり、言動に問題があったりする貴族子女が神に仕えるという名目のもとで修行生活をする事だ。ただし、期間が決められている訳ではないので、そこを出られるかどうかは本人次第。ピンク頭さんが今後どうなるかは彼女次第だ。
「と、いう訳で”恩返し”は完了、な?」
「え?」
恩返し完了ってどういうこと?スタン様は私が要らないと言っているのだろうか。恩返しと言いながら纏わりついていた私は迷惑だった?もう、傍にいられない?
「カシは俺に尽くしすぎ。もう、十分に恩は返してもらったよ」
「スタン様……私はもうスタン様のお傍にいられないのですか?」
「え?」
「だって、恩返し完了って……」
「カシは恩が無かったら俺との付き合いをする気は無い?恩を返すために厭々俺の傍にいた?」
「そんな事ないですっ。恩返しはもちろんだけど、スタン様が好きだからお傍にいたんです!」
「だろ?それは、これからも変わんないって。だけど”恩返し”云々はもうやめよーな?対等じゃないって感じで気が引けるから」
対等を望んだことは無い。私はあくまでスタン様のお役に立ちたいのに。
頭の中が混乱している。スタン様は私の恩人であることから降りたいのだろうか。いつまでも恩返しと口にすることは迷惑だったのだろうか。
「気が引けるも何も、やりたい放題に見えたけどなー」
「るせっ。俺がやりたい放題だったら、こんなもんじゃすみませんからー」
「何する気ですか、アンタは」
「ひ・み・つ」
「うわっ、こわっ。カサンドラ嬢、恩返し終了の言質は取ったんだし、逃げた方がいいよー」
「テオは全く何言ってんだか。俺がカシを逃すとでも?」
「こわっ、この人こわっ。カサンドラ嬢、本当に逃げた方がいいって」
やりたい放題はよくわからないけど、テオさんは私がスタン様のお傍から離れることを望んでいる?あ、テオさんはスタン様を独り占めする気かもしれない。私が「スタン様を好きなのはおんなじ」と言った時に一緒にされたくないと言っていたのは、自分が一番スタン様のことを好きだと思っているからだ。
「恩返し終了でも、スタン様のお役に立ちたい、お傍にいたいと思うんです。確かに、お傍にいた時間はテオさんより短いですが、スタン様を思う気持ちは負けませんから!」
「え……テオ?」
スタン様は私とテオさんの顔を交互に見て首を傾げた。
「テオさんは私のことが邪魔かもしれないですけど、私は一生スタン様のお傍を離れません!」
「カサンドラ嬢?邪魔とかそういうんじゃなくて、俺は君の事を思ってさ」
「テオ!カシを想うとは何事だ、俺の敵か?敵に回るのか!?」
「あー、もう、スタン様そうじゃなくて――って、俺、馬に蹴られる役回りな気がしてきた……」
やってらんねーので、後はお二人で話してくださいと言って、肩を落としたテオさんが部屋から出て行ってしまった。
「カシ、さっき言ったことは本当?」
「さっき、ですか?」
どの事だろう。
「一生、俺の傍にいるって」
「はいっ。スタン様がご迷惑でなければ、私は一生スタン様のお傍にいたいです」
「迷惑な訳ない。カシ、一生俺の傍にいて下さい」
「はい、スタン様。カシは一生スタン様のお傍におります」
スタン様は私を抱きしめて、私の頭に頬を摺り寄せた。癒しが必要だろうか?私はスタン様を抱きしめていいんだろうか?
「俺、しつこいよ?一生って言ったら本当に一生カシを手放さないよ?」
「私もしつこいです、スタン様。スライムの頃からずっとスタン様のお役に立ちたいと思っていましたから」
そうだった、とスタン様が笑う。前世の最後の記憶は「スタニスラス様のお役に立てなかった」だったし、今も「お役に立ちたい」でいっぱいの私は、執着心が強い人間だと思う。
「スタンっ、何をしておる!」
お父様だ。いつの間にかまたメイドさんが注進していたようだ。私の頭の中がスタン様でいっぱいだったせいで、メイドさんがいなくなった事に気付いていなかった。お父様と一緒にテオさんも戻ってきている。
「先生、ちょうど良い所に。今、此方から伺おうと思っていたのです」
「なんじゃと?」
スタン様は私を抱きしめていた腕を外して立ち上がると、私に手を差し伸べ立つように促してきた。スタン様に手を預けて立ち上がる。お父様に何のお話だろうか。私はここにいてもいいのかな?
「私、スタニスラス=ウジェーヌ・ギーズと、コルベール伯ご息女カサンドラ・コルベール嬢との婚姻のお許しを頂きたく」
「なんじゃと!?」
「は?結婚ですか、一足飛びに?」
「え?私とスタン様が結婚するんですか?」
お父様とテオさんが驚愕の声を上げると同時に、私もびっくりして声を上げてしまった。
え?結婚?私とスタン様が?
声を上げてしまった私の顔を、お父様もスタン様もテオさんも見つめる。
「……スタン、どういう事じゃ。娘は承知しておらんようだが」
「スタン様、先走り……」
「うん、想定内、想定内。先生、カシからの求婚ですよ?”一生私の傍にいたい”と。私はそれに”一生手放さない”と答えました。カシ、君がどういう形を望んで言ったかは分からないけれど、私は君の隣に立ちたいと思っているよ。一生、私の傍で妻として生きてくれるね?」
「ハイっ、スタン様、喜んで!」
一生隣にいる権利。
私は目の前に差し出されたスタン様の提案に一も二もなく飛びついた。嬉しい!スタン様とずっと一緒に居られる。
「大事にする。君だけを一生愛すると誓うよ、カシ」
スタン様が私の右手を持ち上げ、指先に唇を落とした。恥ずかしい、けど嬉しい、でもやっぱり恥ずかしい。嬉しくて緩んだ顔が熱をもっていて逆上せそうだ。
「カシ、待て!お前は婚姻を結ぶという意味が分かっておるのか!?」
「ずっと一緒に居るという約束です、お父様」
「そうじゃなく、いや、そうなんだが……スタン!どういうつもりじゃ!」
「カシと結婚するつもりです、先生。いえ、つもりじゃないですね、結婚します」
笑顔全開のスタン様とは逆に、お父様は頭を掻きむしって怖いお顔をしている。大きく深呼吸して、冷静になろうとしているお父様。そんなにスタン様との結婚はいけない事だろうか。
「その口でカシを言いくるめたのであろう。カシがその気になったら仕方がないと思うておったが、今のカシにその気は無かろう」
「カシは自覚していなかっただけで、私のことを想ってくれていますよ。それについては自信があります」
「お父様、私、スタン様が大好きです」
結婚と言われて驚いたけれど、嫌じゃない。それどころかとても嬉しい。この気持ちが愛情とか恋情とか言われるものなのだと、じんわりと胸に広がる温かいものが教えてくれる。
そういうとお父様はぐぬぬと唸った。
「…………残念だがスタン、カシには公爵家に嫁げるような教育は施してきておらん。そもそも貴族の子女は幼いころから教師に付き長い時間をかけて学んできている。これから教師を付けても学んでいる間に嫁き遅れになってしまう。すまんが、公爵家継嗣のお主とカシを娶せる訳にはいかん」
「大丈夫です、先生。公爵家の跡取りは弟に変更となりました。もう、申請などの手続きも済んでいます。いやぁ、後継譲渡の前例である先生を知っている両親はともかく、弟の説得には苦労しました。もともと私は研究職や学者に向いており、人心掌握や領地運営、発展に寄与する能力は弟の方が上でしたし何とか言いくるめ……説き伏せることが出来ました。カシ、私はただの魔術省員となり公爵夫人にはさせてあげられないけれど、カシが地位を求めているとは思っていない。そうだろう?」
「はい、私はスタン様なら何でもいいです。魔術省員なら、お仕事もずっと一緒だから嬉しいです」
正直に言うと、公爵夫人より魔術省員の妻の方がいい。もちろん、スタン様の傍にいる為なら公爵夫人になろうとも努力は惜しまなかったけれど。
お父様が歯ぎしりをしている。あんなに力を入れたら歯が痛んでしまう。
「そ、そうじゃ!カシはまだ儂への恩返しが済んでおらん!だから嫁に出すわけにはいかんのじゃ!」
「子どもですか、先生」
「ふんっ、何とでも言え」
「結婚したとて親孝行は出来ますよ」
「嫌じゃ、カシがこの家からいなくなることを考えるだけで臥せりそうじゃ」
「え、お父様、大丈夫ですか?」
私は慌ててスタン様の隣からお父様の元へと移動する。駄目だ。スタン様の事は大好きだけれど、お父様の事だって大好きだもの。スタン様への恩返しは済んで、お父様への恩返しがまだならば……。
「問題ありませんよ、先生。カシがこの家を出るのではなく、私をこの家に迎えて頂ければ双方の希望が叶い完璧だと思いませんか?」
「え?それなら嬉しいです、スタン様!」
「何を言うておる。儂は一代限りの爵位じゃなきゃ受け取らんと先王陛下にごり押ししてこの家を建てたんじゃぞ?領地もなく国から下される俸禄だとて、儂が死ぬまでの期間しか出ん」
「それも大丈夫です。私もこれでそこそこの功績を上げておりますから、継嗣変更の手続きの際に陛下に叙爵のお話を頂きまして、それならば先生の跡目を継ぎたいとお願いしたところ快くお許しをいただけました」
スタン様は「そこそこの功績」と言うが、実際はそこそこどころではない。
これまで二つ一組で互いにしか連絡できなかった魔導通信具を、スタン様が開発した固定認識魔術配列機能の追加で、相手の魔術配列番号さえ知っていればどの通信具にでも連絡が取れるようにしたのだ。これで、通信の概念ががらりと変わった。個人所有の通信具だけではない。王宮内の各部署に固定番号を振り分けて、通信が出来るだけでなく書類の写しを送れるという魔道具を作成して作業効率を格段に高めた上に、互いに同じ書類を持っているために齟齬も減ったという。
既存の魔道具の小型化や発動速度を増すなど、一層便利に改良もしたと聞く。
さらに、これまで使い捨てだった魔石の再利用方法を確立したのもスタン様だ。魔力の充填装置に魔石を置くだけで再度使えるようになるという画期的な方法だ。スタン様が考案した魔道具の現物や仕組みを他国に譲渡したときは、取引でかなり優位に働いたそうだ。
これで「そこそこ」だったら、何を以て大きな功績といえるのだろう。
「スタン、お主はいつから根回しをしておった?周到過ぎるであろう」
確かに!昨日今日で作れる状況じゃない。
「スタン様は外堀埋め立てがお得意ですから……」
問われても笑って答えないスタン様の代わりにテオさんが返事をしたけれど、補助しているようには聞こえない。
ともあれ、スタン様の綿密な下準備のおかげでお父様のお許しも出た。ドレスを作ったり、男女の理についての教育を受けたりとした、貴族の結婚式準備としては短い半年後。明日にはスタン様の妻となるという日にその喜びは訪れた。
「カシ!」
「まあまあ綺麗になって……」
「凄いな、カシ、こんなお屋敷でお嬢様してるなんて」
「カシ、可愛いわ。とても幸せそう」
「背はあんま伸びてないな。肉は付いたけど」
「お兄ちゃん、そんなこと言わないのっ。女心が分かんないから未だに恋人の一人も出来ないんだからね」
村の家族だった。お父様と一緒に村を出てから三年余り、一度も顔を合わせることのなかった家族だ。
「あー、ほらほら泣かないの。元気そうな顔見れて嬉しかったのに」
涙が勝手に出てきてしまうのだ。みんなの姿がぼやけてしまうから泣きたくなんてないのに。
「……父さん達も…元気に、してた?」
別れたのは飢饉のときだ。食料は少なくいつも飢えていて、みな痩せこけていた。それが今はやつれもなく、血色もいい。着ている服だって継ぎの無い清潔なものだ。
「ああ、みんな元気だ。村の者もみんな。それもこれも伯爵さまのおかげだ」
「お父様の?」
「そうだ。わたしらは伯爵さまに助けて頂いたのだ」
お父様は私の買値を相場の数十倍払ったと父さんが言う。それだけでなく、食糧の支援をし、農地の改良方法を教え、村の傍で自生していた綿花を加工するという新たな産業を村に導入してくれたのだと。
三年前に売られた子供も、奴隷商や娼館などではなく真っ当な商家や職人の下働きとして雇ってもらったと聞いて、ほっとした。この手配もお父様がしてくれだのだと聞いて、改めて感謝の念がおこる。
「私、自分だけ幸せでいいのかって、いつも心のどこかで思ってた。でも、何もできない私を掬い上げてくれたお父様に、みんなの事をお願いは出来なくて」
「うん、分かってるわ。カシがそういう子だってことは、家族みんな分かってるから」
「嬉しい。みんなが笑顔で嬉しい」
「それは俺たちもだよ、お前を売ることに決めたときからずっと辛かったけど、申し訳なくて情けなく思っていたけど、今、お前が笑っているのを見て本当に嬉しい」
私たちが互いに今までの事を語り合っていると、お父様が部屋にやってきた。
「お父様!」
私が泣きながらお父様に抱きつくと、お父様は優しく抱き返して背中を撫でてくれた。
「お父様、ありがとうございます。村の家族と村の人たちを助けてくれて」
「カシ、そう泣くでない。せっかくの美人が台無しだ。あ、いや、そうでもないの。カシは泣いていても笑っていても三国一の美女じゃな」
「お父様、そういうのを親ばかって言うんですって」
「おお、親ばか結構なことじゃな」
そうなのか。親ばかは結構な事なのか。お父様の気持ちが嬉しくて、抱きしめる手にさらに力が入る。
「スタンに妬かれそうじゃの」
「ふふふっ」
「村の事を伝えないで済まなかったの」
「とんでもないです、お父様。でもなぜ?」
お父様は優しく私の腕を解き、少しかがんで私の顔をじっと見つめた。
「前にも言ったことがあるかと思うがの、施しや手助けが上手くいくとは限らん。受けた側の為になるときばかりではないし、それに甘んじて怠惰になったうえに身を持ち崩すさまを儂は何度も見てきた。周囲に妬まれて疎外されたものもいた。村に引っ込んだのも、周りと関わることが嫌になったからじゃ。儂が何かをして、それが善行と呼ばれるものだったとしても、関わった者が悪い方へと落ちていくのはもう見たくなかったんじゃ。他者の生に関わる事にほとほと嫌気がさしての」
「でも、先生は私と私の家族と村の人たちを助けてくれました」
「これで最後と思いつつの。悪しき結果になった時にお前を悲しませたくのうて黙っておったが、幸いにも村は良い方向へと変わっての。これなら大丈夫だと、お前の結婚式に家族を招んだんじゃ」
お父様は凄い。なんでもない顔をして、私にも黙ったままで恩に着せることなく村を救ってくれたんだ。なんて優しいお父様。なんて素晴らしいお父様なんだろう。
「お父様、大好きです」
「儂もお前が可愛くて仕方ないのじゃよ、カシ。今夜は村の家族と過ごしなさい。距離もあるし、そう会える訳ではないからの」
「はい、お父様」
そうして村の家族と一緒に過ごした翌日。私とスタン様は教会で誓いを立てた。
スタン様は真っ白な礼服がそれはそれは良く似合っていて格好良かった。隣に立つと優しく見つめてくれる瞳が温かかった。震える私の手を取ってくれたときに、きゅっと握って大丈夫だと伝えてくれて頼もしかった。空の青も木の緑も鳥の声ですら私たちを祝福しているかのように輝いて見えた。
ギーズ家の方々も、村の家族も、参列してくれた魔術省の人たちもみんな笑顔だ。――滂沱の涙を流すお父様を除いて。
おかしなお父様。私は嫁いで家を出る訳じゃ無く、ずっと一緒なのに。
そうスタン様に耳打ちすると「それが娘を持つ男親ってもんらしいよ。将来、俺たちの娘が結婚するとなったら俺もそうなるのかも?」と言う。大泣きしているスタン様が想像できなくてちょっと戸惑ってしまう。
「カシ、愛しているよ。一生大事にする」
誓いの口づけの後、スタン様が私の耳元で囁いた。
「私も、ずっとずっとスタン様を愛し続けます。一生スタン様を幸せにしたいです」
「うん、一緒に幸せになろう」
スライムだった前世から、ずっとずっと大好きでお役に立ちたい恩返しをしたいと思っていた。
大好きな大好きなスタン様。
これからもずっとずっと、死が二人を分かつまで。
私はスタン様の傍にいます。
元はスライムだった私の、なんて幸せな恩返し。
読んで下さってありがとうございましたm(__)m