第1話「負けずぎらい」(1)
ただ、精霊たちの名を想えばいい。
火、水、風、土——世界を構成する四大元素精霊の、属性であり分類上の定義でもあり、同時に個々の彼らをいいあらわしもする——大切な名前を。
人はいずれの力を借りるときも、属性の精霊すべてが共有する単純な名のみを胸に懐き、偉大な力を使役するにふさわしい真摯な心で、そっと彼らを呼べばいい。そうすれば、きっと彼らは喜んで召喚に応じ、人にその力を示してくれる。——王国暦七八年発行、ラメッド・セファリーム著『召喚学入門』にいわく。
少年は扉を叩く前に、頭の中でその一節を反復した。入門書にありがちなさも優しげな文章の、実際のところの真偽のほどや実用性はともかくとして、彼はそれを信じている。
いや、今はそれを頼みにするほかない、といったほうが正確である。才能のあるなしは自分ではわかりようがないが、「真摯な心」ならばなんとか持ちあわせがあるのだった。
「失礼します」
意を決し、少年は部屋に踏みこんだ。殺風景な試験場が、冷ややかに彼を迎え入れる。正面の長机には、彼の運命を握る試験官たちが雁首を並べていた。そのうちの一人が、おもむろに口を開く。
「名前と学籍番号を」
少年は深く息を吸い、それから吐きだした。
「メルシフル・ダナン、学籍番号一四八六です」
「ダナン君、さっそくだけど始めましょうか」
担任のカリーナ助教授が告げた。「あなたの試験は——そうね、火を。火の七級精霊を召喚してもらいます」
「はい!」
シフルは意気ごんで返事すると、右手三本、左手四本、合計七本の指を立てた。試験官の合図を待って、右手を高く掲げ、
「火の子らよ——」
次の瞬間、勢いよく振り下ろす。「——オレに力を貸してくれ!」
*
少年は広場に飛びだした。
足が地面から離れんばかりなのを何とかおさえ、シフルは友人の姿を探す。広場は試験後特有の興奮じみた空気に包まれており、そこで憩う学生たちは、やれ問何ができなかっただの、やれ問何は悪問だの、やれあの教師の顔は怖いから面接試験はやめてほしいだのと、思い思いに試験の感想を述べていた。
シフルは軽やかな足どりで広場を横断し、噴水そばのベンチにいる友人をみつけた。
「ジョルジュ! ジョルジュっ!」
駆け寄ると、ジョルジュは力なく手を振った。
「……よお、シフル。お疲れさん」
「なんだジョルジュ、ダメだったのか?」
「放っとけよ。あー、シフルは実技何だった? 火の精霊か? 水?」
うきうきと隣に腰を下ろしたシフルに、ジョルジュは嘆息がちに訊く。
「オレは火だった。もー完っ璧! 〇・五秒で来てくれたよーん」
試験がうまくいけば食事もうまい。シフルは布袋からサンドイッチをとりだすと、大口を開けてかぶりついた。
「シフルって妙に運いいよな」
対するジョルジュは、サンドイッチをかじる口もとも上品である。「俺なんて、いちばん気むずかしいというかの土の精霊だぜ」
「来てくれなかったわけ?」
無言でうなずく友人に、シフルはふうんと相槌をうってから、
「オレも土呼ぶの苦手ー。でもまあ、運も実力のうち。次がんばれよ?」
と、手厳しいひと言でもって刺し抜くのだった。ジョルジュは少し傷ついた様子だったが、たった一か月のつきあいでもある程度は相手の性格を把握しているらしく、カップの紅茶とともに飲みこんだ。
「だけどさあ、シフル、筆記も完璧って言ってたじゃん」
カップから口を離し、ジョルジュは尋ねた。「ひょっとして……、受かっちゃう? Aクラス」
「むろんだ」
シフルは迷いもためらいもせず即答した。そのうえ、
「ただし——」
と、訊かれてもいないのに補足する。「——『《やつ》と同じ最短期間で』の合格だ!」
ここを抜かすと全然ちがうだろ印象が、と力説もする。ジョルジュの呆れにも頓着しない。自信があるものはあるんだ、嘘はつけない、といわんばかりに、少年は目を輝かせる。確かに、自分の試験の結果というのは自分である程度わかるものだが、ここまで堂々と主張する学生はあまりいない。
「《やつ》ってあの……《鏡の女》?」
聞き返す友人に、
「そう! セージ・ロズウェル」
シフルは長母音に過剰なアクセントをつけて言う。
「なんでシフルってそんなにあいつを気にするんだ? 気でもあんのかよ」
友人の憶測に、シフルは肩をすくめる。母親譲りの銀髪が揺れ、灰がかった青の瞳がおかしげに光った。
「オレがそんな叙情性あふれる感情をもって《やつ》を見てると思うか?」
「いーや」
「わかってんなら訊くなよ。——純粋なる競争心ゆえの敵視だ!」
少年は、拳を握りしめて息巻いた。
《セージ・ロズウェル》、通称《鏡の女》。シフルのライバルにして、「理学院召喚学部最後の天才」の呼び声高い少女である。
彼女の伝説は独学による満点入学達成に始まり、数々の私闘における勝利とそこから生じた多くの退学者、最短期間でのAクラス昇級達成、一部の教師からの偏愛などによって彩られていた。彼女は現在もAクラスの頂点に立ち、学生たちの畏怖の対象となっているという。
シフルが彼女を知ったのは、同じく満点入学を達成したときのことだった。父親に反発して家出した彼が、憎き父親とちがう路線という理由だけで召喚学部を選択したところ、たまたま居合わせた女教師が教えてくれたのだ。
それがシフルに火をつけた。以来、セージ・ロズウェルは心の好敵手となった。シフルは怒濤の勢いで初級クラス、Dクラス、Cクラス、Bクラスと、毎月の昇級試験のたびに駆けのぼり、今日ついにロズウェルのいるAクラスに挑戦したのである。
これまでにも最短期間でBクラスに昇級した者なら少なくない。だが、Aクラスの壁はそれ以下のクラスとは段ちがいで、そうした学生の多くがここで初めての挫折を経験する。
(だけど、さっきの試験もいつもどおりに上々。オレは受かる。絶対に受かる!)
シフルは、胸のうちが確信に満ちているのを感じた。こうした状態になったときで、思いちがいだったことは一度もない。
「でもさあ、よかったよな、シフル」
ジョルジュはサンドイッチを口に入れつつ言う。「Aクラスに入ったって言えば、さすがに家の人も許してくれるだろ?」
「それはないな」
シフルは食事を終え、包み紙を折りたたむ。「あの親父、法学部じゃなきゃ絶対許さない。必要なのは後継ぎであって、どんなに権力があっても教会じゃダメなんだ」
「だけどさ、何度か学院にビンガムのおえらいさんが訪ねてきたって話だぜ? それってきっとシフルの親父さん関係だろ。話しあう気があるんじゃないのか」
「ないね! あるわけない」
シフルは思いきり頭を振った。「連れ戻して今度は監禁する気だったんだよ。あのクソ親父!」
初級クラス担当教諭から父の部下の訪問を告げられたときほど、学院の不輸不入権に感謝したことはない。シフルはその一件を思い起こして、ひとり身震いした。
理学院は元素精霊教会に付属する組織だが、かつて対ラージャスタン戦争に貢献した功績からプリエスカ国内で絶大な権力を誇っており、学院自体がひとつの国家のようになっている。よって、一度そこに入りこんでしまえば、外部の勢力は手だしできなくなるのだ。そういうわけで、政治権力者であるシフルの父親にも、理学院から息子を引きずりだすのは不可能なのだった。
「軟禁だってもうごめんだ! なあジョルジュ、おまえ軟禁されたことある? 家の中は自由に動けるんだけどな、玄関のところにゴツい男が二、三人控えてて、外に出ようとすると『お通しできません。お父さまのいいつけですので』ときたもんだ!」
「まあまあ、落ちつけよ、シフル。今は自由の身じゃんか」
「——そう、自由!」
シフルは灰がかった青の瞳をきらめかせ、大げさな身ぶりでその輝かしい言葉を表現した。「自由に好きな勉強して! 好きなものめざせて! なんてすばらしいんだ!」
少年の演技がかった物言いに、周囲の学生が振り返る。ジョルジュが、恥ずかしいからやめてくれよ、と懇願しても、シフルは止まらない。
「クソ親父! 今に見てろよ。オレはおまえよりえらくなって帰ってやる! 手始めにAクラス昇級はいただきだ!」
「……」
気の毒な友人はそこで沈黙した。広場で憩う学生たちは、シフルたち二人を見て笑いをもらしたり、あるいは試験の出来が悪かったのか恨みがましい目つきでにらんできたりした。シフルは周囲の視線などおかまいなしに、希望と自信をみなぎらせてぐっと拳を握る。
そのとき、広場に硬質な鐘の音が響きわたった。普段は午後の授業開始の合図であり、今日の場合は試験結果発表の合図でもある。シフルとジョルジュはどちらからともなく、発表だ、とつぶやき、ベンチを離れた。
小講堂にはBクラスの学生全員が集まっていた。試験結果の発表は、掲示板に貼りだされるのではなく、一切の匿名性を欠く口頭での発表である。しかも極めて明瞭に名前をあげてくれるので、理学院を学び舎とする学生たちのなかには、そのことを気に病んで辞めていく者もいるほどだ。
「ねェ、今度はどう? 合格しそう?」
「ダメ! たぶん脱落ー」
学生たちは発表を目前にして、そんな不毛な会話を繰り広げている。小講堂は一種の興奮状態にある学生たちのうめきで埋め尽くされていた。
「ハーイ、静かに!」
そこに、ひときわよく通る女の声。威厳のある声というわけではないが、彼女が今ここにいるすべての学生の運命を握っていると思えば、おしゃべりな若者たちが口を閉ざすには充分だった。教壇に彼女が現れると、小講堂は静まりかえった。
(待ってました、カリーナ助教授!)
シフルは身を乗りだす。
「今からクラスを発表します。二度は言わないから注意して聴きなさいね」
少年をはじめとするBクラス生一同は、固唾をのんで彼女に注目した。「さて、まずは総評を」
カリーナ助教授は、長い亜麻色の髪をかきあげて微笑する。彼女らしい、真意のみえない笑顔だ。
「今回は全体的に、非常に! 平均点が低い。何しろ初級クラスの退学者は十四名! このBクラスではCクラス落ちが二十四名! それに対しAクラス入りはたったの三名!」
小講堂はどよめいた。「はあ……、情けないったらないわね! では今から、Cクラス行きとAクラス行きの者を発表します。他の者はBクラスに残留。いいですね」
助教授の表情の陰影は暗い。学生たちは不安を隠せず、そわそわと耳うちしあう。
「Cクラス!」
次々と名前が発表されていく。絹を裂くような悲鳴や、断末魔といってもいい叫びがそこここからあがった。いまだ名前を呼ばれない者は、並々ならぬ緊張に胃を押さえている。
以上二十四名、と助教授が区切るや、あちこちで安堵のため息がもれた。
「続いてAクラス。アマンダ・レパンズ、ユリシーズ・ペレドゥイ、……」
今度は助教授の顔に光が射している。「——メルシフル・ダナン。以上三名」
——よっしゃ!
シフルは内心喝采をあげた。
「クラス替わった人は、校冠の石をとりにきてね」
カリーナ・ボルジアは丸い石が大量に入った箱を持ちあげる。その中の石は緑、一方、助教授の左手に三個だけ大事に握られている石は青だ。つまり、銀の校冠にはめる石はクラスごとに異なる。理学院の関係者は、教授陣も含めて校冠着用が義務づけられており、カリーナ助教授の額にも紫色の石が光っている。
「明日からは各自新しいクラスに出席するように。Aクラスは一クラスしかないからいいけど、ご存じのようにBは五クラス、Cは十クラスあるから注意して。それぞれの教室の入口に名簿があるから確認するようにね。以上よ」
カリーナ助教授は、石入りの箱を教壇の上に置いた。「では、解散」
学生たちはいっせいに立ちあがり、座席をたたんで出ていく。ある者は不満を述べつつ、ある者は苦笑しながらも残留を喜びつつ。シフルもやがて席を立った。Aクラスの青い石をもらいに行くのだ。
(Aクラスの青い石)
シフルは弾む心をおさえながら、教壇を目指した。(カリーナ助教授の手に三個しか握られてない青い石、理学院のなかで四十個しかない青い石、そして——)
カリーナ助教授の前にAクラス行きの三人が並んだ。シフルの他に金髪の少女と、要領のよさそうな印象の少年がやってきた。ともに昇級を決めたアマンダ・レパンズとユリシーズ・ペレドゥイだろう。
助教授はまずペレドゥイを手招いた。彼の校冠からBクラスの赤い石をはずし、青い石をはめこんだ。
「ペレドゥイ君、よかったわね。三年目にしてAクラス!」
「はい、ありがとうございます」
ペレドゥイはどこか申しわけなさそうに頭を下げた。続いてカリーナ助教授は、レパンズに手をのばす。
「レパンズ君。あなた、今のところAクラス二人めの女学生よ」
「じゃあロズウェルさんと二人? すごい、なんだかえらくなったみたい!」
レパンズは明るい水色の瞳を細めて笑った。彼女のまわりには、晴れやかな空気が生じている。
「ふふふ、そうでしょ。……さて、ダナン君」
——そして、やつも着けてる青い石、だ!
シフルは姿勢を正した。カリーナ助教授の手が校冠に触れるのを、頬を紅潮させて待つ。
「私が四か月前に言ったこと、覚えてる?」
そうささやいて、助教授は微笑んだ。
「はい。もちろんです」
赤い石が助教授の手のなかに落ち、青い石がその指に握られた。
「宣言どおり、どの石とも一か月のつきあいだったわね」
「はい」
「本当に、とんでもない負けずぎらいだったのね、あなたは」
「はい!」
かちりと音がして、青い石はシフルの校冠におさまった。少年は口の端をあげ、同じように笑う助教授にいたずらっぽいまなざしを向けた。
「——オレ、負けん気だけで理学院入ったようなものですもん」