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精霊呪縛  作者: 甲斐桂
第二部 ラージャスタン・アグラ宮殿編
66/105

第5話 火の宮(4)

 たどりついた宴の間は、妙に奥行きを感じさせる空間だった。

 というのも、そこに集った人々は、ひと言も発することなく二列に並んで向かいあっている。隣りあう人と人との距離は二メートルほどで、計六十七名もの男たちが部屋の端から端まで座っているのだから、部屋の奥行きは尋常ではない。

 室内はすべて大理石造りで、床の上には南方風——プリエスカからみて南方なので、まさにラージャスタンのことだが——の絨毯が敷かれており、よくよく見なくても絨毯はひとつながりである。この長さの絨毯を織るためにどれだけの羊毛が必要になるのか、シフルには想像もつかなかった。

 長い絨毯の先端、頂点といえる席に、白髪の老人がいる。濁った紫の瞳をして、泰然とあぐらをかいていた。

(あれがラージャスタン皇帝……)

 シフルはひとりごちる。名前も容姿も、外国人の学生には決して知りえないはずの、支配者一族の長。その人物が今、シフルと同じ部屋にいて、同じ空気を吸っている。のみならず、これからシフルたちはその人物のそばに着席させられる。ひょっとすると、同じ皿の食事をとることになるかもしれない。

 これは、とんでもないことである。プリエスカの一般人に過ぎないシフルたちが、誰も知らないマキナ皇家と皇帝に接触するのだ。が、戦々恐々とすべき状況を実感すればするほど、現実味が薄れてくる。秘密主義のマキナ皇家が、信用できるかどうかもわからない外国人の学生に、直接対面するだろうか? 仮にあれが偽物だといわれたなら、むしろそのほうが腑に落ちる。

 三人は皇帝からみて左側の列、最上の席に着いた。思ったとおり皇帝がとても近く、お互いの息づかいまで聞こえかねない。同席者がみな沈黙を保っているため、静寂が場を支配する宴の間では、皇帝が姿勢を変えるたび衣擦れの音が響いた。

 むかい側の列で最上の席を占めていた老人が、おもむろに腰をあげる。

 儀式が始まるのだろう。三人は借りた巻物を広げる。分担を確認し、留学生たちは目配せしあった。シフルは急に緊張を覚える。この装飾文字、やはりまともに読める気がしない。

「《我らは炎より生じ、炎のうちに滅さん——》」

 無情にも、ラージャスタン史物語は朗々たる声とともに滑りだした。「《——炎こそ創り主、創り主は炎。創り主たる炎よ、我らが皇帝をよみしたまえ。我らの国、我らの故郷、皇帝のおわしますところ、ラージャスタンに栄えあれ!》」

「《ラージャスタンに栄えあれ!》」

 男たちは叫び、いっせいに立ちあがる。シフルたちも巻物を掲げて、それに倣った。

「《ラージャスタンに栄えあれ。炎よ、我らが皇帝をよみしたまえ》」

 長い部屋のはるか彼方で、シフルたちと同じ列、最後尾にいる男が読みあげる。「《炎は常に我らとともにあり。タウィーン・ハーシカの娘ネレーンの伝承にいわく、七世紀の昔、帝国暦四三七年雨の月、炎、女の胎に宿りけり。帝国暦四三八年火の月、炎抱ける赤子の誕生とあいなりぬ。女、その赤子をサラエと名づけ……》」

(なんか変ないいまわしだな。物語風の歴史って言ってたし、古文?)

 シフルは最初の暗誦に耳を傾けながら、頬を引きつらせる。(……読めるのか? それ)

 特別カリキュラムで練習してきたのは口語で、文語ではない。読み物の類いは読んだが、口語に近い現代語のテキストばかりで、古文は見たこともなかった。巻物に目を通してみて全然わからなかったのは、もしかすると装飾文字のせいではなく、古文だったからかもしれない。

(ま、セージとキサーラさんがいるしな。なんとかなるか)

 シフルは背後を振り返った。女官キサーラ・イーリはちゃんと壁際に控えており、少年に微笑んでみせた。シフルも笑い返した。隣のメイシュナーもその隣のセージも、シフルが落ちつかないのにつられてか、女官の存在を確かめている。すがるような目つきのメイシュナーと異なり、セージのまなじりに鋭さがあるのは、たぶん気が張りつめているせいだろう。

 じっさい留学生たちは、傍目にみて、慣れない場所で畏縮する子供そのものだった。周囲の人間が一定の間隔をおいて一人ずつ座っているだけに、身を寄せあう三人は変に浮いている。演出というわけではなく、不安だからそうしているわけでもなく、単に巻物を共有しているためだとしても、シフルはなんだか落ちつかなくなってきた。

 広い大理石造りの部屋。整然と居並ぶラージャスタン貴族の面々。最上席で縮こまるプリエスカの学生たち。

(読みまちがえなんかできない)

 とっさに、そう思った。

 面倒でも暗記すべきだったのだ。プリエスカの人間として、ラージャスタンの人々と同じ立場で対峙するために。

 自分たちは望んでこの場所に来た。プリエスカとラージャスタンの架け橋になりにきたのではなく、自分自身の意志で勉強するため、汽車に乗ってきたのである。客人扱いされたいのではないし、ましてや美人に気をとられている場合ではない。

 シフルは担当箇所に目をやった。装飾に惑わされないようにし、もともとの文字の形状に着目していれば、かろうじて読める。

(《夢の中》……《夢の中にて手招くものあり。そは、現にも似たる夢なり。サラエとイーアン、同朋もなくふたりのみ、さまよい歩く》。よし、なんとか)

 シフルは同席者の暗誦をよそに、解読を急いだ。内容を把握しているのといないのとでは、だいぶちがう。

 冒頭で生まれたサラエという「炎抱ける赤子」は、結末近くでは二十歳ぐらいになっていた。そのそばにはイーアンという少年がおり、どうやら彼は彼で「水」を抱いているらしい。プリエスカになじみのある言いかたをすれば、二人はサライアインの元素精霊長なのだろう。昔、サライの元素精霊長がラージャスタンに住んでいたという、有名な伝説だ。《サライの国》という通り名の由来にもなっている。

 その二人が、ある日、同じ夢の中に迷いこんだ。サラエとイーアンには他にも仲間がいたらしいが、彼らの姿はなく、元素精霊長の二人だけが夢をみていた。そこに、二人を手招く者がいる。姿は明らかではなかったが、元素精霊長たる二人は確かにその者を知っていた。

 帰れ、とそれは呼ぶ。——私のもとに帰れ。

(《サラエいわく、否と。我ら、これより故郷に戻らん》……)

 どうやら、二人はそれぞれの恋人を伴い、旅を終えようとしていたようだ。

(《イーアン、去ね、と叫びけり》……《我らは汝を知らぬ》)

 すると、かの者は答えた。忘れているだけで、サラエとイーアンはこの名前を知っていると。

 ——《我が名は》——

(《名》は……)



 ——《精霊王》——



(……《精霊王》)

 シフルは頭の中でその言葉を反復した。(《精霊》《王》。精霊の、王)

 それから、ぱっくりと口を開ける。

 ——精霊王だ!

 シフルはあッと叫びそうになって、あわてて口を塞いだ。

 こんなに早くこの名前に出会えるとは、思ってもみなかった。しかも、公式の場で暗誦するような読み物に登場しようとは、万にひとつも想像しえなかったことである。

 プリエスカでは異端じみた学説として闇に葬られた精霊王が、ラージャスタンでは一般常識として知られている。プリエスカを出てちがう国に来てみれば、きっと今までわかりえなかったことがわかるだろう、とは思っていたし、精霊王について何らかの情報が得られるかもしれない、とも思っていたけれど、まさかこんなにあっさりとみつかるなんて。

 もちろん、だからといって、呪いを解く方法まで簡単に手に入るとは思っていない。でも、この幸先のよさに喜ばないわけがなかった。ラージャスタン史物語をもっと知りたい。サラエやイーアンという人たちは——二人の元素精霊長は、人として生まれ落ち、どのような生涯を送ったのだろう? シフルは担当箇所そっちのけで、冒頭をひらこうとした。

「ダナン君、何してるんだよ」

 メイシュナーが声を低くして言う。「もうすぐ出番だぞ?」

「すげーこと書いてある! プリエスカじゃ絶対読めないぜこれ」

「あとにしとけって。明日帰国するんでもなし」

 メイシュナーはあからさまな呆れ顔だった。彼は眠りを覚ますほどの空腹感も忘れて、今は緊張している。彼のむこうにいるセージは、同席者たちの暗誦に集中していた。

 今、宴の間では、サラエとイーアンの平和な日々が描写されている。

 場所はラージャスタンのどこかの町。ラージャスタンがまだ、《サライの国》という枕詞で語られていなかったころだ。

 ……サラエの生まれはその町の裕福な屋敷で、イーアンは屋敷の下働きとして彼女と出会った。サラエは当初、自分がサライの元素精霊長であることを知らなかったが、イーアンはサラエにまみえたときにはすでに理解していた。よって、イーアンの自覚がサラエにも影響を与え、二人はやがて同胞であることを確認しあう。

 が、世界の礎たる元素精霊長が人として生まれた理由が、二人にはわからなかった。元素精霊長には重要な役割があるにちがいない。それなのに、この小さな町で暮らしていていいのだろうか? 疑問を覚えた二人は旅立ちを決意する。大切な役目があったならば、元の場所に戻ったほうがいい。もしもすすんで放棄したのだとすれば、理由を思いださなくては。

 サラエとイーアン、イーアンの恋人であるユノスの三人は、そうして出発した。諸国を巡り、精霊界に渡る手段を探す。道々、仲間が増えていく。のちにサラエと恋仲になるラージャスタン皇太子シーダも、身分を伏せて彼らの仲間になった。

 一行は仲がよかった。気丈な娘サラエを中心に、精霊界に行くという目的のもと団結していた。旅をしながら、彼らの目的はいつのまにかすり替えられる。最初は雲をつかむような話だった精霊界が肉薄するにつれ、そこにたどりつくことよりもこの旅が長引くことを願うようになったのだ。

 大切な役目があったとしても、もはや関心はない。だが、それではこの旅が意味をなさない。サラエとイーアンは、目的が変質したことを口にしないまま、旅を続行した。精霊界に向かうための信憑性の高い手立てを得たときになって、サラエとイーアンはそれを仲間に告白する。仲間は複雑な思いを隠さなかった。二人は謝罪し、明日にも解散しようと提案する。仲間の一人によって決断は保留され、その日の夜を迎えた。……

 そこまでを暗誦した男が、唇を閉ざす。むかい側の列にいる最後の男だった。シフルが背後を振り返ると、キサーラ・イーリが合図を送ってきた。残りはシフルたち三人の分担だ。

(よし……)

 シフルは思いきり息を吸った。

「《夢の中にて手招くものあり》——」

 直前予習の甲斐あって、しっかりした声が出る。「《そは、現にも似たる夢なり。サラエとイーアン、同朋もなくふたりのみ、さまよい歩く》」

 写本を読みつつ、ときどき少年は顔をあげた。宴の出席者六十七人と皇帝のまなざしが、シフルひとりに注がれている。見たところ、反応は悪くない。全部を暗記する余裕が与えられなかったのは悔やまれるけれど、さしあたりは及第点か。

「《サラエいわく、否と。我ら、これより故郷に戻らん》」

 すでに、精霊王と相まみえた箇所へ突入している。担当する九行は短い。「《イーアン、去ね、と叫びけり。我らは汝を知らぬ》」

 そして、彼ら二人を呼ぶものが名のりをあげる。

「《我が名は》——」

 シフルは力をこめて読みあげた。「——《精霊王》」

「《現に返りて、サラエとイーアン、己が本意を知る》」

 ここでメイシュナーに交替である。シフルは軽く息をついてから、留学仲間の朗読に聞き入った。メイシュナーはさすが理学院Aクラス生というべきだろう、空腹も緊張も今は影をひそめ、存外おおらかな声が宴の間をわたっていった。

 物語は加速する。……その夢によって、元素精霊長二人は自分たちの本来の役目を悟った。彼らは精霊王という、すべてを統べる者の下で、万象を見守っていたのである。ときには精霊王の命令で世界にはたらきかけ、万物を左右することもしたが、おおかたは本当に見守るばかり。

 精霊とは人の心であり、言い換えれば精霊は人である。時の止まった精霊界の中枢を、彼らが抜けだそうとしたとしても、むりからぬ話だった。脱走したサライアイン——ラージャスタン的には「炎」と「水」——は、人の世に降りて女の胎に宿る。それぞれ別の女の子供として新しい生を受け、サラエとイーアンとして長じ、何の偶然か邂逅し、皮肉にも逃げだした精霊界をめざして旅に出たのである。

 しかし二人は、元素精霊長の記憶を取り戻してもなお、人の世を離れがたかった。依然として彼らの心にあるのは、この旅を続けたいということであり、精霊王のもとに帰ることではなかった。

 そこに、サラエとイーアンは旅の意義を改めて見いだす。元素精霊長という役目から——精霊王から自分たちを解放するために、精霊王を倒すのだ。そうと決まれば、サラエとイーアンと仲間たちは旅を再開した。精霊王を倒し、そのあとで故郷に戻る。そうすれば、サラエとイーアンは旅の目的を果たすことになり、この旅もむだではない。……

「《サラエ、イーアン、およびその同朋、ついに精霊王とまみえたり》——」

 メイシュナーが区切ると、次はいよいよトリのセージだ。

「——《しかれども、精霊王とは、古より全元素精霊を統べれるものなりければ、サラエとイーアンとてそのためしに逆らうことあたわず》」

 やはり滑らかなルグワティ・ラージャ(皇帝の言語)。見れば彼女は、まっすぐに皇帝をみつめており、巻物には見向きもしていなかった。セージなら、とは思ったが、たったあれだけの時間、さらにこの状況下で暗誦してみせる度胸は、シフルには真似できない。

 ——望むところだ。

 と、さっき彼女は言い放った。それを女官ではなく皇帝相手に「宣言」するあたり、何ともセージらしいけれど。

(なんかオレ、完ッ全に負けてる……)

 しかも、自覚があるだけで、敗北感を覚えていないときた。(いや、まだまだ! 同じ舞台とも思えないしな!)

 暗誦はともかく、先刻の女官の発言に関しては、セージとシフルでは同じ立場ではない。あれは、彼女が女の子だから遭遇した戦いなのだ。つまり、留学生メンバーの中では彼女ひとりの戦いであり、シフルがそこに参加することはできない。考えてみれば、最初からちがう舞台に立たされるのは、今回が初めてではなかろうか。精霊王の呪いについてもそうかもしれないが、時姫ときのひめとラーガの助力を得られた今、その感覚は薄い。

 理学院やビンガム市立学院では、男女の区別なく勉学に励んでいた。だいたい、身体能力に関係のない分野で男女差をつけるなど、ばかばかしいことだ。

 だが、思い起こすに、理学院は体育科目も男女一緒だった。体力差も筋力差もある男女が、同じ体育室で剣術を学びもしたのだ。そうなると、一部の配慮を除いて女性扱いしないというファンルー・イーリらアグラ宮殿側の姿勢は、理学院とさほど変わらないということであり、セージは今も昔もずっと戦っていたということになる。

 セージが彼女の妖精キリィと出会ったあの事件も、その流れの上にあった。セージはそうした戦いに苦心しつつ、さらにシフルと渡りあい、敵愾心を燃やす学生たちと私闘をくりひろげ、Aクラス《四柱》といわれるまでになって、現在はラージャスタン留学にも加わっている。

(なんかすげーな……、改めて)

 シフルは、自分がセージと同じ女の子だったら、と思った。そうすれば、才能以外の点では差を感じることなく、最初から最後まで同じ舞台に立っていられた。もちろん、実際には女装したところで事実は変わらないし、最初の立ち位置からして彼女とはちがうことも、どうしようもないことではある。

 つまるところ、かつて好敵手と心に決めたのも、夢想にすぎなかった。シフルは唐突に、そう痛感した。

「ダナン君、食わないん?」

「へ?」

 ふいに声をかけられ、シフルは顔をあげた。隣に座るメイシュナーが、ものすごい勢いでラージャスタン料理をかきこみながら、シフルの表情をのぞきこんでいる。そのむこうで、セージが心配そうにこちらをうかがっていた。

「みんなが座ったってのに突っ立ったままだし、引っぱって座らせてもぼーっとしたまんまだし。腹のへりすぎ?」

 シフルは頭をかいた。思案に耽っていちいち茫然自失するのは、よくない癖だ。

「あー、そうかも……。いま食べる時間? このあとはどうするって?」

「食事が終わったら歓談の時間だとさ、キサーラさんが」

 メイシュナーは返事をしながら、一心不乱に料理をかきこんでいる。シフルもひとまず目の前の料理に手をつけることにした。羊とおぼしき匂いのする焼き肉、色とりどりの野菜が混ぜこまれた黄色い米、赤みの強いシチュー。どれも異常なまでに香辛料の匂いを放っている。

 使い慣れない箸をおそるおそる手にとり、ひとくち食べてみる。少々香辛料を使いすぎの感があったものの、けっこう美味である。シフルは羊をまる呑みにした。

 それにしても、この箸はまずい。うまく操れないから、米が食べられない。横にいるメイシュナーは、皿を抱えあげて直接口に米を流しこんでいた。どうかと思う行儀だが、背に腹はかえられない。緊張と茫然自失が過ぎてみれば、たいそうな空腹で、一気に埋めないことにはおさまらなかった。シフルもメイシュナーにならう。

「あー、うまい!」

 メイシュナーが感無量といった様子で言う。

「同感」

「ラージャスタン料理って、プリエスカ人でもおいしいんだな」

 同意するセージは、すでに箸を使いこなしており、器用に米を口へ運んでいた。羨望のまなざしを向けると、

「手で食べている人のほうが多いみたいだけど、上座にいる人は何人か箸を使っているからね」

 と、説明してくれた。人真似こと《イミテート》は、ここでも大活躍らしい。

 食事がすむと、人々はこぞって庭園へ降りていった。プリエスカのフェルゾー城で催された祝典では、留学メンバーを貴族や教会幹部の前で紹介する場面があったが、ラージャスタンの宴席ではそういったことはしないらしい。

 シフルたちも外に出た。庭には、先ほどの儀式に同席していた男たちをはじめとして、貴族らしき女性たちが群れ集っている。

「《あら、留学生の子たちがおでましよ》」

「《ラージャスタンまではるばるよくいらしたこと。お名前は何というの? かわいい坊や》」

「《君はひとりだけ女性なんだね。ブリエスカ女性もずいぶん勇ましいのだな》」

 三人はたちまち取り囲まれた。老若男女を問わず、四方八方から質問や感想を投げかけてくる。男たちも、儀式の場では神妙にしていたくせ、宴の間を出るとそうとうなおしゃべり好きだ。フェルゾー城でもそうだったが、貴族という生き物はどこもそう大差ないようである。

 シフルたちは一人ひとりに丁重に応対した。印象を悪くすると不利な立場におかれかねないので、とにかく誠心誠意つとめた。嘘が苦手なシフルは、ぽろっとおかしな発言をしないようにとだけ注意していた。

 はじめのうちはよかったが、だんだん疲れてきた。さっきまで寝ていたとはいえ、今朝がたアグラ宮殿に着いたばかり。社交に精をだす余力はなかった。

 そんななか、衛兵らしき身なりの男が、留学生たちに近づいてきた。そして、セージに耳打ちする。セージは晴れやかな顔で、シフルとメイシュナーを手招いた。

「ここを離れるよ、二人とも。私たちと話がしたいって人がいる」

「誰?」

「あの衛兵さんについていけばわかる」

 セージは身を翻した。「《すみません、ちょっと失礼》」

 彼女は人ごみをかき分け、衛兵のあとを追う。少年たちも周囲に断りを入れると、セージに続いた。衛兵は振り返りつつ、早足で庭園を突っ切っていく。そのまま、衛兵と留学メンバーは人工林の緑陰をくぐった。談笑の声が遠ざかると、シフルはほっとひと息ついた。

「《あちらです》」

 衛兵の指し示す先に、大理石造りの小さな四阿あずまやがある。「《では、私はこれで》」

「《ありがとうございました》」

 セージは頭を下げる。衛兵が離れるのを待って、彼女は走りだした。

「セージ?」

 わけがわからず、シフルも四阿めざして駆けだす。

「なんだあ?」

 メイシュナーもついてくる。彼は足が速く、シフルを追い抜いて先んじた。その前を行くセージは、四阿のそばに寄り、

「——マーリ!」

 と、呼んだ。

 四阿の中の人影が、彼女の呼び声に反応する。

 現れた人影は、ひどく華奢だった。十二、三歳という年ごろの少女だが、それにしたって細い。けれど、すみれ色の瞳には明るい光が差していて、やせた体から連想されるか弱い雰囲気はなかった。服装は上から下までラージャスタン式、豊かな亜麻色の髪を結いあげて色とりどりの宝飾品で留めている彼女は、かなりの身分にちがいない。

 しかし、そんな外見など些細な問題である。シフルは彼女が登場した瞬間、開いた口が塞がらなくなり、ついでに顎もはずれるかと思った。

(なんで……)

 シフルは愕然とひとりごちた。(なんでオレは、この人に見覚えがあるんだ? それに、セージと知りあいのラージャスタン人って!)

「……まさか?」

 少年は信じがたい思いで、ぽつりと訊く。「まさか……なの?」

「そのとおり」

 セージはにっこりと笑った。

「おい、何の話だよ?」

 メイシュナーは事情を知らない。

「《あなたのことも、あのときに拝見していますわ。メルシフル・ダナン》」

 マーリと呼ばれた少女は、柔和に微笑んだ。「《あなたは、初めまして、ですね、ニカ・メイシュナー。わたくしはマーリと申します》」

《サルヴィア、本当にまた会えるなんて》と、少女はセージに言う。メイシュナーは、思いきりうろんなまなざしをセージに向けた。

「……サルヴィアって何。だいたい、なんでこの人と知りあい?」

 メイシュナーの当然の疑問に、セージはくつくつと笑みをもらした。

「サルヴィアはとっさの偽名」

「嘘をつくのがお上手ね、『セージ』は」

 マーリは現代プリエスカ語でいう。怒るというより、おもしろがっているふうだ。サルヴィアもセージも同じ植物の名前であり、セージの使う偽名としてこれほどもっともらしいものもない。

「《あなたこそ、マーリ》」

 セージはラージャ語で切り返す。

「《あら、どうして?》」

「《あなたは、ご自分が皇女だとはついに教えなかった。オースティンのほうは、わざわざ口にしなくとも、すぐにわかりましたが》」

「《わたくしも旦那さまと同じです。口にしなかっただけ》」

 少女は紫色の瞳を細める。「《そして、あなたも同じ》」

 セージも、それに応えて口角をあげた。

「……」

 取り残された少年二人は、やるかたなく少女二人を見やっている。

「なんか今、ラージーヤ(皇女)って単語が聞こえたんだけど、おれの気のせい? ダナン君」

「オレも聞こえた」

「状況がつかめん。ダナン君、知ってるなら説明しろよ」

「……うーんと」

 シフルはかいつまんで先日の一件について述べた。スーニャの妖精のことは選抜試験のおりに披露ずみなので、さほど支障はない。

 スーニャは《時空の狭間》といわれる不思議な空間を行き来して、どこでも思いのままに移動することができる。先日シフルは、セージをともなってそこを通過した。そのさい、手ちがいがあって、セージを目的地ではない場所に落としてしまった。それがラージャスタンの地であり、セージはそのときついでに地元民と交流してラージャ語発音を習得したという。

「つまり、その地元民が彼女」

「はあー?」

 メイシュナーは素っ頓狂な声をあげた。「それが偶然ラージャスタンの皇女さまだったってか? んなバカげた話があってたまるかよ」

「それがあるんだよね」

 セージは横から口を挿んだ。「私の人生で、あれほど驚くべきできごとは他にない。おまけに私、例の公子殿下にもお会いしたしね。まさしく精霊の思し召し」

「例の公子殿下というと」

 メイシュナーはますますもって怪訝な目つきになる。「……アレか?」

「旦那さまのことを『アレ』だなんて」

 マーリは堪えかねたように笑う。「旦那さまのお名前は、オースティン・カッファ・ド・トゥルカーナ・マキナ・ラージャスタン。トゥルカーナ大公タルオロット三世閣下の第三十一子でいらっしゃいます」

 旦那さまについては、お顔もお名前もプリエスカではあまり知られていないでしょうけれど、「黒曜の髪、大理石の肌、曇り空の瞳、その声は春雨のごとく。英雄クレイガーンの現身」という詩はご存じでしょう——とも、彼女は言った。

(——あ)

「それだー!」

 シフルは叫んだ。マーリもセージもメイシュナーも、そろって目を丸くする。

 客室の庭を見物しているとき、忠告してくれたあの少年。彼の姿を見たとき、何か彼のためにふさわしい表現がある、と思ったのだ。物憂げな灰青の瞳、男のくせにやたらとつややかな黒い髪、これも男のくせに抜けるような白い肌。思い起こしてみれば、あれは「曇り空の瞳」であり、「黒曜の髪」であり、「大理石の肌」だった。

「春雨のごとき」声も耳にした。確かに彼のルグワティ・ラージャ(皇帝の言語)は、いつまでも聞いていたい響きをもっていた。

(ってことは……)

「……なんで客室の庭に? 『英雄の現身』とやらが?」

 シフルにはさっぱりわからない。首を傾げるしかなかった。

「旦那さまにお会いしたのですか? メルシフル」

 マーリが尋ねてくる。いや、皇女マーリ、といったほうがいいか。

「はッ、はい! たぶん!」

 少年はすばやくひざまずいた。「宴の前に、客室の庭で、少しお話を!」

 シフルの行動を受けて、メイシュナーも「あ、やべ」とばかりに遅れて首を垂れた。マーリは微苦笑を浮かべる。一方、セージは他の留学生二人と同じようにはせず、悠然とマーリのかたわらにたたずんでいた。シフルが問うような視線を送ると、

「そのオースティンの許しが出てる」

 と、彼女は答えた。「最上の礼を尽くす必要はない、と。そうする人間は彼のまわりには多いが、そうではない人間も必要だとね」

「セージの言うとおりですわ」

 マーリはうつむいていたメイシュナーの手をとる。「あなたがたは、わたくしと旦那さまの話し相手として招かれています。いちいち頭を下げたり床に手をついたりしていては、まともな会話などできないでしょう?」

「そう言ってもらえると、そりゃあこっちは楽ですがね……」

 至近距離でマーリの紫の瞳に直面したメイシュナーは、顔を赤らめた。マーリも、他のアグラ宮殿女性の例にもれず、きれいな少女である。

「わたくしのことはマーリとお呼びください。セージと同じように。気兼ねは要りません」

 少女はメイシュナーの手を引いて立たせる。「旦那さまのことは、旦那さまにお尋ねする必要がありますけれど、おそらくは大丈夫です」

「はあ……」

 メイシュナーは完全に当惑している。シフルも腰をあげつつ、弱り果てていた。カルムイキアにいたヴァランセア・エミルシェンなる皇后も、堅苦しいのはきらいだとシフルに告げてきたけれど、シフルたち庶民にとって貴人は貴人。気おくれするなというほうがむちゃである。

 いや、考えてみれば、あの皇后も「英雄の血筋」といっていたから、《英雄の現身》にとっては姉にあたるはずだった。姉弟ならば、発想が似通っているのも納得がいく。だが、ラージャスタン皇女マーリはもちろん無関係だ。夫婦になる男女の価値観が近いとすれば、それはなかなか幸せそうではあるけれども。

 それにしても、セージの大物ぶりには今さらながら舌を巻く。当の王侯貴族が許可しているとはいえ、あれだけ堂々と振るまえるのだから。もっともシフルはシフルで、グレナディンのフェルゾー城に住まうあの優しげな国王にそう言われたならば、セージとそうちがわないだろうけれど。なぜなら、あの王はただ優しげなだけで、王者らしい空気がない。フェルゾー城も単なる容れ物にすぎず、祝典もシフルたち留学メンバーの壮行会にすぎなかった。

 しかし、カルムイキア皇后ヴァランセア・エミルシェン、ラージャスタン皇帝や皇女マーリ、それにあの美しい少年はちがう。彼らは本質的に支配者であり、そこにいるだけでちがいが浮き彫りになるような感覚があった。それは一介の女官である「蛇のごとき」ツォエル・イーリにもいえることで、おそらくは意識の問題なのだろう。

 プリエスカ王家は、元素精霊教会と手を結んで元素精霊教を国教に定めるとともに、現代プリエスカ語使用を推奨し、国内の一本化を図った。ところが、古来プリエスカには地方分権制が定着しており、市や町ごとの結束が強いのは変わらなかった。王は国土の地主にすぎない、という意識はいまだにある。そのため、シフルも王権への畏怖心など持ちあわせていないし、王も根本的には君臨しているという意識が薄いのではなかろうか。態度は優しく、それとなく人の顔色をうかがうようでもあり、まるきり近所にいる気の弱いおじさんである。

 それに比べ、ラージャスタン皇帝ときたらどうだろう。宴に先がけた儀式では、皇帝ひとりが悠々と他人ごとのように眺めている。それも、長い列の最上席から出席者を睥睨し、決して視線の高さを合わせるようなこともなければ、親しげに会話しようともしない。ただ黙って見ているのみの為政者の存在は、下座にいる人々を無言のうちに圧し、恐れを抱かせる。恐れという感情は支配において必須である。王と民とは通常、友人同士ではない。

 ヴァランセア・エミルシェンやマーリ、あの少年についていえば、ラージャスタン皇帝のごとき「支配者の演出」によるものではないけれど、そこにいるだけで超然とした空気を感じとれた。彼らは生まれながらの王侯貴族なのだ。少年——トゥルカーナ公子オースティン・カッファには、それに加えて天性の魅力がある。あの美貌の前には、男ですらひれ伏さずにいられない。どこぞの詩人をしてペンをとらしめる人間には、やはりそれだけの力があるのだろう。

「そういや、その公子さまは?」

 メイシュナーがマーリに尋ねる。「さっきの宴には、あの美々しい詩に合うような人はいなかったと思いますけど」

「ええ、旦那さまは欠席なさっています」

 と、皇女マーリは返す。「旦那さまは、一日の大半を《赤の庭》で過ごされます。あとは書庫に出入りするぐらいで、公務はすべて休んでおられます。宴にも、めったにおいでになりません」

「ええ? そうなんですか? いいんですか、入り婿なのに」

 メイシュナーは眉をひそめる。マーリはわずかに頭を振った。

「ええ、仕方がありません。オースティンさまはずっと、元気がなくていらっしゃいますから。まだラージャスタンにいらっしゃって日が浅く、故郷を懐かしんでおられるのでしょう」

(あれが故郷を懐かしんでる人間か?)

 シフルは疑問に思った。シフルの目撃した公子オースティンの挙止は、ごく淡白だ。公子たる者、初対面の人間相手に不調を悟らせるほど抜けてはいない、といわれればそれまでだが、多少なりと異和感を覚えるいいまわしである。慣れない土地で孤独の中にある公子の話し相手に、という名目で留学しているがゆえの、誇張表現だろうか。

(そんな建前がなくても、喜んで留学に来るけどなあ)

 と、少年は考えるけれど、国家としてはそうはいかない。何ごとにも名目は欠かせないのだ。

「旦那さまお気に入りの《赤の庭》は、客舎前の庭園の通称です。みなさまには一週間ほど客舎に滞在していただきますので、きっとまたオースティンさまとお会いすることもあるでしょう」

 マーリはシフルに向き直る。「そのときは、ぜひお話相手になってさしあげて? メルシフル」

「……はい」

 シフルが了解すると、皇女は柔和な微笑を浮かべた。

「では、よろしければ、宮殿を案内しますわ。それとも、宴へお戻りになりますか?」

 細身の少女は、軽やかに踵を返す。それとともに、鈴がチリンと鳴った。少女のはいている布靴には、金色の鈴が縫いつけられている。けれど、靴に鈴がついているというより、少女自身が鈴を震わせる風なのだと、シフルは根拠もなく感じていた。



  *  *  *



 今日、彼らが到着するということは、知っていた。

《赤の庭》で日がな一日寝て過ごすのは、いつもどおりのことである。しかし今日は、ムリーラン宮から客舎に渡っていく廊下が、妙に長かった。《赤の庭》にたどりつき、平静を装おって芝生に寝転がると、いてもたってもいられなくなった。

 眠っている場合ではない。一刻も早く、知らねばならないのだ。

 ——メルシフル・ダナン。

 空の元素精霊長を従える者。プリエスカ王立理学院召喚学部所属の留学生。

 ファンルーの報告によると、早朝にアグラ宮殿入りした留学生四名は、現在、休んでいるとのことである。幸いにして、全員の外見は似通っていないらしく、見ればすぐにメルシフル・ダナンを判別できるはずだった。メルシフル・ダナンは銀色の髪をした小柄な少年。ほかは赤い髪に黒い髪、もう一人は前に一度会っているサルヴィア——本名セージ・ロズウェル——だから、まともな視力であればまちがいようがない。

 メルシフル・ダナンを叩き起こし、空の妖精を召喚させる。そして、「それ」を聞きだす。彼は空の力を使役して留学生選抜試験に通ったと聞く、今さら隠しだてはしないだろう。いざとなれば、あちらはたかが一般人の子供、こちらは公子である。少々脅してでも、この機会は逃さない。

 時間をかけて留学生たちと交流し、ゆっくり情報を引きだしていくのが、本来は順当な手段である。けれど、今回はとてもそうするだけの心の余裕がない。何しろ、メルシフル・ダナンの妖精は、自分にとって生涯最大の鍵ともいえる存在なのだ。もしくは、その妖精しかよすががない、ともいう。

 オースティンは庭を出て、客舎の廊下にあがった。現在、客舎に宿泊している者は、留学生のみである。おそらくは、左右対称に造られた《赤の庭》の、中心線の延長線上にある部屋を割り当てられていよう。なぜなら、庭園というものには狙いがある。すばらしく整備された庭を見せつけることで、客人に皇帝権の偉大さを実感させるのだ。オースティンは迷わず、一階十部屋のうち中央に位置する部屋へ向かった。

 客舎はのぞきに最適である。扉がないからだ。オースティンは堂々と入口に立って中を見た。

 部屋の隅に寝台が鎮座しており、そこで顔見知りの少女が眠っている。オースティンが二階に滞在した際には、ラージャスタン式の大理石製寝台で眠らされたのだが、どうやらアグラ宮殿は留学生には親切にする方針らしい。

(じゃあ、隣だな)

 オースティンは隣室に移動した。隣室には、寝台が三台並んでいる。オースティンは入口側から、ひとりひとりの髪の色を確かめた。右端は黒い髪、左端は赤い髪、中央は銀の髪。みな熟睡しており、オースティンの視線には気づきそうもない。オースティンは中央の寝台に近づいた。

「——」

 瞬間、彼は我が目を疑った。

(……? これは……)

 銀色の髪をした少年は、ファンルーの言葉どおり小柄だった。容貌は優しげで、顔だけなら少女にまちがえられるかもしれない。

 それはさておき、オースティンは、

 ——こいつを知っている。

 と、とっさに思った。

 が、会ったことはない。明らかにない。けれどそれでいて、とてもなじんだ相手のような——初対面の人間に感じるものとしては不自然な感覚。

「同族……、」

 オースティンはひとりつぶやく。「……ふん、まさか」

 ばかげた考えに、オースティンは自嘲的に笑った。トゥルカーナ大公一族とプリエスカの一般市民が、どうやって系図上のつながりをもつというのだ。トゥルカーナ・プリエスカ間にはそう簡単に行き来できない距離があり、どうあがいても不可能である。

(まあ、訊けばわかることだ)

 オースティンはメルシフル・ダナンの襟首をつかんだ。おい、起きろ、訊きたいことがある、と呼びかけながら、疲れて眠りこける少年をさんざんに揺さぶる。ところが少年は、睡眠に並々ならぬ執着でもあるのか、眉ひとつ動かさない。体温が高いので、死んでいるわけではあるまいが、まさしく死んだように眠っている。

「呆れたやつだ」

 オースティンは自分の行為を棚にあげてぼやいた。「おい、いいかげんにしろ、メルシフル・ダナン」

「——そのくらいにしておいてやれ」

 背後から声がした。

 オースティンは一瞬、他の留学生が目を覚ましたのかと思い、弁解しようとした。が、室内を見まわすと、赤い髪と黒い髪の留学生もまた、メルシフル・ダナン同様あたたかい死体となり果てている。つまりは、オースティンに対等の口をきける第三者が、この場にいるのだ。オースティンはうしろを振り返った。

「メルシフルは疲れている」

 彼は、入口にたたずんでいた。「用があるなら、あとにしろ」

 午前中の光を背に浴びて、その長い髪が水色に透けている。水色に透ける髪——それは、元の色がやや濃い青であることを示す。目を凝らしてみれば、瞳の色も同じ青だった。

(選抜試験の際、わたくしは聞いたのです。試験の内容は、三回の精霊召喚でしたが……、メルシフル・ダナンが召喚してみせた、青い髪と瞳をした、美しい妖精の言葉を)

(オースティンさま、サルヴィアは同じ制服を着た少年に引きとられました。少年は、青い髪と瞳の妖精を連れていたようです。おそらくは、例の……)

 オースティンは少年を放した。

 それから、青い髪の人物のそばへ行き、その髪をとる。確かに濃青だ。

「僕は、おまえを待っていた」

 と、オースティンは告げた。「——くうの元素精霊長」

 青い妖精の表情は変わらない。

スーニャという」

「そうだな。それも女官が教えてくれた。スーニャの元素精霊長のことが、伝承に残っていると」

 オースティンは切実なまなざしを妖精に向け、逸らした。この顔は、直視できない。妖精である以上、色素には異常をきたしているが、顔のつくり自体はオースティンとは多分に縁深いものだ。詩人のつくりだした想像力に富む文句も、あながち的外れというわけではなかったらしい。

(伝承は真実だ)

 他の誰にもわからないだろう。しかし、同じ血をもつオースティンには、わかりすぎるほどわかる。この妖精の器は——同族だ。メルシフル・ダナンに対しても同じ感触があったけれど、あれに関しては確証がなかった。だが、これは疑いようがない。それほどに濃厚な《英雄の血》なのである。

「頼む、あの話が本当なら、教えてくれ。おまえはなぜ——」

「俺は」

 青い妖精は、オースティンの言葉を遮った。「メルシフル以外の人間に、何かを教えるつもりはない」

「——」

 完膚なきまでの拒絶である。

 オースティンは何も反論できなかった。返すべき言葉、いいたい言葉は山ほどあったが、妖精に拒絶されたことによって、少年の思考は停止した。それでオースティンは、自分がこの青い妖精に、否、青い妖精の器に、多大な期待を寄せていたことに気づく。自分の未熟悔しさに、頬が熱くなった。

 が、ややあって、妖精はまた口をひらく。

「きさまの問いは、人として生きている限り、知りえないものだ」

 そして、こうも付け加えた。「きさま自身が答えをみつけるべきことでもある」

「……!」

 オースティンは眼をみひらく。「わかっているなら——」

「知らん」

 もう一度、青い妖精はきっぱりと拒んだ。そのまま、彼の姿がかすみはじめる。

 待ってくれ、とは言えなかった。オースティンは妖精の幻影に追いすがり、倒れこんだ。すでにスーニャの実体はそこにはなかった。オースティンは床に座りこみ、呆然とスーニャが去ったあとの部屋を眺めやる。

 ——ここにいた。

 ずっと、探し求めていたもの。知るはずもなかったもの。

(その、器)

 オースティンは仰向けに寝転んだ。砂岩の床が冷たかった。

 拒絶されることなど、わかりきっていた。器に過去の記憶が残っていたとしても、いなかったとしても。彼はかつて、トゥルカーナを放棄した。己を慕ってくる民を振りきり、幼い息子を玉座の上に置き去りにして行方をくらましたのち、どこかで死んだ。彼は今やメルシフル・ダナンのものであり、主以外の者に好き好んで何かを語る妖精はいない。

 だが、なぜ。

 なぜおまえは、トゥルカーナを捨てた。

「……クレイガーン」

 トゥルカーナをこんなにも情けない国にしたのは、おまえだ。

 絶対に、許してなるものか。……



  *



「——おい」

「あ、すみません」

「そこは危ない」

「へ?」

 振り返った少年は、灰がかった青の瞳をしていた。

 オースティンは、今度は確信した。これは同族の眼である。《英雄の血》に生まれついた男子の多くが、この瞳をもつ。しかし、同じ色でありながら、その性質は陽。五百年かけて腐っていった《英雄の血》も、自分たちの宿命に無知であれば、こうなれたかもしれない——そんな輝きがある。

 つい先日まで荒れ果てていた《赤の庭》も、外国の客人を迎えるにあたって、普段より念入りに整えられている。瑞々しい木々と草花、昼の光に包まれて、留学生メルシフル・ダナンの灰青の瞳は腹立たしいほどに無邪気だ。オースティンを視界に捉えてなお、少年の眼の明るさは衰えない。つまり彼は、まったく気づいていなかった。

「あッ、ありがとうございます! 助かりました」

 目の前の少年は、大焦りで頭を下げている。オースティンがここに現れたことに、何の意味も感じていない。

 ——おまえは誰だ。

(何も知らないくせに、なぜここにいる)

 オースティンは胸のうちで彼をなじった。(何も知らないで、あんなものを連れて、狸どもの餌食になりにこんな場所に——僕の前に)

 本当に少年がまったくの無知だとすれば、何という偶然なのか。異郷の地ラージャスタンに、トゥルカーナの起源に縁ある者が集いくるとは。

「オレっ、朝にここ着いたばっかりで、まだ状況をわかってなかったみたいで! これからはちゃんと心がけます」

 メルシフル・ダナンは依然として、オースティンとは異なる方向に大あわてだった。オースティンはいらだちを覚えはじめる。理学院召喚学部Aクラスとは、こんな大まぬけでも入れるものなのか。少なくとも、事故で国境を侵し、とっさに偽名を口にするような、肚の据わった者ばかりではないことは確かである。

「そうしたほうがいい」

 と、彼は首を縦に振る。「アグラ宮殿には蛇が棲んでいる」

「蛇」

 オースティンの言葉を聞いて、少年は目を丸くする。

(わかりやすいやつだ)

 彼は内心せせら笑った。少年がいかに無邪気でいられる境遇に育ち、こうした状況に縁がなかったか、察せられようというものである。

 何にせよ、アレンがラージャスタン入りするまで、やるべきことができた。どう転んでもアレンをそばにおける日のくることが確定した今、《赤の庭》で眠りつづけ、憂鬱な人間の真似ごとを続けるのは、退屈以外の何ものでもない。こうして、メルシフル・ダナンの謎を解くという課題のある限りは、それなりにおもしろおかしく暮らせるだろう。

 オースティンはもう二、三、少年と言葉を交わすと、《赤の庭》をあとにした。客舎の廊下で出くわしたサルヴィアににんまりと笑ってみせ、オースティンはアグラ宮殿を渡っていく。メルシフル・ダナンがこちらの言動にさぞ混乱しているだろうと思うと、笑いがこみあげた。

 いたずらっ子の気分で笑うのは、しばらくぶりのことだった。

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