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精霊呪縛  作者: 甲斐桂
第二部 ラージャスタン・アグラ宮殿編
67/105

第6話 国ふたつ(1)

 アグラ宮殿フェイジャ宮では、皇帝の寵臣というべき貴族とその家族が起居している。

 多くの場合、国内で声望高い者や、急激に所領を増やした者などを、皇帝が指名して招待する。勢力を延ばしつつある貴族を身近において家族ぐるみで養うことにより、彼らを懐柔し、同時に監視するのだ。宮殿で皇帝に奉仕する慈善園出身の女官は、このとき大いに役立つ。彼女らは貴族のそばに侍って厚くもてなしながら、その手練手管で情報を引きだし、皇帝に献上する。

 しかし、フェイジャ宮の使用目的は皇帝権の強化のみではない。単純に、長期滞在の客人が寝起きするのもここである。客舎は別にあるが、基本的には一か月以内の滞在という決まりで、それ以上になるとフェイジャ宮に移される。要するに、マキナ皇家の外の人間が長期間にわたって生活を営める場所は、ここアグラ宮殿ではフェイジャ宮だけだった。

 トゥルカーナ公子オースティンの従妹で、先だって不敬罪で投獄されたカリエン・ムルーワ伯爵の妻アンジュー・ササンドも、フェイジャ宮に受け入れられた。彼女は嫁ぎ先での軟禁状態を解かれて以来、その一室に暮らしている。

 フェイジャ宮での生活は、そもそも懐柔目的であるだけに、何不自由ないものである。けれど、アンジューにとって不幸だったのは、当のオースティンの関心がすでに彼女から離れていたことだろう。公子はあれほど大騒ぎして彼女を呼び寄せたにもかかわらず、一度もその部屋を訪れなかった。

「まあ、皇女殿下——」

 ライラ——皇女マーリが部屋に踏みこむと、ウーミア侯爵夫人があわてて席を立った。ウーミア侯爵夫人は面倒見のよさで知られており、アンジューがここに移されたさい、彼女を何かと気づかうようライラが頼んでおいたのである。

「ウーミア侯爵夫人、どうかそのままで。用件はすぐにすみますわ」

 ライラは足早に、侯爵夫人ともう一人の女のもとに向かった。女は立ちあがり、腰を折る。ライラは彼女の前で足を止めた。

「アンジューさま。そろそろこちらの生活にも慣れましたか」

 ライラはやわらかく尋ねる。

「はい」

 アンジューは面をあげた。「侯爵夫人をはじめ、みなさま、とてもよくしてくださいます」

「それはようございました」

 ライラは微笑む。それを見たアンジューの表情がこわばった。彼女はきっと、いまだにオースティンを忘れておらず、ゆえに彼の妻であるマーリが憎いのだろう。ここまで悪感情をあらわにできるとは、彼女もそうとうに素直な気質であるらしい。容貌はあまり似ていないが、オースティンの血縁というのもうなずける。

「何かあれば、いつでもおっしゃってくださいませ。アンジューさま」

 と、ライラは言った。「あなたは旦那さまの大切なお客さまです。不自由をさせては、わたくしが叱られてしまいます」

「では、お願いがございます」

 アンジューは間髪入れずに返した。「オースティンさまに会わせてください」

「しばらくはむりですわ」

 ライラも即答する。「お聞き及びでしょうが、いまアグラ宮殿にはブリエスカの留学生のかたがたが滞在しています。オースティンさまはその応対に追われておられます」

「また、それですの」

 アンジューの眼が剣呑さを帯びた。「何度お願いしても、そのつど新しい原因をおつくりになるのですね」

 アンジューさま、とウーミア侯爵夫人がたしなめた。が、アンジューは止まらない。こうして、オースティンには会えないと伝えるのは、かれこれ何度めだったろう。オースティンを慕うあまり自害まで図った娘なのだから、むりからぬことではある。

 アンジューは声を荒げた。

「皇女殿下、あなたが私をオースティンさまに会わせたくないとお考えなのではないですか?」

「アンジューさま!」

「よいのです、侯爵夫人」

 ライラは侯爵夫人に頭を振ってみせる。すると、

「姫君は大した人格者でいらっしゃる」

 アンジューの眼が、ますます鋭さを増した。「そんなふうに私の無礼をお許しになって、内心ではあの人を独占していることに優越感を覚えるんだわ」

 あまりの暴言に、侯爵夫人が蒼白になる。卓におかれた肉づきのよい手はわなわなと震え、今にもアンジュー・ササンドの頬に飛びかねなかった。

 ライラは夫人の手にそっと触れ、静かなまなざしでその怒りをおさめた。それから、アンジューに目を向ける。

「あなたは宮殿の客人です。最初にお話ししたとおり、ここでの行動に制限はありません。どうぞ、一部の宮を除き、ご自由になさってください」

 一部の宮とは、むろん皇帝の住まうムリーラン宮を指す。ムリーラン宮は《翡翠の楼閣》ターズ楼の周辺のみならず、数か所秘密裏に結界が張られており、許可のない者が通過すると誰であれ灰にしてしまう。元素精霊長に近い高位のサライで、かなりの精霊使いでなければ察知することもできない。ときおり、アグラ宮殿内で新入りの女官が姿を消す事件が起こるが、あれは結界のせいである。彼らはまだ幼さの残る年齢ゆえ、あらかじめ忠告されていても好奇心に負けてしまう。

 しかし、当然、懐柔すべき貴族や皇女婿の従妹姫を灰に帰すわけにはいかない。彼らには、フェイジャ宮入りした時点で結界の存在を明かすことになっている。

「また、わたくしはオースティンさまの妻、すなわち下僕です」

 と、ライラは言った。「オースティンさまの行動を制限することなど、できはしません。オースティンさまは、わたくしの承諾なしに、いくらでもあなたに面会できるのです」

「! 嘘よ」

 アンジューは叫んだ。「オースティンさまは入り婿でしょう。皇女殿下のほうがお立場は上——」

「東の流儀は存じませんけれど」

 ライラは淡々と答え、身を翻す。「わたくしどもの伝統では、そうです」

 それでは、心安らかにお過ごしあそばして、と言い残し、ライラはアンジューの居室をあとにした。廊下をいくらか進んだとき、堪えかねたような叫びがライラの耳に届いた。彼女は今日の今日まで、どれほど期待を膨らませ、そして裏切られることになったのだろう。

 ライラは心中微笑を浮かべる。《マーリ》ならば、つい事実を伝えてしまったことを悔やむべきだったけれど、心はどうすることもできない。

 ライラには、オースティン同様、アンジューも愛おしかった。彼らの怒りと失望が糧になるのは、やはり彼ら二人が同じトゥルカーナ大公一族だからかもしれない。これが復讐だとすれば、ライラは健全である。けれどそれ以前に、彼らの負の感情のありかたそのものが、ライラには愛おしい。

 少女はフェイジャ宮を立ち去った。アンジュー・ササンドのうめきが、甘美さをもって彼女の耳朶を打った。



  *  *  *



 アグラ宮殿の片隅に、大勢の子供が住む一角があるという。

 そこは《慈善園》と呼ばれる。国立孤児院である。

 女官ファンルー・イーリの説明によれば、《慈善園》とは、ラージャスタン全土から美貌と才覚を兼ね備えた孤児を募り、「皇帝の御ために働く」人材を養成する学校だという。無事《慈善園》を卒業した暁には、《イーリ》の名を与えられるとともに、晴れて一生分の食い扶持が保証される。生涯アグラ宮殿で奉仕しつづけることを許されるのである。

「《孤児が皇帝陛下のおそばにいられるということが、どれだけ特別なことか、プリエスカのかたがたにはおわかりにならないでしょうね》」

 と、同じ《イーリ》の名をもつファンルーは語った。「《よるべなき孤児が、我らが陛下のおそばという高みに昇るのです。慈善園とは、その名のとおり、皇帝陛下の慈しみ深きお心のあらわれ》」

 留学メンバーを先導しながら、女官は陶然とする。かたわらで彼女をみつめるシフルは、端的にいって、珍獣を見物している気分だった。プリエスカでは、ついぞこのように国王に心酔する人間には出会ったことがない。たったいま女官の口にした《慈善園》が、そんな彼女を築いたのだとすれば、確かに教育の力には恐ろしいものがある。

「《さあ、見えてまいりましたよ》」

 ファンルーが袖で指し示した先の中庭に、子供があふれかえっている。

 彼らは留学メンバーに気づくと、わッと歓声をあげた。

「《——ブリエスカの精霊使いが来たぞ!》」

 一人がよく通る声で叫ぶ。

「《ようこそ、ラージャスタンへ!》」

「《ようこそ!》」

 唱和する声は、どちらかといえば高い。女子生徒のほうが数が多いのと、声変わりしていない男子生徒がかなりいるようだった。事前に聞いた話では、下は十歳前後から、上は十五、六歳前後とのことで、理学院に比べると少し年齢層が低い。

 シフルたちはあっというまに取り囲まれ、宴のとき同様、質問攻めにされた。質問の頻度、内容ともに容赦なく、ほとほと弱ったが、思ったより好意的な雰囲気に安堵もする。

「《教室にお戻りなさい。授業が始まりますよ》」

 ファンルーが手を叩いた。「《留学生のみなさまはこちらへ》」

 女官は留学メンバーを教室に案内した。中庭の何人かがあとに続く。教室には二十人分の文机が並んでおり、生徒たちは興奮冷めやらぬ様子でしゃべりつつ、自分の文机の前にあぐらをかいた。それから、あからさまな好奇の視線を異邦人たる四人に向けてきた。

 教師らしき中年の男が、ファンルーに頭を下げた。ファンルーは《これでこの教室は全員ですか》と尋ねる。

「《さようです》」

「《では》」

 ファンルーは口を切った。「《今日はみなさんに、新しい同志を紹介します》」

(ど……、『同志』?)

 シフルは目を剥いた。

 少年の異和感をよそに、生徒たちは静まりかえる。見れば、この教室に集っている生徒はシフルたちと歳が近い。おそらく年齢ごとにクラス分けをしているのだろう。男女は別々ではないらしく、男子生徒六人に女子生徒十人の計十六人が、教壇のシフルたちに注目していた。

「《聞いてのとおり、四人はブリエスカ王立理学院からの留学生です》」

 と、ファンルー。「《こちらから順に、メルシフル・ダナン、ニカ・メイシュナー、セージ・ロズウェル、ルッツ・ドロテーア。四人はいずれも理学院では特別に優秀な学生でした。我らがラージャスタンにおいても、皇帝陛下の御ため、めざましい働きをみせてくれるでしょう》」

(……?)

 後半は身に覚えのない紹介だが、何か狙いがあるのだろう。シフルは極力いぶかしげな表情にならないよう努めた。

「《それでは、あとは頼みます》」

 ファンルーは簡潔にすませて、教室を出ていく。

「《はい、ファンルーさま》」

 教師は深く低頭して女官を見送った。「《では、授業を始める。留学生四人、空いている場所に着席》」

「《はい》」

 うしろの文机が四つ空いている。シフルたちは歩きだした。

「《——駆け足》」

 背後から教師が言った。セージとルッツとメイシュナーは同時に駆けだした。

「はい?」

 シフルはひとり振り返る。一瞬、何を言われたのかわからなかった。

「《駆け足!》」

「え? あ、《はい》!」

「《ったく、理学院の優秀な学生とやらは、これしきのラージャ語も勉強していないのか?》」

 シフルもあわてて走った。すでに他の三人は机で待機している。シフルは残った席に腰を下ろすと、息をついた。初っ端から盛大な嫌味をいわれてしまった……。

「《あらかじめ言っておく》」

 と、教師は告げた。

「《ここはブリエスカではない。我らが皇帝の統べる土地、皇帝のおわしますところ、ラージャスタンである。しかも、ここは慈善園。ここで学ぶ者は、例外なく皇帝陛下の御慈悲に浴する孤児であり、将来は皇帝陛下の尖兵となる》」

 男はまなじりを鋭くし、こう付け加える。「《いいか、もう一度いう。例外は——ない》」

(……すごいことになった)

 教師の弁舌に耳を傾けながら、シフルは思う。

 アグラ宮殿でどんな生活を送るかは、プリエスカにいたころはまったくの未定だった。留学生募集のおりから「皇宮警護の任に就き、当地で実戦学習する」という話はあったけれど、あまり具体的ではなかった。何といっても、プリエスカ人学生のラージャスタン留学は前例のないことであるし、しかも留学先がどこかの学院ではなく皇宮なのである。理学院の教授陣が答えられるはずもなかった。

 ようやくはっきりしたのが、昨日の夜である。就寝前の留学メンバーのもとにファンルーがやってきて、《これからのことでございますが》と話を振ったのだ。

 女官いわく、留学メンバーには当初の予定どおり、皇宮警護の任務が与えられる。また、前々から話があったように、皇女夫妻の話し相手にもなってもらう。が、それだけでは、留学メンバーが学生としての本分を果たせず、せっかくのラージャスタン滞在もむだになろう。そこで皇帝が、留学生を《慈善園》の授業に参加させるよう提案したという。

《慈善園》はアグラ宮殿内の孤児院で、学校も兼ねている。そこにいる生徒は、孤児は孤児でも、将来的には皇帝に近侍できると見込まれただけの品格と才能とを併せもつ子供。プリエスカの名門理学院の学生の相手として不足はないはずである。慈善園の生徒は留学メンバーより年下の者も多いから、何かと教えてやってほしい、とも皇帝は言ったそうだ。

 留学メンバーに断る理由はない。宮殿の女官がすべて慈善園の出身ならば、あの「蛇のごとき」ツォエル・イーリを輩出したのも慈善園。さぞ特殊にちがいない教育方針にも興味があったし、ついでにいうとアグラ宮殿側の提案を拒否できる立場でもなかった。

 要するに、独特の空気があるだろうことはわかっていた。けれど、往々にして想像よりも現実のほうが強烈なのである。

(それにしたって)

 シフルはひとりごちる。(『同志』だの『尖兵』だの。偏ってんなー)

「《——メルシフル・ダナン! ぼやっとするな。一言一句たりとて講義を聞き逃せば、明日の食事にありつけないと思え!》」

「は……、《はい》」

 なるほど、ここは孤児院らしい。シフルは他人ごとのように納得して、文机に備えつけられた教材を引っぱりだした。

 周囲を見回すと、みな竹製のペンらしきものやインク瓶を机の上に置いている。慈善園最初の授業は、どうやら習字らしい。シフルも左右の生徒を横目で確かめ、同じ道具を机に並べた。竹ペン、黒のインク瓶、紙、見本帳。紙まで出して、残るは見本帳。山のように積み重ねた教科書を、一冊一冊あらためる。

「《今日は八十頁から九十頁まで! 各自、練習はじめ》」

 教師の指示で、生徒たちはいっせいに竹ペンを動かしはじめた。シフルは焦って隣の少年を見る。反対側にはメイシュナーがいたものの、彼は彼で見本帳を探している最中だった。セージやルッツは要領よく作業に着手していたが、少し席が離れており、教師の目が光るなかで助けを求める気にはなれない。

 隣の少年はシフルに気づくと、いったん作業を中断して自分の見本帳の表紙をめくってみせ、指で軽く叩いてくれた。青い表紙に《詩歌に親しむ》と書いてある。シフルは小声で《ありがとう》と言い、同じく見本帳探しに苦労しているメイシュナーにも教えてやった。

 八十ページを開くと、ラージャ語の詩が載っていた。宴のときの巻物にもあった、装飾文字の列である。書きかたの手順が矢印で示されており、要はそれを真似ればいいらしい。シフルは気合いを入れて竹ペンを握ると、ラージャ語文字ダールを書く。《ダール》を書き終えたあとも紙からペン先を離さず、そのまま飾りの雲を飛ばす。

(雲、雲、雲)

 念じるシフルのペン先は、無情にもあらぬ方向に流れていった。(くっ……もッ?)

「《……》」

「……」

 教師の剣呑な視線を感じる。駆け足が遅れたからといって、なぜ目をつけられねばならないのか。

「《……》」

 教師は黙って少年を見ている。次の文字を書きだせばまちがいなく何か言われるだろうが、このまま作業を進めなければそれはそれで小言が飛びそうだ。シフルは仕方なく竹ペンを握りなおし、先端をインク瓶につける。次なる文字ヤーウにとりかかった。

 ひゅっ、と何かが風を切った。

「!」

 シフルは反射的に手をどけた。

 そこに革の鞭が振り下ろされ、はでな音をたてた。シフルは青ざめる。

「なにす——」

「《皇帝陛下のお膝元であるこの場所で、聞き苦しい言葉を使うな!》」

 現代プリエスカ語で言い募った少年に、教師はもういちど鞭を振るう。シフルはとっさに腕で顔をかばった。

「——アイン!」

 セージである。彼女のひと声とともに、シフルと教師のあいだに水の膜が展開した。革の鞭は少年の代わりに水壁を打った。

 水の膜は衝撃を吸収し、あとにはかすかに波紋が立つのみである。

アイン、ありがとう」

 セージが礼をいうと、水壁は静かに消えていく。

「セージ……」

「《ずいぶん乱暴なんですね、慈善園の教師というのは》」

 彼女は席を立ち、教師に対峙した。「《理由も知らさずに鞭打つのが、慈善園流ですか?》」

 教師は息を呑んだようだった。彼女の発音は、ラージャスタン人のそれよりも正しく滑らかである。外国では身につけようがないルグワティ・ラージャ(皇帝の言語)の理想を、敵国プリエスカの少女が体現しているのだ。

「《君はセージ・ロズウェルか。……何のつもりだ、教室で精霊を呼ぶとは》」

 教師は平静を装って返した。「《君は孤児院という場所をわかっていない。孤児とは大量の資金を投入して手厚く保護されるものではないのだ。とりわけ慈善園においては、財政を圧迫されてもなお困窮する民を救われようという、皇帝陛下の慈悲深きお心が反映されている。孤児を甘やかすようにはできていない》」

「《甘やかすことと暴力とは、別の問題ではありませんか》」

 セージは反論する。「《見たところ、筆の持ちかたがまちがっていたために鞭をとりだされたようですが、どうしてブリエスカ人である彼がラージャスタンの筆を持てましょう。やりかたを教えもせずに。しかも、四人いる中で彼にだけ鞭を振るったのはなぜですか? ドロテーアもメイシュナーも、決して正しい持ちかたではない》」

 彼女自身は例によって《イミテート》を駆使し、正しい竹ペンの持ちかたを習得したとみえる。

「《何度も言わせるな!》」

 中年教師はどなった。「《ここはブリエスカではない、ラージャスタンなんだぞ!》」

「《おとぼけになるんですか?》」

 彼女は口の端をあげる。「《では、私の推測を。あなたは駆け足に遅れたという理由で、彼を標的に選んだ。彼を攻撃し、彼を含めた留学生たちの反応を見るために。そして、今後の待遇を決める指標とする》」

「《愚かな! 席に着きなさい、セージ・ロズウェル。いずれにせよ、君のことは報告せざるをえまい》」

 教室はざわついた。セージが介入するまでは、大半の生徒が涼しい顔で眺めていたが、彼女が発言するととたんに影響される。彼女のこういう性質は、異国においても発揮されるらしい。

「《静かに! 時間中に終わらなければ、昼餉は抜きだ》」

 教師がいらだった声音で注意する。セージも席に戻りはじめた。

「セージ、ごめん」

 シフルは小声で謝る。すると、

「ううん、けがしなかった?」

 彼女はさらに気づかってきた。Aクラスでもそうだったが、彼女がいるととても心強い。けれど同時に、それに甘えてしまって、自分では何もできなくなるような気がする。

(まるで姉と弟だな)

 シフルは嘆息した。そういえば、彼女は大家族の長女なのだった。彼女のすぐ下に弟が一人、その下の妹たちは双児で、さらにその下に三人の弟たち。六人もの年少者の頂点に君臨する彼女だから、シフルのことも弟のように助けるのだろう。好敵手のはずが、気づけば弟になっていたとは、なんとも情けない話である。これなら、彼女との私闘に破れて理学院を去るほうが、まだかっこうがつきそうだ。とはいっても、かっこう如何の問題で勉強しているわけではないのだが。

 気をとりなおして、竹ペンをもつ。白い練習紙には、鞭のかすめた痕がついている。鞭を磨くのに靴墨か何かを使用しているらしく、黒い曲線だった。シフルは『《詩歌に親しむ》』をにらみながら、内心ぞっとする。あの第一撃をよけていなかったら、第二撃にセージが助け舟を出さなかったら、今ごろ手の甲は見るも無惨なみみずばれ。それどころか、血が出ていたかもしれない。

(今日は革の鞭だったけど)

 ラージャ語文字ヤーウを書くシフルの気分は重い。(あれが剣だったら、手首おとされてたんだな)

 突如としておとずれた危機も、それを自分の力で回避できなかったことも、少年の心を沈ませた。中年教師も、今はシフルを見張ってはいなかったが、教室内を巡回している。それで習字の手を止めることはできず、漫然と手本を模倣しつづけてはいたものの、ちっともはかどらない。

(——ここはもう、プリエスカじゃない)

 他ならぬあの教師が言っていたことである。郷に入っては郷に従え、だ。自分でもわかっていたのに、重々承知でいながらとっさに反応できず、つけいる隙を与えた。

(油断だ)

 まだ心のどこかで、プリエスカと同じ日常が続いている、と思っている。だから、警戒すべきことを見逃してしまう。プリエスカであれば、行動が少し遅れたぐらいで体罰には結びつかないし、それ以前に無意味に走らされることもない。そうしたプリエスカの「当たり前」によって、現に自分の前にあのような教師がいること、彼が簡単に鞭も持ちだす教師だということを、意識のうえで否定しているとしたら、確かに自分は甘えているのだろう。

 ——君も、きっとよ、——ダナン君。……

 カリーナ助教授は、いい先生だった。

 プリエスカは、優しい国だった。

 あの国を懐かしく思うことなど、今までなかった。

(……しっかりしないと)

 シフルの胸のうちに、助教授の意地悪げな笑顔が浮かぶ。(先生も、オレがラージャスタンで成果あげるの楽しみにしてるって言ったんだ)

 こんなところでくじけてどうする。シフルはペンを持つ手に力をこめ、次の文字ダーを書く。

 ——ダー。

 ——ちがうよ、この場合はダハー。喉を開く感じで。……

 理学院でのことを思いだす。この《ダー》のむずかしい発音は、セージに教えてもらったものだ。

 そういえば、セージやユリスたちと友達になる前は、何でもひとりでやっていた。教室移動や食事を一緒にする友達はいたが、本来ひとりでとりかかるべき勉強に、誰かの手を借りたことはない。彼女たちと仲よくなったのをきっかけに、なぜ前々からの習慣まで変わってしまったのか、とくだん意識もしなかったけれど、考えてみればけっこうな変化である。

 いろいろなことが、楽しくなった。

 何かにつけて、隣にいる誰かを振り返るようになった。

 すなわち、誰かに依存する癖がついてしまった。

 いや、セージと知りあう前、まだ彼女がゼッツェ吹きの《彼》だと知らないころ、いつも必死で《彼》に話しかけていた。《彼》と友達になりたくて、誰もいない夕焼けのヤーモット海に声をかけつづけていた。

(本当はずっと誰かに寄りかかりたかったのかな。……で、その相手ができたら、それまで張りつめていたものがゆるんだわけか)

 だとすれば、ゆるめる場所をまちがえている。シフルは自分で自分に呆れた。ここはラージャスタン——プリエスカの永遠の仮想敵国であり、話によると、今も両国の関係は危ういという。

(気分を引きしめろ)

 シフルは己を叱咤した。

 ——常にひとりだと思え。そうすれば、油断することはないんだ。

 油断さえしなければ、何でもできる。自分の力で危険を退けることも、警戒すべき相手の行為に反応することも。ビンガム市立学院でも、セージたちと知りあう前の理学院でも、そうやってひとりで勉強してきたし、何でもひとりで処理してきた。えがたい友達との出会いを堕落とはいいたくないけれど、それを得た代わりにできなくなったことがあるとしたら、とりわけラージャスタンにおいては取り返さねばならない。でなければ、自分の身が危ういのだ。

 シフルは手習いを中断し、『《詩歌に親しむ》』の序盤のページを繰った。『《詩歌に親しむ》』は入門向けの教科書ではないようで、竹ペンの持ちかたなどの基本事項は記されていない。最初から最後まで、装飾文字の詩句の羅列である。そもそも、年長組クラスに入門向け教材が置いてあるほうがおかしいか。

「《先生》!」

 シフルは元気よく挙手した。

「《何だ》」

 教師はばつ悪げな表情で応じる。セージの指摘は多かれ少なかれ図星だったのかもしれない。

「《筆の持ちかた、教えてもらえませんか。はじめからそうしていれば、鞭を使う必要もなかったんですよね》」

「《甘えるんじゃない。わからないことがあったら自分で調べろ》」

 教師は渋面になる。

「《じゃ、今から調べにいっても? 慈善園って図書館ありますか?》」

「《……!》」

 中年教師はつかつかとシフルのところにやってくる。シフルは身構えたが、今度は鞭は振るわれなかった。「《いいかげんにしろ。授業中に調べものに行くやつがあるか!》」

「《もちろん、オレもこんな真似は初めてですけど》」

 シフルは苦笑する。「《仕方ないです》」

 シフルは乱暴に席を立った。教師はぎょっとした。

「《どこに行く!》」

「《図書館を探しに》!」

 教師がどなったので、シフルも同様に言い返す。「——《ここはブリエスカではなく、ラージャスタン。それは先生のおっしゃるとおりです。でも、はっきりいっておきますが、オレはブリエスカ人であってラージャスタン人じゃありません。あんたの要求に応える義務はない。それでも、オレたちは食事にありつける——そのことは、慈善園の人たちには申しわけなく思いますけど》」

 シフルは、自分で思うよりも怒りを感じているということに、ようやく気づいた。

「——《だけどオレは、何がどうでも、理不尽な暴力なんて大ッ嫌いだ!》」

 最後に、あんたと同じ教室で同じ空気を吸うことに、これ以上耐えられそうにない、と現代プリエスカ語で言い捨て、はでな足音とともに年長組の教室を出ていった。

 ——腹が立つ!

(あいつにも、自分にも)

 頭と顔が熱かった。こんなふうにはらわたが煮えくりかえったのは、父に法学部進学を押しつけられて軟禁されたとき以来である。あのときは、ただただ父の押しつけがましい態度が許せなくて、憤りはそのまま召喚学部への意欲と期待に変わったけれど、今はひたすら怒りがおさまらないばかりで、何かを叩き壊したいような不穏な気持ちもある。

 教室を脱出したのは、逃げといっていい。だが、耐えられそうになかったのは事実である。これ以上あの場にいたら、ルッツに食ってかかるメイシュナーになってしまう。怒りでまわりが見えなくなったあげく、精霊を召喚して教師を襲わせかねない。自制心がきかないほどの怒りならば、きっと四大精霊どころか、ラーガの名を呼ぶだろう。彼がこんな私怨めいた事情のために姿を現すかどうかは不明だが、とにかくラーガならまちがいなく殺せる。

 そう、そちらのほうがだいぶ問題だ。大人しく手習いを続けられない精神状態だったのだから、今回はこれでいい。

(セージの発言には、教師のほうが逃げ腰になった)

 彼女の、教師側の弱みをついた発言。(自分のことだけじゃだめなんだ。相手を黙らせるには、相手側の事情を汲まないと。オレのはしょせん、子供の言い分だ)

 ——もっと勉強しよう。

 と、シフルは強く思った。とりあえず、明日以降あの中年教師と対等に戦うため、竹ペンの持ちかたの練習をする。それから、誰か慈善園出身の女官に話を聞き、他の授業についても特別な準備が必要であれば、用意しておく。そういえば、ラージャスタン入り後はまだ一度も精霊召喚を試していない。時間が余った場合は、やってみるとしよう。

「さて」

 シフルは堂々とひとり言をいい、あたりを見渡した。「ここ、どこだろ?」

 怒りにまかせて、めちゃくちゃな道順で歩いてきてしまった。三六〇度周囲を眺めやっても、何ひとつ見覚えのあるものがない。現在シフルは、アグラ宮殿の大半を占める砂岩の廊下に突っ立っている。が、そもそもラージャスタン式建築は見慣れていないので区別がつかず、材質が同じだと同じ建物に見えた。確実にいえるのは、ここはアグラ宮殿で唯一見慣れている客舎付近ではない、ということだ。

 どこまでも続く砂岩の渡り廊下。いったい、この廊下はどこへ向かうのだろう。目を凝らすと、廊下の果てにやはり似たような砂岩造りの宮殿。遠目にもかなり大きい。宮殿の前には庭があるが、どうやらラージャスタン式でもプリエスカ式でもないようだった。

(まずい、迷った)

 引き返すか。それとも、先に進んで女官をみつけるか。(まあ、大丈夫だよな。城壁みたいに、結界を張るような境界線はなさそうだし……)

 シフルは足を踏みだす。

「——待て、メルシフル」

「え?」

 前触れなく現れたるは、青い妖精。

 いきなり砂岩の床から頭をのぞかせたかと思うと、みるみるうちに全身が飛びだした。そして、シフルの前に立ちはだかる。

「こっちに行くんじゃない」

「ラーガ、おまえ、何してるんだ?」

 妙にほっとして、シフルは頬をゆるませた。

「おまえのことはいつも見守っている——と、時姫ときのひめさまがおっしゃっただろう」

 ラーガはいつもの無表情で、そう告げた。「それより、引き返せ。この先に厄介な結界が張ってある。サライの一級だ、苦しむ間もなく肉体が消滅する」

「げッ」

「まったく、気楽なものだ。こんな場所で好き勝手に動きまわるとは」

 ラーガは呆れたようにつぶやく。

「ごめん……」

「わかればいい」

 そっけなく答えると、ラーガの濃青の瞳がちらりと動いた。「……じゃあな、俺は帰る」

 そのまま、彼は再び床下にもぐっていく。あっというまに、頭まで沈んでしまった。

(誰か来たのか)

 シフルは禁断の廊下に向き直る。

 渡り廊下のはるか彼方に、小さな人影。ラーガはあれを警戒したらしい。

 女官である。紫色の袴を着て、黄色がかった赤——太陽を彷佛とさせる髪と、同じ色の瞳をもっている。髪は二本の三つ編みにして、頭の横で丸めてある。

 見知った顔だ。シフルと同年輩だが、挙動が妙に子供子供しており、二、三は年下に見え、ファンルーに叱られていたあの女官。

「《あのー、メアニー・イーリさん》?」

 呼ぶと、メアニーが顔をあげた。いつかのあわて者は影をひそめ、今日は真剣そのものである。シフルはどきりとした。彼女の表情は真剣というより深刻で、しかも明確な敵意があった。

 彼女はゆっくりと歩を進め、少年のそばにやってきた。

「《留学生のメルシフル・ダナンさまですか?》」

「《はい。ごめんなさい、迷ってしまって》……」

 シフルはしどろもどろに言う。

「《迷った? この時間は授業中でしたよね。どうしてこんなところに迷いこまれるんです?》」

「《あの》……」

 少年は弱り果てた。どうして敵意を向けられねばならないのか、わからない。もしかして、ここはどこかとんでもない場所に続いているのだろうか? いずれにせよ、背に腹は代えられない。的はずれな疑惑の目を向けられるぐらいなら、恥を告白するほうを選ぶ。

「《先生とけんかしてしまって。教室を飛びでてきたんです》」

 シフルは正直に告げた。

「《先生? 慈善園のですか? 誰です?》」

「《名前は知らないんですが、中年の男性で、習字を教えている》」

「《習字……》」

 彼女は何かを思いだしているようだった。シフルは緊張しつつ彼女を見守る。

「《——あのう、それって!》」

 ふいに、メアニー・イーリの眼が輝いた。「《書道のグールーズ先生! ですかっ?》」

「え……、《いや、どうでしょう。オレ、名前は聞いてませんし》」

 いきなり彼女の態度から敵意が消えたので、シフルは思わずあとずさった。反対に、彼女はずいとシフルに迫った。

「《ねえ、その先生、すっごい陰険じゃありませんでしたー? ちょっと遅れたぐらいですぐ集中攻撃で怒ってきて、しかもすぐ鞭で叩くの!》」

「《鞭……、ああ。もうちょっとで当たるところだったんですけど、一回はなんとかよけて、あと友達が助けてくれました。それで腹が立ったので、つい教室を》」

 話しながら、自分の辛抱のなさが恥ずかしくなってきた。

 が、

「《——なーんだ、そうだったんですかあ! やーっと納得!》」

 といって、彼女はシフルの腕に抱きつく。

「えッ、なッ、《何》?」

 シフルがどぎまぎしていると、

「《わたしたち、お仲間ですー!》」

 メアニーは心底うれしそうに笑う。「《わあー、なんだかとっても不思議な感じですねっ! ブリエスカ人のメルシフルさまとラージャスタン人のわたし、心が通じあっちゃうなんて。しかも、名門中の名門から来たって聞いてましたし、絶対仲よくなんかなれないって思ってたんですけどー》」

「……《あの、何の話……です》?」

 シフルは腕にはりついた少女を見下ろす。彼女の背丈は少年より少し低い。

「《もちろん、あのグールーズ先生のことですー。鞭使いの》」

 メアニーはシフルの腕に、犬のようにぐりぐりと頬をすり寄せる。「《わたしも、ちょっと前まで慈善園であの先生に習ってたんですけどね、いっつもあの先生、わたしがとろいからって目をつけてて。しょっちゅう鞭で打たれて、腕なんかたいてい真っ赤でしたよ》」

《今はきれいに治っちゃいましたけどね》と、あっけらかんと付け加える。

「《それが当たり前なんですか》」

 シフルは尋ねる。メアニーはまた、にっこりと目を細めた。

「《当たり前ですよー。だって、孤児がそう簡単に養われてちゃ、みんなもっと気軽に子供捨てるじゃないですか? 孤児っていうのは、最悪の環境で最悪なふうに育てられなきゃいけないんです》」

 過酷な話題を、笑いながら語る。「《でもね、ここはただ孤児がいじめられるだけじゃなくて、ある種の弱肉強食みたいな感じなんですよっ。だから、ここは一番いい孤児院です》」

「《それは、どういう》」

「《わたし、仕返ししちゃったんです》」

 彼女は楽しげに肩をすくめた。「《わたしに振り下ろされた鞭を、炎にお願いして焼いてもらいました。ついでに、先生の着物も燃やしちゃいました。高位の炎でしたから、一瞬で全裸です。ふふっ》」

 もちろん教師は大激怒、メアニーは危うく慈善園を追放されるところだったという。しかし、そこに皇帝が口を挿んだ。皇帝はメアニーの精霊使いとしての能力を高く評価したうえで、追放を免除、卒業後の宮殿入りを約束した。おまけに、メアニーに対する態度を改めるよう、教師に通達する。

「《皇帝陛下の役に立つ者が勝ちます。ここは、そういう場所なんです》」

 彼女は胸を張った。「《だから、メルシフルさまも心配しないで大丈夫ですよっ。メルシフルさまのためなら、陛下はグールーズなんか切っちゃいます》」

「《いくらなんでも、それは》……」

 シフルは苦笑する。ようやくいつもの調子が戻ってきた。「……《あの、ところで、離れてくれませんか》」

 少年の腕には、まだメアニーがはりついている。人にくっつくのが好きなのだろうか。アマンダもけっこう平気で人に触れてきたけれど、意味なくやっているわけではなかった。こういうふうに、理由もなくくっつかれるのは、たいそう疲れる。

「《ええっ、イヤですか? せっかくお仲間に会えてうれしいのにー》」

 メアニーは唇を尖らせる。シフルはできる限り淡々と応じた。

「《イヤとかそういう問題ではないです》」

「《……わたし、かわいくないですか?》」

 少女女官は捨てられた仔犬のまなざしで、シフルを見あげた。

「《繰り返しますが、そういう問題ではないです》」

 上目づかいはやめてほしい。シフルはそう思いつつ、メアニーを押し戻す。メアニーはやはり捨てられた仔犬のごとく肩を落とした。それをかたわらで見ている少年の頭には、ただただ、

(女官って、何なんだろう……)

 という素朴な疑問がある。同じ女官でも、ツォエル、ファンルー、キサーラの三人はいい。彼女らは、皇帝に与えられたのだろう責務をまっとうしている。その一環として、留学メンバーに多少の親切心もみせるだろう。だが、このメアニーは、皇帝への忠誠心も、ちょっとした親切心も飛び越えて、まるで親しい友達に接するようにシフルと話す。確かに、廊下のむこうからやってきたときの彼女には、ツォエルに通じる畏怖心を覚えもしたけれど、いったん態度をゆるめたのちは、深刻さも敵意も何もかも、あとかたもなくなってしまった。

「あ、そうだ」

 シフルは再びメアニーに話しかける。「《メアニーさんにお願いが》」

「《はーい! なんですか?》」

 彼女は餌を前にした仔犬のごとく、瞳をきらめかせた。シフルはまたあとずさる。

「《図書館か何かありますか? 明日こそちゃんとあの先生の授業に出なきゃいけないので、筆の持ちかたを予習しておこうと思って》」

「《図書館……、書庫ですねっ。さっすがメルシフルさま、勉強家なんですね!》」

 メアニーは再度シフルの腕に抱きついた。

「《なんでくっつくんですか》!」

 少年が真っ赤になって叫ぶと、

「《あーッ、わかりましたよ、恥ずかしがってるんでしょう、メルシフルさま!》」

 メアニーはにっこりと笑う。「《わたしにしばらく腕を貸してください、メルシフルさま。そうじゃなきゃ、書庫に案内してさしあげませんー。それにわたし、書道入門書のしまってある書架も、正しい筆の持ちかたも知ってますよ》」

(そんな!)

 シフルは全力で首を横に振る。身がもたない。ところが、メアニーは少年の事情など頓着せず、彼を引っぱって歩きはじめた。少年は引きずられるかっこうで、彼女に従っていく。長い砂岩の渡り廊下を、逆方向へ。

 少年が、廊下のむこうの宮殿を後宮——ムリーラン宮だと知るのは、まだ先の話である。

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