第10話 秘密(1)
新学期に入ると、二日めにはさっそく試験が始まる。
正式名称は昇級試験であり、Bクラスまではみなそう呼んでいた。Aクラスにきてみると、たまにふざけて脱落試験だという者がいる。脱落か残留かのふたつしかないからだ。ここで頭打ちだと思うとやる気をなくす者もいるようで、Aクラス生活二か月めの新人が陥りやすいのだと、セージが教えてくれた。
が、シフルは却ってはりきっている。留学が決まるやいなやBクラスに脱落するなんて、もの笑いの種になるだけだ。それに、秋休みの最後の一週間、天才と名高いセージと一緒に勉強するという幸運に恵まれた。シフルは自分の勉強法に問題があるとは思っていないが、あの環境に生まれ育って満点入学を成し遂げるセージは、さすがに要領がよかった。ノートのとりかた、要点の理解はどれも的を得ており、シフルは驚嘆した。
負けてなるものか、と思った。自分のノートだけでなく、セージのノートからも吸収して、シフルは試験に臨んだ。筆記試験はいずれも努力の成果が出た。実技試験は六級風にあたり、成功した。セージはもちろん楽勝、アマンダは六級火を召喚でき、ユリスは六級土にあたってショックを受けていた。
最終日午後の結果発表直前、
「落ちるかも……」
ユリスはがっくりと肩を落としている。
「大丈夫だよ、ユリス。だって考えてもみろよ。クラスの四分の一は土にあたるんだぜ? そしたらみんな脱落するじゃん。そんなことないない」
隣の席にいるシフルは、明るく言った。さらにその隣のアマンダも、例の晴れやかな空気を発散しながら、強気で断言する。
「そうだよ! ユリスなら心配ないよー。だって、筆記はけっこうできたって言ってたじゃない?」
「言ったけど……」
どうしても前向きにはなれないようだ。シフルとアマンダは顔を見合わせ、しょうがないね、と言いあった。結果発表の前とは、そういうものである。失敗した者はいうに及ばず、うまくいったと信じる者も、なんだか落ちつかない。成功したと思ったのに実は大きなミスをやらかしていた、なんてこともありうる。
三人は無言でヤスル教授の到着を待った。ややあって、教授が顔を出す。学生たちはざわめいた。
「静かにしなさい。大切な発表だぞ」
ヤスル教授が注意すると、Aクラス教室は一気に静まった。「——では、発表を始める」
Aクラス生たちは、固唾を呑んで教授の動向を見守る。ヤスル教授は淡々と述べはじめた。
「まずは今回の傾向だが、前回の平均が低かったせいか、全体的に優秀だった。初級クラスの退学者はゼロ。しかし、Aクラスから脱落する者もゼロ、というわけにはいかなかったか。だが、讃えられるべきは、先月の新人三名だな。三人は全員残留。おめでとう」
シフルたち三人は勢いよく安堵の息を吐く。「成績もまあまあ、うち一人はラージャスタン留学も射止めたし、先月の新人はなかなかの掘出し物だったようだな。今月入ってくる新人二名にも期待しよう。……そういうわけで、今から脱落者二名を発表する。いつものように、脱落者はBクラスの石を取りにくること」
新人三名を除く三十七名の多くが、祈るような気持ちでヤスル教授に注目する。教授は名簿をじっとみつめて、軽く嘆息すると、信じられない名前をあげた。
「——エルン・カウニッツ」
Aクラス生たちは我が耳を疑った。「それにグリエルモ・カノーヴァ。以上、解散していい」
「カウニッツっ!」
ヤスル教授がおざなりに名簿を振るより早く、メイシュナーがカウニッツに詰め寄った。学生たちは騒然となった。ついに、Aクラス《四柱》が崩れるときが来たのだ。それには、先月の新人の一人、ダナンが大いに関係している。ダナンが、一度はカウニッツのものになったラージャスタン留学の権利を奪いとったため、カウニッツは意気消沈した……。
(いつのまに噂になったんだ)
シフルは大きな小声で繰り広げられる陰口に、眉をしかめた。が、言葉尻はどうあれ、事実としてはまちがっていない。シフルは何も弁解できなかった。しかし、
「何も知らない人間が勝手なことを」
毅然と声をあげた者がいる。セージである。
「何がちがうってんだよ、ロズウェル」
悪意をもってシフルを中傷していた学生が、開き直って反論する。
「些細だが、大きなちがいだ」
セージは明瞭に言い切った。「シフル——ダナンは、確かにカウニッツの権利を自分のものにするため、教授会に殴りこんだ。が、ダナンの直談判はボルジア助教授によってきっぱりと却下されている。しかし、それでもなお彼の留学を推す人物がいた」
Aクラス生たちはセージの言葉に聞き入った。
「教授陣は、その人物の判断を無碍にすることはできなかった。外交問題に発展する恐れがあったからだ。つまり、その人物は誰かというと——」
そこで、まだ教壇に立っていたヤスル教授が、彼女の弁を遮った。
「ロズウェル。そこまでにしなさい。軽々しく口にしていいことじゃない」
「——まあ、想像にまかせよう」
セージは皮肉っぽく腰を折る。「すみません、先生。でも、友人に対する誹謗を放置するわけにはいきませんから」
彼女はにっこりと笑って、シフルに手を振った。彼はつられて微笑み、一部の学生はセージ・ロズウェルに何が起こったのかと目をまたたかせている。それは、ユリスとアマンダとて同様だった。秋休みの前から、ロズウェルとシフルの関係に変化の兆しがあったのは知っていたけれど、今は兆しどころかすでに変化したあと。
「セージ。ありがとう!」
シフルは教室中に響きわたる声で礼を告げた。それで、彼への中傷は表面上は沈静化した。
が、その一方で、おさまりのつかない局面もみられた。
「カウニッツ! なあ、なんで……」
メイシュナーがしきりに青年の肩を揺さぶっている。
「なんでも何もないよ——ニカ」
「だって、あんたが脱落するなんて!」
カウニッツは、これが実力だよ、と自嘲的に口角をあげた。メイシュナーは頭を振り、そんなことはない、と必死で否定する。
Aクラス生たちのなかには、痛ましげにカウニッツを見やる者もおり、《四柱》の一人が倒れたことを喜ぶ者もいた。シフルはといえば、複雑な気分で二人を眺めている。どういいまわしを変えたところで、カウニッツを落ちこませる原因になったことにはちがいない。そのつもりはなくとも、こちらが立てば、おのずからあちらが立たなくなるのだ。
そのとき、ルッツがシフルのそばにやってきて、
「彼はもう潮時だよ、シフル」
と、ささやいた。「どうでもいいこと気にして、あいつみたいに転がり落ちないでよ」
「そのとおり」
セージもまた、ルッツに同意した。「きっとこれが、彼にとってきっかけになる。いつかくるべき時が、今になっただけの話だ」
「うん……」
シフルはためらいがちにうなずいた。けれど、シフルは悲しかった。どうして、選ばれたり、選ばれなかったり、しなければならないのだろう。たとえくだらない理由でも、選ばれない原因をもっていることが、彼のすべてを否定するのに。
カウニッツがAクラスからいなくなる。長かった《四柱》時代が終わる。そうなると必然的に、Aクラスのトップ四を意味する《精霊を讃える若人》のメンバーも変更されることになる。カウニッツは火四級を召喚した。これは、《四柱》の残り三人を除けば最高だった。火五級ならば、シフルを含め召喚可能な学生も多いが、四級は彼だけである。
そこで任命されたのは、ヘルマンという学生だった。いったんは留学メンバーに応募したものの、選抜試験を受けることなく辞退した一人である。シフルより二、三歳年上らしい風貌の彼は、Aクラス歴も長く、火以外の属性も平均的に召喚できる、という理由で選ばれた。
が、次に礼拝が行われたとき、少年たちに混ざって一人だけ成人の年齢に達していた学生がそこにいないことに、多くの者が異和感を禁じえなかった。その場所には、半年以上も同じメンバーが立ちつづけていたのだから、それはそうだろう。
一方、カウニッツがBクラスに脱落してからというもの、彼の友人であるメイシュナーが荒れはじめた。
「おら、猫野郎! 半径一メートル以内に近寄るな」
「誰も『バ』カなんかに近寄ってないよ。……自意識過剰は見苦しいね」
メイシュナーが鬱憤をぶつける対象は常にルッツだったので、たびたび二人のいさかいがクラス内で見られるようになった。召喚実習の授業の際など、そのまま精霊同士を戦わせる争いに発展する。以前はカウニッツがいればなんとかおさまっていたものを、今は親身になって止めようという人間がいない。よって、何の抑制もなく、戦いの火ぶたは切って落とされる。
広場の中央に、学生二人が対峙した。担当教諭のヤスルは研究忙しさに、とうの昔に研究室棟に戻っている。学生たちは実習の手を休め、ただならぬ空気を発散している元《四柱》に注目した。
「土、力を貸せ! あいつを殺す」
メイシュナーは八本の指を立てる。土は下級であっても大きな影響力をもつため、いちおう加減はしているらしい。加減ができるほど冷静なのであれば、いっそやめてくれればいいのだが、そうはならない。
「風」
ルッツは冷静に風八級を呼びだして、力を相殺させた。力と力が衝突しあい、弾け飛んだ。
「火!」
間髪入れず、メイシュナーが球状の炎を投げる。それをもルッツは相殺した。
ルッツは攻撃を受けているだけで、自分からうって出ることはしない。誰の目から見ても明らかなのは、ルッツはメイシュナーをあしらっているのであり、相手として不足があるということだ。それなのにメイシュナーは鎮まらず、ますます激してしまう。
「土! おれに力を与えてくれ」
差しだされた手の、指の本数は五本。——メイシュナーは本気になった。
「メイシュナー!」
それまで経過を見守っていたシフルは、とっさに飛びだしかけた。火、と呼びかけようとして、仮に失敗したらと躊躇し、次にラーガを召喚しようとして、彼をこんな場所で見せていいものかと迷った。そのかたわらで、少年に代わって一歩踏みだしたのは、セージ。
「水、おいで」
指は三本。三級水だ。「精霊土、ならびに彼を放った召喚士を呑みこめ。ただし、召喚士を傷つけるな」
意思ある水が、勢いよく膨張した。ルッツを防護する盾のごとくひろがるや、花が花弁を閉ざすように、メイシュナーを包みこむ。彼はあッと叫んだが、時すでに遅し。水はセージの命令に従い、その薄いが強固な膜でもって、土の召喚士をくるみとった。
「ロズウェル! 出せよ」
水壁を叩くメイシュナーに、
「しばらくそこで反省していろ」
彼女は冷ややかに告げる。「水、召喚士が冷静さを取り戻すまで出すな」
「ロズウェール!」
メイシュナーは悲痛な声をあげたが、彼女はつれなく踵を返す。それからシフルにむかって、何もなかったかのように、さあ練習を再開しよう、と笑った。天才セージ・ロズウェルの恐ろしいまでの心境の変化に、広場にいるAクラス一同はおののいたが、口に出して主張できる者は誰一人いなかった。
「よけいなことを」
ルッツが、ただでさえ低い声をいっそう低くして言った。「俺は五級土程度なら、簡単にかわせるよ」
「知っている」
セージは淡々と返す。「だが、おまえが彼を傷つけようとしたら、彼にはかわせない」
ルッツは微笑んだ。セージは眉をひそめた。シフルは黙ってたたずんでいるしかない。本当は、自分たちに力が与えられているということは、ものすごく危険なことなのかもしれなかった。
そのころ、シフルたち留学メンバーのための特別カリキュラムが始まった。
四人はそのときをもって、Aクラスのカリキュラムの半分ほどを免除され、代わって特別カリキュラムに組みこまれることになった。午前中はAクラス生たちと勉強に励み、午後は四人で別行動をとる。留学クラスの担当教諭はカリーナ助教授。連絡事項が彼女によって伝えられ、その後は科目ごとに担当者が交替する。
昇級試験はどうなるかというと、それも免除である。ラージャスタンへ出発する次の春まで、四人は労せずしてAクラスに居座りつづけるというわけだ。シフルは大喜びしたが、これにはただし書きがつく。特別カリキュラムは、はっきりいって並のAクラスカリキュラムより厳しい。
とりあえず、授業時間が増える。普段なら夕方ごろに授業が終わり、夜はまるまる自由時間となるところ、特別カリキュラムはちがう。夕食後は再び教室に集合し、就寝時間の直前まで勉強を叩きこまれるという。それを聞いて、シフルは力なく苦笑した。来春、命を賭けて勉強するためにラージャスタンに赴くけれども、学院はその前に学生を倒れさせるつもりなのだろうか。
科目も、目新しいものばかりだ。筆頭はラージャ語である。ラージャ語——ルグワティ・ラージャは「皇帝の言語」の意で、《皇帝のおわしますところ》ラージャスタンでのみ使用される言語。アグラ宮殿に入るつもりなら当然習得しなければならない。それに加え、大陸史、ラージャスタン史、この期に及んでプリエスカ史、護身術、礼儀作法などなど、勉強には直接関わりのない科目もある。
さらには、教師たちの態度も特別だった。居眠りのひとつやふたつ、普段の授業であれば見逃してくれるのに、特別カリキュラムでは即座に罵声が飛んでくる。
「これはただの学校の授業ではない! きみたちがラージャスタンで生きていくのに必要な勉強だ。まじめに受けなさい」
「でも、先生……」
叩き起こされたメイシュナーが、寝ぼけ眼でいうと、
「いいわけ無用だ」
と、一蹴された。「きみは自分がどこへ行こうとしているのか、わかっていない。あのラージャスタンなんだぞ? いいか、ラージャスタンとは——」
召喚士としてあの戦争を生き延びてきた教師たちは、隙あらば当時の話を聞かせてくる。特別カリキュラムの七割が戦争の話、すなわちラージャスタンの悪口といっても過言ではない。特別カリキュラムが始まって一週間も経たないうちに、四人は学習した。平常授業では居眠りをしても、特別カリキュラムでは決して寝まいと。自然、勉強に使う気力体力の大半が特別カリキュラムに割かれた。これも、教授陣の作戦なのかもしれない。
「では、ダナン君。前回やったあいさつの復習だ。《こんにちは。ごきげんいかが?》」
「あ、えーと、《こんにちは。私は元気です。あなたはどうですか?》」
シフルはたどたどしいラージャ語で答える。
「《私も元気です。昨日は何をしていましたか?》」
「えー、《昨日》……なんだっけ。えー、あー、あーと」
シフルは単語の意味を忘れて、視線をさまよわせる。中年教師は軽く嘆息し、
「何ぶつぶつ言ってるんだね、きみは。では、ロズウェル君。《昨日は何を?》」
「《昨日はラージャ語の勉強をしていました》」
セージは即答した。教師は、よろしい、とうなずく。シフルがセージを横目に見ると、彼女はいやみったらしく目を細めてみせた。それに対し、少年はぐっと拳を握りこみ、内心雄叫びをあげる。
——絶対、負けてなるもんか!
シフルとセージ、ふたりの関係は、変わったようで変わっていないのだった。