プロローグ 拱廊にて
拱廊の果てから、聞き覚えのある懐かしい足音が響いてきた。
しかしそれはあまりにも遠く、空耳のようでもある。
シフルは足を止め、耳を澄ました。確かに聞こえる——そんな気がした。
「シフル……? どうしたの」
かたわらに彼がいないと気づいて、友人が振り返った。立ちどまったシフルをおいてきぼりに、廊下を渡り終えようとしている。一歩屋内に踏みこんだ暗さのなかから、心配げに呼びかけた。連れだって歩いていた老齢の男もまた、シフルを見る。
「先——先に行っててくれませんか? すぐに追いつきますから」
「ダナン殿。それは」
「いえ、ちがうんです。今さら逃げるつもりはないです」
非難めいた男の声を遮り、シフルは言った。「だけど、ちょっとだけ——覚悟を決めたくて。すみません、お願いします。閣下」
男は呆れたように嘆息する。シフルの答えを逃げ口上と解したらしい。けれど、友人は察したふうで、
「わかった。閣下とぼくは先に行く。待ってるよ、シフル。きみがいないと話にならないんだから」
と、釈然としない体の男の腕を引いた。二人の影と、彼らに従う従者たちの影は、城のなかへと消えていく。
シフルはそれを見送ると、もう一度、周囲の物音に注意をめぐらした。
何も聞こえない。やはり、空耳だったのだろうか。
——いや、ちがう。彼女はきっと、ここに来ている。
「セージ?」
シフルはその名前を口にした。「いないの、セージ?」
返事はなかった。二度も空まわりすると、とたんにばかばかしくなってくる。なぜ、彼女がここにいると思ったのだろう。ここで会う約束などしていないし、そもそも彼女はこんな場所には入りこめないはずである。考えれば考えるほど、先ほど耳にした足音は空耳としか考えられなかった。あのころ、彼女が廊下を直進していくときに聞こえた響きは、今や思い出のなかでのみ息づく幻なのだ。
あのころ、ふたりは親友だった。笑いあった時代に戻りたいと、何度願ったことだろう。ところがそのころ、シフルの知らない場所ですでに炎はくすぶっていた。あのころを何度やりなおそうとも、今は決して変わらない。
(お別れよ)
決別の日は遠く、彼女の声も眼も手も、すべては夢に等しい。(ふたりのうちどちらかが、すべてを終わらせるその日まで)
それなりの時間を経ているにもかかわらず本気で夢と思いこめないのは、彼女との記憶が確固たる約束に彩られているからだ。シフルはその約束によって、ここに立っていた。彼女との再会が叶うわけではないけれど、それは約束であり、何としてでも守るべきものだった。
(オレが……終わらせるんだ)
シフルは踵を返した。雪花石膏の床を蹴って、走りだす。
昼下がりの拱廊を、少年の影が駆け抜けた。