七十四話、冥府へようこそ
わたしは……コロナ。
名前はソールがつけてくれた。
気がついたときにはここにいた。
ここは死んだ人たちがくるところだと、ここに来たときにソール教えてもらった。
もうなにもかも忘れてしまった。
わたしには……前の記憶がない。
思い出そうとしても、頭のなかが真っ白になって跡形もない。
わたしにはソール以外にも、ここで一緒に暮らしている仲間がいる。それが人形たちだ。
ソールや人形たちがいるから、わたしは寂しくはなかった。
人形たちはたまによくわからない質問をしてくることがあった。それはソールのいないときに限ってのことだ。
このときの人形の言葉は、なぜかわたしのなかにずっと残っている。
人形はいう。
「ここが君の場所なの?」
わたしはいう。
「ここは……わたしの場所だってソールが言ってた」
ソールはここの王様だ。
ソールは悪いひとではない。
あの怖い場所からわたしをここに連れてきてくれたのだから。
人形は少し考えてからまたわたしに問いかける。
「それは君が決めたことじゃないよね?」
「えっ…………」
わたしにはわからなかった。でも、わたしはここにいることになんの不自由も感じていない。だからここじゃないところにいかなくてもいいのだ。
「ここにいちゃいけないの?」
わたしが人形にそう問うと、人形はわたしの目をじっと見つめてこういった。
「君が望む限り、ここは君の場所だよ」
人形の言葉に、わたしはほっとした。ここにいてもいいのだと思った。
「でもね、忘れないで。君には君の世界があるんだってこと」
彼女はしゃがんで僕の顔をじっと見てくる。
その目は初めてのもの見たような目で、目が僕の身体の細部まで観察しているようであった。
「あなたは……わたしに似てる」
「似てるって……僕は君と同じ人間だよ」
「にん……げん?」
「そう、人間だよ。知らないわけじゃないよね」
「人形なら……知ってる」
コロナと名乗った少女は、そう言って抱きしめている人形を僕に見せてくる。
「ニュコス…………」
そう言って見せてきた人形は、ぼんやりと覚えのある鳥頭の異相な見た目の人形だった。
「それはもしかしてあのときのっ――」
「…………?」
コロナは僕の様子に目を丸くしていた。
それを見て僕は言葉を止める。
まさかそんなはずはない。人形が僕を襲うなんて。
それにそんなことを言っても彼女に不信感を抱かせてしまうだけだろう。そんなことはしたくない。
僕はそれらの思考を一時飲み込んで、別の話しに切り替えることにした。
「コロナ、ここは冥府だとか言ってたけど本当なの?」
僕は恐る恐る聞いてみた。もしかしたら聞き間違いということもありえる。
「そう……」
「やっぱり……」
正直現実味がない。ここがその冥府だというのなら、僕は死んだということなのだろうか。
まさかあんな事故みたいなことで自分が死ぬなんて思っていなかっただけにショックである。
「じゃあ聞いてもいいかな」
「なに?……」
「僕はあの谷から落ちて死んだのかな?」
「それが……変なの」
「えっ?」
「ここでは……死んだ人は魂だけになるはず……なの。でも……あなたは……そのまま」
死者のくるところのことなんて初めてだからわからない。
コロナがそう言うのであればそうなのだろう。
それならもしかしたら、僕はまだ死んでないってことなのか。
「僕、できれば元のところに帰りたいんだ。僕が死んでないとしたら帰れないかな」
「……わからない」
ダメか。
「でも……ソールなら……なにか知ってるかも」
「ほんと!」
「うん……聞いてきてあげる」
「頼むよ」
「コロナ、その必要はないよ」
夜空のような光の散りばめられた黒いモヤが、空中を鳥のように移動して僕らのところに降りてきた。
モヤが降りてくると、そのモヤが一瞬にして人の姿に変わっていった。
「初めまして、僕がソールだ」
黒い服に白い帯のようなものを首元に巻いた美形の男がそう名乗った。
「ソール……あなたならエルのことなにか知ってるでしょ」
「そうだねコロナ。僕は彼の今の状態について知っているよ」
「なら……教えて」
「ごめんそれはノーだ」
ソールは早口でまくし立てる。
「それにこれは私がわざわざ言わなくても彼にはそのうちわかることだろう」
「そう……」
コロナは頭の上にはてなが浮いているような顔をしていた。
「それと、ここは冥府だ。エルといったかい? 君は帰れるようになるまでここにいるといい」
「帰れるんですか?」
「帰れるさ。そのうちね」
ソールはそう言葉を濁してばかりだった。
「君の部屋に案内しよう」
ソールはなにもないところから扉を具現化させると、僕とコロナを連れてそのなかに入る。
するとなかはレンガでできた質が良く広々とした部屋になっていた。
部屋の中央の奥には暖炉があって、寒い北の国の家を連想させるものだった。
「いい部屋ですね」
「気に入ったのならなによりだ」
ソールは無愛想にそう返す。よく見ると隣のコロナに言っているようでもある。
「これで役目は終了だ。僕は帰る」
ソールは終始変わらない様子で、どこからか取り出した黒い帽子を被り、部屋の外に出ていった。
僕は隣にいるコロナを見ると、コロナはこの部屋に安らぎを感じているようなそんな表情をしていた。
「なんか……落ち着く。よくわからないけど……暖かい」
「まあ暖炉があるからね」
「暖炉?」
コロナは暖炉を知らないようだ。
「ほら、あれ」
僕が指を差して教えてあげると、コロナは小さく「だんろ……」と声を漏らした。
どうやらコロナには覚えがあるようだった。そしてその瞳に懐かしさを滲ませていた。
「あれ……なんだろう……変だな……」
コロナは自分の変化に理解できていないようだった。それは彼女が僕の前だということで、恥ずかしさから言ったものではなく、ただ自然にそう言っているようだった。
「コロナ、どうかしたの?」
「わからない……わからないけど悲しいの……悲しいけど温かいの」
それを聞いて、僕はこうコロナに問いかけた。
「コロナ……君、もしかして記憶がないの?」
「…………うん」
「そうなんだ」
こんなとき、どういってあげるのがいいのだろう。慰めればいいのか、励ませばいいのか。それを彼女は望んでいるのか。
困っていると、コロナは目を擦りながら僕に言う。
「記憶はないけど……わたしは大丈夫……悲しくなんてないから」
気を遣われてしまった。コロナは小さいけど、彼女の方が僕よりも上手だったようだ。
何気なくコロナを見ていると、コロナの手に人形がないことに気づく。
僕はコロナにそれについて聞こうとした瞬間、外の方から聞き覚えのある二つの悲鳴が流れてきた。
僅かに聞こえたものだったが、それはその後気絶したのだと理解できた。
僕は外へ飛び出すと、僕が気絶していた場所にララとシルが並んで気絶していた。
「ララ! シル!」
僕は二人の名前を叫ぶ。
目を覚まさないので、名前を呼びながら肩を揺らしたりすると、二人はゆっくりと目を覚ました。
「なんすか? ここ……」
「真っ暗……まだ眠い」
「ダメだよ。起きて二人とも」
「…………ってその声はエル!!」
気絶して寝惚けたようになっていたララは、僕の声を聞いて飛び起きる。
「ここが冥府なの? エル、やっぱりここに落ちてたんだ」
「どうしてわかったの?」
「リデアハイルの谷底は冥府に繋がってるって昔からの言い伝えだから。それにしてもまさかほんとうにそうだったなんて」
「ひぃぃ」
不意に声がしたと思ったら、背中にシルが貼り付いている。
「えっ!? ちょっとどうしたの?」
シルはリデアハイルにきてから僕のことを目の敵にしていた節があったはず、なのにどうしてこんなに密着してくるんだ。
そう疑問に思ったが、すぐにその答えが出る。
「あ……もうこんな時間」
コロナが思い出したように声にした瞬間、数え切れないほどの霊魂が僕たちの間をすり抜けていった。
「きゃああああこないでっすぅ~」
霊魂が通り過ぎていくまでの間、シルはつんざくような取り乱した声を上げていた。
霊魂がいなくなると、シルは冷静さを取り戻して、やがてその赤い髪の色と同じように顔を赤くしていた。
「悪かったっすね。ああいうの……苦手なんすよ」
シルのレアな一面だった。
「二人とも疲れたよね。話しは部屋のなかでしよう」
そしてここまでのいきさつについて僕とララたちの話しをして、そのあと二人にコロナを紹介した。
時間の感覚もわからないが、そのあとはとにかく寝ることにした。
身体が疲れていたことと、今日一日で体験したことを飲み込むには、僕たちには休息が必要だった。