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精霊呪縛  作者: 甲斐桂
第一部 プリエスカ・理学院編
13/105

第4話 愛される者と呪われる者と(3)

 ——これから、か。

 シフルはひとりごちて、握っていた鉛筆をくるくると回した。

 ノートに書きなぐった幾何の問題を目だけで凝視しながら、心ここにあらずで。今の彼の頭に幾何学の入る余地はなかった。もやもやしたものが頭の中をうごめいている。どこかに走っていきたい気持ち、誰かに大声で主張したい気持ちだ。少なくともこの時間、幾何学の授業には集中できそうにない。

(そりゃ、これからにはちがいないよ。オレは、入学は遅いほうだろうけど、Aクラスには四ヶ月であがれたし。カウニッツは、……二年だなんて、その六倍だもんな)

 それから、若人役を獲得するまでに四年。自分はAクラスに入ってからまだ三週間弱、計算も面倒なくらいカウニッツとは年月の差がある。シフルがまだまだこれから成長していく人間だというカウニッツの意見にまちがいはない。

(だけど——結局、カウニッツは選ばれた。結局)

 シフルは思いをめぐらせるなかで、結局、という言葉をひどく意識した。かけた時間の長さは問題ではない。要は精霊に選ばれるか、選ばれないか。愛される素質があるか、ないか。大切なのは結果だけ。

 素質がなければ、かけた時間の一切は空しくなる。カウニッツの時間は最終的に有意義と証明されたのだから、何ら劣等感を覚える必要などない。

 それにしても、これまでに理学院を去った学生たちは、いったいどこで見切りをつけてきたのだろう。こつこつと努力を続けることも意味をなすのであれば、きっと容易にはあきらめがつかない。

(たぶんオレも、あきらめられない)

 と、シフルは思う。

 夢破れた自分の姿を思い描くのはつらかった。家を出たときのまま軽い荷物をもって帰宅すると、両親が待っている——自分を迎える父の嘲る顔が、目に見えるようだ。

「私の忠告を聞き入れないからこうなるんだ」と雄弁に語る父の焦げ茶の瞳。それから、母の呆れ顔。「お父さまのおっしゃることを聞きなさいと、あれほど言ったのに」。母はそれを遠慮なく口にするだろう、その言葉は母が父への従順を示すのにしばしば使う得意技だった。

 その顔を言葉を、実現させないですむのなら、Aクラスに何年かけてもかまわない。だからきっと自分は、素質がないのに気づいたとしてもあきらめきれず、空しい努力を続けるだろう。もちろん、その末に隠れていた素質があらわれたなら、カウニッツと同じように長い時間が有意義なものに変わるのだけれど。

(……うらやましい。やっぱりどうしてもうらやましいよ、カウニッツ。どうせまたあんたは、うらやましいなんてものじゃない、とか言うんだろうけどさー)

 シフルは頬杖をつく。眼鏡がずり落ちてくるのを指で直して、ぼんやりと鉛筆を回す。

 幾何学の問題は、さっぱり解決法がみつからない。前方の席で颯爽と手を挙げた者がいて、それは他でもないロズウェルだったが、シフルは敗北感も覚えなかった。考えてみれば向き不向きというものがあって、すべてにおいて張りあうのは無意味というもの。毎日、毎時間がすべて勝負だ、などとたんかを切ったのも、今となっては滑稽である。

 やはり、張りあうなら召喚しかない、ともシフルは思ったが、今はそれさえもばかばかしく感じる。

(あいつには素質がある。オレは……わからない。じゃあ、相手にならないじゃんか。学説なんていくら覆してみたところで、何の証明にもならない。あいつと同じことを、あいつ以上にうまくやってみせなくっちゃ)

 ——だけど、私に勝てる日がくるとは思わないほうがいいよ。

 ふいに、彼女の言葉がよみがえる。

 そうか、相手にならないと知っていたから、ロズウェルはあんな台詞で人をこばかにしたんだ——。

 急に彼女の態度がひどく腑に落ちて、シフルはますますいやな気分になった。あの日ロズウェルに宣戦布告した自分が道化じみていたことはわかっているけれど、それを聞く側の彼女の目にも道化として映っていたとなると悲しいものがある。シフルの話に耳を傾ける彼女は、そんな侮った態度なんかつゆ見せなかったのに。

 シフルはロズウェルを探した。彼女は問題をひと足はやく解き、教室をあとにしようとしていた。

「お先に失礼」

 彼女はそう言って、皮肉っぽい笑みとともにドアを開けた。頬がかっと熱くなって、シフルはもう少しで乱暴に席を立つところだった。

 が、ふと、シフルは気づく。彼女はいつもこうじゃないか。彼女のいやみで学生たちが奮い立つのも、いつもどおり。ひとりいつもどおりじゃないのは、いったいどこの誰なのか。

 ——……このバカ!

 シフルは、両手で自分の両頬を力いっぱい叩いた。

 ばちん、という軽快な音が静かな教室に響き渡り、学生たちや教師が振り返った。シフルは周囲の視線は気にもとめず、さらに二、三度自分の頬を打ち、鉛筆を改めて握った。

 椅子に座り直すと姿勢を正し、ノートの上の図形をみつめて、再び問題に取り組みだした。まわりはシフルが眠さのあまり頬をはたいたのだと理解し、各々のノートに向き直った。教師は再び教室内を巡回しはじめた。

(えーっと。ここに補助線引けば)

 シフルは鉛筆を動かして図形に補助線を加える。やっと、まじめに問題に取り組む気力が戻ってきた。頬に与えた刺激がすがすがしい。別に睡魔に襲われたわけではなかったが、じっさい眠気が去ったような心地だ。

 カウニッツのように、悪く考えようと思えばいくらでも悪い方向に考えることができる。時間がかかったのは自分に才能がないせいだと考えて、時間がかかっても才能が発現したのだと考えられないのは、カウニッツ自身の性格だ。なにもそれに同調する必要はない。

 今、とにかく夢を実現させることを望むなら、自分の才能を信じるだけだ。いつかロズウェルが本当に自分を好敵手として認めてくれると、いつか精霊が自分を愛してくれると信じるだけ。前進するだけでいい。悪いほうに考えても、何も始まらない。

(……すると、ここは四十二度だから、答えは——)

 シフルはノートに数値を記入して、手を止めた。

 それから、

「できました!」

 意気揚々と挙手する。



「俺も混ぜてもらえる?」

 昼食どき、ルッツ・ドロテーアがそう言って近寄ってきた。

 芝生の上で輪になって食事をとっていた三人のうち、首を縦に振ったのはシフルひとり。ユリスは露骨にいやな顔をし、アマンダは微妙な顔をした。

 ルッツが精霊召喚において天才肌ということもあるけれど、彼が先日ユリスに対し、歯に衣着せぬ言葉を吐いたことが大半の原因だ。シフルは別にかまわなかったが、傷ついたユリスの手前、歓迎するのはためらわれた。

 が、ルッツは、シフルの承諾しか見ていない。その他の反応は、まるっきり無視である。

「俺の予想は当たったね。シフルはやっぱりおもしろい」

 と、ルッツはしたり顔で告げた。先日、これまで信じられてきた法則のまちがいを暴き、学説を覆したことをいっているらしい。

「言うと思った」

 シフルは答えて、カップのコーヒーを飲む。こちらをにらんでいるユリスと目が合ったので、ごめん、と念じておいた。アマンダが察して、ユリスに何げない話題を振る。二人は二人で会話しはじめた。

 シフルは話を続ける。

「でもあんなの、何にもならないじゃん。おもしろいからって、ロズウェルに勝てるわけじゃなし。《若人》役もらえるわけでもない」

 あの件があってからもう何日も経過しているが、教授たちは何もいってこない。だから、おそらく大したことではなかったのだろう、とシフルは踏んでいる。例えば、予算の都合がつかず、長年古い教科書が使われていて、ヤスル教授は若さゆえにそのまちがえた教科書の記述をうっかり信じこんでおり、他の教授はとうの昔に知っていたとか、そんなところだ。

「一般的な話をするなら、それでもシフルはなかなかだよ。俺は普通にできたからあえてすごいとはいわないけど、二度めの実習で六級精霊の召喚に成功するなんてめったにない。今のAクラスなら、俺とロズウェルぐらいだったかな。ヤスル教授に期待株だって言われたろう?」

 ルッツは微笑を浮かべながら、どういうつもりなのか知らないが、彼なりにシフルを褒めてきた。

「時間なんて関係ないじゃん。カウニッツもそんな感じのこと言ってたぜ」

「いや、時間は関係あるよ」

 ルッツは布袋から麦芽パンのサンドイッチをとりだした。中にマヨネーズがこれでもかと塗られていて、今にもこぼれそうだ。

「本当に才能があるなら、時間は全然いらない」

 彼はサンドイッチにかぶりついた。案の定マヨネーズがこぼれ、制服に落ちて白い染みをつくった。アマンダは、ユリスとしゃべりつつもこちらに注意を払っていたようで、ハンカチをとりだす。わだかまりがあっても気づかいは忘れないらしい。さしものルッツも、ありがとう、と礼をいった。

「……で?」

 それじゃあカウニッツのは本当の才能じゃないとでも言うんだろうか、と苦々しく思いながら、シフルは続きを促す。ルッツはうなずき、こうつぶやいた。

「やっぱりね、君を見ていると、からだが震えるんだよ」

「あー」

(前にもそう言ってたな)

「震えてるのは俺なのか、俺のまわりにいるシータなのかわからないんだけどね、」

 ルッツはサンドイッチをコーヒーで流しこんだ。「君はただ者じゃない。簡単に学説を覆してみせた君を見て、まちがいないと俺は思った」

「ふーん」

 シフルは曖昧にうなずいた。そうは言われても、「どういう方面に」ただ者じゃないのか、という問題がある。何度いわれても、喜ぶ気にはなれなかった。少なくとも、学説を覆したことに何か重大な意味があると判明するか、易々と上級精霊を召喚するのに成功するか——夢のような話が現実になりでもしない限り、ルッツのいう「ただ者ではない」ことなど喜べやしない。

 そのとき、

「で、何のために俺らの昼飯ジャマしにくるわけ?」

 ユリスが口を挿んだ。

 ルッツは彼のほうを見もせずに答える。

「俺はシフルの正体を見極めたい。もちろん君たち二人には興味ないから、安心してくれていいよ」

 言い切ってから、ユリスとアマンダに振り向き、花のような笑顔をつくる。

 一度ばかりか二度までも、正面きって悪意にしかとれない皮肉を言われ、二人は蒼白になって硬直した。シフルは即座に、

「言葉と相手は選べって教えただろ? ルッツ」

 と言い返して、ユリスたちにかける言葉を探した。けれど、うまい言葉がみつからない。こんなときは、何をいったらいいのだろう。どんな言葉をかければ、二人はいつものように笑ってくれるのだろう。

 そこに、ロズウェルがやってきた。

「ドロテーア、ヤスル教授がお呼びだ」

 精霊の助けだ、とシフルは思った。

「先生が? 今、忙しいんだ。ロズウェルがいれば用は足りるだろう? 勘弁してよ」

 ルッツは口惜しそうに言い返す。

「今日はいつもとちがって、シータのみの実験だそうだ」

「ロズウェルがやればいい」

 ロズウェルはアイン一級を召喚できるのみならず、サライも四級まで呼べるという。おそらくは、シータもかなりの上級精霊を使役できるにちがいない。

「そうもいかない。私は属性ちがいだ。他にも名だたる精霊召喚士のかたがたを集めてやるそうだよ。あのヤスル教授が、殊勝にも、おまえを気づかって昼休みに」

 ロズウェルは、殊勝にも、を強調した。ヤスル教授が、この世でいちばん愛している実験や研究のおりに、協力者の都合を考慮することは珍しい。あまりにも周囲を顧みずに研究狂ぶりを発揮しているヤスル教授は、当然「狂人」の名をほしいままにしている。

 ルッツは嘆息した。

「はいはい、わかったよ。シフル、またね」

 彼が諦めてその場をあとにすると、シフルは安堵の息をついた。

「まさかこれからあいつ、毎日ここ来て昼食うんじゃないだろうな! 俺、絶対イヤだぜ」

 ユリスが、心底不快げな顔をして吐き捨てる。

「うん……」

 アマンダも遠慮がちに同意した。二人がシフルのほうに視線を投げてきたので、少年は困って思案をめぐらせる。

「誰がいやと言っても彼は来る。ドロテーアはそういう人だ」

 シフルが口を開く前に、ロズウェルが答えた。彼女はドロテーアに対する理解が深いらしい。シフルがロズウェルに目をやると、彼女はさらに続けた。

「だけど、悪い人間ではないよ。自分に正直すぎて、まわりを見ないのが難ではあるけどね。彼に邪険にされたくなければ、自分を磨くことだ。彼はそれなりの実力の持ち主のことはちゃんと認めるから」

 なるほど、ロズウェルに対してはそれなりに素直だった。彼いわく「おもしろい」という自分に対しても、別に問題はない。ただ、ユリスとアマンダへの態度は目に余る。

「それなりって、ロズウェルさんやシフルのことでしょ? ムリだよー、そんなの」

 アマンダがさっそく投げだす。シフルは勢いよく頭を振った。

「オレぇ? そんなことないない」

 するとアマンダは、急にまなじりを鋭くする。

「ひとりだけ六級火サライ呼べたじゃない、学説だって覆した。それなのに、呼べない私たちにそんなことが言えるの?」

 アマンダが感情的になっている。傷ついた顔で、シフルに食ってかかった。私たち、と言われ、ユリスがうつむいた。

「あ——」

 シフルは失言を悔いた。二人とも何もいわなかったから気にもしなかったが、やはり二人はシフルの成功に焦りを覚えていたのだ。想像するまでもなく、シフルが五級精霊を召喚できない以上に。

「ごめ……、オレ」

 シフルがとっさに謝ろうとすると、

「きっと、それだ。ドロテーアがきらっているのは」

 ロズウェルが金髪の少女をまっすぐに見た。「ドロテーアがおまえたちを認めないのは、おまえたちがドロテーアを認めないからだ。……どうして、わからない? 簡単なことなのに」

 そのまま、彼女は踵を返す。アマンダやユリスを顧みることなく、足早に立ち去った。芝生を踏みしめ、校舎に入っていく。

「待てよ! ロズウェル!」

 シフルは彼女を追った。瞬間、友人のことを忘れた。振り返ったロズウェルの黒い瞳が自分をにらみ返したとき、再び友人の傷ついた顔を思った。傷つけたのは、ルッツ、彼女、それに——他でもない自分。しかし、

「あんな言いかたないだろ! 気づかいが足りないのは、ロズウェル、あんただって一緒だ。オレたちにとって、どれだけあんたたちの力が大きいか、わかれよ。めげたくもなるよ」

 シフルはロズウェルを責めた。自分を棚にあげているのにも、気づいている。でも、止まらなかった。

「すまない」

 シフルの予想に反して、ロズウェルは謝ってきた。逆に叱責されると思っていたのに、とたんに毒気が抜けた。

「私たちは言いかたがきついらしい。それはわかっているし、反省もする。だけど、『めげたくもなる』のが自分たちだけだと思うな。私やドロテーアが、他の追随を許さない天才などといわれて、なんとなく遠巻きにされているのはわかるだろう。一緒にいると劣等感を覚えるとか? まあそれはどうしようもない。だからあきらめている。でも、私たちがそれで本当にめげてなどいないか、平気でAクラスに君臨しているのか、ちゃんと考えろ。文句はそれからにしてもらいたい」

 シフルは眼をみひらいた。もともと、彼女やドロテーアの思いは察していた。でも、彼女自身がはっきりと言葉にするのと、想像のうえでの理解はちがう。

「……だから、私たちはいつも待っているんだ。劣等感を覚えようと、自分たちに追いつこうとする人間を。ドロテーアがダナンを気に入ったのは、もちろんダナンに召喚学上の《異質》を感じとったせいもある。それは私にもわかる。だけど、それ以上にきっと、ダナンを見て、話して、直感したんだ。ダナンがその人間かもしれないと。自分を怖がって忌みきらう多くの学生とはちがう。あきらめずに自分を目指してくる」

 そう言って、ロズウェルは少し笑ったようだった。「だから、そう邪険にしないでやってくれ」

 言うべきことを言い終えると、彼女は行こうとした。シフルは反射的に彼女の腕をつかんで、止めた。

 ——そうだ。オレは、ちがう。

 と、彼女に叫びたかった。

 ——オレは本気であんたを目指してる。絶対あきらめない。

 だからあんたも、オレにちゃんと向きあえ——そう言いたかった。だが、シフルはルッツほど自分に正直にはなれなかった。うしろで、ルッツと彼女と自分とで傷つけた友人が見ている。それを考えると、声が出なかった。

 ロズウェルは引き止められて苦笑したが、告げる。

「……私も、たまに探したくなる。誰かを試みてみたくなるよ。もっと本当のことを知ったら、どうなるか」

「じゃあ、試せよ」

 ロズウェルの言葉に、シフルはそう返した。これが、本音だ。二人を傷つけたことなんか、本当はどうでもいいのかもしれない。結局、ロズウェルとルッツと同じになることが望みで、だからすでに同じなのかもしれない。

「わかった」

 ロズウェルはうなずいた。「じゃあ、人気のないところに行こう」

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