九十四話、デュースという男 Ⅲ
この身体は生まれつきだった。
魔物として生まれた私は粘液生物、とどのつまりスライムという種族の魔物だった。
私には親がいなかった。どこからきたのか、果てはいつからここにいたのかも記憶してはいなかった。
一つだけわかることは、私が暮らしていたこの森には仲間と呼べる種族は一匹たりとも存在してはいないということだった。
私は生きるのに必死だった。喰えるものは何でも食った。
そのうちに私は、自分が食った生物と同じ形に変化できることを知った。
魔力も高まり、私は私を殺そうとするものたちを殺して食べ、その姿を奪っていった。
ある日のことだ。知能もそこそこについてきたとき、人間という種族が森に入ってきたのを知った。
そしてその人間たちは、魔力が高く、それでいて森に住む魔物たちよりも知能が高いことを彼らの話し声を盗み聞いて理解した。
私は人間を喰らうことにした。
いくつもの魔物を喰らい、周到に準備し、人間たちが森のなかで眠るのを待って、私はついに行動に起こした。
私は彼らとの戦いに死ぬことも覚悟していた。それだけの強敵だと確信していた。
だか、戦いは呆気なく終わってしまった。
私の念入りな準備が功を奏したようだ。
人間たちは私の奇襲に為す術もなく命を落とし、私の胃のなかに入った。
私はその時初めて味覚という感覚を得た。そして食べることの楽しさを知った。
そういうことだ。人間は美味かったのだ。
私はもう夢中になった。人間が食べたくて食べたくて堪らなかった。初めての衝動というものだった。
そこからは森を離れ、人間に擬態して人間の社会に紛れ住んだ。
夜闇に隠れ人間を襲った。そうしているうちに何年もの時間が過ぎ、既に人間の味にも飽き始めていた頃に、私はある女に出会った。
それは私が人を襲ったときではなく、普通に人間の一人として露店のある通りを歩いていたときのことだった。
「ちょっときみ」
不意に手が伸び、腕を掴まれる。
「きみ……魔物だろ?」
眠たげな目をした女が唐突にそう言ってきた。
女を視界に捉えると、栄養素が行き渡ったような明るい土色をした髪が、森の草や木のようにこんもりと伸び下がっている。
眠たげな目にはクマができており、そこからは食生活は行き届いているが、睡眠においてはかなり雑に処理された生活をしているであろうことが推論できる。
「なんだお前は!? 離せ!!」
私はしらを切ろうとしたが、彼女は私が魔物だということを確信していたようで、逃がしてはくれなかった。
「やはり魔物かな。それにしても人間に化けれるなんて珍しい種族だな!!」
女は目を輝かせながら嬉々としてそう言ってくる。
髪の色艶は彼女を明るい人間と分類する要素の一つとして機能している反面、それを被うように暗雲のようなクマが目の下に出来上がり、眠たげな目が更に彼女の残念さのようなものを倍増させている。
それゆえに、魔物よりも魔物地味ていていた。
なんだこいつは……怖い。
だが反抗しようにもここでは周囲の人間たちの目がありそれができない。
仕方なく私は彼女に付いていくことにした。
ヘレナ・バーンドレッセン。
彼女は私にそう名乗った。
「ここが私の家兼研究室だ」
ヘレナは私を自分の研究室に招き入れた。
くるりとこちらに身体を回転させた際に彼女の揺れる血色の良い髪からフローラルな匂いが私の鼻先に届く。
――――人間。
私は目の前の存在が自分と同じ魔物ではない人間という種族であることを改めて再確認する。
だが安心してはいけない。良い香りを放つ魔物だってこの世にはいるのだ。騙されてはいけない。
それにしても運が良かったのは、彼女は私をその国の軍や役人に突き出さなかったことと、けして悪意があったわけではなかったということだ。
最初はどうなることかとハラハラさせられたが。
「単刀直入に言おう。私は君に興味がある」
彼女はそう切り出した。
「ここを研究室といったから察しがつくように、私は研究者だ。私の専門は魔物。そこから更に細かくすると、魔物たちの進化について研究している」
「進化だと。だがもう今の魔物の進化は止まっている」
魔物が環境に適応するために進化を繰り返していた時代は当の昔に終わっている。現在は既に落ち着いていて、今の種族や形態から別の形に進化することなんて魔物の世界で生きてきた私でも見たことはなかった。
「ああ、でもきみはどうだ?」
「わたし!?」
「そうだ。きみはそうして姿を変えている。人間にこうも完璧に擬態する魔物なんて見たことがない」
「完璧だって!? なら、なぜお前は私が魔物だと気づいたんだ」
「確証はなかった。だがきみには人間特有の雑音がなかったからな」
「雑音!? なにを言っているんだ。意味がわからないぞ」
「きみは自然過ぎるんだ。他者の介入より、自分の世界だけで生きてきた証拠だ」
「なぜそんなことがわかる。私とお前は初対面なはずだ」
「酷く抽象的なのは認めよう。しかしそうとしか言えん」
なにが雑音だ。だが本当にそれだけでわかったというのなら恐ろしい女だ。
「まあ私は子供の頃から魔物を飼育していたからな。なんとなくそれでわかったということにしておいてくれ」
抽象的なのは変わらんじゃないか。
ん? というよりこいつ、さっき変なこと言わなかったか。
「待て、魔物を飼育していたとはどういうことだ」
「どういうことだって……そういうことだが?」
「魔物を飼育だと? 嘘も大概にすることだ。魔物は人間と話せるほど知性のあるものと動物と同じように知性のないものもいるが、動物のようにそう簡単に人間に懐くような魔物は存在しない」
「それは私が献身的に尽くしたからに他ならない。それだけ愛情を注いだということだ。ご希望ならお前にもしてやろうか」
「丁重にお断りする」
「そうか……残念だ」
なにが残念だ。ふざけているのか。
「お前の真の姿がどんなものだろうと……私はすべて受け入れてやるつもりだったのだがなぁ」
と、ヘレナは心底残念そうにしていた。
本心だったのか? この女……もしかして本当にヤバいやつなのか。
「もういい。続きを話せ」
これ以上この女の話しにツッコミを入れていたらいくら時間があっても足りん。
「最初に戻って言うと、私はきみに興味があるのだよ。他に類をみない変身能力のあるきみのような魔物に」
「それでお前は私になにを求めてるんだ。モルモットにでもなれと?」
「そんなことは言わないさ。きみのことがもっと知りたい。どこに住んでいるのか? なにを食べて生きているのか? どんな姿をしているのか? なにが好きか? なにが嫌いか? すべてだよぅ」
一つずつ指を折りながら数えていたが、最後に面倒になってそう言い切った。そんな様子だった。
一気に言ったせいで息切れしているのがより気持ち悪さに拍車をかけている。
ヘレナはどうやら危害を加える気はないようだ。とはいえこの先はどうなるかはわからないしな。やっぱり解剖したいなどと言ってくるかもしれん。
「私になんの利益もない。悪いが他を当たってくれ」
「ならきみが望むものを言ってみてくれ。こちらもできる限りのことはしよう」
「そんなものはない。私は今の生活に満足している」
「本当か!? 野良ではないのか!?」
「野良……。だが別に不便はしていない」
少し重たい空気が流れる。
「食事はどうしている?」
その質問だけは本当のことを話すわけにはいかない。
人間を食っているなんて。
「その辺の虫や川で魚とかをとって食っている。魔物なら当たり前だ」
「やはりか……服も所々破れているし、溶け込んでいるが、人と同じ生活はしていないようだな」
「なにが悪い。私は魔物だ」
「でも人間の生活に興味はあるはずだ。だからお前はここにいるのだろう」
図星だ。確かに私は人間たちに興味がある。だから森から離れてここに移り住んだのだ。
私が黙っていると、そこに隙があるとわかったヘレナがつけこんできた。
「ならここに住むのはどうだ? 食事も提供しよう。多少家事を覚えてくれると助かる。後はなにをしていてくれても構わない。三食昼寝つきだ。問題ないだろ」
そうヘレナはまくしてた。
「ちょっと待て。まだ決めたわけじゃ――」
「よろしくな」
ヘレナは最後にそう言って部屋を出ていった。もう決まったつもりらしい。
そんな彼女にため息をつきつつも、私は悪くない条件だと感じていた。三食昼寝つきというのは人間にとってはかなり楽な生活だといつぞや人間が話していたのを聞いたことがある。
ここいらでなにか変化を望んでいた部分もある。人間たちや世界についてもっと色々と知ることができるかもしれない。
この時の私は知識欲でいっぱいだった。
人間のこと、世界のこと、そして自分のことを知れる手掛かりがここには少なからずある。ヘレナも研究者なら、自分のことや自分に近い魔物についての知識もあるはずだ。
多少の危険もあるが、いちいち気にしていては前には進めない。
このくらいでちょうどいい。良すぎると逆に後が怖い。
そうして私とヘレナは出会い、新しい生活が始まった。