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精霊呪縛  作者: 甲斐桂
第二部 ラージャスタン・アグラ宮殿編
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第14話 鐘が鳴る(1)

 気だるい午後のことだった。

 いつものように、ヤスル教授の授業は自習になった。気温のひどく上がった昼下がり、ユリスは眠気をもよおし、人気がまばらなAクラス教室でうつらうつらしていた。

 友人のカウニッツは、こんな午後でも学習意欲を失わない仲間を引き連れ、今日も図書館に行っている。

(本当にえらいやつって、ああいう感じかもな)

 ユリスは、考えるともなしに考える。(どんな状況でも平常心で、やるべきことをやれる。でも、俺は)

 机に突っ伏したまま目を閉じると、頭の中に悲しそうな金髪の女性がちらついた。その人は、明るい水色の瞳が彼女にそっくりだった。

(それじゃ、ユリシーズ君は最近アマンダと話していないのね?)

 アマンダの母親は行方不明の知らせを受けて遠路はるばるミドルスブラから駆けつけ、娘と関わりのある学生一人ひとりに話を聞いてまわっていた。しばらく疎遠だったとはいえ、一時期よく行動をともにしていたユリスも例外ではなかった。

(アマンダが何か悩んでいたとか、そういうことも……そうよね、聞かれても困るわよね。ええ、Bクラスに落ちたことは他の子から……時間をとらせてごめんなさいね)

 一瞬、アマンダが図書館から盗んだ例の本のことが頭をよぎったが、何と言ったらいいのかわからず、ユリスは黙っていた。女子の部屋に侵入したとも言えないし、何より論理的な説明ができなかったからだ。「精霊王」が何なのかも知らない。アマンダの失踪に関係あるかどうかも、根拠らしきものはない。

 彼女が何を考えていたのか、ユリスにはわからない。目の前で打ちひしがれる彼女の母親に言えることなんて、何ひとつなかった。

 自分にできることなんて、何ひとつない。

 そのことに、むしろユリスのほうが打ちひしがれた。どこか落ちつかない、最近の理学院の空気のなかで、前向きに勉強や研究を続ける意欲は消えてなくなってしまった。

 カウニッツはさすがに大人で、そんなユリスを責めることなく、気が向いたら参加してくれよ、とだけ言って教室をあとにした。ユリスはそんなカウニッツに甘えて、最近ずっとみんなで進めていた勉強会も放棄し、気だるい午後にひとりうとうとしていたのだった。

 そんなときである。外から鐘の音が聞こえてきた。

 理学院近辺で鐘の音といえば、構内にそびえるグレナディン大聖堂しかない。だから、最初ユリスは疑問にも思わなかった。

 カーン、カーン、と鐘が鳴っている。これは、常ならば礼拝に人々を招集する合図だ。あるいは、新年のはじまりの合図。

(今日は……何だっけ?)

 ユリスは遅れて顔をあげた。礼拝の開始は基本的に朝の授業開始前であり、今は午後。新年の鐘は夜中の日付変更時に鳴るものであり、そもそも今は季節外れ。

 教室内に残っていた他の学生も、ざわつきはじめた。何の鐘なのか、誰も思いあたるふしがない。お互いに顔を見合わせては頭を振ったり、もしかしたらこういうことかと予想を述べたりしている。国賓が到着して歓迎の鐘? ヤスル教授が偉大な発見をして祝う鐘? はたまた王家の誰かの誕生日? しかし、どれも裏づけに乏しい。この間にも鐘は鳴りつづけている。

 教室のドアが開き、カウニッツが入ってきた。教室内の学生たちの視線が、友人に吸い寄せられる。

 カウニッツは明らかに青ざめていた。

「どうした? 顔色悪いぞ」

「ユリス」

 走ってきたのか、カウニッツは呼吸を整えている。いつも安定感のある友人が、いつになく動揺していた。

「……他のみんなも。今すぐ大聖堂へ」

「え、何かあるのか?」

「いいから。大聖堂の鐘は招集の合図。それはいつもと同じだろう……」

 この年長の同級生はAクラスで信頼されていたので、みな黙って従った。ユリスもそれに倣い、歩きだしたカウニッツの隣に並ぶ。

「何なんだよいったい?」

 カウニッツはユリスを振り返り、少し考えるような顔をしてから、ふたたび前を向いた。高く鳴り響く鐘にせきたてられ、二人は足をはやめる。

「昔、一度だけ、大聖堂の鐘がいつもとちがう時間に鳴ったのを知ってる」

「昔って、カウニッツが理学院に入ったばかりとか? 俺なんかまだ全然いないころとか」

「それはそのとおりだけど、俺もまだ入学していない。まだ子どもだった。俺はグレナディンの生まれなんだよ。——四歳だった」

 カウニッツは、ためらいがちに言う。「……休戦協定が締結されたときだ」



  *  *  *



「なんてことしてくれたんだよ、おまえはもう——」

「それはこっちの台詞だが?」

 文字どおり頭を抱えた少年に、稀代の美貌をもつ青い妖精は言い放った。「シフル、きさまがシビュラ・クリスピニラについていかなければ、こっちも対策を講じる必要はなかった。おまえが自分で招いた結果だ」

「それはそうかもしれないけどさ……頼むから、常識ってものをわきまえてくれよ」

「妖精に人間の常識を説くことを愚かしいとは思わんのか? わが主シフル」

「あーもー!」

 シフルは寝台に身を投げた。アグラ宮殿側から与えられた豪華な寝台は、そのやわらかさで少年を包みこむ。少年はそのやわらかさの中で、くぐもった声で言った。

「……話の通じない妖精と二人で閉じこめられるとか!」

「は?」

 頭上に妖精の気配が近づいてくる。「それこそ、きさまが自分で招いたことだろうが。わが主は理解していないらしいが、本来俺がこんな狭っ苦しい結界の中でおとなしくしているいわれはないんだが? そうさせたのは誰だ?」

「わかってるよ」

 シフルはなげやりに答えた。「わかってまーすー!」

「何だ、その態度は」

「外に出たい。廊下でいいから。セージとしゃべりたい。ルッツでもメイシュナーでも」

 寝台に頭を沈めたまま言ったぼやきを、

「《ダメでーす》」

 次室に控えていたメアニーが受ける。現代プリエスカ語はわからないはずだが、ちょうどいいタイミングでパーン! と扉を開け、赤い髪の少女が姿を現した。それからまた、扉のむこうに消える。

「だそうだ」

 こちらもラージャ語はわからないはずなのに、完全に通じあっていた。「お望みなら、おまえを結界の外に連れだすなどたやすいことだが?」

「《それホントやめてくださーい》」

 再度、パーン! という音とともに扉が開く。

「《言っておきますけど、次それやったらシフルさまのお命はないですよ? いいですか、主の命が惜しければ、ここの掟に従ってください。ラージャスタンの重犯罪者の名簿にシフルさまを載せたくなければ、の話ですけど》」

 メアニーは、顔を上げないシフルを通過して、直接妖精に告げた。敵意を向けられれば、共通言語など不要らしく、

「おもしろい。やれるものならやってみるがいい。そのときは城ごと《時空の狭間》に叩きこんでやるから楽しみにしていろ。永遠の闇を漂っているときに、おまえたちの掟が何ほどの役に立つか、おのずから理解することになるだろう」

「《シフルさま、お忘れなく! 今回、謹慎だなんて軽い罰ですんだのは、マーリ皇女殿下のたってのお達しだからですよ》」

 メアニーは一応はラージャ語の通じるシフルに矛先を変えた。「《普通はとっくに処刑ですよ。しょ、け、い! それがたった一か月の謹慎ですむだなんて、姫さまの『ワガママ』以外ではありえないんですからねっ》」

「《わかってますほんと》……《すみませんでした。いやオレの意思ばかりじゃないんですけど、こればっかりはほんと》……」

「《妖精の行動は主の責任! これ、妖精使いの常識ですよ。一回、シフルさまは妖精を使うってことをよくよく学ばれたほうがいいかもしれませんね。かの国の指導要綱には、妖精使いのことは書かれてなかったんじゃないですか?》」

「——《え》!」

 シフルは勢いよく身を起こす。「《学ばせてくださるんですか》?」

 考えてみれば、一度もそんな学習はしたことがない。妖精憑きの召喚士など、元素精霊教会にも数えるほどしか存在しなかったのだから、精霊召喚学の基礎を教える理学院にそんなカリキュラムは存在していなくて当然だ。だが、今のシフルには喉から手が出るほどほしい内容である。

 寝台を飛び降り、メアニーのそばに駆け寄る。急に眼を輝かせたシフルに、少女女官は軽く嘆息した。

「《一か月、いい子にできますね?》」

「《できます》!」

 シフルは意気揚々と手を挙げる。少し離れたところでラーガがあからさまにこめかみを震わせていたが、少年は見なかったことにした。

 手始めに、休戦記念日の儀式の放棄。次いで、皇女婿誘拐。きわめつけは、アグラ宮殿最深部への不法侵入と結界の破壊。それにより、皇帝と皇女を危険にさらした。それが、休戦記念日の一連の騒動でシフルが犯すことになった罪状のすべてである。

 シビュラの手をとったとき、儀式を勝手に放棄したことを責められるだろう、ぐらいの想像はシフルにもできた。しかし、まさか知らないあいだに罪状が雪だるま式にふくれあがって待ち受けていようとは、考えてもみなかったのである。

「《ラーガに誘拐されたあ》?」

 オースティンが珍しく神妙な顔つきでそれを告白したとき、シフルは開いた口が塞がらなかった。

「《精霊王がシフルを連れ去ったから、精霊王に対する人質として僕を連れていくと。妖精はそう言いました》」

 なぜオースティンが神妙にしているかというと、かたわらで皇帝と皇女——しかもこちらが『本物』だという——が聞いていたからだ。

「《オースティンさまに人質の価値があるのは、やはりオースティンさまが精霊に愛される存在だからかしら?》」

 皇女マーリは無邪気に質問した。

「《おそらくはそうでしょう。しかし、シフルの妖精たちはその質問には答えてくれませんでしたので、確証はありません》」

 オースティンは時姫ときのひめの話をぼかして説明する。何しろ面倒な話だから、詳細を伏せることについてはシフルも異存はなかったものの、

「《シフルは二人も妖精を使役しているの? 妖精使いなんてそうそういないものなのに、すごいわ!》」

 却って、好奇心を刺激する結果になってしまった。シフルとしては《はあ、まあ》と言葉をにごすほかない。

「《それで》……《どうだった》?」

 おそるおそる、オースティンに尋ねる。一瞬、少年ふたりの視線が交差した。

「《……雑談した。シフルが精霊王と話しているあいだにな。出された紅茶を飲んだ。それだけだ》」

 オースティンが再度話をぼかしたのは明白だった。「《シフルは?》」

「《オレも》……《雑談した》」

 シフルはシフルで、この場で言えることなどひとつもなかった。あまりにも個人的で、あまりにも特殊。果ては、理学院に残っていた友人がなぜか精霊王に拉致されていただなんて、どうしてこの場で口にできようか。この初対面の少女のすみれ色の瞳が、ますます輝きかねない。

(あの『マーリ皇女殿下』とずいぶんちがうんだな)

 シータのように軽やかな少女、マーリ。あのマーリこそ、アグラ宮殿側が皇女として世に知らしめたい姿を体現しているとしたら、シフルは十分納得がいく。ラージャスタンの人々の信頼を得る少女として、あれほどの適任はいない。シフルはもちろん、わりと性格に癖があるセージやルッツ、メイシュナーも、自然と彼女と意思の疎通をするようになったのだから。

「《雑談ねえ》」

 当然、話をぼかしたところで、許してもらえるとは限らない。「《それは儀式中じゃなきゃダメだったのかね?》」

 発言したのは、皇女の父であるラージャスタン皇帝ザーケンニ七世だった。

 皇帝は、やはり娘と同じすみれ色の瞳をしていた。この人も、シフルたちが宮殿入りしたときの歓迎の宴で見た「皇帝」とは別人。つまり、本来、皇帝と皇女はシフルが会っていい存在ではなかった、ということである。

(そりゃ「秘密主義」だからな。そういうこともあるよな)

 と思う一方、

(知ってはいけないことを知ってしまった)

 という事実が、シフルに迫ってくる。

「……《ダ》……《ダメでした》」

 シフルは正直に答えた。

「《そうなの?》」

「《精霊王に会えるチャンスは、あのときだけでした》……《あの場所がいちばん精霊王に近い場所だったのと、アグラ宮殿の結界を破らずに精霊王の居城に行けるのは、外に出たときだけだったんです。結局、戻されるときに結界を破られましたけど》」

「《ふむ》」

「《あの場所がいちばん精霊王に近いというのは?》」

 オースティンが口を挿んだ。

「……《精霊王はエルドアに関係がある。だからだよ》」

 できれば突っこんでほしくなかったので、また話をぼかした。シフルは、休戦記念日の儀式以前にたびたび見ていた白い手の夢で——もちろんあれはシビュラの手だ——エルドアの石碑に連れていかれ、精霊王がエルドアの関係者であることを察した。しかし、書庫でエルドア王国のことを調べても、最後の王が少年王だったことは記録に残っているが、当然その少年王が精霊王になったなどという記録はみつからない。事情を知らない人間が聞けば、おかしな妄想だと思うだろう。

「《精霊王がエルドアにねえ。そんなの初耳だよ》」

「《シフルは、わたくしたちが知らない世界の秘密を知っているのね。すごい、すごいわ!》」

 案の定、皇帝はいぶかしがり、皇女はますます瞳を輝かせた。「《ねえ、父君陛下。わたくしもっと、シフルとお話ししたいわ! ターズ楼では落ちつかないし、わたくしのお部屋ででも。オースティンさまも一緒に。いいでしょう?》」

「《そもそも今、大切な儀式中じゃなかったかな。皇女殿下》」

「《忘れていたわ、そんなの》」

「《それにその彼、ここを出た瞬間に拘束だよ》」

(……でしょうね!)

 わかってはいたものの、皇帝の口からはっきりとその恐ろしい言葉が出ると、痛感せざるをえない。自分は取り返しのつかない罪を犯したのだと。シフルはうなだれる。プリエスカには、理学院やビンガムの家には、この話はどんなふうに伝わるだろう。

 しかし、

「《そんなのいやですわ! 父君陛下》」

 言い放ったのは、他でもない皇女だった。「《シフルを捕まえたら、何かいいことがありますの? ラージャスタンにとっていいことが? わたくしは少なくとも、いいことは何もないと思います。せっかくすてきな話をたくさん聞かせてくれそうなかたが来てくれたのに、閉じこめてしまうだなんて》」

「《だけどね、君……掟は掟だから》」

「《わたくしたちは無事でしたわ。オースティンさまも。それでいいと思いますの》」

 それから、すてきなことを思いついた、というふうにぱっと表情を明るくすると、父親にいざり寄り、

「《シフルのしたことを知っているのは、メアニーたちイーリの者ばかりよ。彼らがそのことを胸に秘めておけばいいだけだわ! だって結局、わたくしたちは無事だったのだもの》」

 と、ラージャスタン皇帝たる人物に熱弁する。シフルが宮殿の結界を破ってここに戻されたとき震えていた姫君と同一人物とは思えない、強気な態度だった。皇帝は渋っていたが、娘に対して強く出られないのか、はたまた果てしなく甘いのか、とうとううなずいた。

「《そんなふうにして、僕も婚儀の予定を早めてトゥルカーナから連れてこられたわけですね。よくわかりましたよ、マーリ》」

 オースティンが、変にきざったらしい笑みとともにつぶやく。《いやですわ、旦那さまったら》と皇女は赤面したが、だからといってオースティンの発言を否定することも、とりつけた約束を撤回することもなく、シフルの罪状は最小限に絞られることになったのである。

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