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精霊呪縛  作者: 甲斐桂
第二部 ラージャスタン・アグラ宮殿編
86/105

第11話 やわらかな檻(1)

 夜半、激しい雨が降りはじめた。

 ラージャスタンの雨季は、時間帯に関係なく雨が降る。静かな星空が、突如として叩きつけるような雨音に満たされることも珍しくなく、この日もそんな夜だった。

 そのため、この国で生まれ育った者は誰でも、騒音のなかで安眠できる術を身につけている。この国の皇女たる娘もまた、例外ではなかった。

 それどころか、夢の世界でも自らが帝王だとでもいうように、このうえなく安らかな寝息をたてていた。夫たる少年がひとり目を覚ましている、そのかたわらで。

 オースティンがアグラ宮殿入りして、ずいぶん経つ。今ではこの国の風土にも慣れ、夜だろうと昼だろうと、はたまた晴れだろうとスコールだろうと、眠りを妨げられることはない。しかし、ときおり何かの拍子に眠りが破られることがあり、きっかけが突然降りだした雨というのはままあることだった。

 この日もオースティンは、音をたてて降りはじめたスコールによってうつつに引き戻された。

 寝床を出て、廊下に続く戸を滑らせる。《英雄の庭》と名づけられた庭園に、大粒のスコールが降り注いでいた。庭土をえぐらんばかりに降る雨のむこう、紫がかった空に、稲光がはしる。

(雷か)

 ラージャスタンの雷は初めてで、オースティンは柱に寄りかかってしばし感慨にふける。

 祖国トゥルカーナでは、雷は恋の好機だった。男は怖がる女にいいところを見せようと、女は男のまえで弱さを見せようとして、目当ての相手を追いかけまわした。オースティンや小姓のアレンも、しばしばそんな恋の鞘当てに巻きこまれたが、適当にこなしていた主とはちがい、小姓のほうはお人好しと鈍感ゆえ却って面倒になりがちだった。複数の女に追いまわされたあげく、最後は母の女官長ノーラに追い払ってもらった一件は、今でもまざまざと脳裏に浮かぶ。オースティンは思いだして、つい笑ってしまった。

 平常時しっかり者ぶっているアレンが、この手の話に巻きこまれるのは、オースティンにとって日ごろの鬱憤を晴らす好機だった。つまりアレンが面倒に巻きこまれたのは、オースティンが密かに女たちに働きかけ、状況が錯綜するように仕組んだからだが、あのときのアレンの混乱ぶりときたら、絵にでも描いておけばよかったと思う。

(やれやれ)

 戻れない過去を懐かしむ少年のまえで、スコールは降りつづける。(遠いな)

 すずめのような女たちの笑声も、乳兄弟のさまざまな表情も。再び会えると期待した日からも、すでにだいぶ経っている。

 そして今、

 ——僕は僕だ。——僕は、僕として生きたい。……

 自分自身の声が、ひどく鮮烈な響きをもって耳に残っている。

(シフル)

 同じ血をもちながら、まったくちがう境遇で育った遠い兄弟。彼の存在は、確かに自分にとって決定的な何かをもたらした。けれど。

「……オースティンさま?」

 上空に雷鳴が轟き、同時に背後から少女が声をかけてきた。

「お起こしてしまいましたか? すみません」

 少年は、《英雄の現身》にふさわしい微苦笑で、戸の内を振り返る。

「雷が恐ろしいのですか? それともまた、何かがオースティンさまを苦しめているのでしょうか」

 いつものように、皇女は真剣そのもので尋ねる。

「ご心配ばかりおかけして申しわけありません」

「いいえ、オースティンさま。わたくしきっと、ただオースティンさまの心配を『したい』だけなのですわ」

 マーリは頭を振った。「だってわたくしは、大陸でただひとり、オースティンさまのおそばでオースティンさまをお世話する権利を与えられた娘なんですもの。こんな浅ましい娘を、軽蔑なさる?」

「まさか」

 オースティンは淀みなく答える。「あなたが僕を世話する権利をもつ唯一の人なら、僕はあなたに世話される権利をもつ唯一の男ですよ。それが、喜び以外でありえましょうか」

 おわかりでないなら証拠をおみせしましょうか、僕の皇女ラージーヤ——少年は娘好みの言葉を口にしながら、うしろ手に戸を閉める。激しい雨音が、わずかに遮断された。

「……オースティンさま、わたくし、お伝えしなければならないことがありますの」

 息も届く距離で、少女はささやく。「大切なことです」

「大切な?」

 少年は妻たる娘にいっそう近づく。「今こうしていることよりも?」

「ええ」

 少女は、少年を弱々しく押し返す。「当ててくださいませ。当ててくださらないなら、わたくしまた眠ってしまいます」

「それは大問題」

 少年と少女はくすくすと笑う。当然、かまわず手をのばし——けれど雨音のなかをやってくるかすかな足音に、オースティンは手を引いた。

「皇女殿下。ムストフ・ビラーディ(婿殿)・オースティン」

《五星》第二席、ファンルー・イーリの声だった。「お休み中、申しわけございません」

 少年少女はすばやく身を起こし、身なりを整える。

「お入り」

「失礼いたします」

 女官は部屋に入り、膝をつく。雨音が近くなり、戸が閉まるとまた遠ざかった。

「ご報告申しあげます」

「何ごとだ」

 少年が問うと、

「ブリエスカからの留学生のおひとり——メルシフル・ダナンさまが、先ほどいずこかの刺客に襲撃されました」

「!」

 オースティンは思わず立ちあがった。「——何?」

「刺客の出自はわかっておりません。メルシフルさまご自身がその者を始末されましたので、現場で得物がみつかった以外は何ひとつ痕跡がございません。得物は刀ですが、宮殿の衛兵が使用しているものと同じ品でした。武器庫を確認させましたが、盗難の可能性が高いようです」

「要するに何もわかっていないということか。シフルにけがは?」

「ご無事です」

「そうか……」

 オースティンはほっと息をつく。考えてみれば、シフルには他でもないくうの元素精霊長がついている。誰に襲撃されようとも、心配は無用だろう。しかし、そうなると下手人がなぜシフルを狙ったのかがわからない。アグラ宮殿に侵入するだけの能力がありながら、当の標的の能力も把握せずに返り討ちにされるとは。

(あるいは)

 オースティンはひとりごちる。(殺すのが目的ではない、ということか)

 少年はファンルーを見た。彼の視線を受けても、ファンルーの表情は変わらない。

 ——追及するな、と? ……

 けれど、自分のなかに何か逸る気持ちがあった。この女を問いたださなければならない。表情を殺すような態度のなかに何を隠しているのか、聞きださなければ。

(十七年めの休戦記念日に、ブリエスカの留学生を巻きこんで何をするつもりだ?)

 ——と。

 が、

「ねえファンルー、まだ何かあるの?」

 皇女が不満げに唇をとがらせる。「もう下がって。ここは夫婦の寝室なんだから」

「申しわけありません、皇女殿下。あとひとつだけご了承いただけましたら、わたくしは失礼いたします」

 少年は出かけた言葉を呑みこんだ。「このような事態になった以上、急ぎ留学生のみなさまを保護する必要がございます。予定が少々早まりましたが、お許しいただきたく」

「許すわ」

 ほら行って、となげやりに言い、追い払う仕種をする。ファンルーは顔をしかめたが、説教をくれている暇はないとみえ、身を翻して出ていった。

 室内は再び少年と少女のふたりだけになった。甘い表情を取り戻した少女は、オースティンさま、先ほどのお話ですけど——と、立ったままの少年の足に寄り添う。

 しかし、夫たる少年は立ち尽くしたまま応えなかった。初めて夫に無視された妻は、首を傾げる。それでもさっきまでの時間を取り戻そうと、しきりと話しかけたが、徒労に終わった。何があったのですか、わたくしにも共有させてください、と、くりかえし言っても、愛しい夫は何ひとつ答えてくれない。オースティンさま、本当に大切なお話なんです、と哀願してもむだだった。もの思わしげなまなざしであらぬ方向を見やったまま、少年は何も言わない。

 そのとき少女のなかで、かつて夢みていたものが壊れたのがわかった。

 与えられたと思いこんでいたものは、本当は何ひとつ自分のものではなかったのだと、少女はこの日はじめて思い知った。



  *  *  *



 突風が、吹きつけた。

 その風は、人の意思によって発生したものだった。力強いシータに運ばれて、顔を覆い隠した男が宙に舞った。

 その手には白刃。自分を殺そうとする刃が鞘から放たれ、闇のなかで弧を描く——

「——!」

 息を呑んで、少年は跳ね起きた。

 目の前に、男はいない。

 男のからだは、ラーガが《時空の狭間》のどこか、ここではない場所に飛ばしてしまった。

 シフルはその事実をくりかえし頭の中で確認し、ようやく動悸を鎮めた。

(シフル、うるさい)

 隣からそう言われた気がして、あわてて振り向き、

「ごめんルッツ、起こした……」

 声をかけて、シフルははたと気づく。

 両隣に、ルッツとメイシュナーのベッドはない。それどころか、シフルのベッドはカーテンに囲まれていた。天蓋つきなのである。カーテンの隙間から、細い光が差しこんでいる。

(? カーテン……)

 シフルはひとりごちた。(……そっか、もう客舎じゃないんだっけ)

 客舎のベッドには天蓋などなかった。アグラ宮殿に着いてからというもの、一室にベッドを三台並べ、ルッツとメイシュナーと三人で眠っていた。

 遅くまで書庫で調べものをして部屋に帰ったとき、少しでもベッドを軋ませたり足音をたてたりすると、すかさずルッツのベッドから文句が飛んできたものだが、それももう終わった話なのだ。昨夜からシフルはこの一人部屋を手に入れた。もはやルッツの安眠を妨げることはない。

 カーテンを開ける。あふれんばかりの光が、天蓋のなかにさしこんできた。

 明るい部屋だった。少年は目をこすって、ベッドから降りようとする。

「んっ?」

 普段どおり降りようとして、足の裏が床に届かないので足もとを見た。

 床が遠い。ベッドがずいぶん高いのだ。そういえば、昨夜ベッドに入るときも、入るというより乗るという感じだった。シフルは弾みをつけて飛び降り、備付けの室内履きをはいて、離れてベッドを見てみる。

 夕べはよくわかっていなかったが、まるで王侯貴族が眠るような巨大な天蓋つきベッドだ。日の光の下で見ると、自分がこれから寝起きするベッドとしてはますます異和感のある代物で、シフルは、はは、と力なく笑った。

 見渡すと、部屋はとても広い。かつてAクラス寮の部屋にも感動したが、規模がまるでちがう。

 この部屋にはベッドしかないが、ベッドひとつのために広大な空間がとられていて、あたかも大きな宝石箱のなかのひと粒のダイヤモンドといった趣き。そのダイヤモンドに眠るのは自分なのだから、見劣りすることこのうえなく、ベッドに対して申しわけない気さえする。

 おまけに、シフルに与えられたのはこれだけではなかった。勉強部屋や専用の風呂、何に使うのかわからない衣装部屋に前室までついてひと部屋なのである。

 さらには、

「はあ……」

 露台へ出る扉を開け、シフルはため息をついた。「ひっれえー……」

 どこまでも続く、縦に長い庭園。その出発点が、シフルのいる露台だった。シフルの足もとから白い水路が始まり、奥へのびている。水路のまわりは青々とした芝生だ。この庭園は、水路の白と芝生の緑から構成されるシンプルな庭だった。花は植わっていないが、庭の中心では大きな噴水が花のような軌跡を描いている。水音が心地よかった。

 庭の果てには、別の露台が見える。あの部屋は誰も使っていないという話だ。この場所は、現在あまり住人が多くないのである。

 庭園の左右は、庭と同じ長さの廊下。ここは四方を建物に囲まれた、とんでもない広さの中庭だった。

 広くとも、逃げ場のない庭園。昨夜からのシフルの住処は、そんな庭に面した部屋だった。ここはアグラ宮殿の「奥」といっていい場所、宮殿のなかでも特別な宮。シフルがラージャスタンから与えられたのは、そんな宮の一室だった。

 この宮を《ムリーラン宮》という。



 シフルが補習の帰りに何者かに襲われた一件は、メアニーによって宮殿側の知るところとなり、ことはすっかり大事になった。

「すばらしいよ」

 などと言ったのは、ルッツぐらいのものだ。「それこそ『実戦学習』。そうこなくっちゃ」

 よくできました、と言って、ルッツはにっこりと笑った。

 当然、シフルとしては微妙な気分である。ルッツが満足する基準は常にろくなものではない。そのうえ、ああ、俺も狙われたいなあ、狙ってくれないかなあ、とうっとりもするので、

「ドロテーアのような人間を、あえて狙う刺客がいるとは思えない」

 と、セージは断言した。「シフル、本当に無事でよかった。今度から、袴の補習はできるだけ私もついていくようにする。ラーガさんがいれば大丈夫なのはわかってるけど、心配だよ」

 言われて情けなさが募ったが、いつになく顔色の悪いセージを前にして、何もいえなかった。と同時に、彼女の反応から、ことの深刻さが今さらのように痛感されてくる。

 アグラ宮殿のなかで、留学メンバーが命を狙われたということ。シフルたちにとって生命の危機なのはもちろんだが、留学メンバーを預かるアグラ宮殿側にとっても大問題にちがいなかった——いうまでもなく留学メンバーの脳裏には、宮殿側の関与もよぎっていたのだけれど、少なくとも建前としてはそうだった。

「《みなさまに何かあれば、かの国に顔向けできません》」

 ファンルーはそう言った。「《こうなった以上、みなさまの安全のためにできる限りのことをさせていただくつもりです。これは、われらが皇帝陛下のご意思でもありますので、ご理解くださいますよう》」

 そうしてなされた第一の提案が、シフルたちの住居を移すことだった。

 もともと、客舎での滞在は一定期間に限定されており、そのためシフルたちは客舎入居後も荷を解かないようにといわれていた。まだ部屋の支度が整っていないという理由で、客舎で待たされていたのである。が、このような事態になった以上、細かいことを気にしてはいられない。とにかく、ドアさえない、安全もへったくれもない客舎に、これ以上留学メンバーをおいてはおけないという。

 事件のあった夜のうちに、シフルたちは荷物を携えて客舎を出た。その行き先こそ、皇帝と皇女夫妻の起居する《ムリーラン宮》であり、慈善園登校初日にシフルが迷いこみかけた、あのサライの結界の奥にある宮だった。

 シフルたちは宮殿入りした際と同様、ファンルーと手をつないで結界を通過した。途方もない長さの廊下を渡り、新しい場所、ラージャスタン滞在中ずっと寝起きすることになる宮へと、足を踏み入れた。

 ムリーラン宮には、シフルたち一人ひとりにそれはもう立派な個室が用意されていた。移動したときはすでに夜中、襲われた直後で動転していたこともあって、そのときはよくわからなかったが、本来マキナ皇家の人々が使う部屋なだけに、不相応なものであることはわかった。

 朝になって改めて見ると、ますますもって圧倒されるばかりだった。とはいえ、部屋が豪華で支障があるわけではない。むしろシフルにとっての問題は、アグラ宮殿からの第二の提案のほうだった。少年は思いだして頭を抱える。正直なところ、襲われた一件と合わせて、夢だったらいいのにと思う。

 シフルは露台から室内に戻った。そして、部屋の出入り口、前室に向かう。扉を静かに滑らせ、中をのぞいた。

 前室には、シフルの世話をする女官が常駐することになっている。見ると、「彼女」は椅子に腰かけてすやすやと寝息をたてていた。ムリーラン宮に出入りできる数少ない女官のひとりである彼女は、アグラ宮殿の全女官の頂点に立つ《五星》の紫の袴を着用し、太陽を思わせる赤い髪を二本の三つ編みにして頭の上で結っている。

《五星》第三席たる女官、メアニー・イーリ。

(……ま、そりゃそうか)

 はー、とシフルは息をつく。夢なわけがなかった。夕べ、あれほどファンルーに念を押したではないか。

 そのとき、重く閉ざされているかのように見えた彼女の両目が、ぱかっと開かれた。

「《——》」

 シフルは反射的に、扉を離して飛びすさったが、時すでに遅し。「《ああーッ! シフルさまったら、何のぞいてるんですかー?》」

「《ちがいます》!」

 言いながら、少年は扉をかたく閉ざす。「《のぞいてません。絶対のぞいてません》!」

「《照れなくてもいいですよー》」

 明るい笑声とともに扉をこじあけようとする力は、本気である。シフルはあきらめたときが一巻の終わりと思い定め、全身全霊で扉を押さえた。

「《照れてませんって》……!」

「《わたし、わかってますからっ。心配しないでいいんです、シフルさま。わたし、ぜんぜん気にしてません。シフルさまになら、何をされたって——》」

「《オレが何するってんですか》!」

 思わず声を荒げても、

「《何って、そんなこと言わせるつもりですかー? 恥ずかしいですー》」

 きゃあ、とよくわからない声をあげる。そもそも言葉の根本が通じていない感じである。どう考えてもラージャ語能力以前の問題だった。最後の砦は、唯一勝てる見込みのあるありったけの力で、この扉を守りきることだ。シフルはこのうえ返事はせず、扉を押さえる力にいっそうの力をこめた。

 扉を介して無言の争いが続いた。が、ややあって抵抗がなくなり、

「《あ、セージさま。おはようございます》」

「え、セージ?」

 つい扉を開けた。むろん、前室には、メアニーがひとりきり。今この場にいるのは、少女女官と少年のふたりだけである。

「《うっそでーす!》」

「! うわッ」

 飛びかかってきたメアニーをよけられず、シフルは彼女ごと床に倒れこんだ。後頭部を打ちつけ、少年は一瞬、意識を失う。

 気づけば、目の前にメアニーの勝ち誇った笑顔があった。

「……ん?」

 なんだか、顔が近い。さらにいうなら、重い。倒れたシフルの上に、メアニーがのしかかっている状態だ。前に理学院でアマンダに馬のりされたことがあったが、あのときこれほどの恐怖を感じただろうか。

「《どいてください》」

「《いやでーす》」

 シフルは戦慄する。「《しばらくこうしていましょうよ。ね?》」

「《ね? じゃないですよ。頼むからどいてください。朝飯食べて、慈善園行かないと》」

 少年は下敷きになったままもがいたが、やはり体格が貧しいせいだろうか、うまくいかない。シフルはいろいろな意味で焦った。こんなところをセージに見られたら、彼女の機嫌が悪くなる。

 そうしたシフルの事情を察してか、メアニーは周囲を気にしつつ、ますます顔を近づけてくる。

「《おばかさんですねえー、シフルさまは》」

「!」

「《シフルさまの朝餉、シフルさまの登校……みーんな、わたしの気持ちひとつなんですよ。お忘れになったんですか? そりゃ、シフルさまはアグラ宮殿内で最大限の自由を与えられたお客人です。でも、それも制限つきの自由なんですから。わたしの協力がなくっちゃあ、何もできないんですよ》」

「……!」

 なんたる理不尽。が、いまシフルに与えられた境遇はまさに彼女のいうとおりだという、厳然たる事実。

「……《どうしたら》」

「《えー?》」

「《どうしたら、いいですか》」

 目を伏せ、振り絞るように問うシフルに、少女女官はうれしそうに笑う。

「《さー、どうしてもらいましょうねー?》」

 シフルは自分が情けなかった。だが今、心から思う。ファンルーでもセージでもいいから、この場をなんとかしてくれたらいいのに。

「おはようシフル、朝食を一緒にとってもいいかな?」

 救いの主は、猫の眼を細めて、これまで見たことのない上機嫌でやってきた。「俺、これからはなるべくシフルの近くにいようと思ってるんだ。そうすれば、またきっと誰かがシフルを狙ってくるから、次こそ俺も」

「《シフルさま、おはようございます》」

 もう一人の少女女官は慎ましやかに登場する。「《昨夜は大丈夫でしたか? よく眠れましたか? 私、昨夜はシフルさまが心配で心配で、眠れませんでした。まさかあのメアニーさまが、シフルさまのお側付になるだなんて。私は『五星』では新参ですから、もちろん宮殿の決定に異を唱えることはしませんが、こればかりは納得しかねて》」

 遅れて二人は、足もとにいる二人の存在に気づいた。なぜか床の上に、紫の袴の少女女官と、半泣きの少年とが、絡まって倒れている。

 次の瞬間、

「《メアニーッ、さまぁ——ッ?》」

 少女女官は、絶叫した。

 絡まれている少年はうつむいて声もなく、猫の眼をもつ少年も黙っていたが、やがてぽつりと、

「そういうのはさ、うまくやりなよ」

 とだけ、言った。

 床の上の少年は脱力して切り返すこともできず、次の瞬間、少女二人の喧々囂々のやりとりが朝の静寂を破り去ったのだった。

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