第8話 空という名の(1)
——いつでもいい、そうと決めたら俺を呼べ。そのときはすぐに行く。
(そう聞いた)
シフルは胸のうちでつぶやいた。(確かに聞いた。いつだったか忘れたけど、あいつは絶対そう言った!)
「空! オレは、今、決めたって言ってるんだよッ!」
シフルは半ばやけになっていた。もう何をやっても間に合わないのだ。試験官やロズウェルたちに気が狂っていると思われても、別にかまいやしない。あいつが力を与えてくれるといったのだから、あいつがやってくるまで叫んでやる。絶対、あきらめてなるものか。シフルは、いよいよ思いきって息を吸いこんだ。
と、少年を覆っていた水の壁が、ぱちんと音をたてて弾け飛んだ。
「わッ」
針のような水しぶきが少年を襲った。シフルは目をかばう。いっせいに降りかかった一級水のしぶきは、少年の腕や覆いきれなかった頬をちくちくと刺した。顔をあげると、先ほどまであった水のドームはあとかたもなく、シフルは何も介さない外の世界にさらされていた。
急に室内のざわめきが近く感じられて、シフルは現実に引き戻された気がした。水の膜を通してではない、輪郭のはっきりした同席者らの顔を眺めやって、少年は冷静さを取り戻しはじめた。
逆に、混乱の様相を呈しだしたのは観衆のほうである。
「何だ、あれは……!」
教会関係者の中から、誰かが叫んだ。「ロズウェル君のドームが壊されたぞ!」
「相殺だろう?」
「いや、ちがう。壊された!」
試験の最初に水のドームをつくった召喚士がどなる。「相殺ではない。あれは一級以上の力だ!」
(なんかオレ、またまずいことしたのか?)
今やすっかり冷えた頭で、シフルは呆然とAクラス教室を見渡した。(試験で『母』とやらの力を借りてやろうなんて)
「——メルシフル」
「!」
シフルは肩を痙攣させる。かたわらに、気配を感じた。
正直、そちらを向きたくなかった。だが、シフルは見た。視界の端に、薄闇の中で浮かびあがる乳白色の光と、人間にはありえない濃青色——クーヴェル・ラーガ(青い石)の髪。まちがいなく彼は、シフルの呼び声を聞きつけて現れた。
「やっと観念したようだな」
青い妖精はいつもより楽しそうに言った。「さて、認めるのか? 時姫さまの温情を受けとるのか?」
シフルはうッと言葉を詰まらせる。が、
「……とりあえずだ!」
と、言い放った。「『母』の力が欲しい。オレは前に進みたい——」
「ふん」
妖精はそっぽを向く。「俺は最初から、ただそのためだけに来ている」
そう告げると、空は軽やかに舞いあがり、観衆を背にしてシフルを見下ろした。しおらしいことを言ったくせに、表情は相変わらず無味乾燥としかいいようのない無愛想である。
「さあ、メルシフル。我が『主』」
空は空中でくるりと回ってみせ、慄然としている同席者のほうへ向き直った。「彼らに何を見せてやろうか」
「へっ? あるじ? オレが?」
「そう」
間の抜けた声で聞き返すシフルに、妖精は口の端をあげる。「時姫さまがおまえに貸すのは、あのかたの僕たる、この俺の力。世界で唯一おまえだけが操れる、空の力なのだ」
——空。
空、あるいは空。
シフルはそれを彼の名前だと思いこんでいたが、どうやらちがうらしい。そういえば、最初に名前を聞いたとき、彼は己の名を「便宜上」の名だといっていた。つまりは、火や水、もしくは時姫と同じ、属性を示すものなのだろう。
しかし、ここでシフルは、はたと疑問を抱く。世界は四大元素からなっている、というのが長年信じていた教会のおしえなのだ。が、彼はすでに《時》という第五の元素の発現を目撃済みだったし、その目撃はおそらく青い妖精の力——《空》という第六の元素——によってなされた。
——世界には、時と空、ふたつの知られざる元素が存在する。
それが、少年の至った結論だった。
「空」
少年は青い髪の妖精に呼びかける。
「なんだ」
「このあいだオレに過去を見せたみたいに、みんなに見せられるか?」
「見せられる」
空は即答した。シフルはにやりと笑う。
「じゃあ、オレが見たきれいな夕日を、みんなに見せてやれ」
シフルの思いつきに、観衆はますますざわめいた。あの子はいったい何を言っているんだ、だいたいあの妖精は何の精霊なのか? 理学院の並みいる研究者たち、ロカッル・シャリバト精霊大司教をはじめとした教会の重鎮たち、召喚学部生の頂点に立つ四人は、おのおの憶測を交わしあい、あるいは怪訝な顔をしつつ、教壇の上にいる少年を見守った。
「了解した」
妖精は答えると、両腕を大きくひろげた。
差しのべられた手から、黒い煙が立ちのぼる。それは火のある場所に立つ煙とは異なり、灰色と表現することのできない、黒以外の何ものでもない黒だった。驚愕した同席者の中で悲鳴があがったものの、もう遅い。人に従属する妖精は、いちど主の命令を受けたら、必ずそのように遂行する。
妖精のつくりだした煙は、やがて教室の隅から隅までを埋め尽くした。もともと薄暗い部屋だったが、もはやほんの少しの光とてない。つけなおされたランプもどこへやら、黒い闇によって隠された。
しかし、試験官たちは見る。闇のなかで、美貌の妖精だけが浮かびあがっているのを。人間離れした美貌は妖精の特徴のひとつだが、この妖精は桁ちがいだった。
「まるで、クレイガーンみたいだなあ」
闇のむこうで、つぶやきがもれる。声から察するに、メイシュナーだろう。
クレイガーンは、トゥルカーナ公国を建てた有名な英雄である。五百年ほど前に大陸に実在した人物だが、今となっては史実というより伝説に等しい。彼は男でも見愡れるほどの美貌をもっており、精霊にたいそう愛されたとか。当時、全大陸規模で気の狂った妖精が跋扈し、各地で暴れまわっていたが、精霊の力を自在に操るクレイガーンによって鎮められた。
要するに、恐ろしいほどの美貌でかつ恐ろしいほどの力をもつ、というあたりが英雄を彷佛とさせるらしい。
「おお、まさしく……」
メイシュナーのひと言に、試験官らも口々に同調している。
(クレイガーンねえ)
シフルはひとり、前にも同じものを見せられただけに冷静である。(あの英雄がこんなに無愛想だったら笑っちゃうよ、オレは)
「よけいなお世話だ」
すぐ目の前に、空の顔がある。シフルは頭の中の考えに反応を返されて、どきりとした。
「人の心読むなよ!」
「読まなければ、おまえの見た夕日とやらも探れまい」
空はシフルの額に触れる。「世の中の事象は、人の心の動きも含め、すべてがある空間の上に展開するものだ。俺はおまえの記憶のある場所と、ここにいる者たちの視界を隣りあわせにすることで、おまえの記憶を他の者に見せる。そんなわけだから、おまえのいう夕日をおまえの中で探せば、当然おまえの内側は丸見えだ」
「げッ」
シフルは思わず妖精の手を払った。空は腹立たしげに舌うちしたが、
「もういい。みつけた」
と、てのひらをかざす。「これが、おまえの中にあるもっとも美しい夕日」
——え。
話がちがうんじゃ、とシフルは言いかける。シフルが意図したのは、いつも彼が展望台で目にしている、ヤーモット海を照らす夕日。あれほど美しいにもかかわらず、あの展望台は常に人気がなく、シフルにしてみると何とももったいないのだ。それで、教授陣や学生たちに見せてやりたいと思ったのに。
青い妖精は、かざした手を斜めに下ろした。その軌跡に沿って黒い空間が切り開かれ、亀裂から赤い空がにじみでてくる。
「おお……!」
同席者のあいだに再三のざわめきが起こった。彼らは今、赤一色の世界を見ている。
空はまた、シフルの視界にも同じ風景を映した。
(オレの中の、一番きれいな夕日?)
シフルはその場所を見やった。赤く、ただ赤く染まった街を、丘の上から見下ろしている低い視点。幼いころの目の高さ。
彼は細い道の上にたたずんでいる。白い石の敷きつめられた道の上。白く細い道は幼い少年の危うげな足もとから始まり、麓の街まで長い一本の線を描いていた。その線を取り囲むようにして商店が立ち並び、まわりには住宅が密集している。
住宅も商店もすべてが白漆喰で塗られたその街は、夕刻になるとほぼ赤しか見えなくなるのだった。きっとこれは、晴れた冬の日の夕暮れだろう。赤い透明な空も、群れる雲も、雲間から洩れる光も——何もかもこんなふうに荘厳なのは、冬か雨のあとでなくては見られないから。
(晴れた冬の日)
シフルは何かを思いだしかけた。そんな日が、確かに昔あった。そんな気がする。これは空が自分の記憶の中から見いだした夕日なのだから、当たり前だけれど。
世界が、大きかった。この赤い夕日のなかでは、建物の大きさが全然ちがった。それぐらい、背丈が低かったころの記憶。
《シフル》はふいに横を向いた。
幼い少年のかたわらには女がいた。しかし横を向いただけでは、つないだ先の女の手と腰しか見えない。次に、見上げてみた。女の頭ははるか上にある。銀色の長い髪が風に揺れていた。
〈メルシフル〉
女は目の前の風景を指さした。〈きれいだろう?〉
——あんたは、誰?
シフルは問いかけた。が、女は答えず、《シフル》とて何もいわず、少年の視界は再び夕日に染められた赤い街を見下ろすのだった。
とたんに風景が霧散した。視界はもとの暗闇となり、やがてそれも晴れた。同席者全員が我に返ったころには、もとどおり見慣れたAクラス教室の中にいた。
一同の驚嘆のうちに、シフルの選抜試験は終わったのだ。
*
その日の深夜に開かれた教授会は、紛糾した。
学院の教授陣に加え、その日に限り精霊大司教や上級召喚士、それに一部の王族が同席していたという理由もあるが、大半の原因は議題そのものにあった。ラージャスタンの要請に応えるかたちで派遣が決まった留学生のメンバーを、いったいどのような基準で選定するか。それは、今後のプリエスカのラシュトー大陸における位地を決定する、重大な問題だった。
単純に実力だけで決められるものではない。己や人の身を守れる力があって、なおかつその学生を失ったあとの理学院と教会の損害を考えなければ。
うっかりその学生を送りだしてしまって、今後の召喚学研究に計り知れない影響があるとしたら、取り返しがつかない。かといって、その学生が自分の身も守れないような軟弱でも困る。いざというときにはラージャスタンを飛びだして、自らの力で国境を越えられるような学生が望ましい。
「それでは、セージ・ロズウェル、ルッツ・ドロテーア、ニカ・メイシュナーの三名を留学メンバーとして派遣することに異議のあるかたは、挙手願います」
今日の教授会をとりしきるのはカリーナ・ボルジア助教授である。彼女は会議室の壇上から、参加者に呼びかけた。
挙手はない。室内はしんとしている。彼女は息を吸いこんだ。
「セージ・ロズウェル、ルッツ・ドロテーア、ニカ・メイシュナーの三名を留学メンバーとして派遣することは、全会一致で決定いたしました」
ボルジア助教授はひと息つく。「……それでは、残り一名のメンバーについて、ご意見のあるかたは挙手願います」
いっせいに手が挙がった。彼女は密かに嘆息した。先ほどから、結論がまったく出ないのはここなのだ。
まず真っ先に決まったのはセージ・ロズウェルとルッツ・ドロテーアの二名である。この二人に関していえば、安心感という点では申し分ない。強いていえば、二人とも稀にみる才能の持ち主であり、教会所属の精霊召喚士として即戦力になりえ、さらにヤスル教授の研究の発展に一役買っている。よって、プリエスカに留まらせたいのはやまやまなのだが、何しろ留学希望者が五人に減ってしまった——ボルジア助教授が独断で学生たちを脅したのだけれど。そこで、消去法により、この二人は最初に推さざるをえない。
次に決まったのがニカ・メイシュナーである。彼は、力量については少々不安なところがあるものの、四属性のいずれもそこそこに召喚できるバランスのよさが、残った二人に比べれば安心感があった。
問題は、残りの二人である。
うち一人はエルン・カウニッツ。彼は二十一歳にもなるまで努力して、《四柱》と呼ばれるまでになった。しかし、これは少々手遅れだ、というのが大多数の意見である。しかも召喚したのが火の四級を二回に風の六級。これでは、残りの属性はどうなのか、という疑いをもたざるをえない。彼では、いざというときあまりにも不安である。
もう一人はいろいろな意味で話題のメルシフル・ダナン。満点入学、最短期間でのAクラス昇級というだけでも学院内で話題をさらったし、はやばやと六級精霊召喚に成功し、さらにはその場で学説を覆してみせたことでもまた議論と称讃の的になった。結局、学説については時期を考えて保留。現在、その研究に時間を割ける研究者がいない。このうえ、Aクラスのトップ四が総出で応募した選抜試験に挑むというのだから、教授陣はまたしても同じ学生に度胆を抜かれてしまった。
召喚してみせた精霊がまたとんでもない。Aクラス昇級後一ヶ月で五級火召喚に成功したことには多くの同席者が感心した。四級火で失敗したときには、まあ妥当だろう、努力は讃えよう、と多くの同席者が思った。それで終わりだと誰もが考えた——ところが、ここでまた関係者は度胆を抜かれることになったのだ。
メルシフル・ダナンは妖精憑きだった。現在の召喚学部の学生で、そうだと確認がとれたのは彼が初めてである。セージ・ロズウェルもそうだという噂があるが、未確認情報の域を出ない。教授陣の前で呼んでみせたのは、とにかく彼ひとりである。
それも、その妖精がまた問題だった。青い髪をした妖精ははっきり言ったのだ——同席者にメルシフル・ダナンの過去だという夕日を見せたあとで。
——俺のことは、きさまたちは知らないだろうな。俺は空の唯一無二の精霊で妖精、つまりは空の元素精霊長である。
あの、信じがたいまでの美貌で。
——空とは、人間による使役を禁じられた元素のひとつ。この世で俺を使役できるのは、我が主メルシフルだけ。……
空。
教義上存在しないはずの元素。が、妖精自身の口で語られた以上、その存在は確固たるものである。しかも、唯一無二の精霊、すなわち元素精霊長。水一級の壁を破るはずだ。元素精霊長とはその属性を統べるもの、最上級の精霊なのだから。
メルシフル・ダナンの力に安心感があるかどうかは、他の二回の召喚はさておきこれで決まった。彼は、教会所属の召喚士中最強であるとともに、未知の属性を唯一操ることのできる貴重な存在。手放してしまうのは、あまりにも惜しい。
ラージャスタンの指定してきた留学メンバーの枠は、残りあと一人。
不安定なエルン・カウニッツか? 元素精霊長級のメルシフル・ダナンか?
二人に一人。——教授会は、紛糾していた。
あちこちで挙手があった。それぞれが彼らのうち一人をあげて、彼をラージャスタンに送るメリット、もう一人を送るデメリットを述べた。ある者はエルン・カウニッツの不安を語り、メルシフル・ダナンならまちがいは起こらないと語る。ある者はエルン・カウニッツならなんとかなると語り、メルシフル・ダナンはあの正体不明の妖精を使役する以外は不安定であるし、彼は精霊召喚学の発展に貢献せねばならないと語った。
「埒があきませんね」
カリーナ・ボルジア助教授は、机を力いっぱい叩き、あちこちで唾を飛ばしあって罵りあいをする同席者たちを黙らせる。「ここはひとつ、民主的手段を講じるとしましょう」
多数決をとります、と彼女は告げた。
こうして、留学生四名が決定したのである。