第1話 英雄の子ら(2)
馬車は走る。
日ごろ一般市民が使用しているものをわざわざ借りてきた、大公一族の人間が乗りこんでいるとはとても思えない——馬車は往く。それも、淋しいことにたったの二頭立て。馬も、サンヴァルゼ城で飼育されている名馬などではなく、十把ひとからげの中から足の速いもの。車も、ニス塗りで輝いてはいるが、意匠の面では何ひとつ見どころのないみすぼらしさである。
人生の門出ともいうべき旅路を、そんな車で疾駆するのだから、仮にも支配者の家に生まれたオースティンが不機嫌極まりないのも、仕方のないことではあった。
「オースティンさま」
アレンは主の顔色をうかがう。「何か不都合はございませんか?」
尋ねたあとで、ばかばかしいことを訊いてしまった、と小姓の少年は思った。何かも何も、オースティンにとっては何もかもが不都合に決まっている。揺れに揺れる古びた馬車も、狭苦しい座席も、足は速いが無神経な駆けかたをする馬も、生まれ育った城に唐突に別れを告げさせられたのも。
やはりオースティンはいらだったまなざしを向けてきただけで、返事はしなかった。アレンも苦笑がちに肩をすくめてみせると、複雑な気分で自分たちを取り巻く状況を見まわした。
車と馬が貧弱なのは、いいとする。オースティンはいざ知らず、一介の従僕であるアレンにとっては、さほどの異和感はない。問題は、オースティンに付き添ってきた従者の数である。まず、車内にアレン一名。彼はオースティンと二人、幅も奥行きもない座席に積みこまれている。それから、車外に御者が一名。従者の顔ぶれは、以上だ。
とどのつまり、トゥルカーナ第三十一公子オースティン・カッファをラージャスタンまで見送っていく者は、若干二名。加えて、情けなくもわびしい風情をもつ、じきに廃棄するだろうことを見る者に予測させる馬車、それに足が速いだけの馬。大公タルオロット三世がオースティンに与えた餞別は、信じがたいまでにけちくさかった。
事情があるにしても、ため息をつかずにはいられない。アレンはオースティンのかたわらで、長い長い息を吐く。
「なんだ、アレン。後悔しても遅いぞ」
オースティンはとげとげしく言い放つ。「あのクソ馬ども、走りだしたら止まらないと、ハスダがこぼしていた」
ハスダは御者として付き従ってきた従僕である。彼はオースティンやアレンと歳が近く、日ごろから三人でよく雑談していた。トゥルカーナの大公一族は、支配者とはいっても民の僕であり友であるのが前提、従僕と公子の距離は遠くない。
「後悔なんかしてませんよ」
アレンは淡々と返した。「いちいち気になることが多いだけです」
「は、これが気になるとかいう次元の話か?」
オースティンは鼻で笑い、冷笑的に唇を歪める。「ボロ馬車! クソ馬! 従者は歳の近い下働きが二名ポッキリ! 民に、そのへんに遊びにいくとでも思わせるのか? ああ?」
「ぼくに訴えてもむだです。それと、そういう言葉遣いはおやめください」
アレンはもういちど嘆息した。《黒曜の髪、大理石の肌、曇り空の瞳》でもって心底いやそうな表情をしたうえに、《春雨のごとき声》でもって、ボロ馬車! クソ馬! 二名ポッキリ! などと叫ばれては、マーリ皇女の百年の恋も婚礼前に冷めかねない。
「仕方ないですよ。先方から目立つなといわれてるんですから」
しかし釈然とせず、アレンは述べる。「マキナ皇家は秘密主義で有名ですしね。むこうでは、発表もごく簡単にすませるそうですよ」
ラージャスタンを統べるマキナ皇家の徹底した秘密主義は、大陸では知らぬ者がない。何しろ、外交の場に現れるのは、必ず子爵以下の下級貴族もしくは選ばれた民間人である。それも、どこかの国王主催の祝宴ともなれば、普通は他国に対する示威行動として、大勢の従者と護衛とを引き連れてくるのが常なのに、ラージャスタンだけは十人以下の遠征。それも、外交官の役割を担う者の他は、ほとんどが女官だ。それがまた美人だらけで、ある種の示威になるかもしれないが、じっさい彼女らがいかなる役割を任されているかは謎である。
ここで生じる面子の問題に関しては、古き大国、しかも特殊な伝統のはびこる国相手に、面とむかって批判の声をあげる者はない。また、たとえラージャスタンが王侯の宴に下級貴族をよこして軽んじたとしても、それは前々からあったことであり、今となっては当たり前のことである。無礼も伝統ならば、そのつど憤慨するより容認するほうがてっとりばやい。
他にも、アレンにとって身近な話として、オースティンの従妹アンジューの一件があった。英雄の血筋としては傍流にあたる彼女も、ラージャスタンの伯爵家に嫁がされている。以来、数年の月日が流れているが、アンジューがトゥルカーナ大公一族の責務をまっとうしたかどうかは、一切こちらに伝わっていない。
というのも、便りがないのである。皇帝の忠実な僕たる某、という名義の手紙がたびたびトゥルカーナに届くものの、大公へのご機嫌うかがいであったり、今後の婚姻の相談であったりして、アンジューの近況にはかすりもしない。彼女の母でタルオロット三世の妹、国内の民間有力者に嫁いだロビアが、娘を案じて幾度となく手紙をしたためたが、芳しい回答は得られなかったという。
マキナ皇家は昔から、何かに怯えながら暮らしている。少なくとも、アレンにはそのように見える。何に、というならば、六百年前の戦乱の世紀には犬猿の仲だった、スーサやカルムイキアだろう。同じ《英雄同盟》の加盟国とはいえ、敵対の歴史はそう簡単に払拭できないのだから。
そのうえ、この一世紀中にはプリエスカとも対立している。ラージャスタンは敵だらけの国だ——いや、本当はどの国もそうかもしれない。ならばそれを収拾した英雄クレイガーンは、やはりラシュトーにとって尊い存在なのだろう。
オースティンもまた、その血を濃く受け継いだ公子。それも、先祖返りしたといわれる容姿をもつ。けれどアレンは、この主が英雄の血族になど生まれ落ちなければよかったのに、と思うことがある。
誰もオースティンを放っておかないにもかかわらず、誰もオースティンを見ていないのだ。
「オースティンさま」
アレンはふと、彼のほうを向く。
「……」
オースティンは窓に寄りかかっていたが、大儀そうに眼だけを動かした。
「大丈夫ですか? 酔われましたか」
「……」
返答する気力もないようである。
「横になられます?」
「こんな狭いところで、どう横になれと……」
「ぼくの膝をお貸ししますよ」
アレンは自分の膝をぽんと叩いてみせた。
「何がうれしくて男の膝枕……」
「そんなこという余裕があるようには見えませんね」
オースティンはただでさえ乗り物に弱い。馬にも船にも汽車にも乗れない。それなのにこの安物馬車だ。車輪の状態もよくないのか、ひどい揺れである。アレンが大公だったならば、たとえマキナ皇家に何を言い含められていても、こんなオースティンをこんな車には乗せない。
「……寝る」
「はい、どうぞ」
アレンはやわらかくうなずいた。青い顔のオースティンは、静かに横になる。アレンの膝に、主の頭の重みが降りてきた。アレンはしばらくのあいだ、気持ち悪そうにしているオースティンを見守っていたが、やがて彼が寝入ったので、窓の外に目をやった。
外は闇、何も見えない。今はどのあたりで、ラージャスタンまであとどれくらいかかるのだろう。トゥルカーナはラシュトー大陸の南東にあり、ラージャスタンは西部にある。大陸横断といって差し支えないこの旅、先はまだまだ長い。
苦しむ主のために、アレンは早く着いてほしいと願ったが、はるかな道のりを密かに喜びもした。アレンと御者のハスダが、あちらに嫁いでいるアンジューを除いて、オースティンを見た最後のトゥルカーナ人となるときが近づいている。