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精霊呪縛  作者: 甲斐桂
第一部 プリエスカ・理学院編
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第6話 時姫(4)

「そう」

 彼女は、おそるおそる尋ねた彼に、うなずいてみせる。「もっとも、私の肉体の時が動いていた場合の話だがな。その場合、三か月後に妊娠に気づくはずだった。

 子供は、男の子。私と同じ瞳の色と髪の色で、私に似ている。その生涯も私に似て、やがて私が人間として生きたころと同じ道を歩もうとする。そして、思いもよらぬ運命に巻きこまれる。——そういう子供だ」

「ヴァレリー?」

「哀れな女の妄想だと思っておけばいい。どうせおまえには信じられないだろう」

 それから、女はおもむろに自分の腹を見下ろした。痩せたそれに手をかざすと、ゆるやかに空を撫でる。

 その指先が、かすかに青く発光した。

 父はびくりと肩を痙攣させたが、すでに《時姫ときのひめ》が人間以外の何らかの存在であることは察しているらしく、二人の子供について告げられたときに比べると平静を保っていた。が、青年市長の努力もそう長くはもたなかった。すぐに、男はあっと声をあげた。

 青く光る指が女の腹のまわりの空間をかすると、それにともなって少しずつ腹が膨らみはじめた。

「ヴァレリー! やめろ」

「案ずるな。私の肉体の時を動かすとともに、体内の子供の時間を急速に進めているだけだ」

《時姫》は手を動かしつづける。腹はいよいよ重そうに突きでてくる。「このまま、一気に十月十日を経過させる。そうしてこの子を産み落としたら、おまえに形見としてくれてやろう」

 メリメリと音をたてて徐々に大きくなっていく腹に、男はもはや正気ではいられなかった。今にも絶叫しそうになるのを堪えながら、その瞬間を見届けないわけにはいかないとばかり眼をみひらき、女の身に起こっていることを見守った。しかし腰はとっくに抜けてしまったようで、立ったままで腹を膨らませている女の足下に座りこみ、愕然と彼女を見上げていた。

「……ヴァレリー、君は何なんだ?」

 彼は今になって、そう問いかけた。《時姫》はきっと微苦笑したのだろう、

「遅すぎる質問だ、リシュリュー」

 と、そこはかとなく愉快げな声で告げた。「もうこの子は生まれてくると決まった。今さら取り返しはつかない……!」

 すでに腹は、臨月に近いと思われる大きさになっている。

 いくら人間ではない存在とはいっても苦しいらしい。女はついに立っていられなくなり、床にくずおれた。男は、極限ともいえる精神状態だったろうに、それでも性分なのか、彼女を心配して駆け寄ろうと試みる。けれど、膝が伸ばせない。彼はまた尻餅をついた。

「よい」

時姫ときのひめ》はといえば、額に玉の汗を浮かべながらも気丈である。「おまえはそこで見ていよ。——おいで、スーニャ! おまえの力が必要だ」

 リシュリューが叫びをあげた。何もない空間を割って、何者かの腕が飛びだしてきたからだ。

「ばかめ、私が人間でなければしもべもまた人間であるはずがなかろう? スーニャは妖精だ。私もまた、そのようなものよ」

 淡い光をまとって、青い髪と瞳の妖精が現れた。彼は青年市長を一瞥すると、軽くため息をつく。

「もう、だめでしょう」

「子供がか……?」

 リシュリューは震える声で訊く。妖精は、さもどうでもよさそうに頭を振った。

「そうではない。時姫さまのことだ」

 言って、女のほうに眼を向ける。《時姫》は彼の視線を受けると、肩をすくめてみせた。

「まあ、あれだけ力を使ったんだ。それなりの覚悟はしているよ、スーニャ。……すまない。おまえの危惧が現実になりそうだ」

「俺はいいんです。あなたの望まれたことなら。ただ——」

 スーニャはうつむき、眼を伏せた。「——あなたが消えてしまうかもしれないことと、あなたに新たな心残りができたのではないかということが、俺は……」

「それは、どういう——」

 そこに、青年市長が口を挿んだ。妖精は話を中断し、元凶ともいえる人間を見た。スーニャはあくまでも無表情だったが、青い瞳のたたえる光は、見る者をぞっとさせるものだった。リシュリューは息を呑み、口をつぐんだ。

「そうにらむな、スーニャ。私が望んだのだ」

 そう《時姫》がとりなすと、スーニャは青年市長から目を逸らした。

 それから主たる女に、さあ頼むよ、と促されたので、青い妖精は《時姫》の腹に両手をかざした。金色の光を帯びた手で、優しくその腹に触れる。

「ッ!」

 青年市長はまた悲鳴をあげた。妖精の手は、女の腹に触れたのではなかった。女の腹に、埋まっていったのだ。

「……!」

 彼はもう声も出なかった。青い髪と瞳の美貌の妖精は、服の上から女の腹へと腕を差しこんでいく。ところが、女は苦痛を感じているわけでも、出血しているわけでもない。金色に光る両腕は、何か粘土のようなものとなった腹に、何の障害も感じさせないなめらかさで、するすると進入していく。

 肘まで沈めたところで、いったんスーニャの腕は動きを止めた。が、よく見ると、腹のなかで何やら手を動かしている。《時姫ときのひめ》は苦しげな声をもらしたものの、やがて鎮まった。

 妖精は徐々に腕を抜きつつある。その腕は肉のなかに差し入れられたときと同様に白く、わずかに金色の光を放っていて、予想しうるおどろおどろしいものが見受けられないということがよけい不気味だった。

 少しずつ、少しずつ、きれいなままの白い腕が姿を現す。ようやく手首、手の甲、そして指——。

「——!」

〈——!〉

 十六年前の父親と、十六年後のシフルは、同時に反応した。

 ——どうして、こんな……!

 シフルは、にわかには信じられなかった。けれど、現実に彼の目の前で起こっていることを、どうやって否定すればいいのだろう。夢と思いこむことなどできはしない。よって、彼の思考はそこで停止する。

「ご苦労、スーニャ

 と、《時姫》が両手を差しのべる。青い妖精は答えず、代わりに《彼》を彼女に手渡した。女は慎重に受けとると、まず《彼》をまじまじと見て、それから容赦なくひっぱたいた。

《彼》は泣きだした。——この場で、ほんの一瞬に縮められた十月十日を過ごし、生まれてきた赤ん坊。今はまだ赤く濡れていて、肉そのものにしか見えない。

「これでよし」

《時姫》はその肉塊を青年市長に差しだした。「では、くれてやろう」

 リシュリューはこわごわとそれを抱いた。と、赤ん坊がますます激しく泣きわめいた。男は困り果て、女に助けを求めたが、せいぜい大事に育てるんだな、と言うだけで、再び手を貸そうとはしなかった。

「覚えておけ、リシュリュー。おまえがその子をまともに育てなければ、いずれ私が迎えに行く。くだらない男のもとに我が子を放置する気はないんだ」

 そうして、女は踵を返した。背後で男の呼ぶ声がしたが、彼女は振り向かない。しかし《時姫》は、扉の前で立ち止まると、一瞬だけ男のほうに顔を向けた。

「その子に、メルシフルという名を与えよう」

 また扉に向き直り、手をかける。「私の子である証として。——中世ロータシア語で、《真のメル・シフル》を意味する言葉……、私が長年望んできたことだよ」

 ——では、今度こそお別れだ。

 と、女はつぶやいた。

 最後に彼女が微笑んだかどうか、女の視点でその様子を見ていたシフルには知る由もない。

 もう、十六年前の父の姿は見えなかった。

 風景は暗転し、あとにはただ深い闇がひろがるばかり。

 シフルは、全部が嘘だったら楽なのに、と、それでもまだ考えた。けれど少年は、ひとたび知ってしまったことをごまかして己を騙せるほど器用ではなかったし、何よりも、真実は彼の追い求めるところだった。

(簡単だ)

 少年はひとりごちる。(受け入れろ)

 そうすれば、すべてを知って自由になれる——。シフルは自分にそう言い聞かせ、静かに目を閉じ、またまぶたをもちあげた。が、そこはまだ闇のなかだった。

 夜が死んで朝が生まれるときは、依然として遠い。

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