第13話 その手をとって(1)
嵐がきた。——嵐が去った。
気がつけば、暗闇の中ひとりたたずんでいた。
嵐さえも、自分をおきざりにしていく。今の今までそこにあったはずの玉座はどこにもなく、支えとてなく、立ち尽くしていた。
泣きも叫びもしなかった。恐怖は感じていたものの、たとえそうだとしても身じろぎひとつしないように教えられていた。孤独を痛みだと感じないように教えこまれていた。
だから、黙ってその場所で立っていた。誰かが何かを与えてくれるのを、ひたすら待っていた。自分から行動するということを、誰にも教わらなかった。教わったことは、孤独を孤独と感じず存在しつづけること、まわりの問いかけに「諾」と答えつづけること、あとは生きるために食べて眠ること、それだけだった。
身じろぎもしないうちに、時は流れていく。その場所には、日の光も風のそよぎもなく、時を知るすべはなかったが、かすかな空腹がそれを教えてくれた。けれどそれも、耐えるよう教えられたことのひとつだった。
あるいは、自分はもう死んでいるのかもしれない、とも思う。嵐が自分たちを打ち据え、自分の命はとうに奪われたのかもしれないと。
「諾」と答えるだけで、やりとりともいえないやりとりしかなかった人々も、あのとき多くが死んでしまった。あれほど多くの人々が死んでいったのに、自分だけが安穏としていられるわけがない。人々が死に絶え、最後に自分が玉座から追い落とされる、その日はくる。
知らぬ間に追い落とされ、命を奪われ、命を奪われたことにさえ気づかなかったとしても、さほど意外ではなく、悲しくもなかった。自分にとって玉座は所与のもの、おのずから自分のものであり、だからこそ一度も自分のものだったことはなかった。
ただ、
——あなたをお守りすることができずに、先にまいります。
ひざまずき、うなだれた人の涙が、
——夢をみてしまうのです。あなたがただの子どもで、平凡な子ども時代をすごされたなら、と。
ひざまずき、笑い泣く人の涙が、
——どうか、お許しを。……
自分の足もとに滴る、その光景が、闇の中ひとり存在しつづける心を、ちりちりと焼く。
「お願いです」
闇のなか響いたのは、自分の声だった。「あなたがたは、どうか幸せに、生きのびて、生きのびてください」
この願いが叶うなら、このまま何も知らず永遠に闇の中に住むことになったとしてもかまわない。乾いた心を涙でうるおしてくれた人々が、どこか見知らぬ土地で幸せでいてくれるなら、ひきかえにどんな苦しみでも堪え抜いてみせる。
「わたしは、死んでいるのか?」
強く、問いかける。「教えてくれ、わたしは死んでいるのか? わたしのもとを去った人々は、どうしているだろうか」
——見たい。
あの人々が、幸福に笑う姿を、見たい。
闇の彼方へ、手をのばす。
——願いを叶えてくれるのは、誰?
* * *
朝もやのむこうから、ドン、ドン、と大地を突く音が響いてくる。
音とともに近づいてくるのは、同じ人数の足音だった。少年少女の列が、そろいの黒袴を着て、杖で大地を突きながら行進している。誰ひとりとして口をひらくことなく、一様にうつむく沈鬱な行列は、さながら葬列のようだった。
街ゆく人々は行列に気づくと、その場に膝をつき、頭を垂れて見送った。しかし、少年少女の列の中に人々を振り返る者はない。ひたすら、沈黙のまま進んでいく。手にした杖で、たえず大地を打ちながら。
それは、この地に眠る死者を呼び覚ますための合図だった。祝祭の時の訪れを告げる音。それは祝祭のあいだ、ひっきりなしに続く。
そう、ひっきりなしに。もちろん人力で。
(……つ、疲れた)
と、少年少女の列の中にいるシフルは思う。(というか、もう手の感覚が、ない)
シフルたち一行が地面を突きはじめたのは、ほんの一時間ほど前。儀式はまだまだ序盤である。しかし、地面を突きつづけるという不慣れな行為に、たぶんよけいな力が入ってしまっているのだろう、始めてほどなくして右手が痛みを訴えだした。まだ序盤だからと痛みを無視していたら、いつしか感覚がなくなった。
しょっぱなからこれでは先が思いやられる。が、実のところ、先を思いやる暇もない。儀式の渦中にいる限り、地面を打ちつづけなければならない。そのうえ、
「《シフルさま》」
背後から、小声でささやく少女がいる。「《今、タイミングが少しずれましたよね。まわりをよく見て合わせてください。わたしたち慈善園はアグラ宮殿の代表として、あるべき姿を体現しなければならないんですから》」
「《はいっ、すみません》!」
「《声もっと落として》」
「《はい》!」
同じ黒袴を着た少女女官、メアニー・イーリ。彼女はとっくの昔に慈善園を卒園しているのだが、今日は慣れないシフルたち留学メンバーを補佐するため、慈善園生の列に加わっていた。監視するため、といったほうが正確な気がしたが、とにかく彼女が「皇帝の尖兵」としての振るまいを「補佐して」くれるので、シフルは痛む手をさすることすら許されない。
「《ほら、またずれました。気を抜いてる時間があっちゃダメなんです。少なくとも、宮殿の外で人々の目があるあいだは。いいですか?》」
「《はい》!」
それにしても、メアニーが自分にばかり注意してくるのは何なのか。たしかに、となりにいるメイシュナーも、そのむこうにいるセージもルッツも、周囲の慈善園生と呼吸を合わせた杖さばきに余念がない。自分は生来鈍いところがあるので、問題は自分にあるのかもしれない。
しかし、だ。
「《ほらほら、勝手に杖のもちかた変えたらダメです! 儀式には一から十まで決まりがあって、そのとおり遂行しないと意味がないんです。手が痛いのは今は忘れてください。ただ突くんです。そのうち慣れて、痛みなんかどうでもよくなりますから》」
「《はい》!」
ただでさえ慣れない、おそらく慣れていても疲れる儀式だというのに、こうも一部始終見張られて細かい動きを逐一指摘されるのでは、ますます疲れる。アグラ宮殿に来てからというもの疲れることの連続だが、わけても今日はすさまじいことになりそうだ。
夜明け前、シフルたち四人を含む慈善園生は登園した。おのおのの手で縫いあげた黒袴を着こんだ園児たちは、いつも以上に沈黙を守っていた。すでに休戦記念日の儀式は始まっているからである。
園庭に整列した生徒たちに、小さな灯火が近づいてくる。灯火を掲げるのは女官ファンルー・イーリ、その背後には皇女マーリと婿オースティンがいた。黒一色の礼装で登場した皇女は、厳粛な面持ちで口をひらく。
「《ラージャスタン帝国皇帝ザーケンニ七世陛下——創り主たる炎よ、我らが皇帝を嘉したまえ——の命により、わたくしマーリ・マキナ・ラージャスタンは、皇帝陛下の名代としてあなたがた慈善園の子らに命じます。あなたがたは宮殿の僕として、この十七年めの休戦の儀礼を果たしてください》」
返事の代わりに、少年少女は杖で地面をひと突きした。そのまま、ドン、ドン、という例のリズムに移行し、滑るように休戦記念日の儀式が始まる。シフルも事前に練習した甲斐あって、タイミングを外さず杖を鳴らすことができた。皇女夫妻に見送られて慈善園を離れれば、最初の関門は終わり。あとはひたすら杖で地面を突きながら移動し、それぞれの宗教建造物で儀礼をくりかえすだけ。だけなのだが、問題はそれが早朝に始まり、翌早朝まで続くということだった。
慈善園を出た当初、シフルは意気揚々と杖を突いて歩いていた。背後に控えるメアニーも、無言で儀式を遂行していた。
宮殿の庭園群を越えて、長い廊下をすぎ、地下水路に入った。小舟に乗りこめば、杖はしばし休憩。ギッ、ギッ、と船頭が操る櫂の音とともに、小舟は水の上を滑っていく。
この水路は、最初にアグラ宮殿入りしたときに通ったのと同じ水路だ。ほどなく小舟に乗る全員で手をつなぐよう指示が出て、火の結界を通過した。
結界を過ぎれば、すぐに宮殿の外である。小舟の一群が、悠久なるジャムナ川へと滑り出た。
(——あ)
シフルは、少し白みはじめた空を振り仰ぐ。(外、だ)
宮殿の外に出るのは久しぶりな気がして、指折り確かめる。数えてみれば、久々といっても一か月程度だった。プリエスカではいつも試験に追われていたせいで瞬きの間だった一か月が、ラージャスタンでは一年ぐらいはたったかのように感じられる。
何もかもが目新しいことばかり、慣れないことばかりの濃密な一か月。あの日、はしゃぎながらジャムナ川を渡ってきた自分と、今また出ていく自分は、まるで別人のようだ。
昇級試験と勉強をくりかえす理学院生の生活から、皇帝の尖兵になるための訓練を積む慈善園生としての生活、皇帝の賓客として皇女夫妻の近くで暮らす生活へ。
(儀式を終えてまた宮殿に戻ったら、オレたちはまた何か変わっているんだろうか)
——オレたちが変わっていくのか、それとも、……。
何もかもが動いていく。変わっていく。自分で意識しても、しなくても。きっと、変わっていった先に、なんらかの答えが待っている。
それなら自分は、変わっていくほうを選ぶ。
小舟を降りれば、ふたたび杖の出番である。あとは宗教儀礼の時間を除いて、たえず地面を叩きつづけなければならない。移動は最初の舟以外すべて徒歩であり、慣れないシフルたちは脚力をも試されることになる。
宮殿を離れ、ファテープル市内の森の街道をホラーシュ地区にむかって行進する。宮殿の周囲は、皇都ファテープル市内とはいっても、広大な常緑樹の森に包まれており、薄暗い森を行く時間は見飽きるまでつづいた。おまけに、舗装路を杖で叩きつづけるのは手首の骨に響き、関節をおかしくしそうだった。
(馬車に乗ってきたときは、あっというまだったのに)
シフルは早くも疲労に喘ぐ。(あれは熊を振り切れるぐらい速かったもんなあ。こんな集団で、じりじり一定のリズムで地面叩きながらじゃ、どんだけ時間かかるんだ?)
常緑樹の合間から見る空は、完全に白くなっていた。今は雨季の真っただ中、ラージャスタンの暦では《雲の月》と呼ばれるだけあって、まごうことなき曇り空である。この時期の《ホラーシュ詣》は、雨に降られなければかなりの幸運だと、タマラが言っていた。
(このうえ雨まで降られたら! うわー……)
シフルは祈るような気持ちで曇り空を見上げた。その拍子に、杖を突くタイミングがまわりとずれてしまい、この日最初のメアニーの小言を受けるはめになった。その後シフルは、儀式に参加しているあいだじゅう、つまりほぼ丸一日にわたって小言を浴びつづけることになる。
シフルたち慈善園一行がホラーシュ地区に到着したのは、正午に近い時間帯だった。もっとも、曇り空は変わり映えしなかったので、からだの疲れが現在時刻の目安だった。早朝に起床して以来、飲まず食わずで何キロも歩いてきたのだ。もちろん杖も突きっぱなしで。
ホラーシュ地区——「正規に」訪れるのは初めての場所。けれど密かに一度訪れている場所だ。しかしその感慨もわずかになってしまうほど、すでにシフルはくたびれていた。
見覚えのある寂れた街並と、行き交う黒袴の人々。特別な祭りの日だけに、あのときシフルが見た光景よりも人口が多い。そんな地区の様子を視界の端に入れつつ、いまシフルの頭を占めるのはただひとつ。
(……腹へった)
食べ盛りの重大事である。自分自身も予断を許さないが、食いしん坊で空腹だと機嫌が悪いメイシュナーのほうは、もはや振り返れない。誰もが無言で、杖と足音だけが響く空間では、腹の音はかなり激しい自己主張となる。明らかに響き渡っているのにメアニーが何も言わないのは、生理現象だからか、はたまたシフルしか監視する気がないからか。
幸い、ホラーシュ地区に入ってすぐ、慈善園生の列は広場に建てられた天幕内へと導かれていった。全員が巨大な天幕の中におさまったあと、入り口はぴったりと閉められた。
「《休憩です。楽にしてけっこうですよ。少しなら声も出してよろしい》」
タマラがそう号令するが早いか、シフル、メイシュナー、ルッツの三人は崩れ落ちる。シフルは空腹と疲労のあまり、メイシュナーは空腹、ルッツはおそらく疲労だろう。セージひとりが余裕の体で、シフルのかたわらに腰を下ろし、黒袴の裾をさばいた。
「《きっつ》……」
「《これはなかなか》……《厳しいものがあるね》」
「《そう》?」
涼しい顔のセージが、かなりうらやましい。「《たしかに朝食抜きでこれだけ長距離の行進をするのは楽じゃないけど、実家じゃ収穫期に食事の暇がないなんて珍しくないから》」
うらやましいというべきか、農村育ちの境遇に恐れをなすべきか。そんな判断力もすでに残っておらず、シフルはとりあえずうなずいた。
メアニーが四人分の朝餉を運んできた。もらった草の包みを開くと、米を丸めたボールで、周囲の慈善園生たちがいっせいにかぶりついている。食べたことのない料理だったが、躊躇している余裕はない。シフルたちもあっというまに平らげる。包みの草の味と匂いがついていたものの、ごく淡白な味で、スープ入りの器も渡された四人はようやく人心地ついた。
正直、今日はここまでにしたい気持ちでいっぱいだったが、この行事はそんなに甘いスケジュールではない。朝餉と用足しを終えた一行は、容赦なく天幕の外に追いやられた。外には一般の巡礼者も多数いて、シフルたちは疲れなどおくびにも出さず行進を再開せざるをえなかった。
休戦記念日第一の儀礼は、ラージャスタンの古い宗教である女神信仰の儀式で、ホラーシュ地区でもっとも古い神殿で執り行われる。言い換えると、かつてホラーシュ地区はこの女神信仰のためだけの聖地だった。女神の名はアタ・ラジャ、ラージャスタン《皇帝のおわしますところ》のラージャ(皇帝)の語源と関連があるとみられているが、今となっては定かではないらしい。
シフルたちは女神アタ・ラジャを目覚めさせるべく、杖で地面を叩きながら神殿に近づいていった。神殿は今やほぼ廃墟といっても過言ではなかった。創建当時は黄金に覆われていたと伝えられる列柱は、今は半分が倒れ、朽ちるがままになっている。《ホラーシュ詣》に訪れる巡礼者の安全のため、中心を通る参道だけは整備されていた。
屋根すら現存していない祭壇の上には、廃墟の中で奇妙に鮮やかにみえる赤い花々と、羊が一匹横たわっていた。シフルたちの列はその前で停止する。
(うわ、あれって)
本で読んだことはあるが、現場に立ち会ったことはない。(ひょっとして)
内心戦々恐々としているあいだに、神官「役」の男——今は女神信者は存在しないとされる——と補佐役の園児が祭壇に近寄る。少女だけの儚げな合唱が始まり、シフルが思わず目を覆った隙に、もう羊の首は落とされてしまった。
羊の血入りの杯を、前列の園児があおる。シフルたちまでは杯はまわってこない。心底ほっとしたが、同時にこの空気の中でどういう顔をしたらいいのかわからず、仲間を見やる。メイシュナーとセージはポーカーフェイスを保ち、ルッツは「野蛮人め」という顔だ。珍しく、ルッツを見て安堵してしまった。
しかし、いつまでも残酷な儀式の余韻に浸ってはいられない。アタ・ラジャ信仰は、あくまでもラージャスタン征服史のはじまりにすぎない。女神信仰を奉ずる小国ラージャスタンは、隣国シキリを支配下においたとき、新しい信仰に出会う。信仰の変遷の歴史こそ、ラージャスタンの歴史そのもの。
だるい手を叱咤して杖を突きつつ、シキリの宗教建造物に向かう。足も重いが、これも無視。メアニーがときどき小言をとばしてくるが、これはなんとか対応。どんなに疲れていても、アグラ宮殿の代表、そして同時にプリエスカの代表として、恥ずかしくない振るまいを示さなければならない。食べたばかりの朝餉を頼みに、姿勢を正し、杖を正しく打ち鳴らす。行列と一体になって、寂れた街中を進んでいく。
シキリの聖人廟は女神神殿のそばにあるという話だったが、蓋を開けてみれば敷地が広すぎて、隣といってもえんえん歩かされた。参道を出たあと、神殿の領域を抜けるまでゆうに十五分。
聖人廟に一人ひとりが生花を捧げたあとは、チャルバグの礼拝堂へ。これは聖人廟が小規模だったおかげで、移動は三十秒ですんだ。チャルバグのあとも、小規模な宗教建造物が続いたが、パチアの小さな祭壇が通り沿いにつらなっているのを目の当たりにしたシフルは、思わず嘆息する。全十四もの祭壇すべてに、全員が一か所ずつ線香を供えなくてはならない。
線香をおくごとにひざまずくのは、新手の筋力トレーニングだった。しかも、とうの昔にシフルの筋力は活動を拒んでいる。
いつ終わるともしれない反復行動。耳と手どころか、すでに全身に沁みついてしまった、杖のリズム。足の重さにもとうの昔に慣れて、メアニーの言ったとおり、最初は気になっていた痛みも、やがてわからなくなっていた。とはいえ、感覚が失われただけで疲労も痛みも消えたわけてはないので、ときおり何かの拍子に杖か足のタイミングを外しては、メアニーに小言をいわれつづけた。
宗教儀礼も、同時にいくつもこなしていると、ひとつひとつの区別がつかなくなってくる。新参のプリエスカ人にまかせられる内容のものがないのか、留学メンバーだけで何かさせられるようなことはなく、周囲の生徒を真似していればよかった。みなが歩くときに歩き、みながひざまずいたら一緒にひざまずくか、順番にひざまずき、みなが歌えば歌う。何か自分がからくり人形もでもなったかのような感覚。
気がつけば日は暮れて、夜も更けていた。日没後にまた天幕に入って休憩する時間が与えられたが、シフルたちはもはや黙って座りこみ、黙って食事を口にしただけだった。よけいな行動をとれば、残りの儀式をやりきる前に昏倒しそうだった。セージはやはり通常運転だったが、極限状態の少年三人を前に何も言わなかった。
天幕を出ると、杖に巻くための布が配られ、タマラがそこに油を垂らしていった。
「《炎よ。わたしたちの道行きを照らして》」
というひと声は、メアニーのものだ。彼女の呼び声で、慈善園生全員の杖が一瞬にして松明に変わる——杖の先端、布を巻いた部分に火が宿った。
暗闇のホラーシュ地区を、松明の行列が行く。日中と同様、一定のリズムはやまない。ドン、ドン、と地面を打ち鳴らす音は、地区内に変わらず響いた。
しばらくは一般の巡礼者がともした松明もちらほら見受けられたが、日付が変わるころになると慈善園の列以外はほとんど絶えた。それでも、帝国の代表たる行列の足は止まらない。
もはやシフルには、今どのあたりにいるのかもまるでわからなかった。同じところをぐるぐる回りつづけているといわれても、納得しただろう。
とうとう空が白みはじめたとき、シフルはたしかに同じところをずっと回っていたわけではないのだと理解した。
ぼんやり行進していると、列の前方から、ひとつひとつ火の明かりが消えていった。そのころには足もとがかろうじて見えるようになっていたので、てっきりメアニーが火を帰したのだと思った。が、彼女を振り返ると、薄闇の中で少女はかすかに頭を振った。
シフルの松明もまた、消えた。メアニーも、ほかの三人のものも。振り返ると、後列の園児たちの松明も、順番に消えていく。誰ひとりとして、それをいぶかしむ様子はない。
ここは下級火が存在できない領域なのだ。強大な存在がこの場所を隈なく支配しており、小さな火種はひれ伏し去るほかない場所。
(そうか)
シフルはひとり、理解する。(ここ、なんだな)
——ここに、おまえはいたんだ。……
薄明の空。
その下に、シフルの身長ほどの高さのある岩陰が見えた。行列は、ドン、ドン、と杖を鳴らしつつ、岩陰に近づいていく。そして、岩を目の前にして、杖はいっせいに動きを止めた。地面を叩く音もやみ、この場所に静寂が訪れた。
少しずつ、少しずつ、朝日が昇り、岩陰に光を投げかけていく。徐々にあらわになっていく岩肌は、花崗岩だった。
岩肌に彫られた溝は、ごく短い文言だ。言語は現代プリエスカ語に似ている。
……〈エルドアのいとけなき王の心、ここに眠る〉
わあ、と最前列の生徒が泣き声をあげた。いきなりだったので、シフルはびくりとする。
「〈王よ、王よ、申しわけございません〉!」
女子生徒はプリエスカ語に似た言葉で叫んだ。少し言いまわしは異なっていたが、おそらく古い言葉だからだろう。
「〈最後までお供することが叶いませず。おひとりで、いずこにおわしますか、我らの王よ〉」
寸劇とともに、前列の生徒たちはいっせいに涙で岩肌を濡らす。
ラージャスタンが最後に征服・分割したエルドア王国は、王が世俗の支配者であり、同時に信仰対象でもあった。王家の血筋そのものがその対象だったために、それが誰であろうとどんな人物だろうと関係なく、王として生まれ落ちた者が自動的に王であり神でもあった。
ゆえに、最後のエルドア王は幼い少年であり、混乱のさなかも王城に残りつづけた彼は、最後は誰にも気づかれぬまま姿を消した——おそらく、記録に残っていないだけで、命を奪われたのだろう。
これといった宗教儀礼もなく、遺体もみつからなかったため、墓ですらない碑文の前で寸劇を行い、悲運の少年王を悼むというのが、このラージャスタンの休戦記念日のクライマックスである。
ホラーシュ地区はエルドア王国の元あった場所とはちがう。ここには遺体もなければ、碑に使われた岩に何かいわれがあるわけでもない。
けれど、
——ここに、おまえは「いる」。……
そう、今も。
——メルシフル
それでも、少年は息を呑んだ。わかっていても、怖いものは怖い。
薄明のなかで、自分を呼ぶもの。
そして、自分を招く、白い手。曖昧な光のなかで、奇妙にくっきりと、その女のものらしい手だけがよく見えていた。
——メルシフル
ひらひらと、手招いている。
「わかったよ」
シフルはうなずいた。「……オレも会いたい。会いにいくよ」
「《えっ、今なんて? というか、ブリエスカ語? というか、儀礼中に私語?》」
はっきりと声に出したシフルを、当然そばにいた少女女官は聞き咎める。
幸い、泣くわ喚くわ大騒ぎの寸劇の最中で、慈善園生で気づいた者はない。
「《……シフルさま?》」
「え? シフル?」
メアニーのつぶやきに、寸劇を見物していたセージが振り返る。
が、そこに見知った銀髪の少年の姿はなく、ただ、ひとり分の列の空白があるだけだった。