032 キミ ノ ナマエ
英雄に憧れていた少年は、ある日一人の少女と出会った。
その白いワンピースを着た少女は、長い黒髪を風になびかせながら少年へと問い掛ける。
君の願いを叶えてあげようか、と。
少年の願い、それは物語の主人公のような英雄になること。強大な敵を打ち倒し、人々に称えられるような、そんな英雄に。
しかし、彼自身が一番よくわかっていた。自分のいる日常では、そんな願いを叶えられないことを…。
そんな少年にとって、少女の提案はとても魅力的なものだった。
少女は語る。
自分が管理する世界で、これから与える役割を果たしてほしい、と。
それはすなわち、君自身の願いも叶えることになるはずだから、と。
少年は少女の手を取った。
異世界へと転送される直前、少年は少女に名前を尋ねる。
すると、少女は口元に少しだけ笑みを浮かべながらそれに答えた。
「アーカーシャ…」
***
ホテルに戻ってきた俺が自室のドアを開けると、少し開いたその隙間からミーアが部屋へと入っていく。それと同時に横から何者かの視線を感じて、俺は気まずい思いをしながら硬直した。
いや、これはミーアの気分次第だから……。
「お、おやすみ、ハル…」
「……おやすみなさいませ、ヒイロ様」
ハルに挨拶をしつつドアを開けると、その視線から逃げるようにして部屋へと入る。
部屋の明かりをつけると、ベッドの上には直視したくない現実が転がっていた。
目を逸らしていても仕方がないので、いつものカバンを開けてヘチマを押し込む。
その時、俺以外に誰もいないはずの部屋の中で、何者かに後ろから声を掛けられた。
「こんばんは、ヒイロ」
「ッ!?」
突然の事態に驚きながら振り返ると、そこには白いワンピースを着た少女が立っていた。
「驚かせちゃったかな? ごめんね」
長い黒髪のその少女が、いたずらっぽく微笑む。
その少女の姿には見覚えがあった。
「君は…、確か王宮の訓練場で…」
そう、俺が召喚された日に訓練場で声を掛けてきた謎の少女だ。
「覚えててくれたんだ」
少女が嬉しそうに笑顔を浮かべる。
うん、まあ、あれだけ思わせぶりな発言しておいて急にいなくなれば印象にも残るでしょうよ。
そんなことよりも、この子どうやってここに入ってきたんだろうか?
「…えっと、鍵掛かってた…はず…なんだけど…?」
俺の発言を聞いて入口の方を向く少女。俺もつられてそちらを見るが、当然、今も鍵はちゃんと掛かっている。
そして、再びこちらを向いた少女が、視線を逸らしながら呟いた。
「……カギナンテ、カカッテナカッタヨ?」
今更、なんて見え透いた嘘を。
俺は困惑しつつも警戒しながら少女を見つめる。
そんな様子に気付いた少女が優しく微笑みながら語り掛けてきた。
「そんなに警戒しないでよ」
「そんなことを言われてもさ、そもそも君は誰なんだ? 俺は君の名前すら知らないんだけど…?」
「……名前?」
「そう、君の名前…」
すると、少女は少し何かを考えてから真面目な顔で呟く。
「………卵黄?」
「うん、黄身の名前は訊いてない」
俺のその発言を受けて少女は『いいツッコミだね』とか言いながら嬉しそうに笑っている。
あれ? 俺、またからかわれてる?
「ごめんごめん、冗談だよ。僕の名前だよね?」
笑っていた少女だったが、そう言うと急に真剣な表情で俺を見据える。
「初めて会った時に、名乗らなかった?」
「え…?」
すると、俺の反応を見た少女が少し落胆したように呟く。
「……そう、…覚えて…ないんだ…?」
「え…えっと、王宮で会った時…だよね…?」
その時、少女が少しだけピクッと体を震わせた。
俺は必死にあの時のことを思い出してみるが、やっぱり目の前の少女が名乗った記憶はない。
というか、名前を訊こうとしたらいつの間にかいなくなってたよね?
慌てた様子の俺をじっと見つめながら少女がポツリと口を開く。
「僕の名前は…」
しかし、そこまで言うと少しだけ躊躇いを見せる。
そして、消え入りそうな小さな声で呟いた。
「ァー……ㇱャ…」
「え? 何…?」
よく聞き取れなかったので聞き返すと、彼女はまるで何かを誤魔化すかのようにぎこちなく微笑んだ。
「いや…、何でもないよ……。そうだね…、僕のことはソラって呼んでよ」
「えっと…。それで、そのソラさんが俺に何の用…?」
「僕のことは呼び捨てで構わないよ。僕も、君のことはヒイロって呼ばせてもらうから」
「え…、うん…。……それで、君は何をしに…?」
俺が再び尋ねると、ソラは俺に探るような視線を向けた。
「君と話がしたいんだよ。前は途中で邪魔が入っちゃったからね…」
「俺と話…?」
「そう、君の目的……いや、この世界での役割について…かな…?」
「俺の役割…?」
そういえば、稀人は役割を果たせば元の世界に帰れるんだったっけ?
「君は自分に与えられた役割を覚えてる?」
「え? まあ、一応…?」
召喚された時にアレックスさんが言っていたことには、確か国民の不安を晴らすとかそんな感じだったような…。
正直、具体的に何をすればいいのか全くわからないけど…。
俺が遠い目をしながらそんなことを考えていると、ソラはじっと俺のことを見つめていた。
「そう…、それは覚えてるんだ…」
ソラは少し目を伏せて何かを考えるような表情でそう呟いた。
そして、再び俺へと視線を向ける。
「もう一度、ここで君の役割を確認させてもらってもいいかな?」
「え? 国民の不安を晴らすっていうやつだよね? 本当に、何をすればいいんだか…」
「……!? 何を言っているの…?」
俺が愚痴交じりで呟いていると、ソラが困惑したような表情で俺を見つめる。
その時、部屋のドアをノックする音が聞こえた。
「ヒイロ、遊びに来たぞ! 開けてくれ!」
ドアの外からカイの声が聞こえてくる。
「ごめん、カイ。今忙しくて…」
ドア越しに答えると、カイが騒ぎ始める。
「忙しい…? ……ヒイロ! お前まさか、女を連れ込んでるんじゃないだろうな?」
勘の良い勇者は嫌いだよ。
いや、別に連れ込んだわけじゃないんだけど…。
「儂も居るぞ」
オーギュストさんの声が聞こえたかと思った次の瞬間、幽霊の上半身がドアをすり抜けて現れた。
そして、内側からドアの鍵を操作する。
おいこら。
「邪魔するぞ、ヒイロ」
ほんとに邪魔だよ。
ずかずかと踏み込んでくるカイの後ろからは、オーギュストさんが杖をつき、幽霊に補助されながらよぼよぼと歩いてくる。本体が間違った復活を遂げつつある。
「あの、今、来客中だから後にしてもらえませんか?」
とりあえず奥へ入れまいと二人の前に立ちはだかりながらそう言うと、カイが少し驚いたような表情を浮かべる。
「来客…? ヒイロ、お前…、ほんとに女を連れ込んでたのか…?」
「いや、そうじゃないけど…」
すると、オーギュストさん(幽霊)が俺の体をすり抜けて、部屋の方へと移動していく。
物理的な障害は、この幽霊相手には全く効果がない。あと、幽霊の支えを失った本体が地味にもたれかかってきて俺の動きを阻害する。
そして、すり抜けていった幽霊は部屋の中を見回した後、振り返って不思議そうに俺に尋ねてきた。
「来客などどこに居るのじゃ?」
その発言を受けて、もたれかかってくるオーギュストさんの本体を引き摺りながら部屋の方へ移動する。しかし、さっきまで居たはずのソラの姿はどこにもない。
「え? だって、さっきまでそこに…」
「どこにも居らんぞ?」
俺が狐にでもつままれたような顔でキョロキョロしていると、カイとオーギュストさんが何かに気付いたようにハッとして俺の顔を見る。
そして、気まずそうな雰囲気を醸し出しながらポツリと呟いた。
「エア彼女か…」
「なるほど、寂しかったんじゃな…、ヒイロ」
やめろ、そんな憐れむような目を俺に向けるな。
「確かに居たんですよ」
「入口は一つしか無いというのに、どうやって出て行ったというのじゃ? まさか壁抜けしたなどと非現実的なことを言うのではあるまいな?」
今まさに壁抜けしてきた奴が何言ってやがる。
その時、ベッドの上に置いてあったカバンがもぞもぞと動き出し、ベッドの下へと落ちた。
すると、床にその中身がぶちまけられる。そして、カバンの中から少し驚いたような表情のミーアがヒョコッと顔を出した。
いつの間にカバンに潜り込んでいたんだ、ミーア。
突然動き出したカバンに視線を向けていた三人組の存在にミーアが気付くと、小首を傾げながら小さく鳴いた。
「ニャ?」
こんな状況でも可愛いな、ミーア。
甘えた声で鳴きながら俺にすり寄ってくるミーア。
その様子を見ていたカイが呟く。
「ヒイロが連れ込んだ女って…まさか…」
「なるほど、尾も白い恋人じゃな…、ヒイロ」
だから、そんな目で俺を見るな!
没案
ソラ 「………卵黄?」
ヒイロ 「えっと…。それで、そのランオウさんが俺に何の用…?」
ソラ 「ツッコんで!?」
ヒイロ君、気付かない。
===
当然ながら、ミーアは面も白いです。