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精霊呪縛  作者: 甲斐桂
第二部 ラージャスタン・アグラ宮殿編
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第12話 祝祭前夜(2)

《鏡の庭》と呼ばれる庭園に、水音が響く。

 水に入ったのは、黒髪の少女だった。彼女は習慣上、池のほとりから思いきり助走して飛びこんだあと、ああ、しまった、ここはサイヤーラの水源じゃないんだ、と思った。この宮では、皇帝も皇女も、あの婿殿も、女官も留学仲間も、まだ眠っている。

 少女——セージ・ロズウェルは、故郷にいたとき、よく早朝の水源に勢いよく飛びこんだものだった。サイヤーラでは、どんな大音をたてても誰にも迷惑がかからない。それに、あの水源のアインたちは、むしろ喜んでセージのからだを受けとめてくれた。

 だからセージは、頭をすっきりさせたいときは早起きして水源に走り、その澄んだ冷たさを満喫したものだった。水源で育った少女にとってそれは堪えられないものがあって、悩める人はみな水源に飛びこめば解決するのにと、本気で思っていたぐらいだった。もっとも、セージがいちばん悩み苦しんでいた時期、彼女は水源から遠く離れていて、そのおかげでシフルに出会うことができたのだけれど。

 このムリーラン宮内《鏡の庭》の《鏡》たる池も、セージを拒むことはしなかった。

 が、初めて入る池のなか、

(この水、精霊がいないな)

 と、最初に感じたのはそれだった。

 セージのよく知る水に、精霊の存在は欠かせない。しかし、何重にも張られたサライの結界のためなのか、はたまたこの池が人工池だからかはわからないが、とにかく池の水の中に精霊の気配はなかった。ここにあるのはアインではなく、ただの物質としての水である。

(こういう場所もあるのか)

 学院の広場の噴水でさえ、ごく小さな精霊が棲みついていたものだ。もの足りなさを覚えつつ、セージは水をかきわけて進む。

 この池の水は、アグラ宮殿の外を流れるジャムナ川の水を汲みあげ、濾過した水だと聞いた。あの濁った川の水とは思えないほど透明で、池の端から端まで見通すことができる。自分ひとりしかいない、ぽっかりとひらかれた静寂の水底。受けとめられている、というより、放りだされた感覚に近い。

 水の温度は、温暖な土地だけあって高い。要するにぬるいのだが、サイヤーラの水とちがうからといってぜいたくは言うまい。異国に来て、与えられた部屋に広い池つきの庭があっただけでもありがたい。アグラ宮殿は、よくよくセージたち一人ひとりを調査しているとみえる。

 四人の中で、おそらく最大の「鍵」はシフルなのだろう、とセージは思う。能力や出自などを踏まえたうえで、初日の書道教師による「試み」があり、シフルに「決定」した。

(だからこその、この配置)

 水から上がったセージを、専属の女官であるツォエル・イーリが待ち受けていて、浴衣と手ぬぐいをさしだした。

「《ありがとうございます》」

 浴衣を着せてもらい、手ぬぐいを渡される。もちろんセージはここでも下着一枚で泳いでおり、《替えの下着はお部屋に準備してございます》という女官のぬかりなさだった。

 まったく、光栄なことだ。プリエスカに突如として現れて理学院をかき回していったあのラージャスタンの「蛇」が、四六時中見守ってくれるとは。

(買いかぶられたものね)

 セージは手ぬぐいで髪を拭いた。(私なんかより、ドロテーアのほうがよっぽど要注意人物でしょうに)

 それを理解したうえでこの配置にしたとすれば、いかにアグラ宮殿がシフルを「重視」しているかということがわかる。もっといえば、おそらくはシフルを留学メンバーから孤立させたがっている。セージは、若い女官たちのシフルに対する態度を、不愉快に思い起こした。

(シフルに何するつもりか知らないけど)

 セージはツォエルに視線を投げる。(私も同じ「客人」よ。遠慮はしないわ)

「《今日もメルシフル・ダナンと朝餉をとりたいと思います。これからも毎日そうするつもりですが、かまいませんか》」

「《むろん、かまいませぬ》」

 ツォエルの凄絶な微笑は見る者に何も悟らせない——女の底深さ以外は。だが、セージとて女である。男の目から見た底知れなさなら、こちらだって負けてはいない。

 セージは、初めて自分が女であることを意識して同性の前に立っていた。今までの友人や家族は、誰ひとりそんなことは感じさせなかったのに、このツォエル・イーリから匂い立つものは、セージの中の何かを揺り起こしてくる。

 同じ場所に立ってはならない。直感がセージにそう警告する。なんとかこの人物を俯瞰したい、セージはそう強く思った。この人物を見通すことは、アグラ宮殿の狙いを見通すことで、ひいてはシフルを守ること。

「《ツォエルさん、この庭は》?」

 シフルの部屋に移動しながら、セージは尋ねた。庭のことはどうでもよかったが、自分の注意をツォエルから逸らしたかった。意識過剰は視野狭窄につながる。

「《こちらは『英雄の庭』と申します。皇女殿下が造園を命じられたものです》」

「《マーリ》……《皇女殿下が》?」

 眼前にひろがるのは、あのマーリが造らせたとは思えないほど幼稚な代物だった。《英雄の庭》の名のとおり、東方風、つまりトゥルカーナ様式の特色を備えているのだが、いかにも部分的に真似たというふうで、ラージャスタン様式の特色といえる直線的な水路さえ敷かれている。まさに皇女夫妻の婚姻を象徴しているともいえるが、やりかたがストレートすぎ、どちらの特色も効果を失っていた。

 庭師か依頼人のどちらかがあまり考えずに造ったという印象で、このアグラ宮殿にそんな庭師が出入りできるはずがないから、おそらくは後者だろう。

(人はわからないものね)

 存在自体が不思議な軽やかさを内包するあのマーリから、こんな無邪気なものができあがってくるとは。けれど、その複雑さこそ人間らしさともいえる。いかにも憧れの《英雄》との結婚に浮かれているといった、年齢相応の少女らしさを、あのマーリが本当に持ち合わせているならば。

 セージはかたわらの女官を見たが、ツォエルは微笑んだだけで何も言わなかった。ちょうどシフルの部屋の前に着いた。

 女官が先んじて口上を述べようとしたとき、

「——きゃああああ!」

 中から、鋭い悲鳴があがった。鋭いといっても、明らかに少年の——シフルの声だ。セージは口上を待たず、部屋に踏みこんだ。

「《シフル、何ごと》? ——」

 少年の眠っているだろう天蓋のカーテンを、躊躇なく開け放つ。

 予想どおり、赤いベルベットの天蓋の中には、半泣きの少年その人と、女官メアニー・イーリがいた。少年は怯えた様子で天蓋の隅へ逃げ、女官が四つん這いになって追いかけているところだった。

 それだけでも朝から十分うんざりしたのだが、

「《メアニーさん、そこで何をしているんですか。客をベッドの上で追いまわすのがアグラ宮殿の流儀ですか》」

「《セージさま、ツォエルさま、おはようございます》」

 メアニーは悪びれもせず、ベッドの上に座りなおし、乱れた髪や着物を整えた。明らかにわざとで、セージはそうと理解しながらもいらだった。

「《お言葉ですけどセージさま、こうなったのはわたしのせいじゃありません。朝方、ちょっとわたしが様子を見ようとしたら、シフルさまがー》」

「《だから、寝ぼけただけですって》!」

 しなをつくるメアニーに、シフルは反論する。相手が一般的な男であれば、ありがちな弁解として一顧だにしなかったろうが、そこは彼、シフルである。

「《寝ぼけただけと彼が言っていますから。メアニーさん、まずはベッドから離れていただけますか。話はそれからです》」

「《話とは何でしょう? こうなったこと、ご説明申しあげる必要がありますか?》」

 メアニーはベッドに座ったまま、いけしゃあしゃあと言い放つ。が、セージがはっきりと立場を表明したことで、シフルの半泣き顔には安堵がひろがった。セージはその表情の変化に勇気を得て、女官につかつかと歩み寄る。首ねっこをつかむと、《乱暴はやめてください》と被害者ぶる少女女官を、さっさと上官に引き渡した。

「《さあ、お二人とも、朝餉の準備をお願いします》」

 ぱん、と手を打ち、女官たちを追いだしにかかる。メアニーはまだぶうぶう言っていたが、ツォエルが承ったので、渋面で部屋を出ていった。

 ようやく静けさが戻った部屋で、セージは、ふー、と息をつく。

「《大丈夫》? シフル」

「《またご面倒をおかけしまして》」

 苦笑いする少年に、

「《まったくだよ》」

 肩をすくめると、またも少年は半泣きになった。

「《うそうそ。でも、本当にどうしたの》? 《寝ぼけてたって》」

「《夢をみてたんだ》」

「《夢》?」

「《夢の中で、オレを呼んでるやつがいたんだ。そいつの手をとったら、メアニーの手だった》」

「《それは災難。で》?」

「《で? って》……」

 セージはベッドに腰かけて、シフルをのぞきこむ。

「《何されたの》?」

「!」

「《ねえ、何された》?」

 セージはわずかな変化も見逃すまいとばかり、少年をみつめる。が、そこまでする必要もなかった。《な、何って》とうろたえるシフルの頬が、みるみるうちに真っ赤になったからだ。そして、おそらくは無意識なのだろうが、シフルの腕が口を覆った。

 シフルがどんな目に遭ったのか、セージは正確に理解した。

(……あの女!)

 ベッドから離れ、くるりと少年に背を向ける。はらわたが煮えくり返るのを、うつむいて耐える。

 すると、

「だいたいなあ! なんでおまえ、ずっとそこにいたのに、メアニー止めてくれなかったんだよ」

 シフルが、たまりかねたように言った。「——ラーガ!」

「えっ?」

 思わぬ名前に、セージは少年に向き直る。少年は閉まっていた側のカーテンを、勢いよく開け放った。

 ベッドのむこう側で、その人は淡い光をまとい、ふわふわと浮かんでいた。朝の光のなかでも、その人が放つ光は存在感を失っていない。精霊たちのもつ、独特の光だ。

 濃い青の髪と、同じ色の眼と、尖った耳。人ならざる特徴を備えたもの、この世で唯一のスーニャの元素精霊にして妖精、ラシュトー大陸の英雄クレイガーンの肉体を受け継いだ存在——その主たるシフルによって与えられた名前は、クーヴェル・ラーガ(青い石)。

「覚えておけ、メルシフル」

 セージがこれまでに見てきたとおり、ここでも妖精はふてぶてしい態度で、シフルを見下ろしていた。「妖精は主の寝室の問題には一切関与しない。たとえ主が滅びようとも、その選択には口を出さない。なぜなら、妖精と主は対等ではないからだ。過去に俺がそうしたのを、おまえも見たはず」

「見たよ! 見たけど!」

「おまえがこれまで見てきたとおり、俺は動く。これからも変わらない」

「頼むから変わってくれよ! オレ、このままじゃアグラ宮殿で生きていけねーよ! これから毎日メアニーがいるんじゃあ……!」

「減るものでもあるまいに」

「減らなかったらいいってもんじゃねーよ!」

「《ラーガさん》」

 スーニャの元素精霊長たる妖精は、ようやく少女に気づき、ごくわずかながら目を細めてくれたようだった——あまりにもわずかだったので、セージは自分の目を疑ったのだけれど。

 やわらかな光のなか、言いあいを続行する青い妖精と少年を、セージはぽかんと見やった。



 シフルの部屋に朝餉の支度をさせると、セージはまた理由をつけて女官たちを追いだした。

 部屋に残ったのは、セージとシフル、それに妖精の三人だけである。さっそくシフルから事情を聞きだして、セージは思わずうなってしまった。

 今後、妖精は常に彼のそばにいるという。確かに、スーニャが召喚されるたびに宮殿の結界が破られるのでは、宮殿の安全対策にとって致命的だろう。だが、スーニャをいつもそばにおくというのは、シフルにとって自分の手のうちを宮殿側にさらすということに他ならず、精霊召喚士の戦闘においてあらかじめ不利な条件を負うことになる。ひいては、留学メンバー全体、さらにはプリエスカが不利な条件を負うということになるのだ。

 スーニャの元素精霊長を召喚できるということ。それは、その一事をもって、彼がラシュトー大陸でもっとも力のある精霊召喚士であることを意味する。それは、確かに現時点のプリエスカの精霊召喚学においては、揺るぎない事実だろう。けれど、ヘムダスーニャという元素や精霊王の存在が一般に知られていないことからいっても、自分たちの知る精霊召喚学が事実のすべてではないことぐらい、誰にでもわかる。つまり、誰がどれほどの力をもつかは、条件がちがえばまるでちがってくるかもしれないのだ——であれば、現在の留学メンバーがおかれた状況下では、正確な実力は把握させないに越したことはない。

 手札を明かさないこと、それもまた相手を牽制する。

(だから私は、学院ではキリィのことは伏せてたんだけど。選抜試験も、ただの召喚で乗り切ったし)

 あの事件に居合わせた者がキリィを目撃しているが、その全員がすでに理学院を退学になっている。いまキリィのことを知っている理学院関係者は、シフルひとりだった。いざというときのことを考えて、家族にも話していない。セージにとって、家族とは、守るべきものだからである。

 これは、シフルがスーニャのために留学を阻まれたことを思うと、正しい判断だったといえる。セージが難なく選抜試験を突破したのも、シフルが妨害工作を受けているとき彼女が悠然と駅に向かえたのも、学院側がセージに憑く妖精の存在に確証をもっていなかったからだろう。

 そして今また、アグラ宮殿に知られていないということが、セージを自由にしている——といっても、しょせん「最重要人物ではない」というだけで、あの《アグラ宮殿の蛇》に監視されているという点では、自由もへったくれもないのだが。

 とはいえ、そのささやかな自由が、この先何かあったときに一秒でも多く時間を与えてくれるはず。

 たった一秒が自分や大切な人を救うということも、世の中にはきっとあるはずだ。

(私が、シフルを守る)

 セージは胸の中でひとりごちた。(でも、ある程度は自分の身は自分で守ってもらわないと。シフルの部屋で一緒に寝るわけにいかないんだし)

「《ねえ、シフル》」

 スーニャの前ではプリエスカ語使用の許可が下りているという話だったが、あえてラージャ語で言う。「《これからは、もっと気をつけて。このあいだの一件もあるんだし》」

 シフルが刃物で襲われたと聞いたとき、本当に肝が冷えた。オースティンがシフルを脅したときもそうだ。書道教師に鞭で打たれそうになった一件もある。ラージャスタンに来てから、短期間のうちにそんなことばかり起こっている。

「《オレもいいかげん、思い知りました》……」

 少年は恥じ入ったようにいう。その頬は赤く染まり、暴力沙汰の話だけでないのは明らかだった。反射的に、腹のうちにどす黒い気持ちがわき起こったが、かろうじて抑える。

「……ラーガさんはきっと、『そういうこと』からシフルを守ってはくださらないんでしょうね」

 嘆息がちに、セージは青い妖精を見やった。

「当然だ」

 美しき妖精は、空中で足を組んでみせた。「俺が手出しするのは、生死がかかっているか、それに近い深刻な事態のときのみ」

「ですよね」

 予想どおりの答えに、恨む気持ちも出てこない。セージが前に彼の力を目撃したのは、選抜試験のおりと、シフルの実母・時姫ときのひめとの面会のおり、それにグレナディンを出発した日だけだ。スーニャという元素の影響力や、やろうと思えばいくらでも悪用可能な点からいっても、その判断は妥当といえる。

 頭ではそう理解していたものの、セージは正直なところ、こう言いたかった——シフルに不埒な目的で近づく人間は、誰であれ《時空の狭間》に落としてください! と。あのメアニー・イーリが時空の彼方に消えてくれたなら、どれだけ清々し、どれだけ留学生活に集中できることか。

 埒もないことを全力で念じてしまったあとで、セージはつくづくと、

スーニャが『禁じられた元素』でよかった)

 と思う。(ラーガさんの主が、優しいシフルでよかった)

 もし自分が彼の主だったら、とっくにその命令を下していたにちがいない。メアニーでもキサーラでも、きっとそうしているだろう。

 ——アマンダだったら、どうかな。

 セージは、自分で自分の想像に苦笑して、用意された朝餉の紅茶を飲み干した。

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