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金曜日の午後1時。僕は先輩たちの事務所に来ている。事務所の奥の応接スペース。今日はお茶ではなくてコーヒーを入れてもらった。最初に身構えてしまったのは仕方ないことだと思う。

「澤田君、君は何もしなくていいです」

「いいんですか?」

「ええ。あえてお願いするなら、僕はもう迷惑なんですときっぱりと宣言してください」

「大丈夫ですか?」

「大丈夫ですよ。彼女は澤田君が五年前と変わらないでいると思っているんです」

「いくらなんでもそれはないです」

彼女の思い込みも相当なものだなあと思う。航空管制官から芸能事務所のマネージャーなんて思い切った転職をするにはかなり勇気が必要だった。その努力も彼女に分かってもらおうとは思っていないが、彼女があんなことをしなければ……僕らは結婚して幸せな生活をしていたかもしれない。もしかしたら転勤で都内じゃないどこかで管制官をしていたかもしれない。全て壊してくれたのは彼女と間男さんだ。

それとも、彼女の中では彼女は何一つ悪くないとでも思っているのだろうか?それなら、今回僕の所に接触を試みてもおかしくはない。

「思ったことを言ってもいいんですか?」

「構いませんよ。極端に相手を傷つけることじゃなければ」

「そうですね。もう今なら教えてもいいでしょうか。彼女の近況の全てです。澤田君は読んで把握だけはしてもいいですが、このことに関しての追及はしてはいけません」

「あっ、青木先輩……それって」

「そんなきな臭い話に君は足を踏み込まなくてもいいんですよ」

青木先輩が見せてくれた彼女の調査書を見せてもらう。そこには、間男さんから別れた後の彼女の行動が分かりやすく書かれていた。僕と別れた奥様に慰謝料を支払った間男さんは、関連会社に転籍していて、今は関空発着の海外路線を中心に業務しているそうだ。要は、自分が搾取されないように逃げたということになるのだろう。最初はそのうち迎えに来るだろうと思っていたらしい彼女だけど、間男さんとの連絡が一切取れなくなって自分が切られたと気が付いたらしい(この前に、慰謝料の未払い騒動を起こしているようだ)。

そんな彼女がのめりこんでいったのが、ホストクラブ。ちやほやされたいから言ったのだろうけど、かなりのツケをため込んでいるらしい。そんな状況なので業務にも支障が出た為、配置転換ということで今は羽田の地上職ということになっている。

実情は今度トラブルを起こしたら、即刻懲戒解雇に準ずることになるだろう。

今回の彼女への内容証明は彼女の職場に対してはどういう効果をもたらすのだろうか。そのことで僕に新たに火の粉が飛んでこないだろうか?漠然とそんな不安が僕の頭にはぐるぐると渦巻いていた。


やがて時間になったのだろうか。つぶらさんがお見えになりましたと教えてくれる。

「どうぞ、こちらに来てください」

と通る声で大久保先輩が彼女たちに呼びかけた。やがてカツカツと聞きなれたピンヒールの音が聞こえた。

「千紘。待っていてくれたのね」

「はあ?」

五年ぶりの再会の第一声がそれだとは誰も思ってはいなかっただろう。

「佐藤さん。まずはお掛けください。今日は再開の場ではありせん」

「どうして?私は必死で千紘を探したのよ。私が悪かったって反省しているの」

彼女が僕をチラチラ見ながら訴える。昔なら可愛いと思った仕草だけど、今の僕にはとても生理的に受け付けるものではなかった。

「反省しているのでしたら、どうして慰謝料を支払うことをしないで給与の差し押さえをされたのでしょう?説明していただけますか?」

青木先輩の一言で彼女は真っ青になる。

「だって、私忙しかったんですもの。ほとんど休まないで働いていたのに」

「銀行のATMは今ではあらゆるところにありますので、そんな理由は通用しません。そんなに忙しいのでしたら、ご両親にお願いしたらよかったでしょうね」

「だって、一緒に暮らしていなかったんですもの」

「一緒に暮らして、ご両親が一括建て替えでお支払いしたことに対してどう思いますか?その建て替えはお支払いしましたか?」

「両親には感謝してます。建て替えは……払ったわよね?」

彼女は両親に問いかける。本当は建て替えていないのだろう。そのお金は全てホストクラブに使ったことを僕が知らないと思っているのだろう。口から出そうな言葉を必死で飲み込む。

「そうですか。僕らが独自にあなたを調べたら、あなたがあるところに頻繁に出入りしていることが分かりましたよ。この写真なのですが、説明してもらえますか?」

大久保先輩が一枚の写真をテーブルの上に置く。そこにはホストにしなだれかかっているちょっとだらしなく見えてしまう彼女だった。

「こっ、これはたまたまよ。職場の先輩に連れて行ってもらったのよ」

「きっかけはそうかもしれません。のめりこんだのはあなた自身です。かなりの額をツケにしているようですね。ホストクラブの方にお聞きしましたよ」

「えっ、嘘」

「ウソではありません。あなたのお気に入りの方から直接聞きました。あなたはじきにツケを全額支払えると豪語していたようですね。資金源はどこですか?」

「そっ、それは」

「では、僕が答えましょうか。澤田君ですか?それとも澤田君の事務所の誰かですか?それとも業界の誰かでしょうか?」

「そっ、そんなことない」

彼女が強がっているが、手が白くなるほど握っている。ばれたくないときはそういう仕草をすることを僕は思い出した。

「もういいよ。上辺だけでは騙されないから。君の仕草がもの語っているよ。それに僕はもう君を選ばない。君を見ても懐かしいともなんとも思わない。むしろもう二度と会いたくないよ」

「千紘、どうしてそんなこと言うの?あんなにあの時は愛していたじゃない」

彼女の目に涙が溜まっている。申し訳ないけど、この仕事をしていると女の子の涙で狼狽えるってことはないんだ。

「涙を流したからって同情しないよ。五年前に自分が何をしたのか、ちゃんと思い出したらどうだい?あの頃の書類は全て持ってきているから」

「そうですね。折角ですから五年前のことも復習しましょうか?あの時は婚約者であった澤田氏のことをお金を落としてくれる財布って同僚さんに言ってましたよね。あの時は実は音源データがあるんですが……今聞いてみますか?」

「もう、いい加減にしなさい。澤田君、本当に娘が申し訳なかった。弁護士さん、この子はここにいてはもう前の娘には戻れない。だから、私の故郷に家族で移住をしようと思います」

「そんなの嫌よ。あんなところに行ったら何もないじゃない」

確か彼女のご両親の実家は北海道だったはず。何もないところではない。

「そうですか。それも彼女にも彼にもいいことかもしれません。それと、彼女のツケの額はかなりの高額です。このままだと、風俗産業に転職も考慮しないといけないくらいなのですが……」

青木先輩が、やんわりと彼女のツケの総額をそれとなく仄めかす。最低でも五百万円位ってことでいいのかな?確かに僕が昔のお人よしなら騙されて支払っていたかもしれない。でも今の僕はそこまでいい人ではない。

「いいんじゃないか。あの頃の君と今の君ではかなり違うから。夜の蝶になればすぐに返済が可能なんじゃないかな」

「千紘、どうして私を助けてくれないの?」

「佐藤さん、僕らはもう完全に他人なのです。婚約を解消したあの時からずっと」

僕なりに最後通牒を突きつける。彼女は声を出して泣き始めた。


泣いている彼女では話にならないということで、その後は彼女の両親と話し合うことにした。彼女はつぶらさんが話を聞いてくれるらしい。彼女の自宅は幸いにも持ち家だしローンも完済しているし、彼女の自宅が今人気のエリアなのですぐに自宅を取り壊さなくても売却は可能だろうということだった。早急に売却手続きをして、その売却益から彼女のホストクラブへの支払いをしてから、北の大地に向かうということになった。青木先輩は、佐藤さんに一枚のメモを手渡した。

「これは?」

「佐藤さんの居住の地域で知人が不動産業をしていますので、頼ってみてはどうでしょうか?」

「ありがとうございます」

「いいえ。たいしたことではありません。手広くやっているはずなのですぐに手配してくれるでしょう。次に澤田氏に対してのことです。今回は事務所の前での付きまといだけですので、早急に転居されるのであればそのことに対しての慰謝料はかなり安めにしましょう。ゼロにするわけにはいきません。彼女が行ったペナルティーなのですから」

「そうですね。澤田君も申し訳ない」

「彼女が本当に反省してくれないと意味がありません。それと二度と僕の前に現れないでください」

僕はきっぱりと、彼女に接近禁止をつけたかったので宣言することにした。

「そうですね。次回近づいたらすぐに警察に通報しますのでそのおつもりでよろしいでしょうか?これって文面にできますか?」

「できますよ。それが僕らの仕事ですから。ちょっと待ってくださいね」

青木先輩は自分のデスクに戻って、かなり高速で書類を作成し始めた。

「これでお嬢さんが、目を覚ましてくれるといいんですが」

「そうですね。あの子はどこか病気なのかもしれないです。向こうに行ったら病院に連れて行こうと思います」

彼女の両親を見て、彼女がしていることが許せなくなる。彼女の両親は僕が最後に会った時よりも更に小さくなったように見える。いずれは両親が亡くなる時が来る。その時に彼女は一人でも大丈夫なのだろうか?

「そうですね。一度カウンセリングに通うのもいいかもしれないですよ」

大久保先輩は、冷めちゃいましたがどうぞとコーヒーを進める。彼女が自爆してくれたおかげであっという間に今回の事件の終息を見ることができた。


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