第6話 国ふたつ(2)
「——《先生》」
セージはさっそうと手を挙げた。「《終わりました》」
教師はゆっくりと近づいてくる。故意に緩慢な動きをしているように見えて、セージはいらだった。
すでにシフルは慈善園を出ただろうから、いらついたところでどうしようもない。けれど、シフルが理性も飛ぶほどに怒ったことなど、今までなかった。まだ仲よくなかったころ、セージの言葉が原因で怒り心頭したところは見ているが、あれとは性質がちがう。
教師はセージの練習用紙をめくった。ひととおり目を通したあとで、あきらめたように、
「《よく書けているな》」
と、言った。当然である。目の前に見本帳があるのに、教師に文句をつけられるような字を書くセージではない。彼女は挑戦的な目つきで教師を見あげる。
「《次は何を?》」
「《次の時間まで休んでいてよろしい。他の者も、終わった者から提出して休憩》」
セージは教師の返事と同時に席を立ち、教室を出ていった。
(図書館って言ってたっけ)
セージはあたりを見まわした。誰か、訊く相手はいないか。それも、留学メンバーと口をきける階級の誰かでなければならない。シフルが船頭にあいさつして返事がなかったことを思うと、誰彼かまわず声をかけることはできなかった。できれば、すでに顔を知っている四人の女官——ツォエル、ファンルー、キサーラ、メアニーのいずれかが望ましいけれど、これだけの広さをもつアグラ宮殿内では、そうそうみつからないだろう。
が、セージは存外あっさりとその幸運に恵まれた。廊下のむこうに、女官キサーラ・イーリが歩いている。
「《キサーラさん》!」
セージは女官に駆け寄った。
「《セージさま。どうしました?》」
「《図書館の場所を教えてください。それか、メルシフル・ダナンを見かけませんでしたか》」
「《メルシフルさま?》」
キサーラは首を横に振った。「《いいえ。それより、授業はどうしたんです?》」
「《私は課題を終わらせました。彼は習字の先生に反発して、出ていってしまったんです》」
《ああ、習字の》とうなずいたキサーラは、妙に納得顔である。やはり、あまり評判のいい教師ではないらしい。
「《それはいけませんね》」
と、女官は続ける。「《迷わず客舎に戻るか、道を尋ねるかしていればいいんですが……。宮殿には、許しがないと入ってはいけない領域があるんです。気づかずに入れば、炎の結界にかかります》」
「! 《じゃあ、急がないと。彼は図書館に行きたがっていましたから、たぶん客舎には帰っていません》」
「《では、サイアト宮の書庫へ行ってみましょう》」
いくつもの廊下を越え、砂岩造りのサイアト宮に至った。といっても、アグラ宮殿はほとんどの宮が赤い砂岩造りで、よくよく注意してみないと見分けがつかない。セージはキサーラについていきながら、おりにふれて周囲を見渡し、道順を記憶した。いざというときのため、アグラ宮殿の全体図を把握しておく必要がある。「気づかずに入りこんでしまえる炎の結界」の位置も知りたかったが、それよりも今はシフルだ。
空の元素精霊長がついているのだから、生命の危機は回避できるはず。しかし、この広い宮殿内で迷いに迷っている可能性は否定できない。シフルには抜けているところがあり、そこがかわいらしくもあったけれど、この国では少々心配である。
「《ここです》」
キサーラは書庫の入り口にセージを導いた。
キサーラによれば、この書庫は留学メンバーを含めたすべての客人と住人に開放されており、自由な閲覧・貸出が許可されているそうだ。ラージャスタン国内で流通する出版物のうち、低俗なものを除けばほとんどがこの書庫に収蔵されるという。アグラ宮殿内にはもうひとつ書庫があり、そちらには貴重な文書も多く含まれている、とも女官は言った。
奥に進んでいくと、話し声が聞こえた。セージとキサーラは目を見合わせる。二人はわけもなく息をひそめると、足音にも注意しつつ声の出どころをめざした。そして、本棚の陰から顔をのぞかせる。
果たして、少年はそこにいた。
ひとりではない。女官のメアニーと一緒である。シフルと女官は机の片側に並んで座り、竹ペンの練習に励んでいるようだった。
(よかった。ちゃんと書庫に着いてた)
セージは胸を撫でおろしたが、それもつかの間。
「……《こうですか》?」
シフルが、竹ペンを持つ手を差しだす。かたわらのメアニーは、それを見て首をひねった。
「《うーん、シフルさま、変な癖ついてますね》」
(『シフルさま』?)
メアニーがシフルを愛称で呼んでいる。セージの胸のうちは、とたんに怪しい雲ゆきになった。
「《えーっとですね、ここがまずちがいます》」
メアニーはシフルの手に触った。シフルはぎゃッと叫んで女官から退いた。
「《ふっふっふー、こんなこと恥ずかしがってちゃ、いつまで経ってもグールーズ先生の標的ですよー》」
もっともらしいことを言いながら、メアニーの顔は愉快げである。シフルの手を撫でては、うれしげな笑みをもらしていた。明らかに彼女は、シフルの純情をからかって喜んでいる。
「……」
それをのぞきみるセージの心に、雷鳴が聞こえつつある。もちろん、メアニーの態度は自分でも覚えがあるもので、ついこのあいだも似たようなことを種に彼をからかって遊んでいたのだから、女官に対して怒りを感じる権利はセージにはないのだけれど。だが、そうした道理をよそに、かつてない不快感が彼女のなかを駆け抜けた。
なんとか理性を取り戻し、隣にいるキサーラに視線を投げると、彼女もまた不機嫌な表情になっていた。そういえば先日、彼女と微笑みあったシフルを見て、ものすごくいやな気持ちになったのである。あの予感も、どうやら杞憂ではなかったらしい。
キサーラと目が合った。一瞬、火花が散ったかと思った。が、彼女はすぐにその敵意をメアニーに向けた。セージも同様だった。続いて、メアニーの眼がセージとキサーラをとらえた。彼女は最初から笑っていたが、二人の少女を前にして、その眼がいっそう細められた。
嵐がくる!
その事実に、少年を取り巻く少女三人は気づいていて、肝心の少年だけが知らなかった。
「よーし、こうだ!」
シフルは意気ごんで竹ペンを握り、その手を女官に見せる。「《メアニーさん、これでは?》」
が、少女女官はそっぽを向いた。
「《『さん』は要りませんって、何度いったらわかるんですかー?》」
「《だ、だって、お世話になるのに!》」
「《シフルさま、わたしと同い歳じゃないですか。それに、わたしは皇帝陛下の使用人で、ひいてはシフルさまの使用人でもあるんですよー? 敬称なんかつけるのは、おかしいです》」
彼女は頬を膨らませる。「《もういいです。シフルさまが敬称つきで呼ぶ限り、わたしは何も教えませんもーん!》」
「……《メアニー》」
シフルは机に手をつき、頭を下げる。「《お願いです、教えてください》……。《オレどうしても、明日までに正しい持ちかた覚えないと》」
うなだれるシフルを前に、少女は一転、いい笑顔になった。
またしてもシフルの腕に抱きつくと、
「《——合格ですっ、シフルさま!》」
と、告げた。「《午前中ずーっと練習した甲斐ありましたね、やっと正確な持ちかたになりましたよ》」
「!」
シフルは勢いよく顔をあげた。太陽のごとき髪と瞳をもつメアニーが、少年の眼には実際問題、太陽の化身のように映った。
「《本当?》」
少年はおそるおそる聞き返す。メアニーは口角をあげた。
「《わたし、こう見えて嘘はつきません》」
「やッ……」
シフルは思いきり拳を振りあげる。「……た——ッ!」
「《やりましたねっ!》」
そう言って、今度は胴体にしがみついてきたが、さほど気にならなかった。それだけ少年の心には達成感が満ち満ちており、苦労をともにした仲間と抱きあうのは不自然なことではない。苦労自体がその仲間からもたらされたのだとしても、シフルがラージャスタンに来て最初に乗り越えた壁であることに変わりはなかった。
それにしても、この女官は本当に何なのだろう。たかがペンの持ちかた程度のこと、親切なのはありがたいけれど、いちいち自らの手で矯正してくれる。少年が身をすくませればすくませるほど喜んで矯正してくれるということは、おそらく先日のセージ同様シフルをからかっているにちがいない。そうなると、動じれば動じるほど相手が喜ぶわけだが、動じずにいられるのならそもそもからかいの対象にならないのである。シフルは幾度となく繰り返されるからかいをやりすごし、正確な竹ペンの作法を会得したのだった。
(なんでオレなんだろうなあ、標的……)
シフルは何度も竹ペンを試しつつ、内心おおいに嘆いた。セージと出会うまで、特にからかいの的だったことはない。ビンガム市立学院では、試験の成績が優秀だったことで「頭のいい人」とみなされていたふしがあり、結果的に他の学生たちと距離をおいていたし、理学院では昇級に必死だった。女顔が原因でとんでもない目には遭ったけれど、性格の問題ではない。
今になってからかいの対象になっているのは、殻が剥がれてきた、ということなのだろうか? セージやユリスと友達になってから、ずいぶんと肩の力を抜いて過ごしているふしがある。油断と、地に近い性格を表に出すこととは、ほぼ同義といっていい。そう考えると、さほど悪いことではないかもしれないが、
(だけどなー、あんまりオモチャにされるのもなー)
しかも、ほぼ初対面の女官に、である。十五年前——もうじき十六年前になるか——まで戦争していた国の中枢に奉仕する人物で、プリエスカ人のシフルにとっては緊張すべき最たる相手といえる。
「《シフルさま、すごいですー!》」
それが、このゆるみっぷりだ。メアニーはシフルの胸にぐりぐりと頬を押しつけてきた。シフルの困惑など、毛ほどもかまわない。
「《ありがとうございます、メアニー。おかげで》……」
「《そういうときは、ただ、ありがとう、ですよっ。わたし、シフルさまの下僕でもありますから!》」
「《そんなわけにはいかないです。オレ、一般人の学生ですし》。それで、あの……、《そろそろ離れませんか》……」
首まで真っ赤にして訴えても、
「《もっと一緒に喜びあいましょうよ! シフルさま》」
と、返される。
(誰か助けて……)
純情なる少年がそう思うのも、むりはなかった。
「——あ」
そのとき、幸いにしてシフルは希望を見いだした。
二人から少し離れた書架の陰、よく見知った仲間がいる。彼女の顔はひどくこわばっていて、一見して不機嫌だとわかった。
(……?)
シフルは彼女の表情に尋常ならぬ気配を感じとり、次にその原因が自分の状況にあるように思われて、とっさにメアニー・イーリを押しのけた。それから、彼女のもとに走る。
「《あッ、シフルさま》」
「——セージ!」
追いすがったメアニーを振り払い、シフルは彼女を呼ぶ。「あの、心配かけてごめん。今、メアニーに竹ペンの持ちかた教えてもらってて……、明日はちゃんと授業出るから」
なぜ、自分は弁解しているのだろう。シフルは己の言動に疑念を抱きつつも、無我夢中だった。
「それで」
と、彼女は静かに口をひらいた。「できたの?」
「うん! メアニーが丁寧に指導してくれた。《ありがとうな、メアニー》」
シフルは背後にいた少女女官に笑いかける。彼女は《いいえ》と答えたが、先ほどまでとはうってかわって、冷え冷えとした声音である。覚えず、少年の笑みまで冷えてしまった。
「そっか、よかったね」
セージはやわらかく微笑む。
「うん。これで明日、あいつに胸張っていられる」
(不機嫌……でもないかな?)
シフルはほっとした。
「ところでシフル、提案なんだけど」
おもむろに、セージは話題を換えた。「今日はもう授業に出づらいでしょ?」
「……うん」
正直いって、今日のうちに再びあの教師と対面するのはごめんこうむりたい。すると、
「一緒に休んじゃわない? 私もあの教師、気に食わないから」
と、彼女が言った。
「ええ?」
優等生のセージとは思えない提案である。シフルは目をみはった。
「さっきシフルが言ったとおりだよ」
と、セージ。
「私たちはプリエスカ人であってラージャスタン人じゃない。あの教師の要求に応える義務はない。それでも、私たちは食事にありつける、ってね。……私たちはラージャスタン留学に来てるけど、『皇宮警護』が名目の客人扱いで、最初から『皇帝の尖兵』として養育されている孤児たちとは立場がちがう」
彼女は小さく笑った。「慈善園のことは、皇帝の『勧め』にすぎない。たとえ命令であっても、私たちは皇帝の下僕じゃないんだから、従いたくないなら従わないでいい。——私は、あの不愉快な授業には二度と出たくない」
わがままかもしれないけどね、と自嘲的に付け加えて、セージはその場にいる女官二人に目をやる。彼女たちは現代プリエスカ語がわからないらしく、セージの問題発言に対し、何ら顔色を変えることもなかった。シフルは、いかに評判の芳しくない教師とはいえ、慈善園出身の女官の前でそういった話をすることにひやひやした。
「今日はともかく、明日以降は行くよ」
と、シフルは返事する。「今後、二度と出席しなかったら、逃げたまんまになる」
「そう」
セージはうなずいた。「じゃあ、今日は午後の警護の時間まで、客舎で休もうか」
「うん、オッケー」
シフルとセージは並んで歩きだす。女官二人と一緒に書庫を出た。そこで、
「《客舎までご案内します》」
親切にも女官たちがそう申しでたが、応じるセージは、
「——《けっこうです》」
と、鋭いまなざしをよみがえらせた。シフルと母国語で会話していたときとは、天と地ほどに声の高さがちがう。
(?)
少年はただ、頭の中を疑問符で埋めるしかなかった。