第5話 動きだすとき(1)
どこへ行こうとしていたかは、定かではない。
けれど、確かにあのときシフルの手を引いていたのは母であり、シフルは彼女がでかけようと言ったから、大人しくついていったのだ。
あのときの母は妙に早足だった。子供のシフルでは歩幅が足りず、何度も足をもつれさせて転びそうになったのを覚えている。しかし、それでも母が彼を顧みることはなかった。何度か引きずられそうになりながら、母がこちらを気づかってくれないだろうか——やさしい言葉をかけてくれないだろうかと淡い期待を抱いていたけれど、それが叶うことはついになかった。母は歩きつづけた。息子の手を引いていることなど、忘れ果てたかのように。
市場の近くの雑踏に足を踏み入れたとき、母はようやく口をきいてくれた。
——シフル……、お父さまのおっしゃることをよく聞きなさいね。
それは母の口癖で、毎日いやになるほど聞かされていたのだが、そのときのシフルは母が自分に気づいてくれたことが何よりうれしくて——もっと自分を見てほしくて、母の機嫌がよくなるよう願いつつ懸命に答えたものだった。
(オレ、聞いてるよ。親父のいうこと、いつもちゃんと聞いてる)
それなのに、母さんはオレのこと、ちっとも見てくれないんだね……。ちらりと頭をよぎったぼやきは、ますます不機嫌になられるのが怖くて呑みこんだ。
(母さん……?)
返答が気にいらなかったのだろうか、急に母の背中が遠ざかった。通りを行き来する人々の波に呑まれていく。
(母さん……)
母が、遠くなる。母は、手を離した。周囲が見知らぬ人間ばかりになる。見慣れた母の背中は、今では手の届かない場所にある。とたんに不安に駆られた。母が人ごみのなかに消えていったように、自分もまたそれに呑みこまれつつあるのを、シフルは頭の端で感じていた。
——母さんにその手を離されてしまったら、オレはどっちに行っていいのかわからない。
(母さん)
必死に手をのばした。もう一度、母の手をつかむために。
(母さん)
駆けだそうとした。雑踏にまぎれてしまわないように。
(母さん)
——どっちに、行ったら。……
人波が、押し寄せる。
* * *
溺れる者は藁をもつかむというのは本当だと、シフルは思う。
あんな思い出ばかりの母親なのに、
——おまえが前向きでいられるよう、あのかたはいつも願っている。
妖精のあの言葉が、不思議と胸に残っていて、自分のからだを支えている。胸のなかでくすぶる小さな種火が、いいから顔をあげていろと自分に促す。前を向いているのはつらいけれど、静かな熱が以前の意欲を取り戻させてくれる。——目を逸らす必要なんてない。ただ、力を尽くせばいいのだと。
「先生! できました」
シフルは肘をのばして挙手した。もう片一方の手もとには、今しがた解答を完成させた代数学の問題がある。先ほど与えられた「お帰り問題」だった。
高々と掲げられたシフルの手に気づいて、下腹部の目立つ中年教師がやってくる。シフルの机の横に立つと、どれどれ、とつぶやきながら大儀そうに少年のノートをのぞきこんだ。
その教師はひどい口臭もちとして知られる人物で、日ごろのシフルなら教師の心持ちを推しはかっても顔をしかめたくなるところだが、そのときの少年はそれも気にならないほど胸が高鳴っていた。シフルは大いに期待しながら、教師の横顔をみつめる。
すると教師は、
「はい、正解。授業終わってよし」
と、告げた。福音ともいうべき喜ばしい知らせに、シフルはにこやかに返す。
「はい!」
——勝った。
初めて、彼女に勝ったのだ。初めてロズウェルを、「お帰り問題」で打ち負かした!
今この時間は、Aクラスで自分が一番だ。シフルは小躍りしながら荷物を抱えると、依然ノートをみつめるロズウェルを横目に見て、軽やかに教室をあとにした。人気のない廊下に、軽快な靴音を響かせてすっかり悦に入ったシフルは、無意識に跳ね歩いている自分に気づいて恥じ入るのだった。
あのキリィの一件は、確かにシフルにとって大打撃だった。少年はひどく落ちこんで、一時はもう立てないような気さえした。でも、そんなとき、
——おまえが前向きでいられるよう、あのかたはいつも願っている。
青い妖精のひと言を思いだすと、奇妙なことに新たな力がわいてきた。いつも父を立てるばかりで、息子への思いやりなど微塵も見せない母が、雑踏のなかで手を離したあげく、通りすがりの人がシフルを連れ帰ってくれたときも自宅で家事をしていた母が、ついぞダナン家において笑顔を見せたことのない母が、その実そんなふうに自分を思ってくれていたとは。たとえそれが気ちがい妖精の妄想だとしても、シフルには救いだった。
長いあいだ、母が母だという気がしなかった。にもかかわらず、まちがいなく喜んでいる自分がいる。もしかしたら本当に、母はシフルの理学院入学を応援していたかもしれない。そう考えると、こんなところでうずくまることはできなかった。
(オレは、まだがんばれる)
そうしてシフルは、前向きに快進撃を開始したのである。
これまで以上に召喚学の勉強を熱心にしたし、教養科目にも力を入れた。それは、すべてにおいて負け続きであったセージ・ロズウェルとの戦いに、猛反撃をくりだすことだった。
舞踊の授業。シフルはやはり、ぎこちなく手足を動かしている。しかし、意地で情念をこめながら音楽にのっていたシフルは、
「ダナン君、精霊への思慕がよく表現されていますね。素直ないい踊りです」
という評価を、優しい微笑とともに受けとった。
剣技の授業。シフルは自分ががむしゃらに剣を振りまわすと相手に迷惑をかけることを学んでいたので、今度はフォームに気を配りながら試合に臨んだ。今はまだ、美しいフォームと栄えある勝利とを同時に実現できる力はない。
結果、何人かの学生には破れ——その中にはロズウェルやカウニッツもいた——、何人かの学生にはなんだかんだで一本とることができた。何度も試合を繰り返すなか、教師に、
「よしダナン、いいフォームだ」
というお褒めの言葉をもらえた。苦手な体育の授業も、やれば少しぐらいは上達できるのかもしれないと思えてうれしかった。
そして、上級精霊学講座の実習のときがきた。
「今日も各自練習。時間は終了の鐘まで。では、始め」
そう告げて、全速力で広場を走り去ったヤスル教授は、このところ授業に対する手抜きがあからさまになっている。研究が佳境に達しているのか、あるいは先日のシフルの学説破りに関して教授会が紛糾しているのか、教授が何も言わないので予想するほかないものの、理論はともかく実践は自習続きだった。
シフルはひとり、広場にたたずんで長い息を吐く。この授業ばかりは、先日の一件を悩まずにはいられない。
努力しても四級までしか精霊を使役できないなら、どんなにがんばってもむだではないか。だからそんなことをする必要はない——と、シフルは前の授業とはうってかわって、あれほど救いに思ったことも忘れ、うしろむきになってしまう。どんどん陰鬱になっていく。
それというのも、あの一件以来ユリスやアマンダとは気まずくなっていて、単独行動をとっているからだ。誰にも吐きだせなければ、悪いものは溜まる一方。たまにルッツが話しかけにくるが、シフルがまともに相手をしないので、じきに去っていく。
——あいつに失望されたくない。
という気持ちが、よけいルッツを遠ざける。シフルはそれに気づいていたが、止められなかった。今なら、ルッツやロズウェルが遠巻きにされる理由も、胸にしみて理解できる。どうにもならない気持ちが、シフルのなかにもある。消したい、でもどうすることもできない。
「……火の子らよ、オレに力を貸してくれ」
シフルは小さな声でつぶやく。いつもと同じ言いまわしで、いつもと同じに指を五本立てた。
しかし、弱々しく振り下ろした手の先には、何ら変わらない空間があるだけだ。
(当たり前だな)
シフルは冷静に思った。(普段でさえ来てくれないものが、こんな腑抜けたときに来るわけがない……か)
地面に座りこむと、足を抱えて丸くなる。
——どうしてオレだけ。
《精霊王》の呪いを教えてくれた妖精は、どう見ても正気だった。よって、あれを嘘だと信じこむこともできない。——どうしてオレの血が、呪われる。どうして父か母かその前の代に受けた呪いに、オレまで甘んじなきゃならない。どうしてオレだけ、努力がむだになる。
(まるで、オレは親父の跡を継がなきゃいけないんだって、いわれてるみたいだ)
シフルは嘆息した。法学部がいやだったわけではない。でも、父に与えられた世界の中だけで、これからも生きていかなければならないと思うと、気が狂いそうだった。父から離れられず、母の陰気さからも離れられず、どこにも行けない。それに、法学部以外にも学部はあるというのに、自分がわざわざそこを選ぶ理由はない。父にはあるのかもしれないけれど、自分には。
召喚学部は、自分の初めての選択だった。理由があってもなくても、シフルは召喚学部を選ぼうと決めて選んだ。促したのが直感のみでも、自分が選んだ道にはちがいない。
(逃げられると思ったのがまちがいだったのか)
シフルは自らに問う。(どこにでも行けるって、思ったのも)
そのとき、後方から硬質な靴音が近づいてきた。足早にシフルを目指してくるその音に、少年は顔をあげる。ちょうど同じ方角に昼間の太陽が輝いており、まばゆい光がシフルの眼を刺した。目の前に立ちはだかった人物の容貌は、影になってみえない。ただし、制服のスカートと姿勢のいいシルエットが、その人物が誰なのかを如実に示している。
「立て。ダナン」
彼女はシフルを見下ろすと、強く言った。「まじめに自習する気がないなら、私につきあってもらおう」
「ロズウェル……」
シフルは彼女を見上げ、うつむいた。それから重い腰をあげ、やってきたときとはうってかわってゆっくりと歩きだしたロズウェルのあとを追う。
彼女はシフルの少し前を歩いた。シフルは彼女の背中をみつめながら、のろのろと足を動かす。
彼女はシフルを振り返らない。けれど、シフルの足が止まりそうになると、必ずそれに気づいて足をとめた。それで、シフルは逃げだせない。意を決して再び足を踏みだせば、彼女もまた歩きはじめる。
「ロズウェル」
図書館に入ったところで、シフルは口を開いた。「それで、いったい何の用なんだ?」
彼女はやっとシフルのほうを向く。黒めがちな眼が、少年をしげしげと見た。
「……おまえは、《精霊王》を知っているか?」
ロズウェルの問いかけに、シフルの心臓が跳ねた。水の一級妖精・キリィいわく、《精霊王》はシフルに流れる血を呪う者で、全精霊を統べる者、真に万象を司る者。その存在ゆえにシフルは三級以上の精霊を使役することができない。だが、そうはいわれても、シフルには《精霊王》なる存在の知識がなかった。
シフルは目をみひらき、
「いや、知らない……」
と、しっかりとした声で答えた。
気づいてしまったのだ。自分がその存在を知らなかったこと、知ろうともせずに鵜のみにしてしまったこと。そのうえ、《精霊王》なる者がいかなる存在で、いかなる力をもち、なぜシフルの血を呪うのか、調べようともせずにあきらめた。
「私も、キリィがあんなことを言いだすまで知らなかった。だって、授業では少なくともとりあげられていないし、教会のおしえにもないんだ。そうだろう?」
ロズウェルをまっすぐ見返して、シフルはつぶやいた。
「……となると、これも学説を覆す発見かもしれない……」
「そうだ。あるいは、知られていても教えられていないかのどちらかだな」
強くうなずいて、ロズウェルは手招いた。入口の扉に近い場所、蔵書目録の棚に向かう。ふたりはどちらからともなく目録を手にとり、《精霊王》の項目を探しはじめた。
授業で教えられていない以上、その存在は一般には知られておらず、資料の数も少ないのだろう。が、ロズウェルに従属するキリィのような妖精がこれまでにまったくいなかったとは考えにくい。つまり、自分の妖精を通して《精霊王》の存在を知った人間が過去にもいたにちがいないのだ。きっとあまりにも例が少ないことから、現在の主流な学説にはなれなかったというだけの話だろう。
だから、《精霊王》を扱う書籍がある可能性は捨てきれない。そして、仮に《精霊王》を知ることができたら、方法だってみつかるかもしれないのだ。
——《精霊王》の呪いを解く方法。
シフルは急に活力が戻ってくるのを感じた。蔵書目録の棚の横に座りこむと、恐るべき速度でページをめくっていく。精霊王、精霊王……と、無意識に口に出していた。かたわらではロズウェルが、彼同様目録に目を通している。
「……あった!」
しばらくしてシフルは、たった一件、《精霊王》のキーワードを題に含む本をみつけた。
「どれ!」
ロズウェルも珍しく興奮しているようで、床におかれた目録をのぞきこむ。
「ベアトリチェ・リーマン著、『精霊王に関する考察』全四巻。ロータシア暦二二三年発行……古いな……五百年前じゃんか。えーと、閉架!」
シフルは勢いごんで立ちあがる。何かわかるかもしれない、そう思うと、ゆっくり歩いてなどいられなかった。騒々しく受付まで駆けていって司書に叱られたが、それでも気分は浮きたっていた。
理学院では方針上、どんな稀少価値の書物であれ貸し出しを許可してくれる。シフルは無事その本を借りて図書館を出た。
渡り廊下の端まで全力で走っていき、ロズウェルをおいてきたのに気づいて、あわてて立ち止まる。『精霊王に関する考察』四冊を抱え、足は寮に向かいながらも、あとからやってくるロズウェルに手を振った。
「ロズウェル、ありがとな! 何かわかったら教えるから」
すると、彼女はシフルのほうに駆けてきて、
「約束しろ。ダナン」
と、迫った。「この私に協力させたんだからな。ちゃんと《精霊王》のことを知って、キリィのいう呪いとやらを解き、立ちあがり、また私を追いかけると——この場で約束しろ」
予想外の言葉に、彼女の真剣なまなざしに、シフルはしばし返事ができなかった。その間も彼女の黒い瞳はシフルを捉えており、他でもないシフルを見ている。
「試せと言ったのはおまえだ。まさかあそこまで言っておいて、逃げるおまえではあるまい? ……もし逃げるのなら、他に類を見ない卑怯者だよ、おまえは。人の真実を暴いておいて、暴いただけで遁走するのか!」
彼女の冷静な声音が、徐々に感情的な色を帯びていく。
シフルは驚いていた。ただ驚いて、答えを返せなかった。ロズウェルがこんなふうに、声を荒げることがあるだなんて。それほどの感情の波に襲われるだなんて。そして何より、その原因が——この自分にあるだなんて。
あしらわれているだけだと思っていた。何かあるたびに皮肉を飛ばすのみで、ロズウェルにとってシフルとの勝負は些事にすぎないと。日常茶飯事の一環として、シフルの挑戦を受けただけなのだと思っていた。彼女にも挑戦を受ける意味があったなんて知らなかった。いつもどんな気持ちで敗者を見送っていたかなんて、知らなかった。
考えようともしなかった。彼女が無表情だから、あまりにも才能ある人だから。
——だけど、知りたい。本当はずっと、知りたかったんだ。
「逃げない」
シフルは力強く断言した。「——オレはいつか、あんたに勝つ! 約束してやるよ」
びしっと指を差し、不敵に笑う。
ロズウェルも、それに応えて口角をあげた。
「それでいい」
そうして彼女は踵を返し、図書館のほうへと戻っていく。一方のシフルは寮へ。ふたりは別々の方向へ、それぞれ歩き去った。