100 カイ ト イカ トキドキ サカナ
異形の者達が次元の狭間へと消えていったのを目の当たりにし、さすがのハートも少しだけ焦りを見せた。
そんなハートを前にしてネロは余裕の笑みを浮かべる。
「さて、これで王都の制圧は時間の問題だ」
「そう上手くいくかしら?」
「強がりはよせ。この魔導書が私の手にある限り、戦力の補充はいくらでもできる。お前達に勝ち目などないのだよ」
それを聞いたハートは少し距離を取りつつ懐から足付きの小さな杯を取り出す。
「ならば、ワタクシがあなたを倒して、それを奪ってしまえばよいということですわね?」
「できもしないことを言うものではない。お前はどちらかというと裏方の人間だろう?」
「それはお互い様ではなくて?」
杯から水が溢れ出し、ハートの周囲を水塊が漂う。
それに反応してネロが魔導書のページをめくる。
緊迫した空気の中、二人が同時に次の行動を起こ…。
「国旗掲揚台はどこだー!!」
「「!?」」
突如扉をぶち破って現れたのはレニウム王国の国旗を咥えた邪剣を握る赤髪の勇者。
突然の出来事に唖然として言葉も出ないネロとハート。そんな二人を気にすることもなくカイは部屋の中を見回した。
「………? ここじゃないみたいだな…」
目的の物がこの場にないことに気付いたカイは早々に部屋を後にしようと踵を返す。すると、我に返ったネロがそれを呼び止めた。
「ちょっと待て」
「ん? 何だ?」
振り返ったカイに向かってネロが続ける。
「それはこちらのセリフだ。お前こそ何だ?」
「え?」
その時だった。帝国の兵士が一人部屋へと駆け込んできた。
「宰相閣下、大変です。勇者カイに宮殿内に侵入されました!」
その兵士の発言を受けて、ネロ、カイ共に目の前の人物が何者かを察する。
「お前が勇者カイか」
「あんた、この国の宰相か」
ネロが警戒を見せる一方、カイは期待の眼差しをネロへと向けた。
「だったら、国旗掲揚台の場所を教えてくれ!」
「何を言っているんだ貴様は?」
唐突なカイの発言に思わずネロの口から率直な感想が漏れ出る。しかし、カイは一切気にしない。
「恥ずかしい話なんだけどな…、今日これからこのロマネスコで行われる王国と帝国共催の大規模武術大会の閉会式で、勝者であるレニウム王国の国旗を掲揚する代表団として招待してもらっておきながら、国旗掲揚台の場所がわかんなくなっちまったんだ」
「何を言っとるんだ貴様は?」
当然ながらそんな事実はない。
困惑するネロのことなどお構いなしにカイは続ける。
「あっ、確かに国旗掲揚台の場所はわかんなくなっちまったけど、きちんとレニウム王国の国旗は持参してきているから安心してくれていいぜ」
「ほんとに何言ってんの、こいつ!?」
キャラ崩壊すらも引き起こしてしまうほどの衝撃をネロが受ける中、部屋の外から遠巻きに中を見ていたエリサは思った。
私にもわからないわ。
彼女は、もうただただ微笑を浮かべながらやり過ごすことしかできなかった…。
そんなネロとカイの噛み合わない会話が続く中、何かを閃いた者が一人。ハートの紋様の入った仮面を被った彼女は、自らが持つ杯から溢れ出た水を周囲に纏うとカイに向かって声を掛ける。
「国旗掲揚台の場所を知りたければ、まずは私を倒すことだ」
その声に反応してカイが視線を向けた先にはネロの姿。
「そうか、なるほど。閉会式の前にエキシビションマッチが残っていたか」
「そういうことだ」
「なっ!? ハート、貴様…」
突然の展開に本物のネロは驚きを隠せない。そんな本物の方へと視線を向けると偽物はニヤリと笑みを浮かべる。そして、その姿がゆらりと揺らぐと、まるで背景に溶け込むようにしてその姿を晦ました。
「おのれ…」
ネロが苦虫を嚙み潰したような表情で偽物が消えた先を睨みつけていると、カイが動く。
「それじゃあ、始めようぜ!」
カイが邪剣を構えると、邪剣は咥えていた国旗をいったん飲み込んで舌なめずりをしてみせた。とても勇者とは思えないその禍々しい姿に若干気圧されながらも、ネロは覚悟を決める。
「クッ…、仕方ない。どちらにしろ王国の勇者をこのまま野放しにするわけにもいかないからな」
そう言うと、ネロは禁忌の魔導書の新しいページを開く。
「出でよ、万物の王」
すると次の瞬間、禁忌の魔導書から無数の触手が飛び出した。その触手が一斉にカイへと襲い掛かる。
「うぉっ!? 何だこれは!?」
走り出したカイは襲い掛かる無数の触手を掻い潜る。そして、少し距離を取ると振り返りざまに邪剣を構えた。
「くらえ! 蛸を喰らう者!」
その叫びと共に邪剣が大きな口を開くと、襲い来る触手を呑み…込まなかった。
「あれ?」
疑問符を浮かべながら、まるで自らも触手になったかのようにうねうねと刀身をくねらせて触手を躱す邪剣。
その様子を見てカイが何かを察する。
「こいつ、蛸じゃないのか…?」
いったいどういう原理なのかしら?
エリサが邪剣に対してそんな素朴な疑問を抱くが、今の彼女はただただ微笑みながら目の前の状況を見ていることしかできない。
そんな中、触手の持ち主がその全体像を露わにする。
そこに現れたのは無数の触手が生えた不定形な肉の塊。すると、その肉の塊の中央部が見開かれ、そこに眼球のような器官が現れる。
「何だこいつ。突然メンチ切ってきやがって」
そんなことを言いながらカイも負けじと睨み返す。そんな睨み合いを続けているとカイが何かに気付いた。
「ん? タコじゃないってことは、もしかしてイカ…? それがメンチを切ってきた…? それはつまり……、イカメンチ…!?」
この子はいったい何を言っているのかしら?
エリサがそんな素朴な疑問を抱くが、今の彼女は(以下略)。
それはともかく、両者の睨み合いに終止符を打ったのはどちらでもない第三者だった。
「見ているだけでSAN値が削られていきそうな姿だね…」
そんなことを言いながら部屋に入ってきたのはエリサと共に遠巻きに様子を見ていた覆面の男。
「心配はいらない、ウォル…覆面の人。俺だって精神的に成長したんだ。前みたいに取り乱したりはしない」
「そうかい? でも、絵的に見ていて気分のいいものではないしね。少し偽装させてもらうとしよう」
「え? だがウォル…覆面の人。お前の偽装は長くはもたないんじゃなかったのか?」
すると、覆面の男はふと笑みを浮かべてみせる。
「君が成長しているように、法螺貝だって成長しているんだよ」
「法螺貝も?」
「そう、この成長した法螺貝(改)なら、今までできなかったこともやってのけることができる! …気がする」
そう言うと持っていた法螺貝を吹き鳴らす。
「SAN値偽装!」
次の瞬間、無数の触手が生えた不定形な肉の塊(以下「イカ」といいます)は、デフォルメされた可愛らしいイカの姿へと変貌を遂げた。
「あのグロテスクな肉塊が可愛らしいイカに?」
「アプローチを変えてみたんだ。前回は自分達の精神状態を上書きしようとしたから無理が出てきてしまった。ならば、相手の見た目をSAN値に影響を及ぼさないようなものに変えてしまえばいい」
「なるほど。さすがだな、ウォル…覆面の人」
そんな中、貼り付けたような微笑を浮かべながらその状況を見つめていたエリサは心の中で悲痛な叫びを上げていた。
助けて、ヒイロくーーーん!!
しかし、ここにヒイロはいない。彼女は、ただひたすらにツッコミ不在のこの状況を耐え忍ぶしかないのである…。
エリサのSAN値だけがゴリゴリと削られていく中で初めに動きをみせたのはイカだった。触手をうねらせて部屋の中に置かれていた調度品類を掴むとカイと覆面の男へ向かって投げつける。
それに対してカイは邪剣で、覆面の男は法螺貝で向かってくる調度品を払い除ける。
「こんな攻撃で俺をどうにかできると思うなよ?」
そう言うと、カイは邪剣を構えてイカとの距離を詰める。
「くらえ! 烏賊を喰らう者!」
迫りくる邪剣を前にしてイカは咄嗟に自らの一部を分離した。すると、それがラッパのようなものを吹く悍ましい触手の塊へと変化していく。
「本体から分離してしまったら偽装が及ばないのか…。自分もまだまだ精進が必要なようだね…」
覆面の男がそんなことを呟く中、邪剣が分離した悍ましい触手の塊を吞み込んだ。
「チッ。もう一回だ!」
イカに攻撃を回避されたカイは再び邪剣を振り上げる。
「くらえ! 烏賊を喰らう者!」
しかし、その攻撃もまたイカから分離した悍ましい物体を呑み込んで終わった。
「クッ…」
そんな苦し気な表情を浮かべるカイを見て、ネロがニヤリと笑みを浮かべる。
「どうやら既に手も足も出ないようだが、これで終わりではないぞ?」
「「何だと!?」」
驚くカイと覆面の男を尻目にネロが徐に禁忌の魔導書のページをめくったその時だった。ネロの傍に控えていた大型犬が後ろを振り返ると共に唸り声を上げる。ネロの愛犬が見つけたのは、背後から忍び寄る水のヴェールを纏って周囲の景色と同化した人影。
「どうにも、あなたとは相性が悪そうですわね」
そんな呟きと共に人影を覆っていた水のヴェールが水塊へと変わり、ハートがその姿を現す。それと同時に水塊がネロへと襲い掛かった。
しかし、ネロは慌てることもなくハートへと視線を向ける。
「逃げたのかと思っていたが、まだいたのか、ハート」
次の瞬間、禁忌の魔導書から吹き出した炎が水塊を迎え撃つ。水と炎の激しいぶつかり合いが相殺という形で幕を閉じるころには両者とも次の行動へと移っていた。
ハートが少し距離を取りつつ幾つかの水塊を生み出すと、禁忌の魔導書からは炎の塊が姿を現す。
まるで顔のようにも見えるその炎の揺らめきにハートが気色悪さを覚えていると、突然、その炎が嘲笑うかのように揺らぐ。それと同時に幾つもの炎の触手がハートへと襲い掛かった。
咄嗟に周囲を水の壁で覆ったハートだったものの、その勢いはすさまじく部屋の壁をも突き破って建物の外へとはじき出される。
宮殿の高層階に位置する宰相の執務室。そこからはじき出されハートは地上へと落下していく。そんなハートを見下ろしながらネロが告げる。
「お前は外で遊んでいるがいい」
追い打ちをかけるようにして炎の塊が建物から飛び出すとハートめがけて幾つもの炎の触手を伸ばした。
真上から押し寄せる大火力に押されて落下速度が上がっていく中、ハートは周囲に膨大な水を生み出すことで炎を防ぎつつ地面との衝突への緩衝材とする。
勢いよく叩きつけられた大量の水が中庭を押し流し、少し遅れて押し寄せた炎が周囲を焼き払う。
一瞬にして大地が干上がり、そして燻る火の中で少量の水の壁に覆われたハートが唇を歪めた。
「どうにもワタクシの手には余りますわね…」
しかし、炎塊の猛攻は収まるところを知らない。嘲笑うような揺らぎをみせると周囲もろとも焼き尽くさんばかりの大火力がハートへと襲い掛かる。
辺り一面の炎の海。その光景を前に炎塊が勝ち誇ったかのように大きく揺らめく。そして、自らの主の元へ戻ろうと上昇を始めた時、異変が起こった。
炎塊へ向かって落ちてきた一滴の水。それはすぐに蒸発して消えてなくなったものの、これから起こる事態を想像させるには十分なものだった。
晴れているにもかかわらず次から次へと空から降ってくる雫。地上の火勢が弱まると、その炎の狭間に垣間見えるはハートの姿。
降り注ぐ雫をものともしない炎塊は、その姿を確認するなり炎の触手を伸ばした。それに対してハートは自らの胸の前に掲げる聖杯を見つめながら静かに呟く。
「確かに、ワタクシは裏方ですわ…。でも、戦う為の術がないわけではありませんのよ?」
そうして炎塊へと視線を向けながら口元に微かな笑みを浮かべる。
「呼び水…」
その呟きと共にハートの足元から水が広がり、まるで鏡面のように空を映す。
「少し力を貸してくださるかしら?」
その時、空を反射しているだけのはずの水溜まりに空には存在しない何かが映り込んだ。
「暴虐水魚」
ハートのその発言と共に水面が激しく波立つと、そこから激しく水が吹き上げる。そこに姿を現したのは陽光を浴びて輝きを放つ幻想的な水の魚。
水魚は、向かってくる炎の触手を自らの体で絡めとるかのようにしながら空中を優雅に泳ぐ。そして、膨大な水量と共に炎の触手を鎮火しながら炎塊へと迫った。
炎塊は咄嗟に距離を取りつつ炎を噴射する。それに水魚も水を噴射して応じる。
両者空を舞いながらの激しい空中戦。
激しい炎が周囲を焼き、水を泡立たせる。激流が大地を覆い、炎を消しとめる。
炎の渦が水塊を覆うと瞬時にして干上がる。高圧の水がまるでビームのように炎を薙ぎ払う。
そうして両者一歩も引かぬまま状況は拮抗するかと思われた。しかし、水魚にはまだ余裕があった。
大量の水を振りまきながら優雅に泳ぐ水魚は、周回しながら次第に炎塊を押し込めていく。すると、周囲を水に取り囲まれた炎塊がまるで焦るかのように揺らぎ、そのままかき消えてしまいそうなほど目に見えて小さくなっていく。
しかし、炎塊もそのまま終わるほど軟ではなかった。自らの身を縮めると、炎の色が赤から黄へ、そして、白へと変化していく。
異常なまでの高温によって周囲の水が温められていく中、周回していた水魚が向きを変えて直接炎塊へと向かった。
炎塊と水魚の最後のぶつかり合い。とてつもない高温で全てを焼き尽くそうとする炎塊へと迫った水魚は、大きな口を開けるとそのまま炎塊を呑み込んだ。直後、水魚の体表が激しく泡立つ。
しかし、そんなことはものともせずに水魚は悠然と空を泳ぎ続ける。
水魚の体内で暴れ続ける炎塊。しかし、水魚の体表を泡立たせる以上の事態は発生せず、次第に炎の勢いが衰えていく。
そして、まるで苦しむように揺らぎながら炎塊はゆっくりと水魚の体内で消えていった。
「片付きましたわね。助かりましたわ」
ハートがそう告げると、大空を優雅に泳いでいた水魚はハートの上空を数回周回する。そして、そのまま空の彼方へと飛び去っていった。その姿を見送ると、ハートは自分が落ちてきた宮殿の壁の穴を見つめる。
「さて、この後、ワタクシはどう動くべきかしら…?」




