第3話 才ある者たち(1)
その朝、Aクラスの学生たちは一列に並んで廊下を移動していた。
担当教諭のヤスル教授にあらかじめ釘を刺されていたため、普段はおしゃべり好きの少年たちも今日は口を閉ざしている。珍しく静けさに包まれた理学院の廊下に、大人数の靴音が厳かに響いていた。
ちょうど礼拝堂が見えてきたとき、はるか頭上で鐘が鳴った。逃げ場もないほどに隅々まで鳴り響く、畏怖すら感じさせる鐘の音は、正面に見える元素精霊教会の総本山——グレナディン大聖堂の鐘楼のものである。この鐘は週に一度の礼拝日と元旦の夜明けに鳴って、人々を礼拝堂へと招集し、また新しい年のはじまりを告げる。
シフルが大聖堂に入るのはこれが初めてだった。それまでは、この恐ろしげな鐘声を、学院内の小礼拝堂で遠く聞いていただけだ。なぜなら、大聖堂での礼拝には、元素精霊教会の幹部と王族、上級貴族しか参加できない。学生で参加できるのは、教会の幹部候補生たる召喚学部Aクラス生のみ。クラスを上がるごとに部屋の環境がよくなるのと同様、トップクラスに許された特権のひとつだった。
(うへー……)
シフルは大聖堂のファサードを見上げた。(ここに入るのか。オレが)
大聖堂はなじみの広場の一角にそびえており、その姿自体は見慣れていたのだが、入場を許されたことはない。しかし今、シフルはAクラス生の列につらなって扉をくぐろうとしている。
うしろを向くと、ペレドゥイがいっそう感慨深げに口を開けっぱなしにしていた。彼は三年もの下積みを経てAクラスに来たというから、それはそうだろう。前を歩く下積み二年のレパンズはごく平静だ。いつものように、晴れやかな空気を発散しながら列に続いている。
中に入ると、妙に天井が高かった。
教会のおしえでは、人は肉体の死を迎えたあと、それぞれの属性の精霊となって精霊界に飛んでいく。浮遊感を覚える高いヴォールト天井は、大聖堂に入ったときに人々がその際のことに思いを馳せるよう、計算されているのだ。Cクラスのころに教会建築史で習った。
(礼拝堂に来て、入信したくなるやつの気持ちがわかる)
見上げていると、このまま自分の中身が飛んでいってしまいそうな気がする。そんな空気を内包していた。途方もない豪華さ、剛健さ、天井の高さ、歴史の匂いをこれでもかと発散する古めかしさ。
シフルは、まったく上手としかいいようのない学院と教会のやりかたに感心した。彼らを利用する王家にもだ。もっとも、プリエスカはラシュトー大陸においては新興国であり、伝統ある国を滅ぼしてなり代わったのだから、生半可なやりかたでは成り立たなかったのかもしれない。
「——讃えよ」
しんと静まった聖堂に、シャリバト精霊大司教の朗々たる声が響いた。
「讃えよ——」
大司教はもう一度いった。「世界を創造せし者、世界を破壊せん者を。我らを焼き滅ぼす者、我らを潤し生かす者を。我らに力を与える者、我らを無力にする者を。……」
大司教は讃美詩篇から顔をあげた。深い皺の刻まれた、老人の顔である。一見優しげな風貌だが、大司教選挙はなまやさしいものではないという。欺き欺かれ陥れ陥れられの熾烈な争いを繰り広げ、その末に今ここで讃美詩篇を朗読しているのだと思うと、シフルには奇妙な感じがした。
ちなみに、シャリバト精霊大司教を見るのも今回が初めてである。大司教がお目見えするのは、グレナディン大聖堂での礼拝のみだ。言い換えると、グレナディン大聖堂で礼拝を取りしきることができるのは大司教ただ一人。
「我らが及ぶところを知らぬ偉大なる力、四大元素精霊。火、水、風、土……」
そこまで読みあげて、大司教は学生席に目をやった。「若人よ。かの者を讃えよ」
「はい」
大司教の呼びかけに応えて、四人の学生が席を立った。彼らは教会所属の精霊召喚士が着用するローブで全身を包んでおり、頭もすっぽりと覆われ、身長差しかわからない。一人はやけに背が高く、それよりやや低めの二人、残りの一人はさらにもう少し低い。彼らは同時に大司教の横に進み出た。横一列に並んで観客を振り返る。
ローブの陰から、顔がのぞいた。
(あれは……)
Aクラスの学生だろうとは思っていたが、意外にも知った顔ばかりである。
いちばん左に立った、背の高い一人が一歩前に出る。そして、
「火、汝は——」
と、讃美詩篇を暗誦しはじめた。
(この前の……、妙に大人っぽいやつ)
ロズウェルが名前を教えてくれた三人のうちの一人。たぶん、一人めの《エルン・カウニッツ》。
次に現れたのは、シフルの心の好敵手——ロズウェルだ。
「水、汝は、我らを潤し我らを生かす精霊。願わくば、汝が流れの永遠にあらんことを。汝なくしては、我らは滅ぶのみ」
彼女がよく通る声でそう言うと、空気がかすかに振動した。ロズウェルの周囲に青い光がちらちらと降っている。おそらく、あれは——精霊。水。シフルは目をみはる。初めて見る現象だった。
「切に、我は汝を讃えよう」
彼女が締めくくりのひと言を口にしたとき、最後の火花とばかり、青い光は勢いよく散って消えた。シフルも含め、列席者はその美しさにため息をつく。
「風よ、汝は」
続く風は三人め、《ルッツ・ドロテーア》だ。黄金の瞳だからまちがいない。彼の場合は、初夏の太陽を浴びて輝く木の葉を、細かくちぎって散らしたような——風の緑の光が、その名のとおり礼拝堂を駆け抜けていった。
最後に現れた土を讃える若人が、二人めの《ニカ・メイシュナー》である。赤毛に見覚えがあった。
驚いたことに、先日のシフルとロズウェルの最初の戦いの際、興味を抱いて最後まで見物していった三人と、他でもないロズウェルが、四人揃って《精霊を讃える若人》の役目を担っていたのだ。
(どういう偶然なんだ?)
シフルも、左右に座っているペレドゥイとレパンズも、ただただ驚くしかなかった。
礼拝後、シフルは手近なところにいた同級生を捕まえて、彼らのことを聞きだした。
「ああ、あの四人。今のAクラスの《四柱》って呼ばれてるやつだよ。あの四人が、もう半年ぐらいずっとあの地位を保ってる」
学生の話によると、《精霊を讃える若人》の役は、火水風土それぞれの属性において、もっとも高い階級の精霊を召喚する学生が務めるのだという。現在のAクラスだと、火が《エルン・カウニッツ》の四級、風が《ルッツ・ドロテーア》で三級、土が《ニカ・メイシュナー》の五級。水がロズウェルの一級。
「一級ッ? 本当に?」
シフルは信じがたさに声をあげた。
「嘘だったらいいけどね」
そのひと言に、少年は言葉を失う。シフルはまだ七級が関の山だ。Bクラスに昇級した時点で召喚実習が始まり、十級精霊を召喚したのは一か月と少し前。それなのに、ロズウェルは半年前にはすでに一級精霊を使役している。
——この差。
シフルには歯がゆくてたまらない。やっとAクラスにあがって、ロズウェルに手が届くと思ったのに、話はそう簡単ではなかった。
(追いつけるのか)
シフルは己の手に目を落とす。幾度となく指折り、精霊を呼んだ手。これからも、この手で精霊に呼びかけつづける。——オレに力を貸してくれ、と。ロズウェルに追いついて勝つために、精霊召喚士になるために、精霊と出会うために……それとも、ただ親父に反抗するためだけに?
迷いはある。でも、
——本当に私をうち負かすつもりなら、まず今の三人を追い抜くことだよ。
彼女のその言葉を思いだすと、少年のなかで燃えあがる熱があった。シフルはさしあたり、《若人》役の獲得をめざそうと決めた。それが、ロズウェルを追いかける第一歩になる。
「それにしても、すごい偶然だよな」
一限前の休み時間に、ペレドゥイがつぶやいた。「Aクラスの《四柱》が申しあわせたようにダナンに興味もつなんてさ」
「ホント、そうだよね。だけど本当に、たまたま、なのかなあ?」
レパンズが机に肘をついたまま、シフルに顔を向けてくる。
「さあ……?」
シフルは曖昧な返事をし、筆記用具を確かめながら首を傾げたものの、何か重大なことを忘れている気がした。ものすごく自信がついてしまう言葉を、誰かが言っていたような。
「そういえば」
シフルはペレドゥイの校冠を指さした。「Aクラスの校冠の青い石ってさ、何ていう石? 確か貴石の一種だったよな」
「ああ、これ」
ペレドゥイは自分の校冠から石を取り外す。「俺それ、どこかで聞いたよ。やっぱりAクラスの石だけ値段がちがうんだってさ。名前は、東言かなんかでまんま『青い石』って意味の言葉の……、クー……、なんとかって」
「あっ、それ知ってるー」
レパンズは水色の瞳をきらきらさせて、深い青をたたえた石を透かし見る。「『クーヴェル・ラーガ』! へー、これクーヴェル・ラーガなんだ、気づかなかったなあ。クーヴェルはホント高いんだよ。トゥルカーナでしか採れない石なんだって」
「ふーん」
シフルも石をまじまじとみつめる。見れば見るほど、昨日の人物と同じ色だ、と彼は思った。ヤーモット海よりも深い青、少し紫がかった青。ラシュトー大陸の北西端に位置する——プリエスカからすればはるか遠い、南東のトゥルカーナ公国でのみ採掘される貴石の色。
海風になぶられて、青い髪が揺れていた。不思議な人物が吐いた言葉は、その人自身よりもなお理解を越えていて、
——おまえが望むならば、おまえに力を貸してやる。
と、《彼》か《彼女》かは言ったのだった。シフルをまっすぐに見据えて。
「昨日、変なやつに会ってさ。そのクーヴェルと同じ色の髪と瞳で、顔はすごい美人なんだけど、声は低くて、男だか女だか——」
シフルがそう言いかけたところで、講師が教室の扉を開けた。シフルは話をやめて教壇に目を向ける。が、視界の端で、二人の表情がこわばったのを見た。
いぶかしく思いつつも、なんとか教科書に集中しようとした。が、気になって講義が耳に入らない。このまま中途半端な気分で講義を聴くよりは、話してすっきりしたほうがいいか。
そう思った矢先に、ノートの上に手紙がおかれた。意外と生真面目そうな字は、レパンズのものだ。その紙切れには、
〈それ、きっと妖精さんだよ! 三五七ページ参照のこと。アマンダ〉
と、あった。