七十三話、谷の底の少女
二段階の魔力。そしてその魔力を纏うことをナハトはエクステンデッドと呼んだ。
ナハトの戦い方は、やっていることはシンプルでも、内容は非常に高度なことをしていた。
エクステンデッドして纏う魔力を一段階上げたシルの攻撃に対して、ナハトもエクステンデッドして魔力の盾を作り、それを防御した。
そしてシルの振り下ろした斧の威力によって上がった土煙で視界が見えないうちに、片方の左腕でシルに魔弾を撃った。
このとき撃った魔弾は、シルの魔力を乱して脳震盪を起こさせた。
これは相手の身体に流れている魔力そのものに干渉するといったとても難しい技法で、的確な場所に撃ち込み、更に身体に流れている魔力の波を計算した上での威力調整を行わなければ、それは相手にとってなんのダメージにもならない。
ナハトは僕から見れば天才だ。
こんな技、どれほど練習しても会得できるものではない。
そんなことを思いながら、僕は目を覚ました。
目を覚ましたといっても意識はあり、逆に意識がなくなったナハトと代わっただけである。
目が覚めると、横から覗き込むララの顔があった。
「エル……だよね。元に戻って良かった」
「おっ!? 目が覚めたっすか?」
続いてシルの声も聞こえてくる。
シルも一緒に気を失っていたはずだが、彼女の方が先に目が覚めたらしい。
「なんだナハトさんじゃないんすね」
シルはあからさまに残念そうな声を出す。
「ちょっとシル、負けたからもう許したんじゃなかったの?」
「あたしが負けたのはナハトさんっすから。エルは関係ないっすよ」
シルは目の前にエルがいることも関係なしにそう毒づく。
「それはそうだけど……」
ララもそう言われて反論しがたかったようで、曖昧に言葉を濁す。
「あたしはまだ認めてねぇっすよ。"ナハトさん"は認めたっすけどね」
シルはナハトの部分をはっきりと強調して発言してくる。それにいつの間にかナハトだけさん付けされていた。
完全に贔屓されている。まあ仕方ないけど。
「ララもナハトさんとだったらそういうなかになってもいいっすよ」
「いや無理よ無理。それにあの人もう心に決めた人がいる気がするし」
「マジすかぁ!! 先越されたっす」
「あんたが狙ってんじゃない……」
僕を置き去りにして二人だけで話しが進んでいく。
もうそろそろいいだろうと、僕はそんな二人をそのままにしてララの家から外に出た。
一人になると、頭に浮かんでくるのはナハトの言葉と、あの戦いが終わってから心の奥底に棚上げしていた不安だった。
あの戦争を、ブラックレオとの戦いに辛うじて勝利した僕は、安息に身を委ねてきたが、果たしてあれは勝ったと言えるのだろうか。
僕は……結局最後はククの力で助けられた。
守られてしまった。
本当は、僕が守らなきゃいけなかったのに。
そのための力だったのに。
イレギュラーの力は未だに制御出来ていない。
また力が暴走したら、またククに守ってもらうのか。
僕は未熟だ。
力はあるのに、それを扱えていない。
時間はあった。
真夜中にハイアリンの外れに出て、そこで毎日練習もしていた。
それでもだ。僕はこの力を……イレギュラーという巨大な力を一度として自分の思う通りに使えたことがない。
ナハトにはそれができる。
知識、センスともに並外れている。僕では到底敵いっこない。
僕はダメだ。ダメダメだ――――。
「エル!」
ララが家から少し離れたところにいた僕のところに駆けてくる。
「ごめんね。シルは私のことを思ってあんなこと言ってるだけだから、エルは気にしないで」
「気にするよ」
「えっ……」
「だって僕はシルの言うように、確かに……弱いんだからさ」
「エル……」
「僕、今日はちょっと休みたい気分なんだ。シルもいることだし、ララもシルとゆっくりすればいいんじゃないかな」
僕はその場から逃げるようにララから離れていく。
「ちょっと待ってエル」
ララはそこで伸ばそうとした手を止める。僕の雰囲気を察して躊躇したのだ。
有り難い。
今は一人にして欲しい。
僕はただぼんやりとしながら森のなかを宛もなく歩いた。
途中まで頭のなかで色々と考えていたが、それももう疲れてしまった。
疲れているけど落ち着かない。こうして足を動かしていないと、また要らぬことを考えてしまいそうになる。
焦ってもどうにもならないとわかっているのに。
【どこまでいく気だよ】
そんなとき、自分のなかから声がした。
ナハトである。
【起きたんだ】
【ああ、やっぱり自分のじゃない身体を使ったり力を使ったりするのはかなり疲れるな。できればもう次はやりたくない】
ナハトはそんなことを言う。僕の方ができれば変わって欲しいものだ。
【それでなにやってんだ。シルってやつとララってやつから離れていってるぞ。それくらいわかってんだろ】
【わかってるよ。今はちょっと一人になりたいんだ】
【そうか】
意外にもナハトはそれ以上言ってくることはなかった。
気づけば僕は底の見えないほど深い谷の上にきていた。
ここから先はなかった。だから近くにある木の下に腰を落として、木に寄りかかった。
眼前に広がる真っ暗な空白に目を落としていると、ナハトがまた声を掛けてきた。
【エル、お前はどう思ってるんだ?】
【僕だってナハトみたいにやらなくちゃって思ってるよ。でも僕にはどうすればいいか……】
【そうじゃねぇよ】
【じゃあなに?】
【どいつが本命なんだ?】
【えっ!?】
ナハトは唐突にそんなことを聞いてくる。
【本命って僕はまだ……】
【なんだまだ決めてねぇのか。なんだそういうことか】
ナハトは勝手に納得したような反応を返してくる。
【お前もなんとなく察してると思うが、ククの言うことを気にすることなんてねぇぞ。すべてはてめえの心に従えばいい】
ナハトは珍しく僕に気遣っているようだった。
【まあ焦ってもしゃあねぇ。それと一ついっておくが、俺のようになれってことじゃあねぇからな】
言われなくてもわかってる。ナハトのようになれるなんて、最初から思っていない。
それからずっと木の下で休んでいたが、日が隠れても帰ろうとは思わなかった。
気づけば闇は濃くなり、空に灯りが灯る。
リデアハイルから見える月は大きい。まるでこの世界が月に近づいたようだ。
僕は自然と眠りについていた。
どれくらいたったか、深い眠りに落ちていた僕は夜中に動物的な知らせによって目を覚ました。
そういうときは妙に寝起きでも感覚がはっきりしていて、寝汗でびっしょりと濡れた背中が夜風でひんやりと肌寒い。
だが、そんな肌寒むさも忘れてしまうくらいに、無機質な細い線のような視線が僕を捉えていることに気づく。
僕が目を覚ましたことで、それもこちらの様子を見に近づいてくる。
そうして動いたことで月明かりがその姿を暴く。
顔は鳥のようであり、眼は人形のようであり、身体は巨体の魔物というような姿だった。
僕は魔物と目線を合わせてゆっくりと木の後に回る。
そして少しずつ距離を取って間合いを探る。
鳥のような顔をした魔物は、まだこちらの様子を伺っている。
僕はあっちが攻めてくる前にこっちから先制することにした。
動作から感づかれたくないため、敢えて抜刀の構えをとる。
そして次の瞬間魔物の懐に飛び込むと、剣を抜いて魔物を斬りつける。
だか魔物は斬った瞬間、黒い霧のようにその姿が消えていった。
僕は突然消えた魔物を探して周りを注視していると、不意をつかれて後ろから谷底の方に投げ飛ばされた。
僕は人知れず深い闇の底に落ちていった。
闇はまるで僕が落ちてくるのを待っていたかのように、僕の意識を奪っていった。
谷底に落ちた僕は、冷たい人肌の感触を頬に感じて意識を取り戻した。
真上は黒一色で、夜空なのかと思ったが、じっと見ているとそれは空ではないことに気づいた。
谷底に落ちた記憶があったが、それが現実のことだとそこで受け止める。
「そうか……僕は……」
頭のなかを整理していると、横から小さな青白い顔が僕を覗き込んできた。
子供だった。
女の子だ。髪は黒で、肌は白い。目は青く、人形を抱えていた。
「あなたは……だれ?」
そう幼い声で僕に尋ねてくる。
「僕はエルっていうんだ。君は?」
「わたしは……コロナっていうの。ここの番人……してる」
「番人って……ここはどこなの?」
「ここは……冥土……冥府……地獄ともいう」
「地獄だってぇ!!」
僕は驚きのあまり飛び起きて声を上げていた。
「そう……わたしは冥府の番人……コロナ」
こうして谷底に落ちたはずの僕は、気がつけば死者の国に足を踏み入れていたのだった。