九十七話、デュースという男 Ⅵ
私が仕事から戻ると、部屋にはヘレナがテーブルに座って私の帰りを待っていた。
ヘレナは今日は非番で家にいた。
彼女は休日はほとんど外出はせず、自室で研究に夢中になっている。
いつもは私が帰っても部屋から出てくることなく研究に没頭しているのだが、珍しいこともあるものだ。
そう思っていると、ヘレナはすっと椅子から立ち上がってテーブルに力いっぱいに手をついた。
パンっと音が響く。それと同時に室内が静寂に包まれる。
「遅いぞ。いったいなにしてたんだ」
ヘレナはいつになく私を責めるような剣幕で声を上げた。
「悪いな、仕事仲間が彼女のプレゼント選びを手伝ってくれって言うもんだから」
私は言い訳をしつつ遅れた家事を取り戻そうと急いで台所に立った。
「ほら、ヘレナも見たことあっただろ。小さい方と大きい方の二人だ」
私は言い訳を話しながら食事の支度を淡々とこなした。ヘレナはテーブルに座って私の話しに耳を傾けている。
「アトとハバロというんだが、ハバロが誘ってきたんだ。そしたらアトも行きたいって言い出して、私の意思も聞かぬままに話しが決まっていってしまってな」
野菜を切り、皿に盛り付けてサラダ。時間がないため今回はパスタにした。
水を入れた鍋に魔力で火を起こして沸騰させる。そこにパスタを入れて茹でる。茹で上がったら皿に盛り付けるだけという、時間の掛からなくて楽な食べ物。それがパスタだ。
後はナブニラの実を割って、そのなかの甘酸っぱい油と混ぜ合わせれば完成だ。
「さあ出来たぞ。おあがりよ」
そして出来上がったパスタとサラダをヘレナのテーブルの前に差し出す。
私も席について食事に手をつけようとすると、ヘレナが未だ食事に手をつけない。それを見て私はヘレナの顔に視線を向ける。
「どうかしたのか?」
返事はない。
ヘレナは俯いていた。
そして小さく口を開く。
「出て……いかれたのだと……」
唇が震えていた。
「出ていかれたのだと……思ったんだ……」
「どうしてそこまで。たとえ私がいなくなっても研究はできる。私の細胞は私のことを調べてもらうのと交換条件にお前に渡した」
だから私がいなくなったとしても研究はできる。お前が気に病む必要なんてないはずだ。
「もう嫌なんだ。ひとりになるのは……」
その一言で私は気づかされた。彼女も私と一緒なのだということに。
「私も子供の頃は家族と暮らしていたんだ。でも、ある時私の両親が事故で亡くなってから、私はひとりになってしまった」
ヘレナの瞳にはうっすらと感情の激しい揺れによって生じた心の雫が浮かび上がっていた。
「私の両親も私と同じ研究者だった。彼らは表と裏の魔力について研究していたのだが、死んだのはそのときの実験が失敗したのが原因らしい」
彼女は自分の歴史、過去について語りだした。
「詳しいことはわからない。当時のことは上手く思い出せないんだ。それに実験の内容は機密事項になっている」
無理もない。子供の頃の衝撃的な記憶なんて、曖昧になっていてしまっているのが普通だ。
酷ければ自分で都合のいいように改変してしまっていることだってあるのだから。
「私も昔は貴族だったんだ。だが両親が起こした事故の責任と取らされて、貴族の名は剥奪されてしまった。私が生きてこられたのは、両親からもらった研究者としての才能のおかげだ」
それからヘレナは研究者としての才能を日々研磨し続け、国内でもトップクラスの実力を手にした。
だが、そこまで這い上がるのには自分だけの力では到底無理だった。
「生きていくため、そして研究者として勉学に励むためには、家や学舎に通う必要があった。それを手助けしてくれるという人が私の前に現れた」
それがベルローテ伯爵という男だとヘレナは話した。
「ベルローテ伯爵は才能至上主義の男だった。私の才能を埋もれさせるのは勿体無いと、私に援助を持ち掛けてきんだ」
そしてベルローテ伯爵は、ヘレナに援助する代わりに一つ条件を出してきた。
「条件として私が年頃の娘になったとき、私はベルローテ伯爵の愛人となり、子供を身籠らなくてはならないんだ」
ヘレナはとうとう我慢できず涙を流していた。
「いつからだ。ヘレナ、もうそれは始まっているのか」
私はヘレナに寄り添うように彼女の隣に座り、話しを聞いた。
「昨日の夜からだ。しかし伯爵はすぐに子供を産ませる気はないらしい。少しずつ徐々に馴れさせてからと言っていた」
昨日の夜から……。私が隠れてついていったときが最初というわけだ。
「昨日の夜はどのくらいさせられたんだ?」
「どっ……どのくらいって……なにを?」
「決まっているだろう。情事だ」
「わ、わからない。覚えていない」
「なら昨日はいつ帰ってきた? まだ深夜だったか? それとも朝か?」
「そんなこと……言わせるのか!?」
「言え、でないと状況がわからない」
ヘレナはこちらに視線を向けずに小さく答えた。
「…………まだ暗かったと、思う」
嘘だな。昨日は朝帰りだった。嘘をついた理由は……多分本当のことを言いたくなかったからだろう。
「ヘレナ、一つ確認してもいいか」
「なんだ……」
「お前は伯爵とはこれ以上そういった関係になりたくないと思っている。と、そう考えていいのか?」
「……私としては申し訳ないと思っている。条件の内容は別として、それを飲んだのは私だ。私には責任がある」
「それでも……受け入れることはできない?」
「きみのせいだよ」
ヘレナはぴしゃりと私に叩きつけるように甲高い声を上げる。
「私は……きみのことが好きだ。好きになってしまったんだよぉ!!」
ヘレナは唐突に私を押し倒して二人重なったまま床に倒れた。
急に感情的になる。これもヘレナと暮らし始めて知ったことの一つだ。
いつも論理的かつ平静を装っているヘレナが、限界を迎えて感情を爆発させるときがごく稀にある。
それは一種の発作のようなもので、排泄のようなものだと考えれば理解が早い。
こうなったときのヘレナはいつもとは少し子供っぽい口調になる。前の仕事帰りの夕食の時と近い。
凍りついていた空気感が、今ので少し溶け始めた。これで私ももっと滑らかに話すことができそうだ。
押し倒されたヘレナの下から、私はヘレナにこう言った。
「それは……人間で言うところの求婚されたと思って間違いないか?」
「そ……そう」
ヘレナは顔を赤くして答えた。
珍しいなここまで動揺しているヘレナは。
それだけ本気だということなのか。
私は真摯に自分の気持ちをそのまま伝えることにした。
「ヘレナ、私は実をいうと他者を愛するという感覚がよく理解できない」
ヘレナはじっと私を見つめる。
理解できないわけではないようだ。私は人間ではない。それはまごうことなき事実であり、人間と魔物の感性は違う。
ヘレナは研究者だからこそよくわかっている。
「だが私もお前と同じ気持ちを一つだけ確かに持っている」
そのとき、ヘレナの瞳が僅かに拡がり、涙によって光る期待の帯びたその二つの瞳で私の顔を確かに捉えた。
待っている。私の次の言葉を。
私も柄にもなく動揺してしまっているようだ。それが私の変化の薄い表情から伝わるとは思えないが。
待たせる気はなかった。だからすぐにそれを言葉にした。
「それはお前と……このままずっとここで暮らしていきたいという願いだ」
私はヘレナの様子を気にした。
するとヘレナは私の言葉にまた瞳を濡らしていた。
ヘレナの涙が部屋のなかを照らしている火の灯りに反射して、穏やかにチラチラと光ってみせていた。
私はそれを見てほっとした。
「そのためにならば、私はいつでもお前の力になろう」
私は遂に声を出して泣き始めたヘレナを強く抱きしめた。
そのときなぜか部屋のなかを照らしていた火が消えた。だがその後はなにごともなく私たちを少しの間暗闇のなかに閉じ込めただけだった。
落ち着いた頃、私は部屋に魔法で灯りの火を灯した。
このとき私はどんなことがあっても、彼女とともに生きることを決めたのだった。