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精霊呪縛  作者: 甲斐桂
第一部 プリエスカ・理学院編
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第3話 才ある者たち(3)

 ヤスル教授の上級精霊学講座は、Aクラス学習の中核をなす、重要な科目である。よって、一日一コマは必ず時間割に組みこまれていた。授業内容は理論と実践が半々で、理論では主にAクラス教室が使用されるのだが、実践ともなると広場に出て、理論に基づいた精霊召喚を実際に試みる。

「六級精霊なんて、本当に来てくれるのかなー」

 レパンズが、しかし楽しそうに言った。

 昼休み後の授業に上級精霊学講座を控えた、曇り空の午後。校舎を抜けて広場に降りても、日射しはごく弱々しく、ぼんやりとした明るさだった。が、レパンズの陽気は天候にもこのあとの授業内容にも左右されないらしい。彼女は今日もうきうきと晴れやかな空気を振りまいている。

 彼女がAクラスまで上がってこられたのは、ひとえに気負いのない性格のおかげだろう、とシフルは思う。シフルの場合、試験のときは適度の気負いと緊張感でもって気分を引きしめ、普段以上の成績をおさめるのだが、中には緊張がマイナス効果しか発揮しない人間もいる。

 かたわらのペレドゥイなど、ここにいるのが不思議なくらいだった。彼はたかだか授業の実習だというのに、緊張が度を越している。

「大丈夫かな、……大丈夫だよな、ここまで来れたんだから。俺だって実力ってもんがあるはずだし。ああでも、俺が受かったのってサライがたまたま一発で来てくれたからで、別に実力じゃないような」

 そのように、ペレドゥイは先ほどから不毛な自問自答を繰り返していた。

 確かに、七級までの精霊召喚がBクラスの学習の要である以上、六級以上の精霊を呼べなければAクラスに所属する資格がないも同然なのだが、実際にはそこまで厳密な決まりはない。要するに定員の問題であり、相対評価でクラスは決まる。Aクラスの学生の場合、Bクラスに彼よりも有望な成績をとる学生が現れない限り落第はしない。ペレドゥイが何よりも信ずるべきなのは、先月までAクラス生だった誰かよりも優秀だと学院側に判断されたからこそ、いま彼がAクラスにいるのだという事実である。

 そこでシフルが、

「いちいちウダウダするなよ、ハゲるぞ? それに、運も実力のうちだろ。オレだってヴォーマ呼べって言われたら落ちてたよ」

 とりあえず慰めようとフォローを入れるも、

「そうだよな! 運も実力のうち! うん」

 と、いったんは盛り上がるのだが、

「でも、運は運だよな……そんなんで粋がってもな……」

 と、またすぐ盛り下がるのだった。見ための軽そうな印象とはちがい、ずいぶん繊細である。

 三人が広場に出ていくと、他のAクラス生はすでに集まっていた。

 ヤスル教授が校舎のそばで大声を張りあげている。

「今日は実習初回恒例、六級精霊召喚をやってもらう。どの精霊を呼ぶかは好きにやってよろしい。要は、指を六本立てるのを忘れるな。諸君はまだヒヨッ子なんだからな。——では、はじめ! 時間は、授業時間終了まで」

 ヤスル教授はそう告げると、さっさと校舎に引っこんだ。ヤスル教授に学生教育に対する意欲がないのはいつものことらしく、学生たちは黙々と指を数えている。

 シフルは右三本左三本の指を力強く立てると、さっそく利き手を振りかざした。

サライの子らよ、オレに力を貸してくれ!」

 少年の右手は空を切る。けれど、勢いごんだ手だけが虚しく空振って、サライが漂うはずの空気はといえば、変化の兆しすらなかった。シフルは舌うちする。やはり六級ともなると、そう簡単には来てくれないか。

(ロズウェルは一級が呼べるのに……)

 シフルの胸に敗北感がよぎる。(でも、あいつとオレじゃキャリアがちがうんだから、当たり前)

 そう、これから、これからだ。シフルは油断するとくすぶりだす敗北感を、自分に言い聞かせることで抑制した。敗北感から自信を失うのがいちばん怖い。自信を失ったとき、きっと自分は動けなくなる。

サライ、お願いです。オレに力を貸してください!」

 言葉に敬意が払われていなかったのを正してみて、繰り返し呼びかける。

 だが、繰り返したからといって成功するものでもない。回数は問題ではないのだ。仮にシフルが精霊に愛される資質をもっていなかったら、ここまでで終わってしまう可能性だってある。シフルが息をつくと、横ではやはりレパンズとペレドゥイの二人が手を上げたり下げたりと奮闘中だった。彼らのまわりの空気も、何ら反応を返してくれていない。

 他の学生もまちまちだった。余裕の体で精霊を呼びだした者もいれば、空気がかすかに赤くなったと喜ぶ者もいる。しょせん、クラス分けなど相対評価に過ぎないのだ。全体のできによっては、七級精霊の召喚に失敗してもAクラスへの昇級が叶った者もいるだろうし、六級精霊召喚の技術を身につけたうえで正当にAクラス残留を射止めた者もいるだろう。

「ねえシフル、ちっとも来てくれないねー、精霊さん」

 レパンズが愛称で少年に話しかけた。

「そだな、アマンダ」

 シフルは彼女の人懐こさに便乗する。

「ホントだよー」

 そこにペレドゥイも加わり、三人で輪になって座りこむ。いっせいに嘆息した。

 話題が途切れて、三人は沈黙する。シフルは周囲を見まわした。手を振り振り実習に励む者も多いが、中にはぼんやりと突っ立って手持ちぶさたの者もいる。六級精霊召喚などばかばかしくてやる気がしないのか、とうにあきらめてしまったのか——仮にもAクラスに残っているのだから、おそらくは前者だろう。シフルは立ちあがる。

「シフル、どこ行くの?」

 アマンダが呼び止める。

「余裕のありそうなやつに、こつでも聞いてくる」

「それいい考え! 他の子と仲よくなるチャーンスッ! ユリシーズも行こ、ねっ」

 アマンダは笑って、ペレドゥイの手を引いた。ペレドゥイはうれしそうにうなずいてから、

「ユリスでいいぜ」

 と、照れつつ付け加える。

「じゃあユリス、あそこのあいつ、《若人》だよな。シータの……」

 シフルは顎をしゃくった。「確か、《ルッツ・ドロテーア》」

 ——君が精霊に愛される人間かどうか、ということだよ。

 そうシフルに言い放った、金の瞳の少年。彼は噴水に腰かけ、暇そうに水面を眺めている。きのう話した学生によると、ドロテーアは三級風シータ召喚が可能だという。六級精霊の召喚など、さぞかし退屈だろう。

 ならばちょうどいい。力を貸してもらおう。

「ドロテーア! ルッツ・ドロテーア」

 シフルはいきなり彼に近づいていって、声をかけた。「あんた、いま暇? 暇だったらさ、どうやったら六級精霊が呼べるのか、こつなんか教えてほしいんだけど」

 美辞麗句のひとつも駆使せずに、真っ正直に頼む。

「ああ、いいよ」

 ドロテーアは金の瞳を細めて快諾した。彼の笑顔に、シフルはなんとなくほっとした。先日のドロテーアは、価値のあるものとないものを明確にし、後者であれば切り捨てる——そんな冷酷さが前面に出ていて、少し怖かった。切り捨てられる側になることを考えたからだ。

(だけど、わりあい親切なんだな)

「じゃ、ドロテーア、さっそく頼むよ」

「召喚のこつを教えてほしいのは、君ひとり?」

 彼はかすかに笑った。

「え?」

 言われて振り返ってみれば、二人は離れた場所でためらいがちにこちらを見守っている。

「おーい、ユリス、アマンダ。どうした?」

「いいんじゃない?」

 シフルが友人に呼びかけたのを、ドロテーアは遮った。「知りたいと思う人間だけ知ればいい。君は知りたいんだよね?」

「そうだけど……」

「手段は選べば選ぶだけ可能性が減る。君は、賢い」

 そう告げて微笑んだドロテーアの表情は、きれいだけれどやはり冷ややかだった。シフルは彼の意見を事実だとは思ったが、ドロテーアのやりかたはまわりにいる人間にとって脅威だろうとも感じた。もちろん、シフルにとっても少なからずそうだった。

「いくよ」

 ドロテーアは目を閉じた。左右合わせて六本の指を立て、差しだす。

シータの子らよ、俺に力を貸してほしい」

 少年は静かな声でそう言って、閉じていた瞼を静かにもちあげる。彼の眼がのぞいて、シフルはどきりとした。きらりと光る金の瞳は、どうしても猫を彷佛とさせる。

 そよ風が、シフルの頬や髪を撫でていった。

「ひょっとして、今の?」

 ずいぶんとあっさりしている。シフルがつぶやくと、ドロテーアは答えた。

シータはふつう目には見えないし、照れ屋なんだよ。はやく来て、はやく帰る。……シータ、いつもありがとう」

 ドロテーアは精霊への感謝を言葉にした。

「召喚のときって、やっぱりお礼が必要だと思うか?」

 すかさず、シフルは質問する。

「もちろんさ。彼らは人間みたいなものだからね。お礼を言わなかったら、もう二度とお願いなんか聞いてくれないよ」

 ルッツは即答した。初めて聞く話に、シフルは瞳を輝かせる。自分もよく精霊に礼をいうが、それは講義で教えられたことではなかったし、実践している学生を見かけたこともなかった。

「うんうん、それから? 何か知らない? オレが知らなそうなこと!」

「いっぱいあるよ」

「例えば? 思いついたの何でもいいから!」

 シフルは夢中になってドロテーアに食いついた。彼は、餌か散歩を乞う犬のようなシフルに面食らった様子だったが、どことなくうれしそうに手招いた。

「なになに?」

「いいものを見せてあげる。君にだけ、特別だ」

 ドロテーアはそうささやくと、踵を返す。「大丈夫。ヤスル教授は見張りになんか来ないよ。あの人は、学生なんか興味ないんだ。頭の中は自分の研究のことだけでね」

 ドロテーアが歩きだしたので、シフルもあとに続いた。同級生たちを振り返りつつ、彼に従う。どうやら、ユリスとアマンダは他の学生に教わっているようだった。シフルはそれを確かめると、ドロテーアと一緒に展望台への階段を昇っていく。

 途中、ドロテーアは拳大の石を拾いあげた。

「何に使うんだ?」

「それは見てのお楽しみ」

 ドロテーアは石を展望台の手すりの上に置くと、シフルにシータを召喚するよう言った。

「七級ならなんとかなるけど……」

「いや、六級じゃなきゃだめだ。これは六級召喚の授業だからね」

 ドロテーアはくすくすと笑う。「君はいちいち足踏みするからいけないよ。あまり考えずに、手を振るといい」

 シフルは言われたとおり、左右合計六本の指を立てた。

シータの子らよ、オレに力を貸してくれ——」

 かすかな風が、シフルの頬をなぶっていく。

 成功したのだ。こんなに簡単だったとは。もういちど呼ぶと、もういちど風が吹きつけた。今度は、とサライを召喚しても、同じことだった。シフルが手を振り下ろした先に、火がともる。

「……すっげえ」

 シフルは勢いよくドロテーアに向き直った。「ありがとうドロテーア! できた!」

「そうだ。君には簡単なはずだよ、ダナン」

 ドロテーアはさも当たり前のようにいう。「仮にもロズウェルに相手にされている君だ。六級程度で引っかかるわけがない」

「はあ?」

 シフルは思いきり眉をひそめた。「それは買いかぶりすぎじゃねえの。ロズウェルの人をこばかにした態度、知ってるのかよ。あれで相手にされてるって?」

 ロズウェルは体術や剣術の授業でシフルと争い、まずまちがいなく勝利しているが、せいぜい皮肉をつぶやくぐらいで勝利を喜ぶ様子はまったくない。代数学や幾何学でシフルより先に正解を導きだしても、やはり「これでも五分待ったんだよ」といういやみ程度。作文やレポートを褒められても同じこと。ロズウェルにとって、シフルとの勝負など屁でもない些事なのだ。

「いっておくけど、ロズウェルが同じ挑戦者を相手にしつづけるなんて、俺は見たことがない。ロズウェルは普段、用事がない限り口をきかないし、自分との勝負に敗れて退学していった人間にだって、慰めの言葉のひとつもない」

 ドロテーアは表情を変えなかった。そこはかとない残酷さののぞく、猫のような彼の微笑。

「それに、彼女が気づかないはずはない。君の異質さに」

「オレの……?」

 シフルはドロテーアをみつめた。彼は薄く笑っていたが、眼だけ笑っていなかった。

「それはまあ、そのうちわかるだろうね。君自身も、学院側も。——さて」

 ドロテーアは、先ほど手すりの上に置いてきた石を指さす。「ここからが本番だよ」

 ——オレが、異質だって?

 ドロテーアが見せようとしているものは気にかかるが、それよりもシフルにとっては自分がおかしいといわれたことのほうが問題だった。《異質》というのは、どういう方面におかしいことなのだろうか。精霊召喚学上《異質》な召喚士だということか? それは、召喚の才能に何らかの欠陥があるということなのか?

「ドロテーア! それって、どういう意味なんだ?」

 シフルは半ば叫ぶように訊いた。才能がなければ、極端な話、シフルはビンガムに戻らなければならなくなる。

「それは、俺にもわからない」

 ドロテーアは肩をすくめた。「君のもつ空気というのかな。それが、他の学生とは一線を画しているんだ。俺もまだ学生だから、召喚学の知識について教授並に詳しいわけじゃないし、何ともいえない。でも俺は、」

 ドロテーアは笑みを消した。

「君を見たとき、——なぜだかわからないけれど震えたよ」

 ——オレのせいで?

 シフルは困惑する。そんなことをいわれても、思いあたるふしなんかない。シフルはこれまでごく普通に生きてきたし、精霊召喚士を志したのもつい最近の話なのだ。しかし、本当にドロテーアの言葉どおりシフルが《異質》なのだとしたら、これまで普通に生きてきて召喚学に関わらなかったからこそ気づかずにいられたという可能性もある。

「ほら、また考えているね。考えるのが好きだね、君は。いくら考えても、わからないことってあると思うよ。答えの出そうなことならいくらでも考えればいいけどね」

 ドロテーアの表情に笑みが戻った。

 彼は軽く手を振ると、精霊の力で風を起こした。続けざまにシータを召喚し、さらにもういちど風を呼ぶ。思案をめぐらせるシフルのそばをそよ風が通りすぎていったかと思うと、そのままシータは海のほうへと向かっていき、まっすぐに手すりの上の石を目指した。

 パン、という破裂音をたてて、石が割れた。

「——は」

 シフルは目をぱちくりさせた。一瞬のできごとに、頭のなかを埋め尽くしていたはずの考えごとが、すっかり吹き飛んでしまった。

「ドロテーア!」

「驚いた?」

 シフルの声に、ドロテーアが応える。

 驚いたどころの騒ぎではない。シフルは、精霊の力で何かが破壊されるところを見たことがなかった。今まででいちばん驚愕させられた、Aクラス最初の授業でのロズウェルの実演にしても、精霊が呼ばれただけで、地に伝わる振動以外に影響はなかった。しかも、あんなにも弱々しかった風が、拳ほどの大きさの石をわけもなく割ったのだ。

「三回、シータを召喚したよな……」

「そう。Aクラスのメイン、精霊の力の融合だ」

 ロズウェルの実演ではサライシータの力がかけあわされた。二種の精霊の力を融合させることで破壊力が強まるという例だが、ドロテーアいわく、種類はひとつであってもそれは同じだという。

「いま呼んだシータはすべて七級精霊だ。七級ひとつでは微風にすぎないけれど、三つ集まればあれだけの破壊力が出る」

「なるほど」

 シフルは壊れた石をまじまじと見た。さっきまでひとつの石だったその断面は、割れたばかりであることを主張するように尖っている。

「それから、これは秘密なんだけどね、ヤスル教授の今の研究。まずは君、六級風シータを呼んでみて」

「わかった」

 シフルは石の破片を捨てると、手をかまえ、精霊を召喚した。シフルの召喚に応じて吹きつけた微風のなか、ドロテーアが六本の指でシータに呼びかける。シフルの風とドロテーアの風は二人のまえで合流すると、力強いうねりとなって地面の埃を散らしはじめた。

 ——こんなこともできるのか。

 シフルとドロテーア、それぞれの力の融合である。授業でいう力の融合とは、先日のロズウェルがやってみせたような、ひとりの人間が異なる属性の精霊を続けざまに召喚し、精霊どうし協力させることだった。

(授業でやってることなんて、精霊の本当の力の一部でしかない)

 シフルはそう痛感した。精霊は深い。万物を構成する存在がそう単純でも困るけれど、彼らはどんなに追い求めても実像の見えない存在であるかのように思える。このまま勉強を続けて、仮にシフルが将来研究者になったとしたら、いつまで経っても理解できないことに絶望するのかもしれない。

 が、

「……おもしろい」

 シフルはひとりごちた。絶望的だからこそ追いかける。追いつづけているあいだは、ずっと満たされているのだから。

「それでね、ダナン。ヤスル教授の研究だけど」

 ドロテーアが話を続ける。

「ああ」

「俺にはわりと簡単なんだけどね、今の融合はなかなか難しいんだ。なんでも、一方が呼んだ精霊ともう一方の精霊がまったく同じ力じゃないといけないとか。でも、あの方法が確立すれば、七級精霊しか呼べない低級召喚士も、寄り集まってとんでもない兵器になる。それで、ヤスル教授が研究しているんだ」

「兵器?」

 その言葉に、シフルは顔をこわばらせた。「ヤスル教授は総合精霊学が専門だろ? なんで兵器?」

「総合というのは、必要とあらば何だってやるってことさ」

 シフルは言葉を失った。それが必要な状況というのはどういうことなのか。

 わざわざ口にしなくてもわかる。戦争状態のときだ。そして、プリエスカ人であれば、真っ先に敵国としてラージャスタンを想定する。シフルが生まれた年の翌年まで、プリエスカ王国と南にひろがるラージャスタン帝国とは戦っていた。休戦協定の結ばれたのが、十五年前。長期化が危ぶまれた末、双方のはたらきかけによって休戦が実現した。

 終戦ではなく、休戦が。その単語の意味するところは、一時的であるということだ。

「危ないのか……?」

「そうなのかもしれないね」

 ドロテーアはあっさりと返した。「学生にそういう話は聞かされないけど、教授陣は教会との関係が密だ。まあ、現実にそうならない限り考えてもしょうがないよ。さて、あのつむじ風をどう使うか見せてあげよう」

 そう言うや、ドロテーアは階段を指さした。シフルもそちらに目をやる。

「なッ」

 シフルは顔色を変えた。誰かが階段を昇ってくる。この位置からかろうじて見えるのは、黒く長い髪——。

 ——ロズウェル。

「やめろ、ドロテーア!」

 シフルはドロテーアにつかみかかった。弾け飛んだ石が、少年の脳裏によみがえる。

「行け、シータ

 かまわず、ドロテーアは精霊に命令を下す。

「ロズウェル、来るな!」

 シフルはあたうる限りに声を振り絞った。「シータ、止まれ! 止まれ!」

 が、ドロテーアは、讃美詩篇の暗誦ひとつでシータを喜ばす、風に愛される者だ。シフルの必死の声が、彼を前にして無視されるのは自明の理だった。つむじ風は軽やかに走りだし、ロズウェルのもとへ突進していく。

 ロズウェルが、何かに気づいて顔をあげた。

 しかし、もう遅い。シータが次の瞬間、彼女を切り裂くだろう——と思われたそのとき、

アイン

 彼女はひと言、そうつぶやいた。

 ロズウェルは指を折らなかったし、召喚の標準的なかまえもとっていない。守れとも打って出ろとも言っていない。にもかかわらず、彼女の呼びかけに応じて、青い光がロズウェルを取り囲み、水壁をつくりあげた。

 つむじ風はそこをめがけていき、アインにぶつかった。しばらくふたつの力が拮抗して押しあっていたが、やがて相殺し、双方ともに散り去った。つむじ風も水壁も姿を消した。

「私に何か恨みでもあるのか、ドロテーア。ヤスル教授に言われておまえを呼びに来ただけなのに、いきなり攻撃してくるとは」

 ロズウェルは無表情を保ったまま、階段をのぼってきた。シフルは無事な彼女を見て安堵の息をついたものの、

「この、ドアホっ!」

 気がすまず、ドロテーアの後頭部をはたいた。「危ないだろうが! なんでそういうことするんだよ、あんたは!」

「痛いなあ、もう……。ロズウェルが防御に失敗するわけないじゃないか。現に彼女、精霊がどれだけの力を有しているのか一瞬で判断して、力を相殺させただろう?」

 ドロテーアは悪びれることなく、頭をさする。「今の君や君の友達相手じゃ、怖くてできないよ」

「ちがいないな」

 ロズウェルは平然と腕を組んだ。「だが、おまえの性格の悪さもそうとうなものだね、ドロテーア。ヤスル教授は、最近、研究となると必ず私とおまえを使う。だからおまえ、私が呼びに来ることを予測したうえでやったろう。他の学生に見られないこの場所で、ダナンを試みるために」

「まあね」

 ドロテーアは金の瞳を細めた。「さてと、ヤスル教授のお呼びに参じるとしようかな。先行くよ、ロズウェル。それじゃあまたね、シフル。ああ、俺のことはルッツでいいから」

 少年はそう言い残し、シフルの反応を待たずにさっさと広場に降りていった。

 シフルがロズウェルに視線を投げると、

「ドロテーアはダナンを気に入ったようだな」

 と、彼女は言った。

「そうかあ?」

 シフルが疑わしげな声をだすと、ロズウェルは少し口角をあげ、

「おまえには、恐れるものなどなさそうだ」

 と、いう。

「それはロズウェルだろ。天下無敵の《鏡の女》だ」

 そう返すと、しばし間を置いて、ロズウェルが声をたてて笑いだした。彼女がおかしげに笑うのを見るのは初めてだったので、シフルは面食らう。ロズウェルはひとしきり押えこむように笑ったあとで、顔をあげてシフルを見た。

「おまえは誤解している。おまえたち、と言うべきかな」

「何を? オレがあんただったら、何も怖いものなんかないぜ、絶対」

「それはバカか子供の論法だよ、ダナン」

 言われて、シフルは憮然とする。かなりばかにされている。

「私とドロテーアが恐れるものは同じだ。おまえたちもかつて同じだったろうに、この学院に来て変わったんだよ。しょせんみんな同じなんだ、でも、状況次第で変わる。忘れただけだ」

「おまえたちにだって、オレたちの恐れるものはわからない」

 シフルは反論した。彼女の言いたいことはだいたいわかる。実力のうえで優越するがゆえに恐れられ、疎外されることだ。

 シフルも、ビンガム市立学院にいたころは誰とも話が合わなかった記憶がある。理学院の学生であれば、同じ経験をもつ者も多いだろう。しかし、学院に入って実力の伯仲する学生と出会い、大半が出身校時代の「その他大勢」と同じになった。ここで彼らは、今度は実力の抜きんでたロズウェルやドロテーアを疎外するのだ。自分の実力のなさを痛感させられることを恐れて。

 アマンダやユリスの態度も、おそらくはそのあらわれ。しかもドロテーアの辛辣な性格では、いっそう近寄りたくないだろうことは想像にかたくない。シフル自身は、関心のほうが勝っているけれど。

「自分には才能がないって知る気持ちがわかるか、ロズウェル」

「ああ。わからない」

 シフルの問いかけに、ロズウェルはかすかに頭を振った。「だから、お互いさまだな」

 そうつぶやく彼女は、さみしそうに見えた。が、すぐに皮肉な笑みを浮かべ、

「おまえも近いうち、私たちと同じになるよ」

 と、予言じみたことを告げる。

「本当に?」

 シフルは複雑な思いで聞き返した。ドロテーアの言葉は本当で、ロズウェルもまたシフルの《異質さ》を感じとっているのだろうか。それは才能があるということなのか。あるとすればうれしいが、再び市立学院時代のように学院内で気が休まらないのはごめんである。ひとりでいるのは平気でも、自分を知る人間のなかでの孤独はつらい。

 ふと見ると、ロズウェルは手すりに寄って海を眺めていた。曇りの海は、黒に近い色をしている。でも彼女は、

「ここは、いい場所だな。学院生活も一年になるけど、初めて来た」

 と、言った。

「ああ。オレも気に入ってる」

「そうか」

 ロズウェルは踵を返し、階段を降りはじめる。シフルは黙って見送った。彼女が広場にたどりつき、ヤスル教授の研究室のある校舎へと消えるまで。



  *



 授業が終われば、シフルはまた海辺の展望台にのぼる。戦いの疲れは寮では癒せない。この場所に来て、《彼》と一緒にゼッツェを吹かなければ。

「おーいおまえ、誰だか知らないけど、どこかこのへんにいるのかー?」

 シフルは広場にむかって大声で呼びかける。昼間に比べて静かになった広場に、少年の声が響きわたった。

 広場を行き交う学生たちが不審げに顔を向けてきたけれど、それらしき人物はいない。ここ二ヶ月ほど、シフルがここでゼッツェを吹いていると、どこからともなくやってきて、合奏していく人物。ただし、決してシフルの前に姿を現さない。

「本当、なんでなんだろうなあ。オレ、何かきらわれるようなことでもしたのかな?」

 シフルとて、いいかげんそうぼやきたくもなる。《彼》とゼッツェを演奏するようになって早二ヶ月にもなるというのに、ちっとも顔を見せてくれないのだから。

「まあいいや」

 少年は軽く息をつく。「好かれてようがきらわれてようが、とにかく吹くぞー。オレは息抜きできたらそれでいいんだ。そりゃさ、あんたと向かいあわせで吹けたら楽しいだろうけど、今のままでも別にいいよ。そりゃ、友達になれたらいいなとは思うんだけど」

 あきらめも引っこみもつかない少年は、傍目にかなり怪しく見えるのにも頓着せず、ひとりでしゃべりつづけた。そこまで言って気がすむと、

「まずは精霊讃歌から行くぞー。えーと、一〇五番でいいかな? オレけっこう好きでさ。……おまえ、返事してくんないから、勝手にこれに決めたからな! おまえがいやでも知ったことじゃないんだからなー!」

 楽器のマウスピースに口をつける。「せーのっ」

 かけ声とともに息を吸いこみ、ポー、と優しい音を紡ぎだす。すると、やはりシフルのひとり言をどこかで聞いていたらしく、同時にもう一本のゼッツェが低声部に入ってハーモニーをつくりだした。

 こうして《彼》の存在がはっきりすると、シフルはうれしくなって指を走らせる。相談もせずにアレンジを加え、少し急ぎ足に演奏してみた。唐突にアレンジすると《彼》はすぐにはついてこれない。《彼》はゼッツェ歴が短いのか、変にどぎまぎして、しばらくは音色まで狂わせる。ただでさえ初心者らしい幅の足りない音なのが、ピポッとかブピーとかいわせてしまう。

 けれど学習能力は高いらしく、だんだんにシフルの演奏に追いついてくる。音色は一朝一夕では伸びないから仕方ないとして、少なくとも運指は完璧になる。そのころには、あまり長さのない精霊讃歌は終わりを迎えている。

 シフルは、もっと一曲を長くすればいいと思うほどに、《彼》との合奏が好きだった。名前も知らない《彼》ではあるけれど、曲を奏でている最中は、長年の親友といるような、《彼》と出会うまでは知らなかった充実感がある。

「よーし、次は」

 少年がうきうきと次の曲を提案しようとしたとき、

「ひとり言が多いな、メルシフル」

 すぐ横に誰かが立っていた。

「ひとり言じゃない」

 答えて、シフルはゆっくりと振り向く。「一緒にゼッツェ吹いてるやつがいるんだ。誰かは知らないけど」

「ふん」

 ——クーヴェル・ラーガ(青い石)の青。

 濃青の髪が、風に揺れている。青い瞳に、女とも男ともつかない容貌のその人物。先日この場所で会ったときには、もしかしてこの人が《彼》なのかとシフルは思った。でも、すぐに思い直した。ゼッツェを携えている様子はなかったし、この人物がゼッツェ演奏などを趣味とする一般人にはとても見えなかったからだ。

 それに、アマンダが教えてくれた。

「あんた、妖精なんだって? 友達がそう言ってた。変な色の髪や瞳をしてるのは妖精だって。あと」

 シフルはその人物に歩み寄ると、長い髪をかきあげる。「耳が長くて尖ってるって」

 トゥルカーナの貴石と同じ色の髪の下から、教科書にあった記述通りの耳が出てきた。明らかに人間のものとしては長すぎるし、不自然に尖っている。機能としては人間のものと大差なさそうだが、この特徴は大きい。

「人間の死体を器とする妖精を、エルフという。だからあんたは何かのエルフだ。人間の死体から特に美しいものだけを選び、精霊が宿って妖精となる。人間に宿れるのは高位の精霊だけだから、あんたはたぶん、色や顔のきれいさから判断してアインの一級精霊が肉体を得た姿、アインの一級妖精だと思う」

 シフルは目の前の人物をびしっと指さした。「以上、教科書の知識に基づいたオレの推測。どうだ?」

「まあ、おおかたは当たりといっていい」

 その人物は手すりに腰かけつつ言う。「が、ひとつ決定的にまちがえているな。俺がアインだと? とんでもないぞ。メルシフル、おまえもあのかたの息子なのだから、人の属性ぐらいはすぐに見分けられるようになれ。属性は人間の性格にも反映する、大事な情報だ。これをつかんでおくと、人間が扱いやすくなる」

 シフルも隣に座る。

「属性性格談義はいいんだけどさ。オレ、そこがわっからないんだよなー」

 腕を伸ばし、肩を鳴らす。今日も一日疲れた。「母さんが親父さしおいて使いを出すなんて。しかも、妖精の友達なんているのかよ? あの母さんに?」

 シフルは母を思い浮かべた。

 母の名はベルヴェット・ダナン。少女時代からダナン家に女中として住みこんでおり、十八のときダナン家の若き当主たるリシュリュー・ダナンに求婚されたという。元使用人であったせいか、父の妻というよりはまるっきり下女で、家での立場もよくないし、父からの扱いもそのころのままである。子供はシフル一人。父は女遊びが激しいほうで、いまだにときおり浮き名を流すような中年だが、銀の髪と灰青の瞳が同じことから、まちがいなくベルヴェットがシフルの母親だ。

 シフルが気に食わないのは、彼女の卑屈な下女根性である。彼女は自らを下僕以上の人間とは思おうとせず、父に妻として意見することは絶無だ。理学院入学を決めたとき、彼女はシフルを叱ったけれど、それはシフルが父に従わないことが問題だったからである。母自身がシフルを案じたわけではない。シフルは、母の愛情を感じたことがなかった。とはいえ、母である事実には変わりがないのだけれど。

 その母が、シフルを心配してこの妖精を使いに出したというのだ。まったくもって信じがたい話である。まず、人をビンガムからグレナディンまで使い走るようなことが、あの人に可能かどうか。

「友達ではない。俺はあのかたの僕だ」

 シフルの問いに、青い妖精は首を振る。

「ますますありえねー」

 シフルは頭を抱えた。こいつは気の狂った妖精だ。真顔で大ボラを吹いているのだ。これだから秋はいけない。気候がよくなると、奇人変人が多くなる。

「もうオレ、部屋帰る……」

 シフルは階段を降りはじめた。これ以上、相手にしないほうがいい。

「それで、力を借りる気になったか?」

 ふと見れば、青い妖精がシフルの目の前に来ている。いつの間に移動したのか。シフルは不思議に思いつつ、答えた。

「それはこないだ、要らないって言ったよ」

 ——おまえが望むならば、おまえに力を貸してやる。途方もなく強大な力、誰にも負けない力を。

 あの日、そう告げた妖精に、

 ——要らないよ。オレは、自分でそれを手に入れる。

 ためらいもせず、シフルはそう返した。

「今はまだわからないのだな」

 妖精は考えるそぶりをする。「でも、いずれ絶対に必要になるぞ。だから、早いうちに——」

「要らないって。いいからあんた、はやく巣に帰れよ」

 言いながら、シフルは駆けだす。「もう学院には来るなよー。いつか警備に捕まっちゃうからなー」

 そして、シフルは全速力で走り去った。

《彼女》は、やろうと思えば彼に追いつくのはたやすかったが、呆然としていてできなかった。

「……巣だと? あの野郎、エルフを妖虫ようちゅうか魔物と混同していないか?」

 前者は虫の死骸に宿った精霊、後者は動物に宿った精霊のことである。エルフと比較すれば、かなり低級の妖精だ。

「そのうえ、この俺を変質者だと思っているようですよ? 失礼ながら申しますと、あなたの息子は察しが悪すぎるようだ」

《彼女》は誰もいない場所に語りかける。それから、ため息ひとつを残し、空間と空間の隙間へと身を隠した。あとには、無人の展望台が、夕日に照らされていた。

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