016 ハツコイ ノ ヒト
薄暗い森の中を一人の少年が歩いていた。
その瞳は泣き腫らして赤くなっており、不安そうに体を震わせている。
その時、少年の後方から物音が聞こえてきた。
「ひっ!!」
少年が驚いて声を漏らす。
そして後ろを振り向くと、そこに一人の少女が立っていた。
「君、どうしたの? こんなところで」
そう声を掛けられた瞬間、少年の瞳から堰を切ったように涙があふれ出た。
「え、ちょっと、どうしたの? 泣かないでよ」
「…うぅ、グスッ。怪我した仔猫…うぅ、手当してあげ…ようと…グスッ、追いかけ…ヒック、それで、お母さん…探して…うっ、あげようと…」
少年が泣きながら話し始める。
どうやら、怪我をした仔猫を見つけたので手当をしてあげようとしたが、仔猫が驚いて逃げてしまったので追いかけた、と。
で、ようやく捕まえて手当てをしてあげて、仔猫のお母さんを探してあげようと思ったが、自分も迷子になっているという事実に気が付いた、と。
つまり、そういうことらしい。
確かに、少年は黒い仔猫を抱いている。その仔猫の右前足には赤いハンカチが巻かれていた。
「迷っちゃったのか…。どこから来たの? お姉ちゃんが送ってあげる」
「グスッ、本当…? キャンプ場…。お父さんと、お母さんと三人で遊びに来たんだ」
「ここから近いキャンプ場…。ああ、あそこかな。大丈夫だよ、そこならお姉ちゃんが場所を知っているから。一緒に行こう。だから、泣かないの」
少女がそう言うが、少年はまだ少し泣き顔だ。
「ほら、笑って。男の子がそんなに泣いてちゃだめだよ」
「男の子らしくとか、そういう考え方は古いんだよ…。お姉ちゃん」
「…君、可愛くない」
少女は少しムッとしたような顔をして、少年の両頬をつまむと左右へと引っ張った。
「ヒャメヘヒョ、フォネエヒャン」
少年のその顔がおかしかったのか、少女は思わず吹き出してしまった。
そして、少年もそれにつられるようにして笑いだす。
「ようやく笑ったね」
そう言って少女が優しい笑みを向けると、二人でくすくすと笑った。
少女は少年の手を取ると森の中を歩きだす。
仔猫は少女が肩から掛けている小さなカバンの中にすっぽりと収まり、頭を出していた。
「お姉ちゃんは、ここで何してたの?」
「え? 私は、友達の家に遊びに行った帰りだよ? この森の中を突っ切った方が近道だから」
そんな会話をしながら歩いていると、突如茂みから物音が聞こえてきた。
「ひっ! 何かいる!」
「大丈夫だよ、いつも通ってるけど、危険な生き物なんて出てこないから…」
そこまで言って、少女の表情が固まった。
少女の顔から血の気が引いていく。
「…偶にしか」
茂みから顔を出したのは黒い体毛に覆われた生物。胸の辺りの三日月形の白い毛が特徴的なツキノワグマだ。
少年は恐怖のあまり声も出せずに固まった。
すると、クマが立ち上がり威嚇のポーズを取った。
怯えた少年が少女にギュッとしがみつく。少女は、その少年の頭を守るようにして抱え込んだ。
「だ、大丈夫だよ…。森の中で出会ったクマさんは、お嬢さんが相手なら逃がしてくれるから…」
少年を落ち着かせようと気丈に振る舞う少女だが、どうしても声が震えてしまう。
少女は気付かなかったが、その時少年は別の理由で少し冷静になっていた。
お嬢さん? じゃあ、僕ダメじゃん。
この少年は、根っからのツッコミ体質であった。
どちらも、もっと肝心なところでずれていることは気にしてはいけない。二人ともまだ子供なのだ。
少女は泣きそうになりながらも、クマから目を離さずじっと睨みつける。
すると、クマが前足を下ろし、後ろを向いてのそのそと去っていった。
「助かった…?」
緊張の糸が解けて、少女はその場に崩れるようにして座りこんだ。
「ほ、ほら、大丈夫だったでしょ?」
何故クマが去っていったのかはわからない。
理由はわからないが、少年を不安にさせまいと少女は無理矢理笑顔を作る。
すると、少年の方もしがみついたまま引きつった笑顔でそれに応えた。
暫くして落ち着いたところで、二人は手を繋いで再び歩きはじめる。
すると、目の前に沢が見えてきた。
「あ、ここ見覚えがある」
そう言って走り出そうとした少年を、少女は繋いだ手を引っ張って制止する。
「そこの岩場、濡れているから危ないよ」
そこには濡れて苔むしている岩があり、少年はそこに踏み出そうとしていた。
その岩を避け、沢の先へと視線を向ける。すると、そこにキャンプ場が見えた。
その近くで一組の男女が慌てた様子で何やら叫んでいる。
「あの人達が君の両親?」
「うん」
少年が嬉しそうに答える。
「そう、じゃあもう良いね。早く行って両親を安心させてあげて」
「でも…」
少年が仔猫に視線を向ける。
「この猫は、私がちゃんと面倒を見るよ」
「…ありがとう、お姉ちゃん。ニャンコも、バイバイ」
少年が仔猫の頭を撫でると、仔猫は小さく鳴いてそれに応えた。
「私もそろそろ帰らないと。それじゃあね。バイバイ」
少年に向かって手を振ると、長い黒髪の少女は少年に背を向けて歩き出した。
そんな少女に少年が声を掛ける。
「あ、お姉ちゃん。そこの岩場、濡れてるって…」
「きゃっ!!」
***
「…ろ…ま。…ひいろさま。…起きてください、ヒイロ様」
「ん?」
俺は、ハルに呼びかけられて目を覚ました。
今回の遠征は勇者のPRも兼ねているということで、各地でPRイベントを行う為に復路は往路とは異なるルートで王都ヘレニウムへと向かっている。
その道中に通りかかった平原。そこにある木陰で俺達は休憩していた。
この辺りは三つの河川が合流する地点で水害が多い地域らしい。
最近も水害があったようで、とても路面の状態が悪かった。そのため、揺れが酷くて車酔いしたのだ。
どうやら俺は休んでいる間に寝てしまっていたらしい。
それにしても、何か懐かしい夢を見ていた。
「もうすぐ出発の時間です」
「あ、そうなんだ…。ありがとう、ハル」
「何だかうれしそうですね?」
「え? そうかな? 何かね、懐かしい夢を見てたんだ…」
「懐かしい夢ですか?」
「うん…。七年ぐらい前だったかな、家族でキャンプに行ったんだけど…。俺、森の中で迷子になっちゃってさ。その時、助けてくれた女の子がいたんだ」
俺よりいくつか年上だったであろう女の子。もう顔も覚えていないけど…。
「しっかりしているんだけど、どこか抜けたところのある子でさ…。今思えば、あれが俺の初恋だったのかもしれないな…」
こんなこっ恥ずかしいこと言って、寝ぼけてるな俺…。
「え?」
突然、驚いたような声が聞こえてきたのでそちらに視線を向けると、そこには偶然通りかかったウォルフさんが立っていた。
…違う、あんたのことじゃない。こら、トキメクな!
一気に目が覚めた瞬間だった。
そんなウォルフさんの今日の恰好だが、いたって普通だ。特に問題がない。
ん? いや、ちょっと待て。上着の間から見えるシャツの胸元についている狼のワンポイント、その向きと位置がいつもと違う。
今日はそのシャツ裏表逆なのか?
だんだんと、『ウォルフの間違い探しコーナー』の難易度が上がっている気がする。
そんなウォルフさんに気を取られていると、オーギュストさんが近くまで来ていることに気付いた。
「なるほど、お主はその時に愛を知ったわけじゃな?」
急に何か言いだしたが、そこまで大げさなものでもない。
というか、こっ恥ずかしくなるからやめてほしい。早く話題を変えなければ…。
「ねぇハル、ミーアって今いくつ?」
丁度、俺の隣にミーアがいたので、撫でながら無理矢理にでも話を逸らそうと試みる。
まあ、前から気になっていたことでもあるしな。
俺の見立てでは、ミーアはまだ生後一年も経っていないと思われる。どことなくあどけなさも残っており、とても可愛いのだ。
「私にもわかりません。ミーアは二週間ほど前に王宮の庭に放置された段ボール箱の中で鳴いていたところを、犬野巡査に保護されました。ただ、彼の子供は猫アレルギーだった為、同僚のレイブン巡査やスパロー巡査を頼ってみたそうです。しかし、引き取り手は見つからず、途方に暮れてわんわんと泣いていたので、見かねて私が引き取りました」
いい大人がわんわんと泣いてるんじゃない。
「猫愛護団体『プリティキャット』の会員として、どうしても見過ごすことができませんでした…」
猫限定!?
「初めは警戒していたミーアでしたが、何度か遊んであげていたら次第に懐いてくれまして…。
まだ知らないことも多いですが、ミーアは大事な愛猫です」
そんなことを言いながらポケットから猫じゃらしを取り出す。すると、それに引っ掛かるようにして出てきた何かが地面へと落下した。
「あ、ハル。ポケットから何か落ちたよ?」
ポケットから零れ落ちた物を拾い上げながら、ミーアをじゃらし始めたハルに声を掛ける。
「え? あ、申し訳ありません」
俺が拾ったのは冠を被った猫の形をしたバッジ。
「ありがとうございます、ヒイロ様。これは『プリティキャット』の会員バッジなんです」
片手で器用にミーアをじゃらしながら、ハルは受け取ったバッジをポケットへ仕舞う。両前足を上げながら必死に猫じゃらしへと跳びかかっているニャンコがとても可愛らしい。
その後、休憩を終えた俺達は車に乗ってその場を発った。
暫く走っていると乗っていた輸送車が大きく揺れて停止する。
「どうしたんですか?」
「すみません。路面の状態が悪くて、ぬかるみに嵌ってしまったみたいっス」
運転をしてくれているウルフファング隊員のスリップさんに尋ねると、そんな答えが返ってきた。
車から降りて復旧を試みるが、なかなかうまくいかない。
その時、背後から誰かに声を掛けられた。
「お手伝いしましょうか?」
声の方を振り向くと、そこには近くの池から頭だけ出している数匹の鯉の姿。
ただし、その大きさは人間ほどもある。
「困っているときはお互い様です。お手伝いしますよ」
混乱する俺をよそに、そんなことを言いながら鯉達が池から出てくる。その体には人間の手足が生えていた。
鯉から直接人間の手足が生えている。
言葉にするのは簡単だが、実際に目にすると正直恐怖を覚える。
『およげ○いやきくん』のようなデフォルメされた姿であったならば、まだ許容範囲だったかもしれない。
だが、今俺の目の前にいるのはとてもリアルな鯉だ。そして手足もとてもリアルだ。すね毛が生えている奴もいる。
見ているだけで、少しずつ精神が侵されそうだ。
緋鯉が一匹…、一人(?)、黒鯉が二人、錦鯉が二人。
いや、黒鯉のうちの一人はよく見たら鮒だ。髭が無い。
ちなみに、すね毛が生えているのは緋鯉と錦鯉の内の一人だ。
「鯉の人ですね。初めて会いました」
ハルが淡々とした口調で教えてくれたが、正直言ってそれどころではない。
俺は二本足で立つ鯉なんて知りたくもなかった。
でもまあ、とりあえず俺も初めて会ったよ。
初、鯉の人。
……現実逃避している場合じゃないな。
その時、鯉の人が驚いたように声を上げた。
「あなた様は、もしかして造物主様では!?」
急に何を言い出すんだ、こいつら?
鯉の人達の視線の先には、王都まで一緒に戻る事になったエリサさんの姿。
「え、私…?」
「おぉ、確かに伝え聞く造物主様の御姿にそっくりだ」
「ありがたや、ありがたや」
「ちょっと待って、私はそんなのじゃ…。えっ、お願いだから拝まないで」
鯉の人達に取り囲まれたエリサさんは困惑した顔をしている。
まあ、得体の知れない生物に、いきなり造物主扱いされれば誰でも困惑するだろう。
「造物主様の為だ、気張れよ皆!」
鯉の人達の協力も得て、車は無事ぬかるみから脱出することができた。
人間と手足の生えた鯉が、一丸となって車を押している。それは、とてもシュールな光景だった。
その後、助けてくれたお礼として鯉の人達に『あんまき』をあげたら、彼等は大変喜んでくれた。
そして、鯉の人達は『造物主様のお力になれてよかった』などと呟きつつ再び池の中へと消えていった。
当のエリサさんは何やら呆然と遠くを見つめていらっしゃる。何だかとても不憫だ…。
良い人達だった。人を見かけで判断してはいけないという良い例だろう。
だが、俺は思ってしまった。そう、思ってしまったんだ。俺の心は醜いのかもしれない…。
できれば、二度と会いたくない。