第11話 やわらかな檻(2)
「《だいたい、むりなんですよ!》」
露台に食卓を据えて、朝餉を給仕しながら、キサーラは言う。
「《『五星』は実質たった四人なんです。それなのに、留学生のみなさまをこのムリーラン宮に迎え入れるだなんて。これではみなさまのお世話だっておぼつかないですし、そもそも皇女殿下やムストフ・ビラーディのお世話がままならなくなるんじゃ、本末転倒じゃないですか》」
(ふーん、こんな感じの人なのか)
シフルは茶をすすりつつ、キサーラの様子を眺めていた。キサーラは、メアニーがいるとどうにも騒がしいが、初対面のときからシフルたちには丁寧だった。だからセージ同様、メアニーとだけ相性が悪いのであって、基本的には大人しくおしとやかな少女なのかと思っていたが、そうでもないらしい。
キサーラによると、現在ムリーラン宮内で生活するマキナ皇家の人々は、皇帝と第一皇女夫妻のみ。皇帝については常に専属の従僕が多数仕えており、その身辺は今までどおり怠りないが、皇女夫妻については従来《五星》で二人を担当していた。そこに留学メンバー四名が加わると、女官より主人・客人のほうが多くなってしまう。
「《『五星』というからには、五人なんですよね。『実質四人』というのは、どういう》?」
シフルが何げなく質問すると、
「《……あっ》」
キサーラは口を押さえる。
「《まったく、宮殿のやりかたは批判するわ、よけいなこと口すべらすわ、ろくなことしやしないんだから》」
メアニーが先輩風を吹かせて言った。「《そのうちおわかりになりますよ、シフルさま》」
「《申しわけありません》」
キサーラは謝る。何か知らないが、触れてはいけない話題ということらしい。
「《でも、それだけ人手不足なら、わざわざ留学生に担当の女官をつけなくてもいいのでは》?」
ルッツが、粥をかきまぜながら言う。「《俺たち学生に世話なんて必要ないでしょう。王侯貴族じゃあるまいし》」
シフルは、あっそうか! と目を輝かせた。
「《そうですよ! オレたち学生ふぜいに専用の女官の方をつけてもらうなんて申しわけないです。そんな迷惑かけるわけには》」
「《だめです》」
メアニーはぴしゃりと言った。「《お忘れになったんですか? シフルさまは昨晩、襲われたんですよ。犯人が何者かもわかっていません。しかも、武器庫から欠けた在庫は刀一本だけじゃないんです》」
「《え》……」
少年は絶句する。昨夜、犯人が落としていった刀が、宮殿内の武器庫から盗まれたものだということは、シフルも聞いている。
「《次があるってことです》」
シフルは黙った。隣で朝餉をとるルッツは、明らかに残念そうだ。むしろ積極的に襲われたいルッツにとって、専属の女官など邪魔以外の何ものでもない。
「《それに、結界のこともあります》」
メアニーはそう続けて、手の甲をさしだした。ファンルーと同じ入れ墨がある。「《『五星』のもつ印がなければ、他の宮と行き来することはできません。いずれにしたって、わたしたちの誰かと行動をともにしなければろくろく動けやしないんですよ》」
《だからあきらめてくださいね、シフルさまっ》と、最後はいつもの明るさで告げた。
そう——昨夜の襲撃事件を受けたアグラ宮殿第二の提案とは、留学メンバーの一人ひとりに《五星》の女官を専属の世話係兼護衛としてつける、というものだった。
シフルを狙った犯人が何者なのかはわかっていないが、仮にアグラ宮殿が危惧するとおり「敵国」の民に対するラージャスタン人の敵意の結果なのだとすれば、宮殿付女官がそばにいることである程度襲撃の手をゆるめられるはずだった。何しろ女官たちは同じラージャスタンの民であり、偉大なる皇帝のそば近くで奉仕する、ラージャスタンにとっては大切な人材だ。皇帝を崇拝するラージャスタンの民ならば、女官たちを危険にさらすことはしない。
(まあ、それはわかる)
シフルは嘆息した。(それはわかるけど、問題はそれじゃなくて)
——なにもオレの担当、メアニーじゃなくったっていいのに!
である。
昨日、シフルの担当がメアニーだといわれたとき、少年は思わずその場で何度も聞き返してしまった。それを伝えたファンルー自身、かなり無念そうだったものの、これでまちがいないと言った。
四人の担当の内訳はこうである。
《五星》筆頭ツォエル・イーリ——留学メンバーの紅一点、セージ・ロズウェル担当。
第二席ファンルー・イーリ——ニカ・メイシュナー担当。
第三席メアニー・イーリ——メルシフル・ダナン担当。
第五席キサーラ・イーリ——ルッツ・ドロテーア担当。
言われて思いだしたのが、以前オースティンから聞いた話だった。シフルたち留学メンバーがムリーラン宮に移されたあと、あのアグラ宮殿の《蛇》ツォエル・イーリに監視されるのはセージだろう、と彼は言ったのである。《五星》のなかでライラだけは特別な役目があるから、残り四人が一人ずつ留学メンバーにつく、とも言っていた。
ということは、別にシフルが襲撃されなくとも、《五星》女官の「護衛」なり「監視」がつくことは最初から決まっていたということになる。だとすると、アグラ宮殿は襲撃自体も知っていたのではないか、という疑念がまた頭によぎるが、堂々巡りになるのでやめておいた。
それより問題は、あのメアニーがシフルにつくということだ。まちがいなく、ラーガの件があってメアニーがつけられたのだろう。それはいいが、
(そんなことより、どっちかっつーと)
「《ああーッ!》」
少年の視線に気づくや、少女女官は叫ぶ。「《シフルさまが、熱い眼でわたしを見・て・るーッ》」
「《ちがいます》!」
「《自意識過剰です!》」
少年と、もう一人の少女女官が同時に否定し、少し遅れて、
「《いや、実際見てましたね》」
ルッツが口を挿んだ。「《俺、シフルを見てましたから》」
「《ですよねえー!》」
「ルーッツ! よけいなこと言わないでくれ!」
思わぬ裏切りに、悲鳴に近い声をあげると、
「《にらんでた、のまちがいですよ、メアニーさま》」
キサーラが冷ややかに返した。「《都合よく解釈しないでください》」
「《何よ、あんたこそ自分の都合のいいように解釈してんじゃない!》」
当然、メアニーも言われっぱなしではない。こうなっては、あとは再び阿鼻叫喚が待つのみだ。シフルは沈黙し、ルッツはにやにやしながら少年を見ている。
(どっちかっつーと、怖いメアニーよか、普段のメアニーのが困る!)
少年は騒ぎのただなかで、またため息をつく。が、もう決まったことなのだ。精霊の与えた試練だと思って、メアニーのこれからの攻撃をやりすごすしかない。
(がんばれ、オレ……!)
少年は、何度めかわからない、長い長い息を吐く。そのとき、室内から見覚えのある人物が顔を出した。
「《こちらにおいででしたか。メルシフル・ダナン殿》」
それは、たっぷりした亜麻色の髪をもつ美貌の女——選抜試験後の教授会以来の再会となった女官、ツォエル・イーリだった。「《ルッツ・ドロテーア殿も》」
《セージ・ロズウェル殿をお連れしました》と言って、《五星》第一席たる女は背後の少女を露台に導く。あの教授会で、シフルたちプリエスカ・理学院の面々に大きな衝撃を与えた《アグラ宮殿の蛇》は、いまセージの担当女官として彼女に付き添っている。
「《おはよう、シフル。ドロテーアも》」
セージはツォエルに伴われながら平然としたもので、ラージャ語で朝のあいさつをしてきた。シフルもルッツも《おはよう》と返す。メアニーとキサーラは、先ほどまで気楽な雰囲気だったのが急にかしこまり、《おはようございます》と力んでいた。セージにというより、やはりツォエルが特別なのだろう。
「セージは朝メシは? もうすませた?」
「《うん、すませてきた》」
プリエスカ語で話しかけたシフルに、セージはラージャ語で返した。
「なんでラージャ語使うのさ、ロズウェル?」
ルッツが尋ねると、
「《みなさまにお願い申しあげたき儀がございます》」
セージの代わりにツォエル・イーリが答えた。「《のちほど、メイシュナー殿も交えてお話しいたします。まずは、ロズウェル殿にお見せしたものを、みなさまにもお見せいたしましょう》」
「《こちらでございます》」
その場所に通されて、シフルは開いた口が塞がらなくなった。
そこは、むせかえるような古い本の匂いで満たされていた。それもそのはず、めったに風を通されることがない様子のその部屋は、床から天井まで古文書らしき冊子で埋め尽くされている。
天井はたいそう高く、三階か四階ぐらいの高さはあった。足場が設置されているが、下から見る限りは猫かネズミぐらいしか通れない。
しかし、それもあくまで部屋の一角。別の一角には、同じく床から天井まで羊皮紙の巻物がびっしりと断面を見せている。またある一角には、さらに古いものだろうか、石板らしきものが並ぶ棚もあった。重ねると下のほうの石板を引っぱりだすのが大変だからだろう、通常の書籍のように縦にした状態で並べて収納されていた。
古文書も巻物も石板も、さぞかしいいかげんに収められているのかと思いきや、そうでもなかった。見ていくと、おおよその成立年代らしき年号と、概要と思しき手書きの紙の札が、冊子や巻物の断面に逐一貼りつけられている。例えば《帝国暦六七年・イヴァンダ侵攻》というふうに、竹ペンらしき達筆で書かれていた。
「《ここは、われらがラージャスタンのありとあらゆる記録が集う場所》」
ツォエルが告げる。「《ムリーラン宮書庫でございます》」
「《なんか、サイアト宮の書庫とはずいぶんちがう感じですよね。蔵書の内容というか、傾向というか》……」
合流したメイシュナーが何げなく言うと、《おっしゃるとおりです》と女官は答えた。
「《すでにお聞き及びかと存じますが、サイアト宮の書庫は、ラージャスタン国内に流通する出版物を網羅しております。この書庫に収蔵されるのは、一般には流通しない、ラージャスタン史の第一級の史料というべきもの》」
話しながら、女官は古文書の一冊を書架から抜きだした。慎重な手つきで埃を払い、メイシュナーに手渡す。今にも破れかねない古文書を、メイシュナーはこわごわと開いた。背後から、シフルものぞきこむ。
この文書も、竹ペンによる手書きだった。黄ばんだ紙は、開くとあちこちが虫に食われている。例によって読みにくい装飾文字だが、なんとか読んでみると、《私はエルドア最後の王にまみえた。王は幼いながら慈悲のあふれるまなざしを私に注いでくださり、私は感動に打ち震えた》とあった。
(! エルドア?)
シフルは思わず手をのばした。だが、今は内容を確かめられる状況ではない。シフルは手を止め、メイシュナーは古文書をツォエルに返した。美貌の女官は受けとって、婉然と微笑む。
「《ここムリーラン宮にあるのは、厳重な結界の守りのなかで保存される価値のある書物といえるでしょう》」
「《まさか、この書庫も自由に閲覧できるとかいうんじゃ》?」
メイシュナーが訊く。「《こんな稀覯本を? 俺たち留学生が? 自由に出入りして見たい放題なんてこと》……」
「《もちろん、これからはこの書庫も自由に閲覧していただけます。みなさまがムリーラン宮に滞在される限りは》」
ツォエルは微笑んだ。「《そうでなければ、みなさまをご案内するわけにいきますまい》」
「《ですよね》」
はは、とメイシュナーは力ない笑いをもらした。ツォエルが古文書を書庫に戻すのを、シフルは目で追いかける。
「《さて、みなさま》」
ツォエル・イーリはおもむろに口を切った。「《先ほど申しあげた、お願いの件でございますが》」
それから留学メンバーは慈善園に登校した。
これまでであれば女官はファンルーないしメアニーかキサーラ、一人か多くても二人が付き添うぐらいだったのに、今はツォエルも入れて四人もついている。何かまちがえて王侯貴族にでもなったかのようで、ひどく居心地が悪かった。ビンガムの実家で、黒ずくめの男たちに監視されていた日々を思いだすのだ。
シフルが何げなくメアニーを振り返ろうものなら、
「《シフルさまっ》」
と、投げキスを飛ばされる。一度のみならず、二度、三度の大盤振るまいで、少年としてはあわてて目を逸らすしかない。
すると、《照れないでもいいじゃないですか、あんなことした仲なんですから》などという声が飛んできて、同時にキサーラが《メアニーさまいいかげんにしてください》といらだつわ、無言のセージから何ともいえない重圧感が漂ってくるわで、気が休まらない。
(あー、疲れる)
だが、いつまでも疲れてばかりいられない。シフルたちはこの場所に学びにやってきた。留学期間は最低一年という話だったが、万が一もっと短期間で終了する場合も、この留学生活で成果を出さなければならない。何かあるたびに動揺するのは早めに卒業し、落ちついて勉強に専念しなければ。
(平常心。そう、平常心だ)
シフルは自分に言い聞かせる。殺されかけたのが何だ。豪華な部屋が何だ。メアニーがくっついてくるのが何だ。
(オレは、やるべきことをやる。そのために、ラージャスタンに来たんだから)
何より、精霊王のことを知るために。
——精霊王の呪いを解いて、いつかきっと精霊召喚士になるために。
(公の場で読む物語に精霊王が出るぐらいだ。たぶん、あの書庫には文献がいっぱいあるはず。しかもサイアト宮の書庫より整理もされてるみたいだし、願ったり叶ったりだ)
慈善園の中庭に入ったところで、女官四名は《のちほどお迎えにあがります》と言って去っていく。
「《みなさん、おはようございます》」
「《おはようございます》」
タマラにあいさつを返しながら、シフルは自分の席に座る。そして、密かに教室中に目をはしらせて、ほっと胸をなでおろした。
欠けた生徒は、ない。
もしかしたら、風に運ばれて宙を舞ったあの刺客が、慈善園の生徒の誰かだったかもしれないと疑ったのだが、杞憂だった。昨夜の男はラーガがどこかに飛ばしてしまったので、もし年長組の誰かが犯人だったとしたら——体格的に少年でも少女でもないとはいえ、あの教授会でカウニッツに擬態していたツォエルの例もある——、まちがいなく今日、生徒がひとり足りないはずである。
もちろん、シフルは慈善園の生徒を全員把握しているわけではない。けれど、誰かがいなくなったという感じはなかった。
(よかった)
別に、慈善園の生徒たちに義理があるわけではない。けれど、仮に生徒の誰かが犯人だったとしても、生徒たちの顔ぶれが変わらないほうが安心という気がするのだから、我ながら平和ボケもここに極まれりと思う。
シフルを襲ったのが生徒の誰かだとしても、それは生徒自身による怨恨ではない。ラージャスタンの教育によって植えつけられたものだ。それでいて、ことが発覚した場合、将来アグラ宮殿で奉仕することによって生計をたてるはずだったその誰かから、食い扶持を奪ってしまう。
すでに二人をその状況に追いやったかもしれないシフルにとっては、本人のものではない憎しみゆえに狙われることより、現実に誰かが生活手段をとりあげられることのほうが恐ろしかった。
(ほんと、オレはバカだな)
ルッツにいわれるまでもない。セージやラーガや時姫にとても心配されているというのに、すでにあんな目にも遭ったというのに。
(だけど、まあ)
シフルは頭を掻いた。(しょうがないよな。ついつい、こう思っちゃうんだからさ)
自分の心に嘘はつけない。これが原因で、いつか自分は痛い目に遭うかもしれない。もしそうなったら、セージやラーガや時姫をひどく悲しませるのかもしれない。もちろん、そうならないならそれに越したことはないのだが。
けれど、恐ろしいことを想像しながら、少年はどこか呑気だった。この期に及んで、自分の命を、自分を見守る人たちの悲しみを、現実感をともなって想像することができなかった。少年は、根っから平和の時代の子供なのだった。
このときの予感は、時をおいて的中することになる。