表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
精霊呪縛  作者: 甲斐桂
第二部 ラージャスタン・アグラ宮殿編
53/105

第2話 炎抱く姫(2)

 宴の間に通されたとき、少年は誤って葬式に入りこんだのかと思った。

 長い廊下を延々渡っていき、宴の間に到着すると、彼が予想していた喧騒は露ほどもない。パーティーに通常つきものの女たちのかしましい笑声や、社交の場とわきまえた男たちの低く冷えた笑いもそこにはなく、ひたすら静寂がたれこめていた。

 出席者たちは、気軽なおしゃべりと食事を楽しみつつ主賓の登場を待つ、というなじみのある作法ではなく、黙って床に座りこんでいる。室内を見渡すと、上座に皇帝らしき老人がいて、あとの者は二手に分かれて整然とした列をつくり、充分すぎる空間をあけて向かいあっていた。全員が目を伏せており、誰ひとりオースティンの登場に顔をあげたり、声を発したりはしない。

 トゥルカーナの少年にとって最も信じがたかったのは、女性が一人も同席していないことである。ふつう貴族というものは、妻や娘を大勢つれてきては、やたらと見せびらかそうとするのに、ここでは壮年から老年にかけての男たちが無表情に雁首を並べるばかり。彼らの背後にはそれぞれ紫や青、もしくは緑の袴を着た女官が控えていたけれど、彼女らは出席者とはいえないので除外する。

 トゥルカーナや隣国のスーサ、ニネヴェの祝宴で、オースティンはいつも貴族女に囲まれてろくな目に遭わなかった。よって、故郷の方式が懐かしいわけではないものの、ラージャスタンのやりかたはどうも重苦しい。このありさまでは、祝いの席にあるべき晴れがましさも、ドレスの裾をたくしあげて遁走する。いやむしろ、自分が逃げだしたい——というのが、少年の正直な感想だった。幼いころ、しょっちゅうパーティーから脱走したように。

 オースティンはそれでも、上座近くに着席するよう促され、指示された位置で大人しく胡座をかいた。大理石の床の上には絨毯が敷かれていて、さすがに尻は冷たくないが、どうしても不思議な感はつきまとう。オースティンの座らされた場所は皇帝のそばだったけれど、かといって会話のできる距離ではなく、そのうえ下座の人々からも遠かった。いったいこのパーティーは、何を目的とするパーティーなのか。無意味な会話こそ、パーティーの神髄だろうに。

 下座で最上の席にいた老人が、ゆっくりと腰をあげた。誰ひとり話しも動きもしない空間においては、何げない仕種すらも意味ありげにみえる。オースティンも目を惹かれて、その老人を見た。

「我らは炎より生じ、炎のうちに滅さん——」

 老人は流麗なルグワティ・ラージャ(皇帝の言語)を、その乾いた唇からほとばしらせる。「——炎こそ創り主、創り主は炎。創り主たる炎よ、我らが皇帝をよみしたまえ。我らの国、我らの故郷、皇帝のおわしますところ、ラージャスタンに栄えあれ!」

「ラージャスタンに栄えあれ!」

 同席する男たちが、唱和とともに、いっせいに立ちあがった。

 オースティンは目をみひらく。こんな儀式があるとは聞いていない。とっさに腰を持ちあげようとして、しかしすぐに思い直す。ファンルー・イーリら女官は、何ひとつ自分に教えなかった。何もしなくていい可能性もあるし、仮に何らかの役割があったとしても、知らないことを実行せよというのは理不尽である。

(とにかく静かにしていよう)

 少年はそう決め、背筋を伸ばした。

「ラージャスタンに栄えあれ。炎よ、我らが皇帝をよみしたまえ」

 いちばん低い席次にいる男が、少ない声量を振り絞って述べた。裏返りかけた声が宴の間に響く。「炎は常に我らとともにあり。タウィーン・ハーシカの娘ネレーンの伝承にいわく、七世紀の昔、帝国暦四三七年雨の月、炎、女の胎に宿りけり。帝国暦四三八年火の月、炎抱ける赤子の誕生とあいなりぬ。女、その赤子をサラエと名づけ……」

 どうやら男は、ラージャスタンの歴史を語りだしたようだった。とはいえ、千年前の建国期からではなく、この古い帝国がラシュトー大陸で一大国という地位を確立したのちの、サライ信仰史において最も重要な逸話からである。帝国史千年の中盤にあたる時期だ。男は古風な言葉でうたう。

 彼が口を閉じると、続いてその正面の男が唇を開く。……サライの元素精霊長たる娘サラエは、土地の有力者リノカ家の長である親のもとで、何の苦労もせず育っていく。彼女は《炎》たる己——ラージャスタン的ないいまわしである——に気づいておらず、単なる人として生きていたが、ある少年との出会いによって己の異質さを知ることになる。

 少年の名はイーアン。リノカ家の下働きで、サラエにとっては下僕だった。が、彼もまた、ただ人として日々を暮らしながらも、実は《水》を抱く者、すなわちアインの元素精霊長なのだった。イーアンにはその自覚はあったが、彼もサラエ同様、意味を理解していなかった。なぜ、世界の礎たる元素精霊長が人として生きているのか? サラエとイーアンは、それを知るための旅に出る。……

 宴の出席者たちは、それぞれ《炎》と《水》を内に秘めた二人の旅を、順番に描写していった。かつて、サライの元素精霊長の宿借りした娘が住んでおり、そのことからラージャスタンは《サライの国》と呼ばれるようになった——その逸話自体は極めて有名だが、詳細はあまり知られていない。オースティンは彼らの語りを興味深く聴いた。

 語り手は、徐々に上座へ移っていった。……長い旅の果てに、《炎》と《水》とは精霊界へとたどりつく。二人ともそれぞれ人間の恋人がいて、ゆえに人として一生を送ることを望んだ。それが旅をして得たひとつの答えだった。ところが、そんな彼らを呼び戻そうとする存在があった。

 二人は、どうしてもその存在を打ち倒さねばならず、そのために精霊界へと赴いた。元素精霊長たる彼らには懐かしくもある場所で、彼らは、彼らが彼らである限りつきまとう呪縛を、解かなければならなかった。

「サラエ、イーアン、およびその同朋、ついに精霊王とまみえたり——」

 オースティンにいちばん近い男が、そう言った。

 さあ、それでどうなる。サラエとイーアンは、二人の元素精霊長は、それを打ち倒すことができるのか? 少年は、このうえなく美しい言葉で語られる逸話にすっかり引きこまれ、意気揚々と身を乗りだした。が、男は朗読の分担を終えたらしく、静かに唇を閉ざすのみである。

 では、次だ、と少年は別の者を見た。しかし、その者も物語を引き継ごうとはしない。そういえば、彼はすでに語り終えていたのだった。オースティンは控えめに周囲を見まわす。それから、はっと思い到った。

(——やられた)

 オースティンは、自分に注がれつつある刺すような視線を感じながら、内心舌うちした。(皇帝と女官以外で、語っていないのは僕だけじゃないか)

 皇帝はおそらく語り手にはならない。ラージャスタンは皇帝の支配権が強固であり、プリエスカのような権力分散状態とは無縁である。皇帝ひとりに権力が集中しているということは、皇帝および皇家とその他の貴族とは同列ではないということであり、よって皇帝は、同席者たちと一緒になって逸話を物語ることなどしないだろう。専制君主としての無言の表明である。

 宴の間は、物語が始まる前の静けさとなった。オースティンより下座にいる者が、次々に少年のほうへまなざしを向けてくる。その色には、好奇や感嘆といったなじみ深いものもあったが、侮蔑を含むものも多かった。皇帝はといえば、表情を動かさず、かといって助け舟を出しもしない。オースティンはすばやく背後に視線を投げて、控えていたファンルー・イーリに目配せしたが、彼女もまた反応しない。

 ——ラージャスタンの狸どもめ、僕を試みているつもりか。

 オースティンは声をあげて笑いたくなった。英雄伝説など微塵も信奉していないにもかかわらず、クレイガーンの民衆人気を利用しようとする狡猾な国——ラージャスタン。ならば、せいぜい英雄を崇拝するふりでもしていればいいのに、いざオースティンを婿として迎えると、とたんにてのひらを返すような態度に出る。ずいぶんと薄い化けの皮だ。

 彼らは、オースティンがラージャスタン式の儀礼をちゃんと勉強しているかどうか、普通の外国出身の花嫁花婿にするように、試そうとしている。名目上のものでしかない《英雄同盟》のもとに、あからさまなもくろみをもって招いた花婿を、他の花嫁花婿と同列に扱うのである。

 なんという傲慢。オースティンは胸のうちでせせら笑う。秘密主義の大国とは、かくも偉大なものか。いくら国土が広大で、大陸ではかなりの発言力をもつといっても、しょせんラージャスタンは英雄人気に依存して成り立っている。それがすべてとはいわないが、必要がないのなら、かのロータシア同様《英雄同盟》になど加盟しなければいいのだ。もっとも、そのロータシアはとうの昔に転覆したけれど。

 確かにトゥルカーナには、己の血族を差しだすほかに生き延びる術がなかった。しかし、ラージャスタンをはじめとする大国もまた、トゥルカーナなしにはやっていけない。その歴史的事実にまちがいはないのだ。よってオースティンは、ラージャスタン側の不遜に黙っている気はなかった。

 ——わからせてやる。

 少年は心中つぶやき、おもむろに目を閉じた。ざわめきだした周囲をよそに、頭の中であるものに呼びかける。

「殿下、公子殿下」

 案じたふうのファンルー・イーリが、ようやく少年の肩をつついてきた。その声はいちおう遠慮がちではあったものの、明らかに室内に響き渡るよう計算されている。「どうかご暗誦を……。正式の祝宴の席では、タウィーン・ハーシカの娘ネレーンの伝承を皇帝陛下以外の全員で読む決まりでございます」

「いま知った」

 オースティンは淡々と答える。ファンルーは深々と頭を下げ、さも自分が悪いような口ぶりで、

「申しわけございません、オースティンさま。わたくしの手落ちでございます。今、写本をお持ちしま——」

「要らん」

 オースティンは女官の申し出を遮った。「僕は読まない。知らないものを読めるわけがないだろう」

 同席者たちは少年の発言に顔色を変える。いっせいに口を開くと、《英雄の現身》とはあんなにも無礼なものなのか、トゥルカーナ大公一族を去ってラージャスタン・マキナ皇家の一員になろうという人間が、ああも婿入り先のしきたりに無関心で許されるのか、など、口裏を合わせたように非難を浴びせてきた。オースティンは腹が立ったが、なんとか抑えて不敵な笑みをつくる。

「そういきりたたれるな、ラージャスタンのかたがた!」

 と、めったに使わない朗々たる声で言い放つ。「こちらの無知はお詫びする。が、知らないという事実は変えようがありません。だから、どなたかに代わりに読んでいただくしかないでしょう」

「……どなたか、とは?」

 オースティンより上座にいる唯一の人間——皇帝が、初めて口をきいた。好々爺の顔をした専制君主の紫の瞳に、わずかに興がる色が浮かぶ。それを見て、あちこちから、まさか、そんな、という喘ぎにも似たつぶやきがもれた。まさか皇帝陛下に暗誦させようというのでは、と愕然とぼやいた者もいる。

「畏れ多い憶測はやめていただきたい。いかに僕が不調法者でも、これ以上の無礼は働けません」

 少年はきっぱりと告げた。「《彼女》が、僕の代わりにあなたがたの伝承を紡ぐでしょう」

 オースティンは座ったまま、両腕を大きくひろげてみせ、

「来い」

 小声でそれを呼ぶ。

 祝宴に出席している男たちは一様に息を呑んだ。再度、場を沈黙が支配し、緊張がはしった。

 静寂を破ったのは、けたたましい破裂音だった。宙にむかって差しのべられた少年の腕と腕のあいだで、何かが爆発した。下座の男たちや女官の多くはあわてふためき、列を保つことなく散り散りになったが、皇帝やファンルー・イーリら紫の袴をはいた女官、そして当の少年公子は微動だにしない。

 オースティンの腕のなかに、巨大な炎が揺れている。ラージャスタン的にいうならば《炎》の眷属、大陸的にいうならば火の精霊サライたる炎が。

〈——しかれども、精霊王とは、古より全元素精霊を統べれるものなりければ、サラエとイーアンとてそのためしに逆らうことあたわず〉

 遠くから聞こえる声が、オースティンに代わってラージャスタンの伝承を読みあげた。……《炎》を抱く少女サラエと《水》の少年イーアンは、自分たちを縛る精霊王を打ち倒すべく精霊界に乗りこむも、むだだった。精霊王とは、天地の興ったころから、全精霊、ひいては世界を治めるものであり、それが世界の理なのである。理には、元素精霊長とて抗えない。

 そうしてサラエとイーアンは精霊界に還り、二度と人の世には現れなかった。残されたそれぞれの恋人は、二人が帰らないことを察すると、泣く泣く二人のいない生活に戻っていく。サラエの恋人だった男というのが、ラージャスタン・マキナ皇家の後継者たる皇太子で、彼ゆえにマキナ皇家はサライの守護を受けることになる。また、元素精霊長の祝福によって数多のサライが馳せ参じたので、今なおラージャスタンは《サライの国》と呼ばれるのだ。……

 オースティンのために現れた炎は、そこまで語り終えると、姿を消した。

 少年は礼をいい、掲げていた腕をおろす。何か文句あるか、と言わんばかりに一同を睥睨し、オースティンは密かに安堵の息をついた。どうやら、このうえ少年を試みようという気概のある者はいないようである。少年の鋭いまなざしに、返ってきたのは沈黙という回答だった。

 サライの恩恵を授かってからというもの、歴史的にサライを讃えてきたこの国の人間が、他ならぬサライのしたことに難癖をつけていいはずがない。それは想像の範囲内だったけれど、ラージャスタンは信奉してもいない英雄およびその一族を尊び奉る同盟に喜んで加わった、不実の国家である。まして、実際のところの人々の行動規範がどうなっているかなど、少年にはわかりはしない。

 が、

(これでいい)

 オースティンはひとりごちる。

《英雄の血》はくれてやっても、真にラージャスタンに従属するつもりはない。トゥルカーナという国家全体はさておき、少なくとも彼自身は。——それは、少年に唯一残った意地というべきものだった。

 己の運命については、とうの昔にあきらめて受け入れた。誰かに負の感情を向けることも、何の利益も生まないと気づいてやめた。何もかもを適当にやりすごしながら、先祖だけはいまだに呪いつづけているけれど、むだと知っていても、どうすることもできない思いがある。

 しかし、もはや自分は故郷を遠く離れた。そばにいてほしい相手は、いくつもの国境を隔てた先にいる。いま迎えている新たな局面で、自分のすべきことは、先祖を呪うことではなく、この国における己の居場所を確保することである。先祖を呪うのはすべきことを終えてからにして、今はラージャスタンの人々のなかで自分の足場を築かねばならない。

 オースティンは《英雄の血》を継ぐ者、トゥルカーナ大公タルオロット三世の末子。トゥルカーナは《英雄同盟》結成以来、自分たちを守護してくれる大国に頼って長らえてきた。英雄の子供として、オースティンはその事実を受け止め、列国に恭順を示すべきだろう。その場合、オースティンはラージャスタンに移る以前に、当然に国独特のしきたりを調べておく必要があったし、多くの英雄の子孫はそうやって他国に嫁いでいく。けれど、彼はそうはしなかった。

 オースティンは思う。望まれたのだから、ラージャスタンで生きてやろう。相手の姫と子をなしもしよう。

 ——僕は事実、英雄の子孫で、トゥルカーナ公子だ。

(でも、同時にただの人間。……クレイガーンが英雄になりさえしなければ、とるにたらない農家出身の、容姿に恵まれていること以外は何らとりどころのない、平凡な人間だ)

 己の公的側面を理解し義務を遂行したうえで、私的側面を守ったとしても、何が悪いだろうか? 自分の本性も望みもすべて押しこめて公的側面ばかり後生大事にし、人としての尊厳すらも葬り去って強権的な守護者に仕えることに、いったい何の意味がある? 祖国の威厳は地に堕ち、品位から何から、美徳という美徳はすべて消え失せよう。

(僕はトゥルカーナ公子でありたくなかった)

 詮ない仮定だと、わかっていても。(だから僕は服従しない。ラージャスタンの狸になど、誰が媚びてやるものか)

 だから、

 ——極度の非礼に相当しない限り、この国の流儀に抵抗する。

 オースティンは、そう決意した。

 サライに伝承を暗誦させたのは、このアグラ宮殿にはサライの気配が満ちていて、他の精霊を召喚するのが難儀だったという理由もある。が、何よりもラージャスタンがサライ信仰の国だということが、オースティンにとっては重要だった。崇拝の対象であるサライを気軽に呼びだし、使役してみせることで、自分はこの国の伝統を重んじる意思がないのだと示唆したつもりである。

 さらには、オースティンが、かつて精霊の愛を一身に受けて大陸を救った英雄・クレイガーンの血を引いており、彼自身も精霊に愛され、英雄に劣らぬ力を持っている——ゆえに、決して思いどおりになると考えるな、との通告でもある。もっとも、アレンによれば宮殿付女官は優秀な精霊使いでもあるそうなので、役には立たないかもしれないが。

 宴の間に、遠慮がちな喧騒が戻ってきた。本来は一切の私語を許さない場面らしく、同席者はたいそう声を低くしているのだが、内緒話も積もればざわめきとなる。オースティンはその中で、まっすぐ前に向けた視線を揺らがせることなく座っていた。役目は果たしたのだ、このうえ何らかの行動をとる必要はない。

 比較的そばにいた男たちが、なぜ炎は伝承を暗誦できたのだろう、と言いあっている。それを耳にして、オースティンは鼻で笑いそうになり、かろうじて押さえた。サライ崇拝をうたう国の貴族のくせに、精霊について何も知らないらしい。

 精霊とは、人の心の死後の姿だという。言い換えると、人の心とは精霊であり、滅びた肉体を離れると精霊に戻る。つまり、精霊は多かれ少なかれ人らしさをもっている。何かを記憶することも可能であり、ましてやアグラ宮殿に棲みついた精霊ならば、たびたびここで読まれるのだろう伝承ぐらい、暗誦できて当たり前だ。

 けれど、教える義理もないので、少年はひたすら唇を閉ざしていた。自分を試みようとする輩など、一生恥をかいていればいい。

「——よかろう」

 皇帝がゆっくりと首を縦に振る。「これにて、宴に先立つ儀礼は果たした」

 宴を始めよう——。その宣言をもって、人々の声から遠慮がなくなった。男たちは堰を切ったようにしゃべりだし、その場はあっというまに喧噪に包まれる。同時に、料理の皿を携えた女官たちが室内に滑りこんできた。茶色の袴をまとった女官の群れは、整然と列をなしてきたかと思うと、静かに皿をおいて引きあげていく。

 周囲の人々ははさっそく食事を始めていた。ラージャスタンは手づかみで食べるのが一般的だが、一部の上級貴族は食べ物に手を触れないといわれる。オースティンは室内の出席者たちにすばやく目をはしらせた。皇帝ならびに上座近くにいる者は象牙の箸を使っており、あとは手づかみである。人数から推察するに、皇帝と公爵は箸、侯爵以下は手、というところか。だとすれば、おそらく貴族のうち公爵だけが皇帝に近づけるのだろう。

(アンジューの嫁ぎ先は、ムルーワ伯爵家といったか)

 伯爵家ではだめだ。たぶん、接触を図る機会すら与えられない。(アンジューなら、確実に味方になってくれそうなんだが)

 あの従妹はどうも頼りないが、絶対的な味方が皆無といっていい現状では、一人でも確保しておきたい。しかし、自分は秘密主義で知られるマキナ皇家の中枢に入りこんでいる。伯爵家の妻の近況さえも外国にもらそうとしないラージャスタンだ。皇家の婿が中級貴族の夫人と面会できるとは考えにくい。

 この国で、特有の流儀に抵抗しながらやりぬくために、とにかく味方が欲しかった。

 ——マーリは僕の味方になってくれるだろうか。

 オースティンはぽつりと思った。答えるべき少女は今ここにはない。何しろ、今この場に女性は女官しかおらず、あとは敵か味方かの判断はまだ下せない、未知の男たちばかりである。

 少年は白い箸を手にとった。上座も下座もみな食事をしている。上座にいる唯一の人間である皇帝は、花婿に声をかけることなく黙々と箸を動かしていた。一般的に、目上の者から話しかけるものであり、オースティンはそれゆえ食事を始めずに待っていたのだが、気にする必要もなかったようだ。

 オースティンがラージャスタン料理を食べるのは、これが最初である。まずはこんがりと焼けた羊肉を箸でつまみあげた。口におそるおそる運び、試しに味わったのち、鼻で深呼吸する。

 とんでもなく臭い。十六年間なじんだトゥルカーナ料理は、あまり香りづけが強くなかった。

(一生こんな飯を……?)

 オースティンにとって、それが最大の悲劇だった。ラージャスタン入りして初めて少し泣きたくなった。



 食事に満足すると、出席者たちはおもむろに庭園へ降りていく。オースティンも、皇帝が去るのを見届けて、それに従った。やはり目上の人間がいないと気が抜けるもので、芝を踏みしめながら大いに肩をほぐす。最初に独特の儀式があること以外、厄介な社交や伝統がないのがラージャスタン式だとすれば、故郷のパーティーよりよほど楽かもしれない。

 だが、楽観的な考えは少々早すぎたというべきだろう。少年が庭園に現れると、そこここの茂みから、わっと女たちがわいてきた。

 時刻は夜、庭は闇に包まれており、楽しそうに突進してくる女たちの顔を、わずかな灯籠の火が照らしている。彼女らは闇の中でも迷うことなくオースティンめざして大挙し、少年が怯んでいる隙に囲みこんで逃げ道を塞いでしまった。

「あなたさまが《英雄の現身》オースティン・カッファ公子殿下でいらっしゃいますのね」

「噂どおり、すてきなかた!」

 老若を問わず、かしましくさえずる女たちに、少年は困り果てた。トゥルカーナのパーティーでも、女と交流をもたないことはないが、東の女は最初のうちは慎ましさを装うものであり、父兄か夫を通して紹介されるのが先である。紹介後は大して変わらないが、芸人に群がるように群がられるのは初めてだ。

「お歳は?」

「お父上……大公閣下は息災でいらっしゃる?」

「これが《曇り空の瞳》。まあ、本当に」

 最初はいちいち返事をしていたものの、だんだん目が回ってきた。もう、わざわざ返答しなくてもかまわないような気がしてくる。彼女たちは一方的にこちらを観賞し、好き勝手しゃべっているだけなのだ。オースティンは力を抜いた。この無神経で無責任な集団の中で、積極的に味方をみつけようという意欲がわかない。

(……そうだ)

「あの、あなたがたは貴族でしたね? 皇家ではなく」

 ふと思いついて、少年は女たちの一人に尋ねる。問われた女は、《英雄の現身》に話しかけられて「まあ」とうっとりする。まわりの女たちも色めきだち、彼女が返事をする前に我先と身を乗りだした。

「おっしゃるとおりですわ。私はパミン男爵夫人エイネと申します。こちらはハルドラ伯爵夫人グレッラさま」

「オースティンさま、皇家のかたがたがここにおられないことが気がかりですか? 心配いりませんよ、ほとんどの皇家のかたは、よもやこんなところに高貴なお姿を現しはしません。ですが、オースティンさまには、後日かならずお目通りいただけましょう。何しろあなたさまはムストフ・ビラーディ(婿殿)となられるおかた、皇帝陛下のご家族になられるおかたなのですから」

「ちょっと、あたくしがお答えしようとしたのに!」

 女たちは互いにオースティンの正面の位置を争いながら、こぞって少年公子の問いに答える。「皇家のかたがたで、外の者の前に姿をお見せになるのは、皇帝陛下と皇女殿下ぐらいですわ。そういう決まりなのです。……ああ、外の者、といいますのはね、皇家の外ということですの。我らがマキナ皇家の秘密主義はお聞きおよびでしょう」

「では、ここにいるのは、皇家のかたがたを含まない公爵以下のかたがた、ということですね」

 ご賢察ですわ、さすがは《英雄の血》、と女たちは褒めそやし、この宴についても説明してくれた。今日の宴は、皇女婿を貴族たちに披露するためのものであり、皇家内部におけるお披露目とはまったく別であると。ついでに、先ほどのような儀式の場には、奉仕する女官以外の女は絶対に入れないのだと、補足もしてくれた。

「今日は国中の貴族がここに?」

「もちろんですわ。今日この日に、アグラ宮殿に馳せ参じない者などおりません。みな、オースティン公子殿下のご尊顔を拝するために参ったのです」

「ならば、アンジューは——」

 オースティンはようやく核心に踏みこんだ。「伯爵家に従妹のアンジューが嫁いでいるんです。ぜひ、彼女に会いたい。みなさん、ご存じありませんか」

「ムルーワ伯爵夫人のアンジューさま……、ですか?」

 女たちは互いに顔を見あわせる。

「ええ、そうです」

 オースティンは力強くうなずいた。が、婦人たちはためらいがちに目配せしあうばかりで、話そうとしない。少年はいらだって、同郷の者に会いたいと思うことの何がいけないのですか、と語気を荒げた。

「お気を悪くなさらないで、オースティンさま」

 中年の女が口を切った。「私どもは、一度も伯爵夫人にお会いしたことがないのです」

「ええ、夫人はこういった集まりにはおいでになりません。今日も同じですよ」

「一度も? そんなばかな」

 婦人たちの発言に、オースティンは目を剥いた。「ハルドラ伯爵夫人。同じ爵位の家同士、訪ねあうことはないのですか?」

 続く少年公子の質問に応えて、夫人は頭を振った。

「おっしゃるとおり、ムルーワ伯爵のご令妹ファラノさまとはお友達で、ときどきお宅にもうかがっております。ですが、夫人にお目にかかったことはございませんの。食事会にも園遊会にも、決してお顔をお見せにならないものですから」

 少し間をおいて、彼女は付け足した。「伯爵がおっしゃるには、アンジューさまは大変な引っこみ思案なのだとか。部屋にこもりっきりだとも」

「引っこみ思案? 部屋にこもりっきり?」

 オースティンは信じがたい思いでつぶやく。確かに、ササンド家のアウラールとアンジューとの兄妹は、二人揃っておとなしい。しかし、二人とも立場をわきまえており、苦手であってもパーティーを欠席することはしなかった。

 オースティンはといえば、しばしばパーティーを抜けだしては、まじめなアウラールに叱られたものである。その一方で従兄は寛容さも持ちあわせていて、だからオースティンは彼とはうまが合い、自然、妹のアンジューと接する機会も多かった。

「アンジューは確かに純朴で大人しい性格ですが、娘らしいところもあって、社交もそつなくこなしていました。引っこみ思案で部屋にひきこもっているだなんて、トゥルカーナにいたころを思うと信じられません」

 聴衆たる貴婦人たちが、話題と少年自身への好奇心をもって熱心に耳を傾けてくるので、オースティンはあたうる限り切々と物語った。とはいえ、アンジューに関する評価に嘘偽りや脚色はなく、真実、彼女は「純朴で」「大人しい性格で」「娘らしいところもあり」「社交もそつなくこなす」優等生然とした大公一族の少女だったのである。

 少なくともオースティンは、ムルーワ伯爵家との縁談がまとまるまで、彼女をそのようにみなしていた。娘ながら兄に似て責任感が強く、そのせいであきらめをいやというほど知っている——性質は自分とはちがうとはいえ、同じ《英雄の血》を抱く仲間。

「それに彼女は……、停滞に甘んじるような女性ではありませんでした」

 と、少年はもらす。アンジューのことは、本当はあまり思いだしたくない。でも、ここには彼女しかいないのだ。

「——それはどういう意味ですかな?」

 背後から聞こえた声は、明らかに剣呑な色を帯びていた。「ぜひとも詳しくお聞かせ願いたい。オースティン公子殿下」

 オースティンは声のしたほうに顔を向けた。同時に、婦人たちの群れが、潮が引くように退いていった。少年のそばには、宴席に相応しくない不敵な笑みの男が残った。

「貴公は?」

 オースティンは問う。

「噂の的ですよ」

 男はいっそう口角をあげた。「カリエン・ムルーワと申します。ムストフ・ビラーディ・オースティン。以後、お見知りおきを」

 ムルーワ伯爵と名のった男は、慇懃な所作をした。垂れられた頭には、若干白いものが混じっており、壮年の域に達していることがうかがえる。少年や従妹からしてみれば、父親であってもおかしくない年齢だ。

「それでは、貴公が我が従妹姫のご夫君というわけですか」

 オースティンは伯爵のあからさまな挑戦を受けて立つ。「これは失礼。まさか、夫人を同伴せずにおいでになるとは思いませんでした。こちらでは一般的なのかもしれませんが、東部ではめったにありませんので」

「いずれ、こちらのしきたりも覚えられるとよい。殿下はすでにムストフ・ビラーディ(婿殿)と呼ばれる人なのですからね」

「そうですね」

 まずは同意しておいて、オースティンは本題に入った。「して、我が従妹姫は息災でしょうか。今日は姿が見えないようですが」

「もちろん」

 カリエン・ムルーワはいけしゃあしゃあと答えた。「妻は今日も部屋で縫いものに夢中です」

「縫いものですか、それはけっこう」

 少年は唇を歪める。アンジューにそんな趣味はない。純然たる嘘か、強制労働か、あるいは室内でできることを趣味にせざるをえなかったか。いずれにしても、ムルーワ伯爵はアンジューにまともな待遇を与えていない。そもそも、国中の貴族が集まる宴の日に、縫いものを優先させる夫はいない。オースティンは彼女が哀れになってきた。何しろ、彼女の悪い予感は的中していた、ということになるのだから。

 だが、そんなことは今どうでもよかった。ここで重要なのは、アンジューとなんとか再会し、ラージャスタンの地における精神的な寄りどころを獲得することだ。たった一人の揺るぎない味方が、この状況を逆転させる。

「ですが、彼女の縫った着物は使いものにならないでしょう?」

 少年は、静かな声で訊く。彼女が伯爵家に嫁してから三年ほど経過しているが、あんな過激な行動に出られる少女が、よもや強いてやらされている裁縫の腕を大人しく磨くとも思えない。

「殿下、あなたは何をご存じなのかな?」

 伯爵の張りついた笑顔が、にわかにひきつる。「わかったようなことを言わないでいただきたい」

「僕は何も言っていませんよ、伯爵。異和感があるだけです。先ほども申しあげたとおり、彼女は停滞に甘んじる女性ではありませんでしたから」

 オースティンは灰がかった青の瞳を細める。「むろん、他家の事情に口を挿むような野暮はいたしません。ただ、いくら嫁ぎ先とはいっても、ラージャスタンはアンジューや僕にとって異郷の地にはちがいないでしょう。同郷人である彼女にひと目会い、互いに不安を分かちあいたいと願うのは、自然なことではありませんか?」

 どうか、伯爵「閣下」、とオースティンは少年らしい恭しさを装う。当然、ムルーワ伯爵とてそれが表面上のものでしかないことを理解しており、また少年が暗に彼を脅迫したことも察しているはずだった。

 オースティンは、伯爵が夫人を不当に閉じこめているとみて、それを黙っている代わりにアンジューに面会させろといったのである。夫が妻を酷に扱ったところで罪にあたるわけではないが、貴族の婦人が一堂に集うこの宴で悪い評判をたてられては、今後、社交界で孤立するはめに陥ってもおかしくない。基本的に、女にきらわれるとろくな目に遭わないのだ。

 伯爵の反応を見る限り、オースティンの推測はあながち的はずれでもないらしかった。少年は伯爵の頬が震えているのを、冷静に観察する。大人しくアンジューに会わせればよし、さもなくば婦人たちと熱心に会話することになるが、後者は面倒なので、できれば素直に応じてもらいたい。

 ところが、

「——何が、自然なこと、だ……ッ!」

 突如として、ムルーワ伯爵は癇癪めいた叫びをあげた。「人の妻を結婚前にたぶらかしておきながら、よくも!」

「……」

 オースティンは嘆息した。だめか。

「妻の不貞が露見すれば、夫は女を家の奥深くに閉じこめて、決して家の恥を外にもらしはしない。ラージャスタンでは当たり前のことだ。子供の陳腐な脅しなど、恐るるに足らん!」

(ああ、自分でばらしたな)

 これで脅迫の種は尽き、正々堂々アンジューに面会する手立ては潰えた。オースティンは内心舌うちしながら、激昂するムルーワ伯爵を眺めやる。

 ひとまず、意識のうえで耳と眼を閉じ、伯爵の怒りを受け流した。しばし伯爵はひとりで吠えつづけていたが、少年が聞く耳もたないと言わんばかりの態度でいるのに気づくと、さらに激しはじめた。つくづく余裕のない男である。こうした一貴族の挙止も、ラージャスタンの皇帝専政と他勢力の脆弱さを如実に表しているようで、オースティンは他人ごとのようにしょっぱい気分になった。

「——聞いているのか、血統が売りの愛玩犬め!」

「!」

 オースティンはそのどなり声で、いまいちど周囲の物音に注意を向けた。目の前で、真っ赤な顔をした伯爵が息巻いており、他の出席者たちは一定の距離をおいて、こわごわと、しかし好奇心丸出しの顔で二人を見守っている。

 少年はひとりでムルーワ伯爵に対峙しており、誰一人として一緒に立ってくれる者はなかった。かつて、何かしでかしたときは必ず割って入ったアレンも、もはやここにはおらず、もう二度とあの乳兄弟とまみえることはないのである。

 急に、わびしさがオースティンの胸に迫った。前々からわかっていたことなのに、自分ではすでに納得したつもりだったのに。故郷よりもはるかに温暖なこの土地で、少年は奇妙なまでの肌寒さを覚えた。

(アレン)

 オースティンは声には出さずに懐かしい少年の名を呼んだ。

 ——止めてくれ、僕を。……

「《英雄の血》と容姿しか取り柄がないくせに、よくもえらそうにものを言えることだ、ムストフ・ビラーディ・オースティン!」

 黙りこんだ少年をよそに、伯爵は勝ち誇ったふうで言い放つ。「あの女に会ってどうする? 慰めあうとは何だね、閨の話かね? 身勝手なものよ、かつて女ひとりを自害に追いこんでおきながら、いざ異国で彼女と二人きりになると、てのひらを返して慰めあおうとは。男として、貴人として、恥を知るがいい!」

 カリエン・ムルーワは喉を震わせて哄笑した。

「——ああ、そうよ。ムストフ・ビラーディは、本来、貴人などではなく、農民の血筋ではないか。これは失敬。そう、英雄クレイガーンの名のもとに大陸を『平定』した偉大なる《血》は、土臭い農民から生じたものだったな。成りあがりが、今や同じ農民の女といわず貴族の女に王族の女、果ては我らが皇帝陛下——創り主たる炎よ、我らが皇帝をよみしたまえ——の掌中の珠をも得るのだ、まったくこの世は度しがたい!」

 伯爵は息を切らしつつひと息に言うと、目もと口もとに下卑た笑いをにじませる。「さて、ぜひとも教えていただきたいものよ、ムストフ・ビラーディ。どうやってあの娘をたらしこみ、どうやってひとりで刃を握らせたのだ? あの娘、おまえにはたいそう従順だったのだろうな? 一緒に死んでくれ、が女の常套文句だろうに、すべての情婦がそうやって死んでくれれば、さぞかし都合がよかろうなあ。どうせ、あの娘のみではないのだろう、そうやっておまえのために死んでいった女は! 何しろ、大陸中の国家を、老若男女すべてをたらしこめる美貌だからな」

「言いたいことはそれだけか?」

 と、少年は尋ねた。

「なんだ、聞こえんなあ」

 おどけて口の端をあげるムルーワに、

「もう充分だ」

 オースティンはそう告げた。「……抜けよ」

「は? 何……」

 男はさっと青ざめた。調子に乗って罵詈雑言の限りを尽くしたのが、一転、あわてはじめたが、オースティンはかまわない。

「刀を抜け。腰のそれは、なまくらというわけではないだろう?」

 大きい声ではないが、それでいて強く、少年公子は言う。言いながら、己の腰にある飾り刀をつかんで、胸の高さに掲げた。柄を握ってゆっくりと引けば、白い光を放つ刀身が徐々にあらわになる。宴席用の飾り刀ではあるが、真剣だ。

「さっき、僕の支度をした女官が、教えてくれた。アグラ宮殿で皇帝陛下に仕える者は、誰もがこうした武器を持っていると。主君を守るため、自分自身を守るため、誇りを守るため、あるいは栄誉を賜ったとき。これを、使うそうだな」

 少年は刃を点検し、それからかまえた。

「僕もさっそく、自分とアンジューと祖国トゥルカーナ、そしてマーリ姫と皇帝陛下の名誉を守るため、これを使う」

 オースティンは、クレイガーン譲りの美貌で、微笑んでみせる。「——始めよう」

 女たちのあいだから悲鳴があがった。男たちもいっせいにおろおろしはじめ、今や宴はそのおもかげすら薄れた。が、誰もオースティンを思いとどまらせようとはせず、また彼に代わってムルーワ伯爵の不敬を糾弾しようともしない。

 カリエン・ムルーワの発言は、何よりもトゥルカーナ公子オースティン・カッファへの侮辱である。ラージャスタン皇帝の臣下にすぎない貴族に許される所業ではない。加えて、英雄や大公一族全体を貶めることでトゥルカーナという国家をも辱めたうえ、その国との関係を重くみるラージャスタン、そうした外交を容認する皇帝ザーケンニ七世、公子との婚礼を控えた皇女マーリ、それら全部を愚弄している。

 よって、オースティンには刀を抜く正当な理由がある。たとえ原因が彼自身にあるとしても、少年はムルーワ伯爵の名誉を傷つけるような事柄をほのめかしたにすぎないし、まして伯爵程度が他国の公子を侮っていいはずがない。妻に対する侮辱については責められはしないが、彼女の従兄にあたるオースティンが怒りを覚えるのは道理に適っている。

 しかし、当の本人は理屈から遠かった。

 おかしくなりそうだ、と少年は思った。頭が熱くて、何も考えられない。

 はっきりしているのは、

 ——この男を、許さない。

 ということだけだった。何が正しくても、何が誤っていても、この男を殺さなくてはならない。

「こ、公子殿下、やめられよ!」

 離れたところから、怯えた声で制止する者もあったが、少年には届かなかった。少年は、愕然としている男を見据えたまま、動かない。かまえた刀は、正確にムルーワ伯爵の首筋を狙っている。

「やめ……ッ」

 対するカリエン・ムルーワは完全に逃げ腰である。抜け落ちるように尻もちをついた。

「ムルーワ伯爵、いいから謝罪せい」

 誰かが横から忠告した。「そうすれば、ムストフ・ビラーディも気がすむだろうよ」

「く……。公子殿下、私が悪——」

 切先が、男の鼻をかすめた。伯爵はひッと叫び、尻もちをついて退く。

「黙れ。——いいから抜けよ」

 オースティンは低い声で命じる。「僕はおまえを殺す。おまえも僕を殺せばいいんだ、何か問題があるか? 貴族は戦争が仕事だろう……、もっとも、長年の敵とかりそめの和解を成立させて、平和ボケしてるのかもしれないが」

 そして、抜け、ともう一度くりかえす。

 ムルーワ伯爵は、とうとう意を決したように立ちあがった。いったん、少年とのあいだに距離を空け、そこは貴族らしく、きちんと衣服を整える。尻についた芝を落とし、裾の長い上着の皺を伸ばした。最後に、腰の刀をとって鞘を払い、空の鞘は地面におく。

 予告なしに、伯爵は大地を蹴った。

 少年はにやりと笑い、それに応えようと走りだす。ふたつの影が、灯籠の曖昧な光を切り裂いて駆けた。

 今にも二人がぶつかりあうと思われたそのとき——かすかに空気が鳴った。

「!」

 カリエン・ムルーワの背後から飛んでくるものに、オースティンは気づいた。伯爵の側からはもちろん見えない。

 ムルーワはいきなり転倒した。女たちがまた悲鳴をあげ、男たちはどよめいた。

 オースティンはなんとか勢いを殺して足を止めた。

「——」

 急激に、からだの熱がひいていく。少年は、暗闇のうちで明かりを浴びたムルーワの背中を見るにつけ、おのずから刀を納めた。ぶつかりあう前に転ばれてしまっては、その隙を突く気にもなれなかった。

 伯爵はまったくの無傷だった。何が起こったのかわかっていないらしく、しきりに目をまたたいている。再び立ちあがろうとするも、何かが彼を地面につなぎとめた。

 矢だ。一本の矢が、ムルーワ伯爵の衣服の裾を捕らえ、大地にとどめている。

(彼女が——)

 オースティンにはすぐにわかった。少年以外の者も、その場にいる全員が理解した。

 ——マーリが。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ