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精霊呪縛  作者: 甲斐桂
第一部 プリエスカ・理学院編
47/105

第13話 異国へ(4)

 残りの春休みを、シフルはセージとふたりで過ごした。

 秋休みにはいちいち帰省するのが面倒だからと居残っていた学生も、元日を含む春休みともなれば揃って故郷に帰ってしまう。それは、教授陣や学院内で働くその他の人々も例外ではなく、春休みが始まって三日経ったころには、理学院はがらんどうになった。

 警備員が残っていたものの、構内はほぼ空である。日ごろ食事を用意してくれる寮母も、少数の居残り組の世話などしてくれない。四日めの朝、朝食時になって食堂にやってくると、寮母による今年最後の朝食とともに、居残り組あてのメモが添えてあった。

〈三日間、自分たちで食事をつくること。材料は揃えてありますが、足りない場合は街に出るのもいいでしょう。おこづかいがなければ、先生がたに泣きつくことです〉

 新年は「脱走」も大目に見てくれるらしい。シフルたち居残り組二十名弱はこれを読んで、寂しいながらも喜んだ。シフルとセージは、前夜と元日に街にくりだそうと決めて、残りの食事は他の学生と協力して準備した。

 五日めの夜、ふたりは私服でグレナディンの街に降りていく。それなりの料理屋をみつけ、店の扉をくぐると、そこは家族連れや恋人同士、友人同士の客で大いににぎわっていた。シフルとセージはそのなかに混ざり、みなで祭気分を共有しつつ食事をとった。

 夜が更けても、この日ばかりは子供も店を追われない。大人たちが酒を飲む横で、子供も、うとうとするなり語りあうなりしていい、特別な日だ。シフルとセージは、ちょうど疲れがたまっていた矢先、知らず知らずのうちにふたりして食卓に突っ伏して寝こけてしまったが、夜明け前には他の客が起こしてくれた。

 みな、時計を確かめてから外に出ていく。大人も子供も、シフルもセージもあとに続いた。

 空は白みはじめている。朝方の空気は春とはいえ冷えきっており、寝ぼけ眼のふたりが目を覚ますには充分だった。

 鐘が鳴りだした。グレナディン大聖堂の鐘楼から、高く高く響く。朝の透き通った大気を震わす、新年のはじまりを告げる鐘。それはおよそ三十分のあいだ、鳴りつづける決まりである。

 グレナディン大聖堂のある理学院からそう離れていない通りでは、あの巨大な鐘の音はうるさいぐらいで、互いに「あけましておめでとう」を言っても、相手の声がよく聞きとれない。年初から、どなり声のあいさつを交わすはめになる。

「セージ! あけましておめでとう!」

 少年もまた、鐘の音に負けじと叫んだ。

「こちらこそおめでとう、シフル!」

 セージはおかしげに笑っている。おそらく年末に寮に残ったのは初めてのことで、こんな耳障りな年明けも初めての経験にちがいない。あの農村では、どれほど静かに年を越すのだろうか。

「来年はラージャスタンで!」

「おー、来年はラージャスタンで!」

 そう言いあって、ふたりは握手をした。周囲の人々も、「来年もこの街で」と手を握りあっている。こっちのほうが、正しい新年のあいさつだ。

 それから、シフルとセージは見知らぬ人たち——前夜を料理屋でともに過ごした——とも握手を交わして、学院への道を戻りはじめた。寮の自室に帰り、それぞれ眠りに落ちた。

 昼に起きだすと、もういちど街へ出ていく。商店街には屋台が立ち並んでいた。道化や大道芸人、音楽家が、道往く人を捕まえては芸を披露している。ふたりは通りすがりに演奏を見物したり、屋台で肉の串を立ち食いしたりして祭を楽しんだ。祭の屋台の食事は、あまりいい食材を使っているとはいえないけれど、その場で味わえばひどくおいしく感じられた。

 そうして夜まで街を練り歩いたあと、ふたりは学院に帰った。翌朝は、自分たちで食事を用意する。今日からは寮母も再び働きだすので、祭気分は終わりだった。春休みもすでに七日めの今日、留学メンバーたちの休暇は終わる。ふたりはこの最終日を、心静かに暮らした。夕方には、帰省していたルッツとメイシュナーが寮に戻ってきた。

 春休み八日めは、シフルたちにとっては留学直前特訓の開始である。ラージャ語の講師は休み足りないふうで小教室に入ってきたが、

「おはよう、留学生諸君」

 という第一声ののちは、嘘のような覚醒ぶりを見せた。今日からは今までよりもっと厳しくする、と言い放つと、まずは四人に現代プリエスカ語使用禁止令を布いた。これからの二週間はラージャスタンにいるつもりで過ごせ、というのである。どうせこの二週間、ここにいる人間以外と話す機会はめったにないだろうし、それぐらいの気概でないとラージャ語が定着しない、とも。

 メイシュナーは即座に《それはどうかと思うんすけど》と反論したが、ちゃんとラージャ語を使った。

「《学院の先生たちにとっては、元……敵国、の言葉じゃないですか。おれたちはいいけど、先生がたの、気持ち、としてはあまりよろしくないんでは》」

 ときおり単語が抜けるようで、滑らかではなかったものの、かなり話せている。

「《やむをえない、ということになった》」

「《どうしてですか。不愉快じゃないんですか?》」

 シフルは間髪入れずに問う。

「《ふむ、まあ、必要なことだしな》」

 そう告げて、彼は話題を終わらせ、授業に入った。シフルは釈然としなかったが、蒸し返さなかった。聞いてもむだだと知っていた。シフルたちより上の世代の人間には、ラージャスタンの話題は、神経質にならざるをえないものだ。それに、おおよその見当はつく。

 先日セージが入りこんだ国、ラージャスタン。大人たちの考えが合っているとすれば、この留学は一筋縄ではいかないかもしれない。勉強どころではない可能性もある。しかし、問題はラージャスタン側がプリエスカをどうみなしているかだ。そもそもあの戦争をしかけたのはプリエスカのほうなので、あちらはもうことを荒だてる気はないかもしれない。

 どちらにしても、現段階では何もかも推測の域を出ない。判断は、ラージャスタンに行ってからにしよう。それには、深く考えないほうが自分のためである。よけいな先入観をもって、誤りを犯したくない。

「《では今から、このラージャ語テキストを読んでもらう。読み終わったら、内容についてラージャ語で議論する。始め》」

「《はい》!」

 今はとにかくラージャ語を習得することだ。シフルはそう決めて、テキストにとりかかった。

 特別カリキュラムはこうして大詰めに入り、留学生メンバーたちは以後二週間、ひたすらにラージャ語で会話することになる。それこそ場所も状況もかまわずに、すべての用事をラージャ語でこなした。ラージャ語を使えない者としゃべるときは、まずラージャ語で表現し、そのあとで現代プリエスカ語に言い直す。

 このころ、目立ったのはセージである。春休みが過ぎて特別カリキュラムに参加した彼女は、年末とはうってかわった、流麗なラージャ語発音を披露したのだ。これには、シフルやルッツ、メイシュナーのみならず、教師も唖然とした。

「《ちょっと機会があって、発音のいい人としゃべったんです》」

 と、セージは言う。つけいる隙のない、完璧なまでに美しい発音で。

「《『イミテート』なの、ロズウェル》」

 ルッツが確認すると、《そうだよ》と彼女は肯定した。「イミテート」の部分は、専門用語に近いニュアンスなので、現代プリエスカ語をそのまま使う。

「《ずっりー、ロズウェル! なんだあそれ!》」

「《メイシュナーも私を真似したらいい。ほら、どうぞ?》」

 セージは例のいやみったらしい笑みをみせる。今となっては懐かしささえ覚える、彼女の一面だ。シフルは苦笑した。メイシュナーが猿のごとく悔しがる横で、シフルは《イミテート》とまではいかなくとも、美しい発音の感じだけはつかんでおこうと耳を澄ましていた。

 休憩時間は、むろん彼女に発音指導を頼みこんだ。中庭の芝生に座りこんで昼食をひろげ、ふたり顔をつきあわせて、

「ダー」

「ちがうよ、この場合はダハー。喉を開く感じで」

 などと教えてもらう。セージはなるほど柔軟な舌と喉をもっていて、現代プリエスカ語にない発音もきれいだった。《イミテート》については、「とにかく集中して耳をそばだてて、特徴をつかむんだよ。何ごとも全体に統一性があるものだからね。それを理解したら、あとは応用すればいい」と簡単に語ってくれたが、やはりシフルでは彼女と同じにはいかない。ひとつひとつ手本をみせてもらうしかなかった。

「悪いな、教えてもらうばっかで。助かるよ」

 シフルが礼をいうと、

「いいのいいの」

 と、彼女は微笑む。「余裕ができたら、シフルにゼッツェを教えてもらうんだ。あっちは真似しちゃいけないんだもんね」

「オッケー」

 シフルはにかっと笑い返した。「約束する」

 二週間はあっというまだった。その間ゼッツェを吹く暇はとてもなく、ラージャ語習得にかける時間以外は、食事やその他の用を足すだけ。

 一週間が経ったころに、シフルたちは旅支度を始めた。着替えは先方が用意してくれるという話だったので、かの国にたどりつくまでの汽車の旅に必要な最低限の荷物を選び、トランクに詰めた。ゼッツェも布に包んで入れた。

 出発の前日、プリエスカ国王の住まい——フェルゾー城で祝典が催された。名目は冬のあいだ床を払えなかったという王姉の病状回復を喜ぶ集いだが、もちろんシフルたちの壮行会である。王宮に賓客として招待された留学メンバーは、元素精霊教会所属の召喚士であることを示す深緑のローブ、すなわち《若人》役と同じ装束を着せられ、祝会の席に送りこまれた。

 フェルゾー城は思ったより質素だった。一歩城内に踏みこむと、床も壁も柱も雪花石膏でできており、まるで城全体が雪野原のようだった。つまり、それぐらい飾り気がないのである。

 教会の聖堂であれば、柱に雪花石膏や大理石を使ってあっても、象徴である《セスタ・ガラティア(四つの力)》は黄金製だわ、身廊には南方風の高価そうな絨毯が敷いてあるわ、司祭のローブは色とりどりの宝石が散らしてあるわで、非常に豪華で鮮やかな色彩となる。けれど、フェルゾー城は様相が異なっていた。宝石も金も繊細な模様の絨毯もない。とにかく白一色なのだ。

 シフルは雪花石膏の拱廊を、案内役のあとに続いて歩きながら、きょろきょろと周囲を見回していた。

(プリエスカのコルバ家は、ロータシアのゼン家を倒して国を乗っとったから、腹黒い印象があるけど……)

 奇妙な白い王宮は、プリエスカが興った際に建立されたものだ。まるで潔癖さを主張するかのように。

(って、自ら主張してるんだったら、やっぱ腹黒い感じか。でも、教会のキンキラキンっぷりなんて、あからさまに腹黒いしなー)

 拱廊は屋外に面しており、柱と柱のあいだからグレナディンの街が一望できた。高さにして五階なだけあり、すばらしい眺めである。

「うわ……」

 今日はよく晴れている。

 春の名に相応しいうららかな日射しが拱廊に差しこんで、祝典の会場に向かう途中のシフルたちの行く道を、光で満たしていた。思わず立ち止まると、

「みなさま、おはやく」

 と、案内役に急かされた。

「ほらシフル、叱られるよ」

 ルッツが背中を押すので、仕方なくシフルは歩を進める。

 けれど——本当はこのまま、そこにとどまっていたかった。

 明日には慣れ親しんだプリエスカを離れなければならないと思うと、感傷にとらわれたのかもしれない。シフルは、せっかくラージャスタンで勉強できるのに、ばかだな、と少し自分を笑った。

 少年は胸を張り、姿勢を正して、日だまりの拱廊を歩いていった。



  *



 朝早く、シフルは目覚めた。

 昨夜はあまり眠れなかった。でも、ひどく目は冴えていて、このまま起きあがっても差し支えないように思われた。シフルはベッドを降り、洗面をすませてから、祝典のときに与えられた召喚士のローブをまとった。アグラ宮殿に着替えを渡されるまでは必ずこれを着ていろと、国王から言い含められている。

 国王は中年に差しかかった青年で、優しい眼をしていた。少なくとも、簒奪者の顔ではなかった。

 簒奪事件は百年と少し前の話だから、もちろん今の国王は簒奪者本人ではない。けれど、直系の子孫にもかかわらず、覇気といったものがまったくなかった。シフルが感じられなかっただけで、実は優しい眼に多くのことが秘められているのかもしれない。しかしシフルは、あの国王のために働かされるとしても、別にかまわないと思った。手助けせずにはいられない人だと。王党派の熱狂とはほど遠かったが、王が奉戴されることに対しての理解はできた。

 いわれたとおりに、ローブの乱れをきちんと整える。ほつれや取れかかった飾りはないか、綿密に確かめた。

 最後に、青いクーヴェル・ラーガの光る、理学院の校冠をかぶった。国王ファルデン・コルバ・プリエスカは、ラージャスタンの服を着ても、これだけは決してはずさないようにと言っていた。校冠をつけている限り、シフルたちは王立理学院の学生であり、ひいてはプリエスカ人なのだと。

「よし」

 シフルは鏡を見て、つぶやく。

 あれは正直あほらしいと思ったが、あの気弱で優しげな王の言葉なら、同意してもいい。でも本当は、自分がプリエスカ人かどうかなんて、重要なことだとは思わなかった。が、ラージャスタン人になれるわけでもない。彼らが学生たちをいろいろな意味で案じているのは理解できるけれど、あれしきの祝典を開いてもらったぐらいで、国民としての意識など高まるものか。

 ——オレはオレだ。自分が正しいと思ったことをする。

(たとえあの国で何かが起こっても、頼りにするのは自分であって、国じゃない)

 シフルは繰り返し、自分の胸のうちでひとりごちた。彼とて、自分が迷いのない人間ではないことはよく知っている。だから、何度も何度も自分に言い聞かせた。

 その儀式的な行為を気のすむまでやって、シフルはトランクを抱える。

 時計を見た。明け方の五時半。汽車の出る時刻は六時半である。今日は、朝食をとらずに学院を発って、車内で弁当を渡されることになっていた。今から部屋を出てセージやルッツ、メイシュナーに声をかけ、みなで駅に向かえば、余裕があってちょうどいい。シフルは扉に手をかけた。

 把手をひねり、扉を押す。

(……ん?)

 シフルはもういちど把手を返し、またひねった。

 が——どういうわけか、開かない。

「な……、なんで?」

 少年は把手をつかんで押しながら、扉を蹴ってみた。壊すわけにはいかないので、手加減はしておく。びくともしない。鍵が締まっているのかと、念のため鍵を差しこんでみる。やはり、鍵はかかっていない。でも、開かない。何かがつっかえているのかもしれないし、新しい建物ではないから建てつけが悪くなっているのかもしれない。

(まあ、いっか。どうせ時間になれば、セージが迎えにくるよな)

 シフルはベッドに腰かけて、時間が経つのを待った。まだまだ出発時間まで余裕がある。学院から駅までは徒歩で十分ぐらいなので、最悪六時二十分に出れば間に合う。

 ところが、いくら待ってもセージは来なかった。ルッツもメイシュナーも、シフルをおいて先に行ったのだろうか。さすがに三十分前ともなると焦りが募って、シフルは激しく扉を叩いた。が、扉はうんともすんともいわないし、廊下で応えてくれる人もなかった。

(嘘だろ?)

 シフルはしばらく扉の前であがいてむだに終わると、窓を開けにかかった。しかし、窓も同様だった。押しても引いても動かない。

 そのとき、窓の外に、荷物を持って移動しているセージが見えた。ルッツとメイシュナーも一緒で、三人ともシフルがいないことに疑問を抱いた様子はない。シフルは疎外感を覚えたが、そんなことで落ちこんでいる場合ではなかった。今は、一刻も早く駅に向かわなければ。

「セージっ! ルッツ、メイシュナー!」

 大声をあげて、窓ガラスを打つ。何度も何度も打つ。が、かなりの大音を響かせているにもかかわらず、三人は気がつかなかった。ふと見れば、拳が真っ赤になっていた。ここまでやって、窓ガラスが割れないのはおかしい。ガラスなど少し叩いただけでも壊れる。

(なんでだ……? いくらオレだって、そんなに力がないわけじゃない)

 シフルは腫れた手をじっとみつめる。試しに指を七本立てた手を掲げ、振り降ろしてみた。

サライ、力を貸してくれ!」

 サライの子らは、応えなかった。いつもなら、七級火サライであれば当たり前のように種火がともる。それで、シフルは察した。この場所では、精霊を召喚できないのだ。

 ——結界。

 結論に至って、少年は信じがたい思いだった。何者かがシフルの部屋に結界を張ったのである。シフルが部屋の外に出られないように、ラージャスタンに行けないように。どうして、と自問するまでもなかった。召喚士の見当はついている。具体的に誰とまではわからないものの、どういった立場の人物なのかは考えるまでもない。

「はは……、そこまでするか、オレごときに」

 覚えず、笑いがこみあげた。それから、時計を見る。あと五分で、汽車がグレナディンを出る。

 これに乗り遅れれば、シフルは取り残され、ひとりだけラージャスタン留学が白紙になる。ついでにいえば、あれほど大々的に祝典を催したうえで白紙になるのだ、やったことはほとんど詐欺に等しい。シフルの社会的信用は失墜し、世間は冷たくなるだろう。そうなれば、シフルは教会を離れられず、教会のなかで弱い立場となり、便利な駒となり果てる。

「見え透いてんな、教会も——」

 少年はいつになく低い声でひとりごちた。「——でも、しょせん最後のあがきだ。そうだよな、ラーガ?」

 発車時刻まで、あと三分。



 グレナディン駅のホームは、見送りの人々でごったがえしていた。

 線路が通っていても、ラージャスタンに向かう汽車は本数が少ない。国交は回復しているとはいえ、プリエスカ人でかの国に行きたがる者はそういないからだ。しかし、国交がある以上、商用や移住の目的で渡航する者もいて、そうした人々は月一度しか出ないラージャスタン行きの汽車を待たなくてはならない。そういうわけで、早朝のグレナディン駅は、理学院の留学生だけでなく、そうした人々の家族や知己で満杯だった。

 留学メンバーは、一等という破格の席を与えられた。ラージャスタンまではまるまる二日ほどかかるので、汽車は寝台列車である。セージたち三人が自分たちの部屋をみつけてカーテンを開けると、四人で使うには広いぐらいの部屋に、くくりつけの二段ベッドがふたつ、それに小さなテーブルと椅子があった。

 三人はそれぞれベッドを決めて、荷物を置く。それから、お互い気がかりなふうで顔を見あわせた。

 一人、足りないのである。

「おい猫野郎、ダナン君は?」

 と、メイシュナーが言いだした。

「知らない。『バ』カ、君、探してきなよ。体力ありあまってるんだから」

「なんだと?」

「やめろ」

 普段どおりいさかいはじめるメイシュナーとドロテーアを、セージは冷ややかに止めた。壁の時計を見ると、発車時刻まであと三分しかない。窓の外に目をやって、そこにカリーナ助教授の姿を認めると、彼女は窓に近寄り、開けた。

「先生、ダナンが来ないんですが」

「そうね、どうしたのかしら」

 助教授はつぶやく。心配してるふうでも、本気でごまかすふうでもなかった。「用事が終わらないのかもしれないわね」

「……そうですね」

 セージはかすかに嘆息した。最後の最後まで、この人は学院の人間なのか。それでもこうして、真実味のある嘘を並べたてないところが、助教授なりの誠実さなのかもしれないが。

 朝、セージの部屋にカリーナ助教授が訪ねてきた。彼女いわく、シフルは用事があってひとりで駅に向かうことになっているから、先にドロテーアとメイシュナーと三人で駅に行くようにと。セージはそれを聞いた瞬間、助教授が何をするつもりなのかを察知した。

 けれど、それでいてセージは、シフルに手を貸そうとは思わなかった。必要ないからである。しょせん、カリーナ助教授をはじめとした教授陣や教会の召喚士では、シフルの力に優越することはできない。よってその最後のあがきは、単なる表明でしかなく、シフルの今後を牽制したいという意図はわかるものの、おそらく意味をなさないだろう。

「先生、お元気で」

 出発時刻が近づいてきたので、セージは彼女に別れを告げた。

「ロズウェル君もね。それに、ドロテーア君にメイシュナー君も。一年か二年したら帰っていらっしゃい。きっとその成果を見せて」

「はい、きっと」

 セージがうなずく。ドロテーアとメイシュナーも、おのおの首を縦に振った。

「楽しみだわ……」

 カリーナ助教授は微苦笑した。「君も、きっとよ、——」

 ——ダナン君。

 セージは振り返る。

 背後には、待ちわびた少年がたたずんでいた。

 彼女はほっと息をつく。予想はついていたとはいえ、姿を見ないことには安心できなかった。

「ダナン君! 間に合ったんか」

「シフル、遅いよ」

 メイシュナーとルッツが口々にいう。シフルは二人に笑ってみせ、次に窓から身を乗りだして、見送りの理学院関係者にむかってにかっと口角をあげた。教授たち、召喚士たちはどよめき、互いに袖を引きあう。中でもカリーナ助教授は、まわりじゅうから肩をつつかれていた。

 が、カリーナ・ボルジアは、彼らには応えず、シフルをみつめている。

「先生、ありがとう」

 と、シフルは感謝を述べた。皮肉ではない。ここまで来れたのは、カリーナ助教授のこれまでの応援があったからだ。彼女に出会って、理学院での生活が始まったのだから。

 けれど、彼女はもはや何も言わずに、困ったような笑顔をみせるばかりだった。だから、シフルも何も言えなくなった。彼女の立場を守るために、あとは沈黙していたほうがいい。

「さようなら、先生」

 と、少年は最後に告げた。「——また、お会いできますよね」

 汽車が、動きだす。

 カリーナ助教授の苦笑が、流れ去る。遠くなる。

(先生)

 危ないから体ひっこめて、とセージに注意され、シフルは窓を閉める。窓ガラスに張りついて、去ろうとしている見送りの人たちをはるかに眺めやった。目を凝らすと、カリーナ助教授はまだホームに立っている。はっきりはしないが、教授たちに取り囲まれているようだった。

「ばかだな。カリーナ先生じゃなくったって、オレを空間に閉じこめることなんて、できやしないのに」

 ぼやいているうちに、もう駅が見えなくなってしまった。

「先生も、苦しいんだろうね」

 と、セージがつぶやく。

「そうだな……」

 シフルも、そうだったならいい、と思った。カリーナ助教授が、本当に自分の立場しか大事にしない人だなんて、思いたくなかった。誰よりも、あれだけ親身になって、時に優しく時に厳しく応援してくれたカリーナ助教授だからこそ、そうであってほしかった。学生を心から案じてくれる、尊敬できる先生であってほしかった。

「あーあ、これで当分グレナディンも見納めかー」

 気づけば、メイシュナーも窓に寄って、外の景色を見ている。ルッツはあまり関心のない様子で、ベッドに寝転がっていた。どことなく、気分が悪そうである。シフルが声をかけると、

「……汽車は苦手なんだよね」

 と、絞りだすように答える。

「ほー、猫目野郎にも苦手なもんが? さては馬車も弱いとか? それはいいことを聞いた」

 またしても、メイシュナーが喜色もあらわにニヤニヤしていた。話題如何にかかわらずルッツにつっかからずにおかないメイシュナーは、それこそ趣味なんじゃないか、とシフルは思う。

 ラージャスタン行きの汽車は止まらない。

 シフルの目の前で、プリエスカの風景が、一気に吹き飛んでいく。少年はもう何度めかになる車窓からの眺めを楽しみながら、汽車に揺られていった。彼の胸にあるのは、大きな期待と、小さな不安。前者はかの国が近づくにつれ高まり、後者は祖国が遠くなるにつれて薄れていく。いつしか少年の心は、彼を待ちかまえる見知らぬ土地、異国へと飛んでいた。

 汽車はプリエスカの地を走り抜ける。少年の眼には、広大な森が映っている。

 ——ラージャスタンへ!

 少年は、どこまでも行こうと思った。今度こそ、どこまでも行けると思った。

 少なくとも今は、そのつもりでいられた。何も知らなくても、いつかは彼を拒むものが現れるとしても——今だけは。



To be continued. 2003.10/29

Last modified: 2019.10/4

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