悪役令嬢の義兄の私は、今日も彼女の婚約破棄の後始末で胃が痛い
「今、何とおっしゃいましたか」
男の呻き声に、私は顔をしかめた。
またか。また、やったのか。
「聞いたとおりですわ、フェンネル様。婚約破棄を申し入れたい――そう申し上げたのです」
男の声とは対照的な、可憐さと残酷さをあわせ持った声だった。
私はこの声の主をよく知っている。自分の義妹なのだから、知らない訳がない。
男――フェンネル・サートリスは震えていた。
濃い青色の瞳も丁寧に整えた黒い髪も、彼の動揺を殊更に引き立てるだけだ。
「な、何故ですか、エルトリア! 私と貴女は将来を誓いあった仲だ。
誓いの指輪も貴女は受け取ってくれたじゃないか! それを今になって、何故」
「今だからこそ、ですわ。今ならまだ引き返せる。
そう考えたからこそ、私は自らこの婚約を破棄するのです。あなたの人生を台無しにしない為にも」
女――エルトリア・ランバートは小さく呟く。肩の辺りで結った銀髪が揺れた。
私の位置からは見えないが、彼女の紫色の瞳はフェンネルの顔をまっすぐに捉えているだろう。
こんな修羅場であっても、彼女は退くことはないから。
「そんな曖昧な理由で今さら婚約破棄、だと。嘘だろ、嘘だと言ってくれよ。
ならば、君が僕に向けた笑顔は何だったんだ。全て虚構か幻だったとでも! 答えてくれ、エルトリア!」
「全て真実ですわ、フェンネル様。貴方に囁いた言葉には、一筋の嘘もございません」
「だったら、だったらどうして僕を奈落のどん底に突き落とすような真似をする! 愛していながら、君は僕を見捨てるというのか!?」
「愛しているからこそ、私は貴方と別れなくてはならないのです。
きっと貴方を不幸にするから」
冷たく言い放ち、エルトリアはフェンネルに背を向けた。
つまり、私の方を向いたことになる。その顔は、これ以上ない程に感情を圧し殺して冷たい。
そう、手を触れればそのまま凍りついてしまいそうな程に。
「エルトリア......僕は、僕は君を憎む。このフェンネル・サートリスの気持ちを弄んだ罪は、けして軽くは無いぞ! 煉獄の果てまで追い込んで、君を憎悪の炎で焼き尽くしてやるからな!」
「楽しみにしていますわ、フェンネル様。その憎悪する顔を、私は見たかったのです。
ふふ、とても歪んでいて、それでいてお綺麗ですわね」
フェンネルの方をちらりと振り返り、エルトリアは微かに笑った。
悪の華とも言うべきその残酷な笑みに、私は心の中でため息をつく。
ああ、この義妹は生まれながらの悪役令嬢なのだなと。
† † †
「君の婚約破棄は、今回で何件目になるのかな」
「いやですわ、お義兄様、数も数えられなくなったのですか。去年から通算四件目ですわ!」
「威張って言うことではないと思うよ、エルトリア」
心持ち声を落として、私は答える。
疲れていた。激昂したフェンネルをなだめそして謝りつつ、その従者と今後の対応を協議したからだ。
婚約破棄するのはエルトリアの自由だが、その後始末をする側の気持ちも考えてほしいと思う。
「ふっ、だって仕方ないではないですか。生まれながらにして悪役令嬢のこの私です。人並みの幸せなど、掴めるはずもありません。
ならばせめて人々の憎悪を一身に引き受け、この世界の業を軽くしなくては」
ピシッと軽く音が鳴った。エルトリアの右手の羽扇が、そのたおやかな左の手のひらに打ち付けられたのだ。
機嫌のいい時の彼女の癖ということを、私はこの四年でよく知っている。
「十七歳だったね、君は」
「義妹の歳もお忘れになったのですか、お義兄様。二十六にして早くも痴呆症とか、悲しすぎますよ」
「混ぜ返さないでくれ。エルトリア、どうするつもりなんだい。そろそろきちんと結婚しないと、一生寡婦のままになるぞ。
そうなれば、ランバート伯爵家は君の代で潰えることになる」
お茶を一口飲んでから、私はエルトリアに声をかけた。
これは脅しでも誇張でもない。
二年前、エルトリア・ランバートは事故で家族を失った。
大雨による川沿いの街道の崩落事故――言葉にしてしまえば、何て陳腐なのだろう。行楽用の馬車がそんな災害に巻き込まれれば、ひとたまりもない。不運としか言いようがない。
そして、その被害者には私の元妻、エアメリス・ランバートも含まれていたのだ。私が助かったのは、ただその馬車に乗っていなかったというだけの話だ。
生存者はエルトリアただ一人のみ。天涯孤独となった彼女は、否応なく私と二人で生活することになった。
いきなり寂しくなった屋敷で、私は途方に暮れていた。目の前が真っ暗になったまま、朝昼夜が過ぎていく。
私の幸せな結婚生活に、その事故が終止符を打ったのだ。
僅か二年。二人の間に子供が出来なかったことが幸いなのか、それとも不幸なのか。それは私には分からない。
「アイザックお義兄様が継げばよろしいではないですか。血縁ではないとはいえ、ランバート家の家族なのですから」
「馬鹿を言わないでくれ。私はしがない婿養子に過ぎない。由緒正しいランバート伯爵家を継ぐ程の器量も、それに相応しい血筋も持ち合わせていないよ。
君が伴侶と一緒になり、その方の家に併合される形にしてもらう。それが一番だ」
「イヤですわ」
ツン、とエルトリアは横を向いた。私は「わがままを」と絶句する。
絶句するが、頭ごなしにエルトリアを叱ることも出来ない。
何故なら、私は彼女が婚約破棄を繰り返す理由の一つを知っているからだ。
「お義兄様を置いて結婚など、心配で出来そうもありませんわ。お姉様が亡くなられた後、どれだけ憔悴されていたと思っていらして?」
「もう二年も前のことだよ」
「まだ二年ですわ。心の傷というものは治ったといっても、また開くことがあると聞きます。
お義兄様が本当に元気になった、あるいは将来を本気で誓える方が見つかるまで」
エルトリアは微笑する。その顔がエアメリスに似ていることに気がつき、私は動揺した。
絞り出した声にその動揺が現れないよう、願うばかりだ。
「見つかるまで、何だと言うんだい」
「お義兄様のお側にいたいと願います。ご迷惑でしょうか?」
「迷惑なわけが」
ない。
この義妹が日々女性らしさを増していく様を見るのは、率直に言って私には好ましかった。
時おりエアメリスに似た顔をすることが痛みを呼ぶとしても。
「それではよろしいではありませんか。
ふふ、義兄を慕う悪役令嬢とそれを突き放せない義兄なんて、まるで歌劇の配役のよう。出来すぎですわね?」
艶やかな笑みに、私は適切な返事が出来ない。その代わりに、窓の方へ視線を流した。
"私達はいつからこんな関係になったんだろうか"
二年前、あの事故以来からか。
四年前、初めて私がこの屋敷を訪れた時からか。
離れなくては、放さなくてはと思いつつも、お互いに離れられず放せずにいる歪な関係だ。
「ふう、それにしても殿方に慕われるというのも疲れますわね。
注目を浴びるのは心地よいですが、好かれ過ぎるのもよろしくないですわ」
「いつ刺されてもおかしくないようなことを言うものじゃないよ。
フェンネルの顔を見ただろう。愛は憎悪の裏表だ。男心を弄んでいては、必ず良くないことが起きる」
「まあ、お義兄様ったら心配性ですわね。あの人達は私の美貌につられただけ。言うなれば飛んで火に入る夏の虫。自業自得ですわ」
「他の令嬢が聞けば、目を剥きそうだね。やれやれ、君と初めて会った時はもっと素直な子だったのに」
肩をすくめ、私は窓枠にもたれかかる。秋の日差しが肩にあたった。私の影が部屋の床へ伸びる。
エルトリアはその影を爪先でつついた。いつもの戯れだ。
「あら、お義兄様。私は今も素直ですわ。自らの欲求に素直に従い、行動している。それは今も昔も変わりませんわ」
「火消しをするこちらとしては、もう少しその欲求を抑えて欲しいよ。
君の悪い噂を消すのも、中々に骨が折れる」
「ふふ、ありがとうございます。それでもお義兄様」
「何か」
「私が誰か特定の殿方のモノになっても――平気でいられますの」
口許を羽扇で隠しつつ、エルトリアはこちらを見た。
その紫色の瞳が僅かに細くなる。とくん、と私の心臓が鳴った。
「穏やかではないだろうけれど、すぐに安心するだろうね。長い目で見れば、良いことしかない」
「そうでしょうか。少なくとも私はお義兄様から離れるのは辛いですわ」
「四年も一緒にいたら、多少はそう感じるだろう。自然だよ」
言外の含みに気がつかないふりをして、私は目をそらした。
エルトリアのドレスは大胆なデザインであり、その白い肩が剥き出しになっている。
その白磁のような肌に目を奪われた訳ではない、と信じたい。
「お姉様の代役として私を求めてもよろしいのに」
「冗談でもそういうことは言わない方がいい。誰が聞いているか分からないのだから」
「あら、冗談と思われて?」
「そう思いたいのさ」
わざと軽口を叩き、私は会話を切り上げた。
これ以上エルトリアと二人でいるのは、色々と危険だ。まるで甘やかな毒が回りそうで。
† † †
自室に帰り、私は大きく息を吐いた。首もとのタイを緩め、机の上に放り投げる。
声が上ずってはいなかっただろうか。胸に手を当てると、激しく動悸がする。
"気取られなかっただろうか"
私の想いに。
"義妹に惹かれているなど、いくらなんでも"
ふしだら過ぎる。
血の繋がりがないとはいえ、相手は妹なのだ。
ベッドに寝転がり、天井を眺める。理性的になれと自分に言い聞かせても、心は中々穏やかにならない。
ああ、そうだ。多分自分の気持ちに嘘はつけない。そういうことなのだろう。
正直に言おう。
私は、アイザック・ランバートはエルトリア・ランバートに惹かれている。
恋焦がれていると言っても、過言ではない。
だが理由が分からない。
いや、惹かれているのは自分でも認めるのだが、その理由がだ。
私は亡き妻、つまりエアメリスの面影を彼女に重ねているだけなのか。
それとも、エルトリア自身に魅力を感じているのか。
どちらとも言えずどちらとも決められず、私は重いため息をついた。
"なあ、エアメリス。何故君はこんな時に側にいてくれないんだ"
私の心の中の呟きが宙に浮く。無論答えてくれる者はいない。
お義兄様、愛しいお義兄様。
けして放しませんわ、離れませんわ。
私に寄ってくる有象無象の男など、どれだけ傷つけても構わない。
私にどれほど悪い噂が立とうが構わない。
少しずつ少しずつ、貴方の心を私のモノにすることさえ出来れば、他には何もいらないのですから。
時間をかけて、私の魅力で貴方を虜にしてみせます。
何を犠牲にしてでも、全てをなげうってでも。
それが貴方の人生を侵食するとしても。
そう、その想いの強さ故にあの日の事故も起きたのですわ。
罪の血に濡れたとしても、私は貴方が欲しくてたまらないのですから。だから、ずっと一緒にいたくて、ただそれだけを願っていたから。
あの日私は車軸を壊して、馬の餌に薬を混ぜたのです。あわよくばこの機会に事故にでも巻き込まれればと。
ですからお義兄様。私から離れないでいてくださいましね。
私の愛を――憎悪に転じさせない為にも。