第13話 その手をとって(2)
慈善園の生徒たちが出発すると、オースティンとライラだけが園庭に残された。
「では、戻りましょう。オースティンさま」
ああ、と答えて、少年も歩きだす。少年公子の足どりは重い。今日これから昼も夜も越えて儀式を遂行しなければならない彼らとは比ぶべくもなかったが、何かこれから不穏なことが起こるという予感が、少年の足を重くしていた。
起こる——いや、起こす、というべきなのだろう。それが何なのか一切わかっていないとしても。それでも少年は、プリエスカの留学生たちにとってマキナ皇家の一員にはちがいないのだから、
暗澹たる思いを抱えて廊下を進んでいると、ふと、隣にライラがいなかった。振り向くと、かなり後方にいる。オースティンは立ち止まった。
「申しわけありません、旦那さま」
「からだの具合でも悪いのか」
「いえ」
明らかにライラの声に力がない。オースティンは腕をさしだした。
「いけません、今日は」
「いくら儀式の日でも、夫婦が腕を組んで悪いこともあるまい?」
戯言めくと、ライラは少し笑う。「それに、そんな調子では我々の儀式に間に合わない」
孤児たちに大変な《ホラーシュ詣》を押しつけ、皇帝一家はただ座して待っていればいいわけではない。座しているのはそのとおりだが、皇帝とマーリはターズ楼内で、オースティンと影姫ライラはサイアト宮内で、それぞれ精進潔斎を行う。
「申しわけありません」
「いい」
答えると、少女の体重の一部が腕に降ってきた。覚えのある感情が、少年の胸の奥で湧きたち、少年は自身の反応に戸惑う。何を今さら、こんなささやかな接触で浮かれる必要がある? 自分たちは正真正銘、夫婦だというのに。
「慈善園では、体調管理の術は教わらないのか?」
湧きあがったものを否定するように、オースティンは冷めた声で訊く。
「面目次第もございません」
ようやく白々としてきた空の下、ライラの顔色はいつになく悪い。もともと、ライラは十三歳の健康な少女にしては痩せすぎのきらいがあり、肌は抜けるように白かったが、今日は青に近かった。
「まさか、持病でもあるのか?」
「ご心配をおかけして……」
答えかけて、少女はその場にくずおれる。
「——ライラ!」
「いけません、オースティンさま」
ムリーラン宮の外で本名を口にすることを諌めつつも、少女はもはや自分の力で立ちあがることができない。
「お願いです、オースティンさま。ファンルーに助けを……」
「わかってる! 誰か!」
たまたま近くを通りかかった女官が、ファンルーを連れてきた。色素の薄い兵たちが、担架でムリーラン宮方面へ運び去る。その場に残ったファンルーが、オースティンに向き直る。
「婿殿は引き続き儀式を。お部屋へはわたくしがお供いたします」
「マーリはそんなに悪いのか? 何か持病でもあるのか? そんなに体調が悪いなら、なぜ儀式を遂行させた?」
「大切な儀式でございますので」
「ああ、そうだろうな」
「どうか気をお鎮めください。『皇女殿下』のことは他の者におまかせください。今はどうか儀式を」
「ああ、わかってる!」
アグラ宮殿がライラに危害を加えることはない。ライラは宮殿にとって有用な娘だから。それはわかっていたが、オースティンはいらだった。自分だけが、核心から遠ざけられている。核心の近くにいるのだろう彼女を、オースティンは守ることができない。オースティンに今できるのは、宮殿に求められるまま皇女婿としての責務を果たすことだけ。
ひとりサイアト宮の一室で胡座をかく。ラージャスタンが過去に支配し信奉してきたすべての神々と、戦いで失われたすべての命のために祈る。オースティンはただひとり、静かな部屋で雑念と戦わなければならなかった。これから来る留学生たちの困難。ライラの苦しみ。オースティンは精進潔斎のため断食していたので、よけい雑念が往来した。
どれくらいの時間が経過したのだろう。
それは、突然降ってきた。
——まさか、ライラは。……
自分の想像に、じわりじわりと気が昂り、頰が熱くなってきた。これは何だ? まさか、うれしいのか?
今すぐ、外にいるファンルーに問いただしたかった。しかし、口にするのはためらわれた。恐ろしくも、自分に熱をもたらす想像に、少年はめまいがした。恐ろしいはずなのに、口は笑ってしまう。
「《何を笑う? 気でも狂ったか》」
ふいに声をかけられ、オースティンはゆるんだ口もとを手で隠した。が、次の瞬間、勢いよく振り返る。
「《——はっ?》」
それは、ここにいるはずのない人物——精進潔斎の場において、当然いてはならない人物だった。その人物が使った言語は現代プリエスカ語。彼の「主人」の母国語である。
「《おまえ、は……!》」
窓のない閉ざされた小部屋に、淡い光をまとって浮かぶもの。
濃い青の髪と同じ色の瞳、それに特徴的な長い耳。
「《きさまの質問には一切答えない》」
と、彼——かつて英雄と呼ばれた男の器は、言い放つ。「《俺と来てもらう。時姫さまのもとへ》」
「《時——》」
疑問を口にする暇さえ与えられず、少年の目の前は真っ暗に反転した。
「……婿殿?」
ファンルーが扉をあけたとき、そこには皇女婿たる少年は影もかたちもなかった。
初めて触れたその手はあたたかくて、シフルは少し安堵した。
十七年前、シフルを妊娠した時姫が、まごうことなき生きた人間の女だったように。その手もまたやわらかく、あたたかい。
〈メルシフル。やっと応えてくれましたね〉
つないだ手の先に、そのひとの全身と微笑があった。
《時空の狭間》の暗黒のなかに、不自然なぐらい明るく朗らかな微笑。
細められた瞳は、森の木漏れ日のようだった——このひとがかつて住んでいた、カルムイキアの森そのもののような。
〈シビュラ……さん、ですよね?〉
シフルは頭の中で問いかけた。ここ《時空の狭間》では、声は音にならない。この場所を渡っていく力をもつ者とだけ、頭の中で意思疎通ができる。
緑の瞳とやわらかな金の髪の女は、シフルの問いかけに目をみはった。
〈オレ、エドモンドに偶然会ったことがあって。シビュラさんのこと、エドモンドはずっと探してます〉
〈——いけない〉
女はシフルの手をしっかり握ったまま、もう一方の手を少年の口の前にかざした。〈その名を口にしてはだめ〉
〈口にはしてないですけど〉
〈思うのもだめですよ〉
女はさびしげに笑った。その笑みですべて飲みこむように。見れば見るほど、あの日カルムイキアで出会った少年にそっくりで、シフルはまちがいなく彼女がそうなのだと確信した。
〈あなたは目が見えないって聞きましたけど〉
〈治していただいたの。もうすいぶん前になるけれど。『こちら』から弟の姿をのぞきみたときは、うれしかった……ずっと見たかったから〉
わたしのことはいいのよ、と言って、シビュラは暗闇のなかシフルの手を引く。そういうわけには、とシフルは言いかけたが、彼女の様子からこれ以上この話題を続けるのは危険だとわかった。
〈あなたに会いたがっているかたがいます。メルシフル〉
シビュラは振り向き、まっすぐに少年をみつめて告げた。もともとは盲目だったとは思えない挙止だった。耳の下で短く切りそろえられた波打つ金の髪が、揺れた。漆黒の《時空の狭間》で、仕草のひとつひとつが光を帯びていた。
〈オレもその人に会いたくて来ました。まさか会ってもらえるなんて思ってなかったですけど、夢であなたが呼んでいるのを見て、もしかして、って〉
シフルもつないだ手の先の女を見た。〈直接言いたいこと言えるなら、それがいちばんですから〉
〈怒っているのね、メルシフル〉
〈それはもう〉
〈それは仕方ないわ。メルシフルにしてみれば当然のこと。でも〉
女は正面に顔を戻して、歩きつづける。正面といっても、そこには何もない黒い空間がひろがっているだけだ。
〈——会ってあげてくださる?〉
女が「そこ」に踏みこんだ瞬間、足もとから階段が延びた。暗闇の中に突如現れた光り輝く階段は、螺旋を描きながら上へ上へと延びていく。と同時に、階段のそこここで小さな破裂が起こり、そこから建築が立ちあがっていく。
あっというまに、花崗岩の壮麗な城が立ち現れ、紺碧の空があたりを包んでいた。シビュラはシフルの手を引いたまま、螺旋階段を迷いなく昇っていく。やがて、肌を触れていく精霊の気配——おそらくは火——がして、シフルは結界を通過したことを知った。
「もう大丈夫」
シビュラは手を離した。「ついてきて。迷ったら大変ですよ。永遠に螺旋階段を昇りつづけることになります」
「うへー……」
シフルは頭上に延びていく螺旋階段を見上げた。その果ては空に吸いこまれて、どこに続いているのかはわからない。ここは火の結界に加え、空間を操作する結界まで張られている。
(待てよ……、空間ってことは)
「あれはラーガの結界ってことですか?」
「あなたはあのかたにそんな名前をつけたのですね。すてきな名前ね」
訊くと、シビュラはそんなことを言ってにっこりする。
(ラーガとビーチェは、精霊のなかで完全に孤立しているのかと思ったけど、そうじゃないんだな)
たしかに、時と空の元素を一切欠いた世界など、想像もつかない。時姫とラーガは、住処こそ「彼ら」とは離れているが、やはりこの世界の秩序の中に組みこまれた存在なのだろう。あんなにも自由で「広い」ひとだと思ったのに、シフルにはなんだか不思議な気がした。
(オレだってそうだ)
あのときシフルは、ひとりだけ世界から見捨てられたような、そんな絶望を味わったと思った。それなのに今この場所にいる。
「さあ、メルシフル」
「はい」
シビュラにやさしく背中を押され、シフルは彼女に先んじて進む。目の前には、頭上高くそびえる巨大な扉。壮麗な装飾が施された両扉にそっと触れると、音もなく扉が動きだす。これほど大きな扉なのに、軋むことなく滑らかに開かれた。
扉のむこうに人影はなかった。長い長い青の絨毯が続いている。左右で客を迎える者もなく、がらんどうの城は広大にして豪奢だった。
絨毯の先に、ようやく人影がひとつ。
「あのかたです」
「はい」
まだ玉座は遠かった。シフルは思わず駆けだした。ここは人間社会の影にして、人間社会とは似て非なる場所。少年はここではルールに縛られない。シビュラが、あ、と小さく声をあげたが、少年を咎めなかった。
——自分の運命が反転したあの日から。
シフルはまっすぐに、長い長い絨毯の上を走っていく。
(会って、もし会えたら、絶対文句を言ってやろうって。でも、どこかで現実味がなくて、無力感だけがあったけど)
今、ラージャスタンに来て、現実にその人にまみえることができるのなら——やはりこれも、運命なのだと。
少年は、玉座の前に立つ。
「やっと会えたな。精霊王」
〈シフルが精霊王に連れていかれた〉
真っ暗闇の空間のなかで、直接頭に響いてきた言葉は、にわかには信じがたいものだった。
〈きさまは人質だ。精霊王がシフルを解放するまで、時姫さまのもとにいてもらう〉
〈人質?〉
シフルに憑く妖精が言うことは、信じがたいだけでなく、オースティンにはさっぱり要領を得なかった。〈僕が精霊王の人質? なぜシフルが精霊王に連れていかれなければならない?〉
〈きさまの質問には一切答えないと言ったはずだ〉
〈事情がわからないんだが〉
〈わかる必要はない〉
相変わらず妖精はとりつく島がない。どんなに頭の中でわめいても、妖精は応じなかった。
(時姫のもとに連れていくと。たしかにそう言った)
オースティンはひとりごちる。(シフルがどうでも、精霊王がどうでも、重要なことはそれだけだ。……それにしても)
オースティンは自分の手をしげしげと見やった。自分の手は、妖精によってしっかと握られている。妖精の肉体はオースティンの先祖、英雄クレイガーンのもの。つまりオースティンは、五百年前の先祖とこの手で結ばれているということになる。オースティンが長年恨みつらみの対象にしてきた、あの先祖と。
ふ、と少年は笑ってしまう。トゥルカーナにいたころ、自分はすべてをあきらめていた。英雄を恨むこと以外は。それが今、英雄と手をつないでいるとは。あのころの自分には想像もできなかった。つい先刻サイアト宮の部屋でひとり座っていたときさえ、一瞬あとにこんなことになっているとは想像もしなかった。
(自分の人生をすっかりわかったつもりで、わかっていなかった)
ただ、それを運んでくるのがシフルだということは、わかっていた。そこだけは自分を褒めてもいいだろう。ひとりほくそ笑むオースティンを、ラーガと呼ばれる妖精は振り返ったが、無表情のまま、これといって何も言わなかった。ややあって、あいたほうの手を空間に一閃させると、そこから森の景色が飛びだした。
オースティンは、はっと息をのんだ。オースティンはこの森を知っている。この明るい森を。自分が今いるラージャスタンの暗い常緑樹の森と、心の中で何度引きくらべたことだろう。
「時姫はトゥルカーナにいるのか」
少年は問いかける。常よりも静かな森に、少年の声が凛と響いた。
「そうだ」
ラーガは即答した。
(帰って、きた)
あれほど懐かしく思いだした故郷が、今、唐突に目の前にある。オースティンはその事実を受けとめかねた。《禁じられた第六の元素》である空の存在はもともと知っていて、シフルとともにすでにその力を経験済だったが、自分自身が馬車で何日もかけた道のりを実際に一瞬で飛び越えてみて、初めて心から実感した。目の前の妖精は、その「外皮」とはちがう「内容」をもっているということを。
思わず、握られていた手を抜こうとしたが、妖精は許さなかった。力強くオースティンの手を引いたまま、トゥルカーナの森を進んでいく。森のむこうに、煉瓦造りの小さな家が見えてきた。ばらが咲き乱れる小さな庭を通り、ラーガは玄関扉を開ける。オースティンを屋内に追いやって扉を閉め、ようやく手を離した。
「ここは俺の結界の中にある。用がすむまでは出られない」
「だろうな」
オースティンは平静を装って、廊下を先に進んだ。妖精はすいと少年の頭上を飛び越え、奥の扉をノックする。
「ただいま戻りました」
「ご苦労さま」
女にしては低い声が、部屋の中から投げかけられる。「さて……、これも一種の感動のご対面というべきか」
大きな天窓の下に長椅子があり、女はこちらに背を向けて座っていた。オースティンに向き直ると、背もたれに肘をつき、まじまじとみつめてくる、その瞳は明るい灰青だ。長く垂らした髪も、見覚えのある銀。
「これはこれは」
女は苦笑する。「イェンスにそっくりだな。昔に戻ったよう。初めまして、オースティン。私はあんたの遠い先祖で、シフルを産んだ母親だ」
「ああ」
「聞いてのとおり、シフルが精霊王に連れ去られたもんでね。こちらはあんたを人質にとることにした。悪いけど、しばらくここにいてもらうよ」
「それがよくわからないな」
オースティンは返した。「精霊王というと、あの火の伝説で、火の元素精霊長が仲間と倒そうとして失敗した存在だろう。そもそも伝説のような存在だと思っていた」
シフルに産みの母である時姫の話を聞いたとき、時姫が精霊王の元正妃だという話も出た。が、何しろそのときは空の器のことで頭がいっぱいで、精霊王のほうは聞き流していた。
「シフルがなぜそれに連れ去られる? 僕は精霊王にとって人質の価値があるのか? ——おまえが、」
オースティンは時姫の正面にまわりこみ、シフルにそっくりな女に迫った。
「——おまえが、クレイガーンを殺したのか? ……」
長椅子の背もたれに追いつめられた女は、一瞬きょとんとし、それから次の瞬間、声を放って笑いだす。
「いきなり踏みこむね」
「時姫さま、相手する必要はありません。納屋に入れましょう。ご命令を」
「いや、いい。ここに客が来るのはシフル以来だ。私も、たまにはおまえ以外と話をしたいと思うのさ。でもね」
時姫は、オースティンの顔を両手で押し返してきた。
「おまえの顔は、イェンスに似すぎて気色が悪い」
少し離れてくれ、と女は言い放つ。オースティンは素直に距離をとった。遠い先祖とはいえ、女に自分の顔を気持ち悪いといわれたのは初めてで、ちょっぴりプライドが傷ついた。
「まあ座りなさい。そっち」
時姫は、自分は長椅子の左側に、オースティンには右側を指し示した。少年はいわれた位置に腰を下ろす。
「こうしよう。制限時間は、シフルを王が帰すまで」
女は指を三本立てて、少年の目の前に突きつけてきた。「人質になってもらう代わりに、三つまでおまえの疑問に答える。ただし、人間が知るべきではない内容には言及しない。たとえば、これからの未来のこと」
「未来……」
オースティンはどきりとした。この女は《禁じられた第五の元素》時を司る存在。おそらく、現在も過去も未来も、すべて見通しているにちがいない。シフルたちがこれからどんな目に遭うかも、ライラとオースティンの運命も。
でも今、オースティンが訊かなければならないことは、決まっていた。
「おまえがクレイガーンを殺したのか?」
「そうだ」
女は一切躊躇しなかった。
「なぜ自分の息子を? クレイガーンは大公になる意思はあったのか?」
「彼はこのラーガの器にするために産み育てた。彼はそれを知っていたから、大公になるつもりはなかっただろう。自分を担ぐ者たちを静観していただけだ」
「は……」
「これで三つ。満足か?」
時姫は目を細めた。
何か安堵にも似た、オースティンを占めていたのはそんな心地だった。今まで思いつめていたものが、あっけなく解決した。望んだ答えが与えられた。それはたしかだ。けれど、まだ何か足りないようでもあり、本題はまだ解決していないようでもある。
言い換えると、問題はそこにはなかったということかもしれない。
——きさまの問いは、人として生きている限り、知りえないものだ。きさま自身が答えをみつけるべきことでもある。……
初めてラーガに会ったとき、いわれた言葉。それがオースティンの脳裏にこだました。
クレイガーンがトゥルカーナを見捨てたせいで、英雄の子らは今の不甲斐ない状況におかれることになった。長年そう思いつづけていた。しかしクレイガーンは、トゥルカーナを見捨てたのではなく、最初からトゥルカーナ大公として立つ気はなかった。クレイガーンが狂った精霊の病魔を払う力をもっていたがために、英雄として祀りあげられ、トゥルカーナ公国も周囲が勝手に樹立しただけのこと。あげく、クレイガーンは母親の望みのために生命を投げだした。
英雄クレイガーンとは、どこまでも犠牲者のようだ。そしてその子孫たる自分たちも、今なお犠牲者である。その脈々と続く呪いの発端となったのが、この女。
「……呪われろ」
オースティンは長椅子のへりをつかみ、絞りだすように言う。「おまえはトゥルカーナの情けない歴史の元凶だ。呪われてしまえ」
「きさま、黙って聞いていれば!」
「よせ」
時姫は妖精を静かに制した。「何しろ、全部この子の言うとおりだからな。怒るのもむりはない」
(怒り、なのか? これは)
オースティンは、目の前にいる女に暴言を吐いておきながら、それとはまるでちがう感情に自分が満たされていることに気づいていた。
いや、これは感情ですらない。
空白だ。オースティンは、長年追いつづけていた問いに答えを与えられて、自分の中の何かを失った。その穴を、反射のように出てきた暴言が、通り抜けていった。
「でもなオースティン。私は望み、それを彼は受けとめ、それはすでに五百年も前になされた。すでに終わったこと」
時姫は口の端を少しだけ持ちあげる。「私はもう人間ではない身。トゥルカーナのために何もできん。できるのは生きている人間だけ。トゥルカーナ公子であるおまえは、これからトゥルカーナの未来を変えることができるんだよ」
「おためごかしを……!」
「それも、おまえの言うとおりだ。わが子孫は、なかなか賢いな」
はは、と女は笑って、肩をすくめた。
オースティンは今さら、女が少女のような細い肩をもっていることに気づいた。改めて顔をよく見ると、よく見知った少年の、母親というより姉という年ごろにみえる。それがオースティン自身の姉のことを思いださせ、得体のしれない感覚に襲われた。
あの無限のやわらかさを、目の前のこの女も秘めている。白いやわらかさの中の虚無を。この女も、オースティンにとっては同族であり、姉もまた同族だった。
「安心してくれ」
と、女は告げた。「私はすでに呪われている。シフルも。おまえたち英雄の子と同じなんだよ」
「シフルも……? あんな、お幸せな顔で……?」
「はは! わが子の評判は他人から聞いてみるものだな」
他人ではなく子孫なのだが、とオースティンは思ったが、黙っていた。
「たしかにお幸せな子だよ、あれは。自分を捨てた女を目の前にして、何ひとつ呪いの言葉を吐かなかったのだから。それどころか、感謝したんだよ、感謝! 自分を捨てて消えた母親に」
「……思っていた以上にお幸せな性格らしいな」
シフルのことを思いだすと、不思議と平常心が戻ってきた。もはや、目の前の女が妙に小さく見えるようなことはなかった。ただ、先ほどの暴言などなかったかのようにからりと笑う若い女が、目の前にいるだけだった。
「思ったより、おまえは私に似ているのかもしれないね。シフルのほうは、見かけほどは私に似ていない。あれは意外と、父親似かな」
時姫は穏やかな表情で長椅子から立ちあがった。
「さあ、茶でも淹れよう。長くなるかもしれないからね」