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精霊呪縛  作者: 甲斐桂
第一部 プリエスカ・理学院編
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第1話「負けずぎらい」(3)

(……それならオレは、セージ・ロズウェルには負けません。オレだって最短期間でのAクラス入りくらい、やってみせます)

 シフルはその場で宣言した。あとでいいわけできないように。死にもの狂いで努力できるように。

 それからは、その学生——《セージ・ロズウェル》を目標に据えて、走ってきた。



 ——大海の鯨になるために、負けてなんかいられない。

 試験勉強に疲れたとき、シフルはいつもそう自分に言い聞かせた。

 ——でも、どうしてオレは大海の鯨になりたいんだ?

 体調を崩しているときは弱気になるもので、そう自問したこともあった。

(みんなに認めてもらって一目おかれて、それに何の意味がある。そんなの、親父のやってることと変わらないじゃないか)

 ようやく元気になったあとで、シフルはこう答えを出す。

 ——それでも、何もしないで誰かに導かれるよりはいい!

 広場に飛びだし、太陽の光と冷たい風を身に受けて、思いきりからだを伸ばし、前にもうしろにも誰もいないことを思う。少しだけさみしくて、でも何より自由で、シフルは確かにどこかへと向かいつつある自分を、うれしく思うのだ。



  *  *  *



 広場のむこう、海に面した小高い丘の上にその場所はあった。

 石段を駆けのぼり、頂上にたどりつけば、そこは展望台である。崖の上に古びた大理石の手すりがあって、そこから前を見渡すと、目の前に一面ヤーモット海がひろがっていた。夕方を見計らって展望台に来たなら、それはみごとな日没と赤きヤーモット海を見ることができる。遠い昔、海を渡ってラシュトー大陸にやってきた今のプリエスカ人が、陸にあがってすぐのこの場所を開拓した理由がよくわかる。この場所ほど夕焼けの美しいところはない。少なくとも、シフルはそう思う。

 だからシフルは、暇さえあれば、趣味で嗜んでいる民族楽器ゼッツェを携え、展望台に来る。試験でストレスがたまっているとき、疲れたとき、ひとりになりたいとき、ここに来ればなんとかなった。

「うーん」

 シフルは肩をほぐした。二週間ほど机に向かいっぱなしだった少年のからだは、あちこちで小気味のいい音をたてた。ひととおりストレッチをすませると、ゼッツェをくわえる。ゼッツェはプリエスカの伝統的な木管楽器で、たて笛を太くしたようなかたちをしていた。優しい音色と安価で手を出しやすい点、習得の難易度が低い点でポピュラーな楽器である。

 シフルは軽く息を吹きこみ、楽器をあたためた。それから思いきり息を吸い、吐きだす。ポー、とやわらかな音が響きわたった。

 とたんに激しい頭痛に襲われて、シフルは頭を抱える。管楽器は練習を怠ると酸欠に陥るのだ。試験期間の一週間、準備期間の一週間、むろんゼッツェの練習どころではなかった。昇級試験は毎月実施されるので、練習できる期間がそもそも月に三週間弱しかないうえ、暇はおのずからできるものではなく、なんとか捻出するものだった。

 Aクラスに上がってもそれは変わらない。上のクラスをめざすことはなくなるが、今度は席を保つ努力をしなければならない。秀才揃いの理学院では、気を抜けば転落など一瞬である。いくら脱落は一度にひとクラスだけといっても、いったん落ちはじめると坂道を転がる玉に等しい。それで初級エレメンタリークラスまで落ちてしまえば、あとには退学が控えている。

「がんばんなきゃなー」

 シフルはひとりごちた。《セージ・ロズウェル》という目標がなかったとしても、学院生である限りいつも綱渡りの状態なのだ。楽器に本気でかまけることなどできない。けれど、シフルはゼッツェの楽しみを知っている。

(さて、何か吹くか)

 シフルはゼッツェを持ちなおした。精霊讃歌、ロータシア民謡——プリエスカは古くはそういう名の国だった——、流行歌、古典音楽。ぱっと旋律が浮かんできたのは、精霊讃歌の第四番だった。精霊讃歌とは、プリエスカの国教たる通称「元素精霊教」のおしえに基づいた讃美歌である。四番といえば、礼拝から婚礼にいたるまで幅広くうたわれる、誰もが知っている歌だった。

 シフルは息を吸う。ゆっくりと吐く。確かな指で、音階を決める穴を押さえていく。そこから曲が流れだす。音楽があふれだす。万象の根源——火水風土の四大元素精霊を讃える、敬虔なる思念によって編みだされた音楽が。柔和で優美、どこか甘やかな音色が、夕焼けの理学院に響きわたる。

 空気がかすかに震えている。シフルは芸術畑の人間ではないし、ゼッツェの名手というわけではなかったが、その曲自体の起源を思えばそんなふうになるのも不思議ではない。また、シフル自身の生いたちにも理由があるのだが、そのときの彼はまだ知る由もなかった。

(気持ちいい——)

 シフルは恍惚とした。自分が紡ぐ音楽に、大気に浮遊する者たち——精霊——がこぞって反応し、空気を揺さぶっているのだから、むりもない。しかも彼は今、試験後のウキウキ感で満杯の状態だ。

(気晴らしは展望台に限るね)

 そう実感しているシフルは、試験週間を除き、ほぼ毎日同じ時間、暇をつくってはこの場所に通っている。というのは、理学院は全寮制のため、一日中同じような顔ぶれと顔をつきあわせていると、言いようのない閉塞感に襲われるのだ。

 それで、特に試験後の夕方などは、危うく我を失いかけて、乱心としかいいようのない行為をはたらく学生がときおり現れる。シフルも一度その並々ならぬ童顔ぶりから目をつけられるはめになり、頭のネジがゆるんだ学生たちの餌食となりかけたことがある。以来、そういった雰囲気の場はことごとく避け、なおかつ童顔を隠すためだけに本来は用のない眼鏡を着用している。

 そんなわけで、シフルが展望台にやってくるのは、いらだちの募った学生たちから避難するとともに、自分の鬱憤も発散しようという試みだった。その試みは、今のところ大いに成功をおさめている。何しろ、試験疲れを癒せるだけでなく、ここで新しい友人に出会うことができた。いや、正確には「出会って」はいないのだが、シフルは《彼》に対し一方的な友情を抱いている。

 ふいに、シフルの音楽に変化がおとずれた。

(今日も来たな)

 シフルの胸が弾む。(やっぱりゼッツェは二人以上で吹くものだよなっ)

 少年は、さらに意気揚々とゼッツェを吹き鳴らす。

 讃歌は基本的に二部合唱である——高声部と低声部でハーモニーを奏でる。そのとき、シフルのなぞっていた主旋律に、誰かが低声部を加えたのだった。ゼッツェの寂しげでさえある音色は、もはや二人分あわさって合奏のにぎやかさだった。

 すると、空気中の精霊たちはいっそうの喜びを示してくれる。周囲で光の粒がちらちらと点滅しては落ち、消えていった。とはいえ、当のシフルは演奏に夢中で、ちっとも気づいていない。

 精霊讃歌第四番は、あっという間に終わってしまった。シフルは、押し寄せる頭痛にめまいを覚えた。くっそう痛い。本当に、練習は怠けるものじゃない。手すりに寄って頭を垂れる。少し楽になった。

 が、思いだしたように少年は顔をあげる。振り返り、広場を見渡した。

 せわしなくあちこちを見まわしたが、探している人物は見当たらなかった。毎回毎回、彼が練習している最中に、どこからともなくゼッツェの音を乱入させる人物。たいていはシフルが高声部を担当しているため、かの人物はシフルとの合奏を楽しむかのように低声部に入ってくる。

 広場には、まばらに人がいた。移動中の教授や、何やら愛を語りあっている様子の男女、所在なく散歩している学生、じゃれあいはしゃぎまわる女学生。しかし、ゼッツェを携えた人物はみつからない。シフルは校舎の近くや窓の中まで注視したが、陰に入られたらみつけようがない。

 結局、みつけられなかった。

(誰だか知らないけど、どうせなら顔向かいあわせてやったほうが楽しいぞー?)

 シフルは悔しい気持ちでつぶやき、激痛のはしる頭を抱えて広場への階段を降りていった。まだ見ぬ友人の姿かたちを思い浮かべ、いつか《彼》と向かいあわせでゼッツェを吹く日を夢みながら。



 寮の自室に帰ると、シフルと入れ替わりでBクラスに入る学生が、荷物片手に待ちかまえていた。寮もクラス別であり、クラスが上がるにつれて生活レベルも上がっていくので、それもまた学生たちの原動力となる。

 シフルの荷物といえば、ゼッツェとごく少数の服、それにトランクだけだった。家出のさいは落ちついて準備する余裕がなかったため、余分なものは何もない。まさに赤貧洗うがごとしだ。教科書も、部屋ごとに配布されているものを使いまわすのが理学院の伝統である。

 シフルはほぼ身ひとつでBクラス寮を出て、Aクラス寮にむかった。といっても、Aクラスはわずか四十名しかいないので、Bクラス寮と同じ棟にある。

 階段を昇ってAクラス寮にやってくると、掲示板の貼紙で部屋番号を確認した。一緒に昇級したユリシーズ・ペレドゥイと同室である。見れば、Aクラスの紅二点——《セージ・ロズウェル》とやはり一緒に昇級したアマンダ・レパンズとが同室で、シフルたち二人の部屋の真上だった。女子寮男子寮の区別がないのも、理学院の伝統である。

 ドアの名札を確かめ、シフルは新しい自室に入った。いくらでも手足をのばすことのできるベッドや、涼しさを感じるまでに広々とした空間に、少年は目をみはる。広い。四メートル四方の二人部屋、Bクラス寮とは段ちがいだ。

(さすがはAだよなあ……)

 シフルは改めて喜びを噛みしめた。改めて感謝の思いがわいてきた。時の運、いわんや試験官たち、いわんや面接試験のときのサライに。

「さっきのサライ——」

 両手合わせて七本、指を立てる。この指の数が召喚する精霊の階級にあたり、数が少ないほど階級が高い。階級が高いほど気位も高く、半端な召喚士では姿を現してはくれない。そしてBクラス通過の最低条件が、七級以上の精霊召喚である。ただし、精霊は属性によって性格に特徴があるとされ、サライは比較的呼びやすくヴォーマは呼びにくいといわれているので、シフルの合格には時の運が大いに関わっていたといっていい。

「頼む。もう一回来てくれ」

 そう言って、手を振り下ろす。

 その仕種は単なる合図である。言葉も呪文の類いとは異なり、別段こだわらなくても問題はない。人によっては無言で召喚する者もいる。ただ、言葉にすることによって「その精霊を呼びだす」イメージがつかみやすくなるらしく、何らかの言葉とともに精霊を召喚するのが一般的である。中には、その言葉に惹かれてやってくる精霊もあったり、召喚士の容貌が好みなので現れる精霊もあったりして、精霊を召喚する方法には基準や決まりというものがない。個性の表れるところである。

 シフルの声に応えるようにして、周囲の空気が赤みを帯び、徐々に収縮していった。変化の中心で、小さく破裂音がする。現れたのは、ごくわずかな種火だった。シフルの目の前に、頼りなく浮かんでいる。

 彼女——一般にサライは女性とされる——が試験のさいに召喚したサライと同一の存在だという確証はなかったものの、少年はそのたゆとう存在にむかって微笑み、

「さっきはありがとな! サライのおかげで、オレ、Aクラス通ったんだ! ほんと、ありがとう」

 と、心から礼をいった。

 すると、

〈あなたの役に立てて、私もうれしい……〉

 と、控えめな返事があった。

 遠いところからかすかに聞こえる声は、他のことに気をとられていれば聞き逃していたかもしれない。それでも、まちがいなく少年の感謝に対する反応だった。

 彼女はあのサライなのだ。大気に浮遊し、常に流動しているはずの精霊が、自分の近くにとどまっていた! シフルはうれしさに、頬を紅潮させる。

「うんッ! ありがとな!」

 小さな炎に、手をのばす。小さくても炎は炎、熱く実体がないので触れようがないけれど、シフルは両手でサライを包み、撫でるようにした。

 愛しい存在——。最初は、精霊そのものへの思い入れなんてなかったのに、今はとても愛しい。以前、話しかければ応えてくれることに気づいてからは、いっそうだった。彼らと一緒に生き、彼らの力を借りる仕事——精霊召喚士になりたい。そう思ったのは、つい最近のことなのだけれど。

 種火は消え失せた。シフルは手を振った。

 直後、ユリシーズ・ペレドゥイが扉を開けて部屋に入ってきた。

「おっす」

 シフルは新しいルームメイトに、にっと笑ってみせる。

「おーっす。ペレドゥイだよな? よろしく」

「ああ、よろしく頼む」

 ペレドゥイは人懐こい笑顔で、握手を求めてきた。シフルは彼の手を握り、ぶんぶんと振る。それでシフルの上機嫌がよく伝わったらしい、ペレドゥイが、何かいいことでもあったのか、と尋ねてきた。

「合格させてくれたサライを呼んで、お礼をいったんだ。そしたら、オレの役にたててうれしいって言ってくれた!」

 シフルは目を輝かせて説明する。

「へー、そんなことあるんだ。今度俺もやってみよっと」

 ペレドゥイは興味深そうにうなずいて、部屋を見渡した。「こりゃ、えらく広いなー。うっわ見ろよダナン、洗面所ついてるぜ! Bと待遇ちがいすぎ」

 ベッドを転がり、あちこちをのぞきこんで、そのたびにペレドゥイは歓声をあげた。シフルは相槌をうちながら、彼について部屋を見てまわる。

「うおー、いたれり尽くせり! 高級ホテルかよ、ここ! 召喚学部Aクラス卒業だと、元素精霊教会の首脳がボロボロいるからなー、今から優遇しとくってわけだ」

「なるほどね」

 首脳、といわれて父親への反抗心が沸きたったが、かの人物との勝負を思って気を落ちつかせる。

(この際、親父のことは忘れよう)

 シフルは自分を戒めるように決意する。(オレがいるのはここであって、親父のてのひらの上じゃない。親父のことなんか気にしてたら、ロズウェルにいつまでたっても追いつけない)

「さっき階段でレパンズさんみかけたよ」

 ペレドゥイが思いだしたように言った。「どうも、すぐ上の部屋らしい」

「ああ、そうだな」

 ——この板の上に《やつ》がいる。

 シフルは天井を見上げた。近い、とても。《やつ》の存在は、今となっては手に届く。

(待ってろよ。オレは、絶対負けない)

 シフルはまた、拳を握りしめた。



 翌朝、シフルとペレドゥイは揃って部屋を出た。

 新しい一か月のはじまりである。同じクラスに引き続き居座る者にも、下のクラスに降格してしまった者にも、上のクラスに昇格できた者にも。最上級たるAクラスへの昇級が叶い、気持ちが弾むのを止められないペレドゥイにもシフルにも、すべての理学院生に等しく、一か月後の昇級試験にむけて走る日々の、再三の訪れだった。

「あっ!」

 二人が階段に差しかかったとき、上から明るい声が降ってきた。「ダナン君! ペレドゥイ君! おはよー!」

 軽やかな足音とともに、少女が階段を駆け降りてくる。金の髪に水色の瞳の、二人と同じくAクラスに昇級したアマンダ・レパンズだ。

「おーっす」

「おはよ」

 三人はあいさつを交わす。昨日まではお互いしゃべったこともなかったのに、不思議と仲間意識が芽生えていて、自然に笑みがこぼれた。

「ダナン君って遠くから見てもひと目でわかるねー」

「あー、わかるわかる。女顔だし、小せえし」

「……」

 三人はそんな冗談さえ言いあい、笑いあった。同じように成功した仲間で、まだ一ヶ月も始まったばかり、劣等感も優越感もない今だからこそ、何の屈託もなく言葉を交わせる。

 ——今日からはお互い、仲間で、ライバルだ。

 でも、今しばらくは同じ意識をもつ、ただの仲間——。それだけのことが、シフルには妙にうれしかった。

「それにしても、やっと今日の日が来たって感じ?」

 レパンズは大きな瞳を輝かせて言う。「二年の下積みを経てようやく! トップ・オブ・理学院! Aクラス!」

「俺は三年だし」

 と、つぶやくはペレドゥイ。シフルは声には出さず、四か月だし、と付け加えた。今だけは、誰が先かなどということは忘れたかった。三人は談笑しながら廊下を進み、それぞれの思惑を胸に、行き交う学生たちの流れにまぎれて食堂へと歩き去った。

 寮の廊下には誰もいなくなった。こののち朝食の時間が終わるまで、廊下を行き交う者はほとんどいない。

 だから、《彼女》は現れた。

 最後の学生が食堂の扉を開けた瞬間、《彼女》は廊下に立った。その瞬間が来るまでは存在しなかったが、その瞬間がくるやいなやその姿はあった。

 濃青の髪の女——いや、女とも男ともつかない容貌である。どちらかといえば女に見える、そういう顔だった。長い髪と長い睫毛のせいで女のようだが、それにしては上背があり、異様さが漂う。

 奇妙なのは容姿だけではなかった。《彼女》のまわりは、どういうわけか景色が揺らいでいた——あたかも炎のそばのように。

「……そろそろ、ですか」

 女はつぶやいた。そして、次の瞬間には再び消え失せた。

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