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精霊呪縛  作者: 甲斐桂
第一部 プリエスカ・理学院編
21/105

第6話 時姫(3)

 それから、《時姫ときのひめ》と青年市長は穏やかな時を過ごした。

 まずガリーブ茶をいれ、二人でゆっくりと味わう。その感想を交わしあうと、他愛ない話題へと移っていく。当時の情勢、最近の仕事の様子、国のことや故郷のことなど、誰でも話すような内容だった。

 多くの場合リシュリューが話を振り、《時姫》が相槌をうつ。女は教養豊かで、機転もきいていたし、父は父で口がよく回るので、聴いていて飽きなかった。紅茶のカップを片手にずいぶん長いあいだ語りあっていたが、二人のみならず少年まですっかり時間を忘れていた。

 しばらくして、執事が主人を呼びにきた。夕食の時間だという。

「おや、もう夕刻か」

 青年市長はため息がちにつぶやく。《時姫》が窓の外を見やると、すでに空は夕闇の暗さだった。時間にかまわず話しこんでいた二人は、そのとき初めて、自分たちのいる部屋もまた薄闇のなかにあることに気づいたのだった。

 食事をすませて部屋に戻ってくると、室内は闇一色となっている。が、二人は灯もともさず、椅子に腰かけて話を再開した。闇の醸しだす親密な空気が、父と《時姫》とを包みこむ。それでシフルは、うっかり女の気分に同調しそうになり、あまりの気色悪さに身を震わせた。

「いつまでいてくれる」

 と、父は切々と問う。

「ひと晩というからには、この夜が果てるまで」

 女は淡々と答えた。

「では、この闇が去ったら」

「そうだな。空が白みはじめるころに」

 眼はとうに闇に慣れて、影をまとった父の顔が見える。次にこの影が消え、父の顔と部屋とに朝の光が差したとき、女は父のもとを辞すのだ。

 理由もろくに知らされず、ただ一方的に別れを告げられて、だから父は彼女のひと晩を要求したにちがいない。《時姫》の態度から納得のいく理由を探りだすか、もしくは一緒に過ごすことで情に訴え、彼女を思いとどまらせるか。どちらにしろ、この期におよんでどこかしら戦略的な行動は、さすが父、といったところである。

「……朝がこなければいい」

 しかし、父はあくまでも情に訴えるような台詞を吐きつづけている。打算的な調子などおくびにも出さない。だが、対する《時姫》も、

「夜が好きなわけではあるまい?」

 と、とぼけてみせる。彼女はおそらく、リシュリューの狙いを充分に察している。もちろん父は父で、彼女が自分の言動の意味を察していることなど承知のうえである。よって、これはただのおとぼけ合戦で、駆け引きにすぎない。何の意味があるのやら、シフルには大いなる謎だった。

 急に、視界が傾いた。シフルは思わず、うへえ、とうめく。抱き寄せられたのだ。

「このままずっと、こうしていたい」

 父は、おとぼけ合戦にいちはやく白旗をあげた。「永遠に……こうしていたい。そのためには、朝がこなくともかまうものか」

 男の降参の合図に、ふ、と女は笑った。それからうつむき、押し殺したような笑い声をもらす。

「そんなに滑稽か、ヴァレリー」

 さすがに不快げなリシュリューに、彼女は笑いながら何度もうなずいた。想いの通じあわない空しさに、男がこれみよがしに嘆息しても、女は気にもかけない。しばらく笑いつづけたあとで、ようやく笑うのをやめた。顔をあげると、笑いすぎて涙が出ていたらしい、男が《時姫》の顔をそっとぬぐった。

「それでも、私は君との永遠が欲しい」

 彼女はまたしても噴きだした。

「君にはお笑いぐさでも、こっちはちがう」

 そう言ったリシュリューのまなざしは、真剣そのものである。「本気だ」

《時姫》は笑みをおさめた。目の前の男をみつめる。

 男は眼を逸らさない。女も、男の本気にたじろぐことはない。

 が、女は再び口角をあげた。男も、つられて微笑んだ。

 そして女は、

「——永遠が欲しい?」

 と、問いかけた。

「ああ」

 と、男は返す。

「本当に?」

「ああ」

「本当の本当だな?」

「ああ、本当だ」

 女は執拗に問いつづけ、男は何度でも肯定した。

「くどいな、君も」

「念のためだ」

 そうつぶやいて、彼女はやっとリシュリューから視線をはずした。

 ようやく父の顔が遠ざかり、ほっとしたシフルだったが、次なる接近はすぐだった。女の眼で十六年前のできごとを見守っていた少年が、ひと息ついて胸を撫でおろしているところへ、それは起こった。

 突然、父の胸が迫った。

 シフルは思わず、ぎゃっ、と叫ぶ。逃げることなどできようはずもなく、服の布の質感も見える至近距離に父が来た。

「ヴァレリー」

「……では、くれてやろうではないか」

 その言葉から、女みずから父の腕のなかに飛びこんだのだとわかった。「おまえの決心に敬意を表し、私はおまえと『永遠に』一緒にいる」

「ヴァレリー……! では」

 男がうわずった声で女を呼ぶ。

 ところが、

「誤解するなよ」

 対する《時姫》の声音は、どこまでも冷徹だった。女は男の胸のなかから彼を見上げると、甘い雰囲気など毛ほどもない口調で言った。

「はっきりいっておくが、言葉どおりの意味であって、おまえの望んでいるようなことではないぞ? 私は、おまえとはちがう世界の存在だ。おまえの望みを叶えられるわけがない」

「ヴァレリー?」

「後悔は、すまいな? 自分で選んだことだ」

 女は彼の背に腕をまわす。「私はおまえに、永遠を、やる」

 ——永遠。

 シフルは胸のうちで、その言葉を反復した。

(言葉どおり……)

 どういう意味だろう。

 いうまでもなく、父が期待しているのは永遠の愛の誓い——すなわち結婚で、女が意図するのは、それが本当に言葉どおりのものだというならば、「ずっと一緒にいる」ことなのだろう。しかし、そのふたつに何らちがいがあるとは思えなかった。せいぜい、父の希望には制度的な意味あいが多分に含まれていて、女の言葉には物理的な意味あいしかない、という程度である。

〈なあ、妖精〉

 シフルは、かたわらに控えているはずの青い妖精に呼びかける。

スーニャだ。忘れるな〉

〈じゃ、スーニャ。なあ、この女のいってることって、どういう意味だ?〉

〈見ていればわかる〉

 スーニャがそう言うので、シフルは大人しくなりゆきを見守ることにした。

 表面上はとりたてて変化はなかった。二人は先ほどまでと同様、寄り添って静かに語らっている。リシュリューは《時姫ときのひめ》の言動に戸惑いを感じているようだったが、自ら身をまかせてくる彼女にまんざらでもなさそうである。

 もう時刻は夜中近いのだろう。この部屋が闇一色になってから、かなりの時間が経過している。

 相変わらずの暗闇は、少しもかわりばえがしない。これだから、夜というものが、シフルは苦手なのだった。昼間であれば、天気の変化によって明るさや空気が変わるし、また街路の喧噪によって己の位置を知ることができる。確かに自分がこの世界に生きている、という感覚がある。

 でも、夜のあいだ、自分も世界も真っ黒になって、境界がなくなってしまう。自分が生きているのか、あるいは死んでいるのかさえ、ふとした拍子に判然としなくなる。見えないこと、わからないことは怖いことだ。夜の闇は怖い。

 けれど、二人だとどうなのだろう。闇のなか、境界は明確でなくとも、誰かの温度がかたわらにあったなら、何かがちがってくるのだろうか。暗闇に包まれていても、自分とその人のいる世界を感じられるだろうか。それとも、その人との境界まで消え失せて、何もかも一緒くたになってしまうのか——。

 シフルの疑問に、父は答えない。

 女は父を、じっと見ている。

 父はしゃべったり、《時姫》に触れたりした。ずいぶんと長いあいだ女と会話を交わし、ずいぶんと長いあいだ女を抱きしめていた。いいかげん飽きないかな、とシフルがぼやいても、父と女はそうしていた。

 だんだん語らいも実のないものになってきて、シフルはとうとう関心を失った。徐々に睡魔に襲われだして、シフルは寝入ってしまった。はっと目を覚ますと、父が女のそばで眠っていた。さしもの彼も、疲れたようだった。

 しかし、それでも父の姿が見えているということは、女が覚醒しているということである。シフルはその後、何度か眠りに落ち、そのつど目覚めてはなんとか起きていようと眠気を振り払いもしたが、いつも彼女の視界は曇りなく父をとらえていた。父は父で、うたた寝したり、他愛ないおしゃべりをしたりしていたが、女のほうはといえば、常に起きて父をみつめていた。

〈まだなのかよ〉

〈まだまだだ。辛抱しろ〉

 妖精はにべもない。彼のいうところの「証拠」は、まだ提示されていないらしい。が、シフルはもう疲れていた。

(そろそろ寮に帰って寝たいんだけど……。今日だって、楽に一日終わったわけじゃないんだからさ)

 留学生募集の告知があって、その条件と定員にすっかり気落ちして——いつものように《彼》とゼッツェを吹いて自分を慰めるためにやってきた展望台。それなのに、なぜか自分の母だという女の十六年前を見て、深い闇の底で眠りに落ちたり覚めたりを繰り返している。

(ほんと、夢みたいな気分になってきた)

 ここは果たして、現実だったろうか。

 いや、どういう理屈でか、若いときの父の行動を観察できるこの場所が、現実であるはずがない。

(夢だ)

 シフルは内心うなずいた。(これは、夢だ)

 そしてそのまま、落下するような眠りに囚われた。

 目の前にさらなる深い闇がひろがって、夢も見なかった。シフルは昏々と眠った。何ら気の咎めもなく、誰の妨害もなく、自分のからだの欲するままに眠りつづけた。意識のどこかで、次に起きたときには朝がきているだろう、という当たり前の了解があった。

 ところが、シフルが目覚めたとき、まだあたりは闇のなかだった。

 眠気の残る眼をなんとか凝らすと、徐々に父の顔が浮かびあがってきた。父はまぶたを閉ざして眠っている。《時姫》は依然として覚醒しており、父を見ている。だから、シフルにも父の姿が見える。

 室内にはほんの少しの光すらない。——いまだに夜。いつまでたっても夜。

(夜、長いな……)

《時姫》が窓の外に目をやったので、シフルにも夜の空が見えた。ちょっとぐらい白みはじめてもいいころなのに、天気が悪いのか、星のまたたきもない。どこまでも、どこまでも闇。

 気が狂いそうだった。

 何かがおかしい。

 もちろん、おかしいというなら、いま現在シフルを取り巻いている状況は何もかもそうだ。隣にいる妖精といい、若いころの父といい、この女といい、自分があの戦争の時代を見物していることといい、おかしくないもは何ひとつない。

 しかしそれは、いやなわけでも、恐ろしいわけでもなかった。《時姫ときのひめ》なる女が自分の母だという証拠を突きつけられることは、確かに怖いことかもしれない。が、恐ろしい、ということとはちがう。

(朝がこなかったら、どうなる?)

 悪い予感が胸をよぎった。さっき彼女は、言葉どおりの永遠を与えると告げたのだ。となると、時間は真夜中で止まり、再び動きだすことがない。日は沈んだまま、もう二度と昇らない——そういう意味になる。だからここでは、何度眠りに落ち、何度目覚めても、朝にはならない。

 だとしたら、いったいどうなるのだろう。この段階でまだ生まれていない自分は、どうなってしまうのだろう。

(でも、オレはここにいる)

 母であれ《時姫》であれ、まちがいなく誰かに産み落とされて、自分はここにいる。十六年後に理学院に通い、セージ・ロズウェルに出会い、青い妖精に遭遇し、ここで父を見物している。自分の知る現在の父はちゃんと十六年ぶん歳をとっていたし、《時姫》なる女は今、父とともにはいない。

 つまり、彼女の意図するところが何であれ、結局《時姫》は父に永遠を与えなかった。

 朝はくる。必ずくる。そうでなければ、自分はここにはいない。

〈もういい。スーニャ

 シフルは強く言った。〈『証拠』の前振りはもう充分だ。いいかげん本題に入れよ〉

〈わかっている〉

 妖精はもはや拒まず、あっさりとそう答えた。〈どんなに真剣に望もうとも、《永遠》に最後までつきあえる人間はいない、ということだ。……見ろ、リシュリューも〉

 彼に促され、シフルは改めて父を観察する。若き市長は、先ほどから寝たり起きたりしていたが、ついに深く嘆息した。

「朝は……、まだなのか?」

 そう言った彼の口調は、ひどく疲れている。

〈時間にしておよそ一日が経過している〉

 と、スーニャが補足した。

「まだだ」

 憔悴する父のかたわらで、女は平然としている。「永遠をやる、と言ったではないか」

「だが……、」

 もう彼は、彼女をいぶかしむ気力もないようだった。「どうして、朝がこない? 明日には提出せねばならない文書もあるし、ラージャスタンのファルノ公と連絡をとらなければ。私は戦争を終わらせるんだ……、そのための努力は惜しまなかった。努力が実を結ぶときまで、私は立ち止まるわけにはいかない」

「では、私との永遠を望んだのは?」

《時姫》は無感動に問いかけた。

「確かに望んだ。しかし、こんな意味ではなかった。ただ、君が私と結婚してくれたらと」

 リシュリューはぼそぼそと返事をする。言い淀んでいるというよりも、声を出す体力がもうないのだろう。

「では、永遠など、おまえは耐えられぬのだな」

「永遠とは、朝が永遠にこないという意味か?」

「そうだ」

「もうたくさんだ、ヴァレリー。疲れた……」

「——そうか」

《時姫》は目を閉じ、そして開いて、静かにつぶやいた。何の力も残っていないらしい疲れ果てたリシュリューをしばしみつめると、起きよ、若市長、とささやく。父がかろうじてまぶたを持ちあげたのを確認し、ゆっくりと窓のほうを指さした。

「見よ。朝がくる」

 女は父をまっすぐに見ている。

 彼女の言葉ににわかに気力を取り戻した父が、目をみひらいた。信じがたいという表情で窓を凝視していた彼の顔に、光が差した。先ほどまで暗い影のなかにあったすべてを、明るい朝の光が照らしだした。白い光を浴びた父のからだが、床に青い影を投じていた。

 闇一色の夜から、光の朝がやってきた。それも、ほんの一瞬のうちに。

〈……早すぎる〉

 シフルはひとりごちた。あれほど長い夜のあとで、またたきの間に訪れた朝。

 夜が長かったから、朝への移り変わりが妙に早く思えた、というのもあるかもしれない。だが、空が白みはじめてから完全に明るくなるまで、普通はもうちょっと時間がかかるはずだ。それが、彼女が窓を指さして宣言するやいなや、カーテンでも開けるように朝に切り替わるというのはどうしたことか。

〈おい、スーニャ! 何なんだよ、今の〉

〈これが証拠のひとつだ〉

 妖精は勝ち誇ったように告げる。〈まず、この眼の持ち主が時姫さまであることはわかったな?〉

〈えっ、なんで?〉

 シフルにはわけがわからない。なぜ朝が明けるのが早いと、この女が時姫ときのひめだという証拠になるのか。

〈なんで、ではない。わかっただろうが〉

〈わかってたまるか。ちゃんと説明しろ〉

〈ああ、あのかたの息子とは思えない愚鈍ぶりだな。嘆かわしい〉

 スーニャはさも呆れたような声を出す。シフルはかちんときたが、おさえた。

〈時姫、という通り名は、あのかたの能力と立場をまさしく表している〉

〈……つまり?〉

〈『時』は時属性。『姫』は寵姫〉

 スーニャは一語一語を強調しつつ、言った。〈つまり時姫さまは、精霊王の妻であるとともに、時属性を支配するかたである〉

〈時属性……? 《精霊王》の……妻?〉

 理解しがたい単語を次々と叩きつけられ、シフルはそれをオウムのように繰り返すしかなかった。

〈そうだ〉

〈……ははは、なるほど。ふーん。はっはっは〉

 妖精がためらいなく肯定するので、シフルは笑いはじめた。とはいえ、声同様に眼も笑っているかといえば、そうでもない。ついでに表情も、どこかぎこちなさのある笑みである。

 だが、それもごく自然な反応だろう。

〈オレの『母親』が、《時》とかいう属性を支配していて、なおかつ《精霊王》の妻だって?〉

 ——などという、突飛な事実を教えられれば。

〈そうだ。見ただろう、あのかたの意思によって時が止まり、また動きだしたのを〉

〈おいおい、冗談きついぜ、スーニャ? ははははは〉

 シフルはひとしきり、あからさまに冷めた声で笑った。目の前では、相変わらず女と父の別れのひと幕が繰り広げられていたが、このうえ関心の対象にはならなかった。二人は、約束の朝がきたというので、またしても別れるだの別れたくないだのという問答を始めたところである。いいかげんシフルも飽きている。

 それよりも、妖精の主張する事実のほうが問題だった。そもそも、ずっと母親だと信じてきた父の今の妻ベルヴェット・ダナンが、実際はシフルの母親ではなかったというだけでも充分問題なのに、「実の母親」がかの《精霊王》の奥方で、教会のおしえにはない《時》属性を操る者だというのだから、もう笑うしかない。

 その説を信じるならば、「実の母親」は人間の器を借りた精霊——妖精エルフ——ということになる。精霊の力を自らの身に宿す人間など存在しないからだ。となると、シフルは妖精と人間の合の子。つまり、人間ではないのだ!

 さらに、《精霊王》の妻がその「実の母」だというなら、シフルにとって《精霊王》は義理の父親ということになる。なんたることだ——とんでもないことだ。どうしてすんなりと信じられよう。

 けれど、

〈はっはっは〉

 仮に妖精が狂っているとして、それならば、今の今まで見せつけられたできごとをどう解釈すればいいのか。少年にはなす術がなかった。どうあがいても、女の見せた奇妙な現象を説明することができない。四大精霊の力では、時間を止めることも進めることもできないのだ。教会の教義に反することなく、女の存在を解明することができない。

 今まで信じてきたものを捨てて、新たな真実を受け入れなければ。先日読んだベアトリチェ・リーマン著『精霊王に関する考察』に述べられていた危険な仮説を正しいと認めるとともに、ありえないまでに特殊な自分の出自に納得しなければ。

〈はっは、……は……〉

 シフルは笑いを止め、息をつく。深呼吸してみたが、緊張は高まったままだ。

〈気がすんだか?〉

 スーニャが、ある確信をもって訊いてくる。

 シフルはむっとして、まだだ、と叫んだ。まだ最後の砦が残っている。

〈この女はまだオレを産んでない!〉

 と、シフルは言い放った。〈この女の腹からオレが出てくるまで、信じてたまるかよ。こんなの、絶対ありえない〉

 すると、青い妖精はこれみよがしに嘆息し、

〈……よかろう。最後まで見届けろ〉

 と、告げる。

〈言われるまでもない!〉

 シフルは言い返し、目の前の光景をにらみつけた。

 こうなったら、徹底的に自分を追いこんでやる、とシフルは思った。どうせ真実であることに変わりないなら、揺らぎようのない真実にしてやろう。自分のなかにそれが定着したとき、何かが動きだすというなら、このさい思いきりよく動きだせばいいのだ。シフルは半ばやけっぱちだった。

 そのとき《時姫ときのひめ》は、部屋をあとにするところだった。

 父は彼女に追いすがり、必死の体で阻止している。望んだ永遠から逃げだしたのは父なのに、それでも父は彼女に求愛を続けるのだった。

 が、女は冷たく拒む。

「調子のいい男よ。私が与えようとしたものを拒絶したのはおまえだ。今さらおまえに私を止める権利はない」

 男の手を振り払い、扉に手をかける。しかし男はその手をほどかせ、なおもすがった。

「確かに権利は放棄してしまったかもしれない。だが、私には君が必要なんだ」

 先ほどから同じ言葉を繰り返す男に、女は鼻で笑う。

「ばかめ。さっき、私とおまえがちがう生きものだと、あれほど見せてやったのに。それでも、まだそんな世迷い言をぬかすか」

「ああ、言うとも。そんなことは関係ない。私は君のいう永遠を受けとれないが、それでも君を誰よりも愛している」

 もしシフルに気力が残っていれば、悲鳴をあげて逃げだしたくなるほどにキザな台詞だったが、少年の疲労は頂点に達しており、そんな些細なことをいちいち気にする余裕がなかった。シフルは疲労ゆえの冷淡さで二人のやりとりを見守った。

「もちろん、君を縛る権限は私にはない。だからせめて、君の形見を置いていってほしい」

「形見だと?」

《時姫》はどこか愉快げに聞き返す。

「そう。それがあればいつでも君を思いだせる、そういうものだ」

「なるほど」

 彼女はリシュリューのほうに向き直った。青年市長は期待のこもったまなざしで《時姫》をみつめてくる。彼女はしばし彼の眼に見入っていたが、やがて思い立ったように踵を返した。向かった先は窓。彼女は勢いよくカーテンを閉めて光を遮断すると、くるりと青年市長を振り返る。

「——それならやってもいい」

 リシュリューの表情が、みるみる明るくなった。

「ヴァレリー!」

「放っておけば生まれないはずの存在だ」

 リシュリューの表情が、みるみる驚愕に彩られた。「『彼』も、きっと生まれないよりは生まれたほうがうれしかろう」

 今日きたのは、そのことでおまえの意思を確認するためでもあった、と彼女はつぶやく。

「子供……が……?」

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