088 サンチチヨクソウ
辺り一面雪に閉ざされた大地。
その雪の下から、何やらくぐもった声が聞こえてくる。
「く…え! ス……イ…ター!」
次の瞬間、辺り一面の雪が消え去り、両側を崖に挟まれた地形が露わになる。
その谷底に立つのは禍々しい剣を掲げる一人の勇者。
「帝国の奴等…、俺達の注意を引き付けておいて背後から生き埋めにするとは、随分と卑劣な真似を…。だが、残念だったな。勇者である俺にそんな作戦は通用しない!」
そんな風に高々と声を上げるカイの周囲では倒れていた王国兵達がよろよろと立ち上がる。仲間達の無事を確認して安堵しつつ、カイは周囲の状況に目を向ける。そこで彼はある事実に気付いた。
「囲まれている…?」
彼が見たのは谷の前後を塞ぐような位置で次々と立ち上がる帝国兵達。
「二段構えの作戦だと!?」
カイが驚愕の声を上げる中、エリサは周りを見ながら考える。
これ、私達が帝国軍の本隊のど真ん中に落ちてきただけじゃないかしら…?
「なかなかやるじゃないか。だが、たとえ圧倒的に不利な状況でも、俺は絶対に諦めない。なぜなら、勇者だからだ!」
逆境の中でも勝手に状況に酔いしれることができる男、カイ。しかし、その実を言えば帝国兵達は立ち上がりはしたものの未だ混乱状態であった。
「それに、俺はこんなところで躓くわけにはいかない。俺には魔王を討伐して世界を救うという大事な使命があるんだ。この程度の逆境、撥ね退けられなくてどうして魔王討伐なんてできる! そう、この程度で俺はあきらめない。諦めなければ活路は見いだせる。逆転の機会は必ず訪れるんだ!」
カイの一人語りが続く中、マギーシンはじめとする帝国将校達も意識を取り戻し、冷静に部隊の立て直しを図る。
徐々に、しかし確実に活路も逆転の機会も失われていた。
それに気付いた一人の男がカイに声を掛ける。
「カイ君。今はそんなことをしている場合じゃないよ。敵が態勢を立て直す前にここを突破するんだ」
その発言にカイがハッとした表情を浮かべる。
「確かにその通りだ。俺達はこんなところでもたもたしている暇はないんだ。一刻も早くロマネスコに向かわないと…。優先順位を間違えるところだったぜ。ありがとう、ウォル…フ?」
そんな礼を述べつつ振り返ると、そこに立っていたのはウルフファング隊の隊服に身を包み覆面を被った男。
いつもと違う雰囲気にカイが訝し気に覆面の男を見つめる。
「ウォルフ……でいいんだよな…?」
「何を言っているんだい、カイ君?」
「えっ…いや、だって……。メガネを掛けてないから…」
※引き続き、ツッコミはセルフサービスとなっております。
カイが戸惑っていると、そこへエリサが声を掛ける。
「そんなことは後でいいわ。それより、敵が混乱している今の内にここを抜けましょう」
「それもそうだな、ここはウォルフのメガネの帰巣本能を信じて、俺達は今やらなければならないことに集中しないとな」
そうして動き始めたカイ達の前に部隊を立て直したマギーシンが立ち塞がる。
「逃げられると思うな! 総員、撃てー!」
魔法、銃火器による一斉砲火がカイ達へと襲いかかる。
するとその時、覆面の男が蛇の髪を持つ女の首の装飾が施された盾を構えて飛び出した。
「させないよ。イージスの盾!」
次の瞬間、装飾の蛇が動き出して降り注ぐ魔法や砲弾を迎え撃つ。
「ウォルフ…? やっぱりお前、何かいつもと雰囲気が…?」
「そんなことより、今のうちに強行突破するよ」
カイが向ける疑惑の眼差しを躱しつつ覆面の男は突き進む。その後ろにカイや他の王国兵達も続いた。
妙な盾を構えた覆面の男が迫るがマギーシンも一歩も引かない。冷静に部隊の指揮を執る。
「怯むな、撃ち続けろ! 絶対にここを通すな!」
そんなマギーシンの耳に後方から帝国兵達の騒めく声が聞こえてきた。
「何事だ!」
マギーシンが状況を把握しようと自慢の耳を傾けると、部隊の各所からしきりに聞こえてきたのは『大根』というキーワード。疑問に思っていると、慌てた一人の兵士が駆け寄ってきた。
「大変です。部隊内各所で大根テロが!」
「お前は何を言っている!?」
困惑するマギーシンだったが、直ぐにその意味を思い知ることになる。何者かに足をつんつんと突かれたマギーシンが視線を下に向けると、そこに居たのは顔と手足のついた大根。
「???」
より一層困惑を深めるマギーシン。すると、どこかムカつく表情を浮かべたその大根は、マギーシンに向かって何かを差し出した。それは器に盛られた暖かな風呂吹き大根。
「暖かい食事だと!?」
雪中での強行軍に度重なる敵襲。さらには、逆転の機会を掴んだと思った直後の雪崩…。帝国兵達の、そしてマギーシンの心身は限界に近かった。それでも気力を振り絞って職務を遂行しようとしていたマギーシンに、今、暖かい食事が牙を剥く。
思わず腹が鳴り、導かれるようにしてその器に手を伸ばしたその時、ただでさえどこかムカつく表情を浮かべていた大根がニヤリと笑った。そして、スッと距離を取ると、見せつけるようにしながらおいしそうに風呂吹き大根をほおばる。
「飯テロ…だとぉ!?」
まるで大根で頭部を強打されたかのような激しい衝撃と共にマギーシンはその場に膝から崩れ落ちた。
阿鼻叫喚の地獄絵図と化した帝国部隊を尻目に、カイ達はその場を駆け抜けていく。そして、ようやく包囲を突破できるかと思ったその時、その場にマギーシンの笑い声が響き渡った。
「フフッ…。フフフッ…。フハハハハ」
マギーシンはゆらりと立ち上がると、狂気に満ちた表情で振り返る。
「許さん…。許さんぞ…。高山での雪中行軍という自然の脅威が骨身に染みる極限状態にある我々に、芯まで味の染みた暖かい風呂吹き大根の差し入れをするかのような振る舞い…。その優しさが心に染み渡った直後、見せつけるようにしながら食べてしまうなど、なんたる鬼畜の所業。実に許し難い! 食い物の恨みの恐ろしさ…、その身を以て味わうがいい!」
その狂気は、あっという間に帝国兵達に伝染していった。
その場に響き渡る『グルルルル』という音は、果たして彼らの唸り声なのか、それとも腹の音なのか、それはもう本人達にすらわからない。ただただ一心不乱にカイ達めがけて襲い掛かる。
「こいつら、こんな奥の手を用意してやがったのか。急に飢えた獣みたになりやがったぞ」
驚愕の声を上げながらも次々に襲い掛かってくる帝国兵達を払い除けるカイの近くには、『この獣達は自分が育てました?』というフリップを掲げながら首を傾げている覆面の男の姿。
それに気付いたエリサだったが、襲い来る敵への対処に集中することでやり過ごすことに決めたようだ。何かを振り払うかのように無心で鞭を振るい始める。
※彼女には荷が重いようです。ツッコミは各自の判断にてお願いします。
「どうした、この程度か? この程度で、この勇者カイを止められると思うなよ!」
飢えた獣達を打ち払いながら余裕の笑みすら浮かべ始めたカイに、マギーシンは焦りの色を浮かべる。
「まさかこんなところで使うことになるとは思わなかったが仕方がない」
そう呟きながら取り出したのは一つの箱。
「出発前夜、戦地に向かう我々に、ネロ閣下は産地直送の食材を使った食事を振舞ってくださった。そして、『窮地に陥った時に使え』というお言葉と共に、これを渡された」
マギーシンは箱の蓋に手を掛けるとニヤリと笑みを浮かべる。
「そう、このSAN値直葬魔心弁当をな!」
箱の蓋が開かれた瞬間、周囲の空気が張り詰めた。
箱の中から感じる何かが蠢くような気配。誰もが『見てはいけない』と、そう直感した。しかし、目を逸らすこともできずにただ呼吸だけが荒くなっていく。
永遠のようにも感じられたその時間は、まるで箱の淵にゆっくりと手を掛けるかのように現れたグロテスクな黒い触手によって打ち破られる。
そうして箱の中からゆっくりと這い出してきたのは、言葉にするのもはばかられるような異形の化け物。
それを直視してしまった者達は、言葉にならない呻き声を上げながら狂気に染まっていく。そんな中、直感的に危機を察知した覆面の男が腰のカバンに手を伸ばした。
「いけない!」
そうして取り出したのは立派な法螺貝。彼は法螺貝に口を付けると大きく吹き鳴らす。そして、法螺貝の大きな音が鳴り響いた直後、その法螺貝を掲げながら叫んだ。
「SAN値上書き!」
次の瞬間、言葉にならない呻き声を上げていた王国兵達が正気を取り戻した。
「っ! はぁ、はぁ…? 俺達はいったい何を…」
真っ青な顔で荒い呼吸を整えながら、たった今自らの身に起きた異変に身を震わせる。
そんな中、正気を取り戻したカイは、男が掲げる法螺貝を見つめながらある疑惑を抱いていた。
「…ウォルフ…。やっぱりお前、何かいつもと雰囲気が…?」
「今はそんなことを言っている場合じゃないよ、カイ君。上書きは長くは持たないんだ」
「メガネか? やっぱりメガネがないからなのか?」
その様子を遠い目をして見つめていたエリサだったが、カイの背後に忍び寄る陰に気付いて声を上げる。
「カイ君、後ろ!」
「え?」
法螺貝に気を取られていたカイの背後から、一体の飢えた獣が襲い掛かる。
「グルルルル」
「ぐわぁ! ヤメロ、俺は食い物じゃない!」
頭に噛り付かれたカイは堪らずに振り払おうとするが、さらにそこへ一帯の飢えた獣達が襲い掛かった。
「「グルルルル」」
「クソッ、噛みつくな!」
明らかに狂気を増した獣達。激しく牙を剥く口からはダラダラと涎を垂らし、血走った目を剥き獲物を狙う。
エリサ達の手も借りながら何とか振り払ったカイは、豹変した獣達を前にして焦りの色を浮かべる。
「クッ、危うく食い破られるところだった…。どうやら認めざるを得ないみたいだな。ここまで身も心も獣に成りきれるだなんて、こいつらこそ本能を解き放った真の獣だ。出発時に自らを獣に例えて演説をした自分が恥ずかしいぜ」
悔いるように呟くものの、直ぐに切り替えるとこの場を切り抜ける為に頭を捻り始める。
「しかし、どうする…? 真の獣と化したこいつらは、なかなかの強敵だ…」
そんなカイに向かって国境警備隊の隊長が覚悟を決めたような表情で声を掛けた。
「勇者カイ 、ここは俺達に任せてロマネスコへ向かってください」
突然の提案にカイは驚きを隠せない。
「急に何を言い出すんだ。お前達だけでこいつらの相手なんて…」
「そんなことはわかっています。ですが、こんなところで時間を浪費している場合ではないはずです。あなたには、勇者として果たさなければならない役目があるはずだ!」
その発言に、カイは自らに課せられた大事な使命を思い出した。
「…確かに、俺には勇者として帝都ロマネスコに王国旗を掲げるという大事な役目がある…」
そんな役目、あったかしら…?
ふと、そんな漠然とした違和感を覚えるエリサだったが、悲しいかな、今の彼女は割と思考停止に陥っている。結局、その違和感の正体に気付くことはできなかった。
「だが、仲間を見捨てて先に進むなんて、そんなこと…」
カイが葛藤していると、突然、崖の上から声が聞こえた。
「それなら心配は要らない」
見上げると、そこに立っていたのは大剣を背負った金髪の男。
どうしてみんな、高いところから登場したがるのかしら…。
エリサは漠然とそんなことを考えるが、残念ながら彼女にはそれを咄嗟にツッコミに昇華させられるほどの能力はなかった。
男は崖から飛び降りると大剣を構える。
「この場は俺が引き受けよう」
「レオ、来てくれたのか」
「直に王国軍の本隊も駆け付ける。だから心配は要らない。行け!」
剣聖レオの後押しでカイは覚悟を決めた。
「わかった。だが、せめてこいつだけは片付けていく!」
そして、邪剣を掲げて勢いよく駆け出す。
「くらえ! 甲烏賊ヲ喰ラウ者!」
邪剣によって異形の化け物を飲み込むと、カイは足を止めることなく帝都へと進路を取る。
「勇者小隊は俺に続け! ここを抜けて帝都ロマネスコへ向かう!」
「「ヲオオオオ!!」」
そうして戦場から離れて暫く行ったところで、緊張状態から解き放たれたエリサは少しだけ冷静になった。
そういえば、そもそも私達の任務って何だったかしら…?
その時、カイが装甲車の屋根の上に飛び乗った。そして、邪剣を掲げると、その口から王国旗が飛び出す。
「散っていった仲間達の為にも、この作戦を必ず成功させ、帝都ロマネスコに王国旗を掲げる!」
「「ヲオオオオ!!」」
気付いてはいけないことに気付きかけたエリサだったが、その異様な熱気を前にして彼女の思考は飲み込まれていった…。




