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精霊呪縛  作者: 甲斐桂
第一部 プリエスカ・理学院編
46/105

第13話 異国へ(3)

 セージの視線が痛い。

 先ほどから、何を思ってか彼女はシフルを凝視してくる。しかも、何がおかしいやら笑いを堪えているふうだ。ひょっとして、気づかれているんじゃないか、とシフルは愕然とした。だとしたら、ごまかしのきく状況にならない限り、絶対にセージと顔を合わせられない。少なくとも、声の届かないこの空間では、死んでも彼女の眼を直視しない。シフルはそう決めた。

 手を離さずにいられなかった理由——。シフルは《時空の狭間》の闇のなか、セージの声を聞き逃すまいと耳をそばだてながら、ふとした弾みで、明瞭な答えにたどりついてしまった。彼女を意識したのだ。

 よって、もしも弁解する必要に迫られたとすれば、そうときっぱり告げなくてはならないし、嘘をつくと却って本意を伝えるはめに陥る。意識したという、ただそれだけの話でも、友達であり好敵手でもある現在の関係を継続するために、これほど邪魔なものはない。より正直になるなら、恥ずかしい、といったほうが早いのだけれど。

 それなのに、当のセージがニタニタしつつ自分を見てくる。

(どうしろっていうんだよ……)

 途方に暮れて、シフルは必死に目を逸らしつづけた。その場で正々堂々みつめ返していたなら、ある意味、事態が打開される可能性もあっただろうが、シフルには巧みに表情をつくろう自信がなかった。《時空の狭間》を抜けるまで生殺しの状態が続いたのは、仕方のないことである。

 しばらく歩いて、ようやく解放されるときがきた。

〈着いたぞ。ここだ〉

 ラーガは立ち止まり、手を振り下ろした。暗闇が斜めに切り裂かれ、そのむこう側に森の鮮やかな風景がひろがった。

 シフルはほっと息をつき、弾みをつけて闇から飛びだす。足の裏の、湿った土の感触を確かめると、セージを顧みることなく手を離した。ついでに彼女から数歩ぶん距離をとり、そうしたあとでちらりとセージを見る。彼女は腑に落ちない顔で、離された手をやるかたなくみつめていた。

 シフルはかまわないふりで、足早に歩きはじめる。こうも過剰反応では申しわけない気もしたが、少年には何ごとも器用に流せるだけの経験値がない。

「さーてと! 時姫ときのひめの家はこっちかー?」

 シフルは妙にはしゃいだ声でラーガに訊く。

「そうだ、そっちでいい」

 と、青い妖精は答えた。平板なしゃべりかたのくせ、どことなく声が笑っている。「ただし、時姫さまのお屋敷は結界のなかにある」

「……」

 シフルは唇を歪めた。

 先刻、セージの居場所を発見したにもかかわらず、彼女は結界の張られた城内に入りこんでいて、助けにいけなかった。結界は、同じ級の精霊の力を使って相殺するか、より高い級の力で圧倒するかで消せるのだが、そうなるとたいがい結界を張った召喚士に感づかれるという。侵入が知れれば騒ぎは必須。では、騒ぎを避けて目的を達成する手立てはといえば、結界に踏みこむ許可を得ている内部の人間と連れだっていくことだ。

 つまり、内部の人間と、手と手をとりあって結界を越えればいい。ラーガの結界に入るためには、ラーガと手をつながなければならないわけで、とうぜん一緒に行くセージとも再びつなぐ必要がある。

「あの、シフル?」

 セージが気づかわしげにシフルを呼ぶ。

「んー?」

 少年は勢いよく、やたら大仰な仕種で振り返った。まだまだ意識している。

「本当に、私が来てもよかった?」

 と、セージは問う。シフルはきょとんとした。

「なんで?」

「なんでって……迷惑なんじゃないかな」

「な——」

(ちっがーう!)

 シフルは内心大声で叫ぶ。(そういうんじゃ、そういうわけじゃなくてさー。えーと、えーと……)

 シフルが返事に窮していると、ラーガが手を差しのべてきた。少年はごまかすように、力いっぱい妖精に手を重ねる。ばちんと小気味いい音が響き、ラーガはますます呆れていた。シフルはさすがにまずいと思ったが、もう遅い。セージはいっそう躊躇し、ラージャスタンに迎えにいったときと同じようには、手をとってくれなかった。

 胸の奥底がうずいた。ついさっきの、迷わず手を乗せたセージの軽やかさ。一瞬、自分が何をしたのかも忘れるくらいだったのに。

(あーもう、くそっ)

 シフルは乱暴にセージの手をつかんだ。彼女は驚き、見返してくる。

「——迷惑じゃない!」

 少年はそれだけ言い放ち、もう一度セージから視線を逸らして、ずかずかと歩きはじめた。右手の先のラーガはいまだかつてないほど苦しげに笑いを押し殺しているわ、左手の先のセージは穴も空くほどにシフルをみつめてくるわで、少年の生殺しの時間は依然として継続するのだった。

 三人はスーニャの結界に入りこんだ。

 なぜわかるかというと、森のある地点を通過したのち、あたり一帯にラーガの気配を感じるようになったからだ。森のそこここに、青い妖精が息をひそめているかのようである。木陰といわず、梢といわず、森のすべてがラーガの手のなかにあった。

 シフルは感心した。結界の内部に踏みこんだ経験はあるけれど、これほどの規模ではない。森全体を支配下におくスーニャの妖精とは、比較すべくもなかった。

(やっぱ、元素精霊長なんだよな、こいつ)

 少年は今さらのように実感する。ラーガはシフルにとって、肉体のうえでは母を同じくする兄弟だけれども、やはり異質なのだ。人はラーガほどには大きな力を持ちえないし、持つべきではない。

 では《母》はどうなのか、とシフルは思った。彼女は《時》属性の元素精霊長だというが、かつてはベアトリチェ・リーマンという名の人間だった。ところが、今や《時》を自在に操り、《時姫》と仇名されている。精霊のうちでも並外れた力をもつ《母》を、果たして「人間」と呼べるのか。そして、そうした力を持った人間が、「人間」のままでいられるだろうか?

 今なお「人間らしい」人間だとすれば、どうしてそのままでいられたのか。シフルの疑問は尽きない。

 ——《母》は、どんな人なんだろう。

「メルシフル」

 ラーガに声をかけられて、少年は弾かれたように前方を見た。「——あそこだ」

 妖精の指し示す先に、こぢんまりとした館があった。夕暮れ時の薄暗い森に、身を隠すようにひっそりとたたずむ家は、小さいけれど品のいい煉瓦造りで、狭い庭がついている。それだけのことが、この館の主の性質を表しているようで、シフルは時姫という人がどういう人なのか、一端であれ理解できた。煉瓦造りに庭つきの家はプリエスカ——というよりロータシアか——の平均的な住宅であり、ここはトゥルカーナの森なのだから。

 シフルには、プリエスカ人としての主張がない。意識ならかろうじて抱いているかもしれないが、彼女のロータシアのような力強さはなかった。けれど、それほどロータシアを愛していたのなら、どうして離れたのだろう。どうしてトゥルカーナを選び、隠れ住んでいるのか。自分の《母》ながら、時姫という人はよくわからない。

(でも、やっと会えるんだ)

 シフルは二人の手を離した。(あの夕焼けを一緒に見た人。親父の好きな女、オレを産んだ女)

 なぜか、胸がちくちくと痛む。まちがって棘を呑みこんだような感覚は、もうひとりの母のためだろうか。時姫と父親と自分のせいで一生を棒に振った、母親代わりの女性の。……

 シフルはベルヴェット・ダナンの影を振り払うように、毅然と顔をあげ、小さな庭に入っていった。つぼみのついたばらのアーチをくぐり、飛び石をひとつひとつ進んで、玄関にたどりつく。ラーガが、さあ入れ、と促すので、少年は扉に手をのばした。把手を思いきって引くと、何の抵抗もなく扉は開いた。

 敷居の前で、少年はためらう。ここを踏み越えて、いいのだろうか? 《実の母》に再会することは、本当に自分にとって、またすべての関係する人たちにとって、いいことなのだろうか。これまで全部うまくいっていたといえば、嘘になる。胸のつまるできごとは、幼いころから現在までにたくさんあった。しかし、一定の規則性をもってものごとが回転していたことに、ちがいはないのだ。新たな歯車を足せば、変わってしまうところも、ある。

(変えたくないのか? オレは)

 シフルは自問する。(いま手のなかにある何もかもを、失いたくないのか?)

 迷っていると、とつぜん背中を蹴飛ばされた。シフルは勢いよく内玄関に倒れこむ。少年はすばやく起きあがると、家の中からどなった。

「ラーガ何すんだよ! いってえな!」

「やかましい」

 ラーガは無表情に返す。「ことあるごとにいちいち考えこむな。いちど取り決めた約束は、最後まで守れ」

「わかってるよ、ちゃんとそのつもりだよ! 心の準備ぐらいさせろ」

 シフルが反論すると、

「待っていたら日が暮れる」

 妖精は悪びれる様子もなく、座りこむシフルの横を通りすぎ、奥の扉を叩いた。中から、お入り、と女の声がして、ラーガは足早に扉の内側へと消えていく。ああ、本当にあそこにあの女がいるんだ——と、シフルは奇妙な気持ちになった。

「大丈夫? ラーガさん、思いきりやったね」

 セージが手を貸してくれたので、シフルは素直に頼って立ちあがる。立ちあがったあとで、またしても手を払いたい衝動に駆られたが、今度は耐えた。セージに礼をいうと、あくまで自然に彼女の手を離し、それからラーガのあとを追った。

 扉の前に立ち、深呼吸する。

「……入るぞ、ラーガ」

 さっさとしろ、という声。シフルは意を決し、扉を押した。

 室内は赤かった。その部屋はサンルームになっており、夕焼け色の光で満ちている。隅に長椅子があって、ラーガはそのかたわらにいた。あたりは薄暗く、何もかもが曖昧さのうちにあり、そのまま夕闇に溶け入ってしまいそうだった。

 長椅子は外向きに置かれていて、シフルの位置からでは女の姿は見えない。でも時姫は、きっとそこに寝そべっているのだろう。

「……、」

 シフルはためらいがちに口を開く。「……ビーチェ?」

「——ああ」

 女は応えた。

「あんたなのか?」

 少年はわかりきっていることを訊く。

「確かめたければ、こっちに来るんだね」

 長椅子の背もたれから白い腕が突きだして、シフルを手招いた。ラーガに目をやると、彼はうなずいている。背後からはセージに押され、シフルはゆっくりと長椅子に近づいていった。背もたれに手をのせると、おもむろに長椅子の上をのぞきこむ。

 夕日に赤く染まっていて判然としないけれど、その人の瞳は灰がかった青い色をしていた。髪も銀色。鏡の前でいつもみかける自分に、そっくりな容貌。それが今、長椅子に横たわり、シフルをまっすぐに見返している。

「あんただな……」

 シフルはぽつりとつぶやく。

「そうだよ、私だ」

 女は返して、わずかに口角をあげた。「——メルシフル」



 ——メルシフル。



 記憶の底で、笑う女がいる。

 決して優しげな笑みではないが、シフルの隣で彼女が笑っていると、幼い少年は許されたような気がした。彼女のそばになら、いてもいいのだと。

 ——どこに行きたい、おまえ?

 けれどシフルは、帰らなければいけないと知っていた。女と一緒に行ってはいけない。もしシフルがダナン家を出たならば、父が怒り、母が殴られ、二人の関係は修復できないものになる。シフルは、ダナン家をダナン家として保つための要なのだ。よって少年は、帰る、と女に告げるしかなかった。

 ——いいだろう。おいで。

 それでも、女は態度を変えることがなかった。いつだってシフルの希望を汲み、そのとおりにするのだった。少年はだからこそ、決して望みを口に出さなかった。ひとたび言葉にしたなら、女がまちがいなく実現するだろうことを理解していたからだ。シフルは現状を変えたくて、それでいて変えたくなかった。

 自分は冷めた人間なのかもしれない、と考えたこともある。父母に対して何の関心も持たないから、今のままでもまったくかまいやしないのだと。ただ離れたかっただけで、家族をぶち壊したいわけではないのは……。

 ビンガム市立学院の教師に理学院の話を聞いたのは偶然だが、奇遇ではあった。家族は壊さず、なおかつ自分が家族を離れること。全寮制の理学院への入学は、なんともてっとり早く、いいわけの必要もない、このうえなく適当な口実になった。



 ——シフル。



 記憶の底で、泣く女がいる。

 悔しげに唇を歪め、灰がかった青の瞳はひどく揺れていた。頬をつたう涙を拭いもせず、彼女は幼い少年の顔を両手で包み、ひたすらに嗚咽をもらした。シフルは思う。彼女が泣くのは、自分がいるからだと。

 ——おまえはわたしの子。

 女の手が、少年の髪に触れ、まぶたに触れた。シフルは女の泣き顔を黙って見上げている。少年は、彼女の手を振り払い、今すぐにでも逃げたかった。でも、できなかった。軽く添えられただけの女のてのひらが、少年を縛りつけていた。

 ——この瞳もこの髪も、わたしの血よ。他の誰でもないの。

 ——おまえが決めなさい。おまえが誰の子供なのか。

 シフルはどうすることもできなかった。女のいう意味がわからなかった。女の問いには答えず、呆然と彼女を見守っていると、女の眼からあふれでていた涙がいきなり止まった。冷たい子……、最後に女はそう言った。どことなく哀願するようだった声音が、うってかわって冷えた。

 女が涙したのも、心を凍らせたのも、すべては自分のせいなのだと、少年は思った。早く女のそばを離れなければ、彼女は壊れてしまうかもしれない。壊れてしまったら、もう誰も彼女を顧みないだろう。でも、仮に再び氷の溶けるときが来たなら、誰もが彼女を振り返る。そう、きっと——父も。

 壊さず、離れよう。絶対に、許される日などこないのだから。……



「——」

 シフルは言葉を失った。

 訊きたいことは山ほどあったはずである。なぜ産み落としたのか、父に押しつけて自分は行方をくらましたのか、時という属性を身に宿しているというのはどういった感覚なのか、ラーガの器のことや、《精霊王》のことも。しかし、いざこの姉のごとき若さの女を前にして、言葉は何ひとつ出てこない。

 泣きたい気分にもならない。かつて助けてもらったことを、感謝する気にも。何しろ、よくよく考えなくとも、シフルは女に捨てられたのだ。それに、そもそも、彼女には産み落とす意思があったかどうかも怪しい。父が女の「形見」を望まなければ、シフルは生まれていないかもしれなかった。

 これは、そんな《母親》だ。いったい、どんな言葉をかけろというのだろう。育ててくれたのはこの女ではない、あのベルヴェットなのだ。たとえ彼女がシフルを慈しんでくれなくとも、彼女以外の母親などありえない。きまぐれにシフルを気にかけていたからといって、この女を母親と認めることなどできない。母親は、この世にひとりだ。

「力を……」

 シフルはやっとのことで声を絞りだした。「力を貸してくれて、ありがとう」

「ああ。そのことなら、気にしないでいい」

 と、時姫は言う。「ただで貸したつもりは、もとよりないからね。貸しは必ず返してもらうよ」

「……そうですね」

 シフルは首を縦に振った。「オレにできることなら」

 そうして少年は、再び唇を閉ざす。視線こそ時姫に注がれていても、心はちがうところにあった。母のことを思いだしたのがいけなかった。あの気の毒な女性の涙が滴っては、少年の良心を苛んでいる。

 父がシフルの母親としてベルヴェットを選んだとすれば、彼女の人生に影を落としたのは他でもない少年自身である。時姫が彼を産まなければ、リシュリューは母親役の女を探す必要には迫られなかったし、シフルという子供がいなければ、ベルヴェットはいつまでもダナン家に仕えていなくてもよかった。

 父のせいで、いま目の前にいるこの女のせいで、自分のせいで、ベルヴェットは一生を台なしにし、好きでもない男と一生をともにすることを余儀なくされている。

 この女が母を苦しめ、母がシフルを疎み、幼いシフルはさまよい、そのシフルをこの女が救いだした。

 そこには、単純な感謝と美しい記憶のみならず、悲しみも憎しみも葛藤も絡みあって混在していて——錯綜する感情は、まっすぐこの女に向けることもできず、自分ひとりに帰すことも父や母に押しつけることもできず、宙ぶらりんの状態で漂っている。だからシフルは、スーニャを貸してもらったことへの感謝を示す以外に、何もいえなかった。ビンガムの実家で、父や母とまともに会話が成立しないのと同じだ。

 時姫の外見は、むかし会ったときと変わらない。若い女の姿のまま、彼女は五百年以上の時を生きている。シフルにとっては身長が倍ほども伸びかねない幼年期の十年強も、彼女にとってはまたたきの間だ。しかし彼女は、いかに見ためが若々しくとも、中身は父母以上に世代の離れた、いうなれば生ける剥製である。シフルの幼いころの思い出のなかで、かなりましな部類に属す彼女であっても、やりにくい相手であることに変わりはなかった。

 シフルは黙りこんだ。横からラーガに小突かれても、何ひとつ頭に浮かばない。

 それをみつめていた時姫が、ふっと微苦笑を浮かべた。おもむろに、

「カツラは気に入ったかい?」

 と、尋ねてくる。

「あー、あれ、シフルのお母さんだったんだ」

 シフルが返事をする前に、セージが反応した。「道理でシフルにぴったりだと……、髪質といい、色といい」

「あれは、時姫さまたってのお達しだ」

 ラーガが無表情に説明を加える。「メルシフルがどれほど時姫さまに似ているのか、いちど確認しておきたいとの仰せがあったところに、おまえが何やら企てを始めた」

「お役にたてたなら、何よりです」

 セージはくすくすと笑う。「おかげさまで、私もシフルも、存分にお祭を楽しめました」

 彼女はそこで、横目にシフルをちらりと見て、口を閉める。

 シフルには、彼女の気づかいが痛いほどわかった。セージは黙って待っているが、本当は学問的興味も個人的興味も尽きないはずだ。それなのにセージは、シフルが《母》に再会する場だとわきまえ、それでいてこの場の空気を軽くする努力は惜しまない。

(セージって、こんなやつだったんだな)

 と、シフルは思う。それは、《ワルツの夕べ》の際の驚きとはちがい、しみじみとした実感として少年を満たした。

 彼女と出会えた幸運——。

 考えてみれば、それは家の問題なしにはありえなかった。《精霊王》の呪いがなければ、ありえなかった。これまで生きてきて遭遇したできごとのうち、どれが欠けても彼女には会えなかった。同じように、ユリスやアマンダとの出会いも、精霊たち世界の真実への肉薄も、——時姫が五百年の時を生き、リシュリュー・ダナンと知りあって関係をもち、シフルを産み落とさなければ——ありえなかった。

 そうひらめいたとたんに、シフルのなかでわきあがるのは、時姫への感謝だった。憎しみも葛藤も、消えてしまったわけではない。けれど、今は感謝のほうがより強かった。

 急に、視界がひらけた。

 シフルの目の前に、自分と瓜ふたつの女がいる。まちがいない。この女は、——自分を産んだ母なのだ。

「ビーチェ……、」

 シフルは時姫をまっすぐに見据え、告げた。「——ありがとう」

 女は、からりと笑った。

 少年によく似た屈託のない笑みで、応えた。

「カツラがか?」

 この期に及んで茶化さずにおかない彼女は、もしかすると照れ屋なのかもしれない。シフルは微笑み、次にわざと苦虫を噛み潰したような顔をつくり、ちがうに決まってんだろ、五百年生きて耄碌したんじゃねーのおばさん、と軽く応酬した。

「おまえこそ、十六にして老眼にちがいあるまい。この私をおばさん呼ばわりとは」

「じゃ、なんて呼ぶんだよ」

「お姉さま、が妥当なところだな」

 リシュリューは子供のしつけがなってない、と悪態づいて、時姫はシフルを引き寄せる。少年はいきおい、彼女のからだの上に倒れこんだ。時姫は身を起こし、息子を自分の膝の上に座らせると、いきなり彼のこめかみに拳を押し当てた。

「子供のしつけはこれに限る」

「げッ、やめッ」

 シフルは逃れようとしたが間に合わず、直後、痛みが押し寄せてきた。いたた、とうめいて身をよじったものの、時姫は簡単に離す気はないらしい。普通、十六の少年と十八の女が力で争えば、とうぜん少年が勝つはずなのだが、シフルに関していえば完全に負けていた。気迫の問題か、あるいはシフルにまだ成長期が訪れていないせいか。

 気のすむまでシフルを痛めつけたあとで、時姫はようやく彼を解放した。恨めしげに少年がにらみつけても、女は笑うばかり。

「どうせ、最初で最後のしつけだからな。一生分だ」

 最後? と、少年が聞き返せば、

「いったんでかくなってしまえば、私が殴ったところで屁でもなくなる。しつけには遅い」

 と言う。万象を司る《精霊王》の元正妃にしては、ずいぶんとぞんざいな言葉づかいだ。

 でも、なんとなくわかる。ラーガがこの人に心酔する理由も、《精霊王》がこの人と五百年間一緒にいた理由も、父がこの人に惚れこんだ理由も。物心ついて以降ほぼ初めての対面では、かすかな兆候をとらえて想像を膨らませることしかできないけれど、シフルは彼女のまとう空気からそれを見いだしたのだった。

 広さ、といったらいい。

 例えるならば——この人の背中に、世界が見えるということ。この人の世界ではない、自分たちすべての世界だ。

 今はまだ、ただの勘でも。そう信じさせるだけの力強さが、この人にはある。

「——ビーチェ」

「何だ」

 女は口の端をあげた。

「次に来たときは、いろんなことを教えてくれる?」

「そうだな」

 時姫は、とうに暗くなった外の森を眺めやり、つぶやく。「全部は教えられない。が、おまえに知る権利のあることなら、教えよう。例えば——精霊王の呪いについて」

 シフルはうなずいた。かたわらのセージが息を呑む。

「また、時間のあるときに来るのがいいだろう。ヘムダの力は、むやみに使っていいものじゃない。おまえがどうしても忙しくて、会いにくる暇がないというなら、使ってもいいかと思っていたが」

ヘムダか……」

 少年はつぶやく。サライアインシータヴォーマスーニャヘムダ。これで、シフルの知る元素は六つになった。

「……あのさ、ひとつだけ訊いていい?」

 シフルは尋ねた。「あんたの中身、いったいどうなってるんだ?」

 これは、非常に気になることだった。ヘムダの力を司る者、すなわち元素精霊長だということは、時姫もスーニャ同様「妖精」なのだろうか。そうなると、ベアトリチェ・リーマンの器にはヘムダの精霊が棲みついていることになるが、その場合ビーチェの心はどこにあるのだろう。

 精霊と、四属性いずれかの性質をもつビーチェの心、死後は精霊となって精霊界へと飛んでいくはずの心は、ヘムダと共生できるのだろうか? もっともこの疑問は、元素精霊教会のおしえが正しくなければ、成立しないものなのだが。

「共生はできない。ひとつの器にひとつの精霊——心、それが理だ」

 時姫は答えた。「かといって、私以外にヘムダの精霊は存在しない。つまり、ヘムダの元素精霊長はイコール私、ヘムダ総体もイコール私」

「じゃあ、ビーチェの意思がヘムダも器も操れる?」

 そうだ、と彼女は肯首する。

「元素精霊教会は、すべてにおいて誤っているわけではないが、知ってのとおり元素は四つではない。人の心の属性も四つではないということさ。私はもともとヘムダだった。だから、王の妃となったときにヘムダすべてを与えられ、その対となるスーニャをも従えることを許された」

「それじゃ、わかんねーよ」

 シフルは口を挿んだ。「どうして、ヘムダの元素精霊長イコールビーチェ、が成り立つんだ? いくら属性が同じっていったって、別の——あ」

 反論しかけて、はたと気づく。

 時姫は首を縦に振った。

「私がすべてのヘムダを喰った。元素精霊長も含めて」

 少年が驚愕に眼をみひらくと、彼女は皮肉っぽく口角をあげる。「不可能は可能になるんだよ。精霊王が命じればな。精霊の王、万象を司るというのは、そういうことだ」

 続きは次の機会にしよう、と時姫は言った。もう夕刻をまわった、寮の食事にありつけなくても知らないよ、とも。

 彼女は館の外まで見送ってはくれなかった。いかにもそういう行動をしそうにない人に見えたので、思ったとおりだったが、シフルは少し後ろ髪を引かれる思いだった。まだまだ知りたいことがたくさんある。もちろん彼女は全部を教えてはくれまいが、疑問は解消しておかないとすっきりしない。

 外に出ると、三人はまた手をつなぐ。暗い森を、足もとに注意しながら行った。その途中で、ふいにセージが口をひらく。

「《精霊王》って何なんだろうね」

 シフルは、隣を歩く彼女を見やった。ラーガにも視線を投げたものの、彼は応じようとはしない。もうじきスーニャの結界を抜けるからというのもあるだろうが、いずれにせよ教えてくれそうになかった。

「オレ、——《精霊王》は、『精霊』ではないんじゃないか、って思う」

 シフルはセージにそう返した。「考えてみれば、結婚だとか妃だとかって、人間の決めたしきたりだろ。正妃とか元正妃とかいういいまわしからしても、《精霊王》はそれに縛られすぎてる」

「私もそう思う」

 セージが同意する。「なんというか……、興味深いな」

 シフルはさらに推論を続けようとしたが、そのへんにしておけ、とラーガに制止されたので、素直に口をつぐんだ。忘れてはならない。《精霊王》は全精霊の王にして万象を司る者、いわばこの世界の支配者なのである。シフルたちもまた、そのてのひらの上にある万象のかけら。

 シフルとセージはそれきり黙りこみ、沈黙を保ったままで《時空の狭間》へと入っていった。あらゆる音を呑みこむ、暗い空間に。

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