10
「寿?何か欲しいものがあったらツイッターで送って。帰りに買って帰るから。それと家にあるものは何を食べてもいいんだからな?12時過ぎには帰るから」
事務所内の自動販売機の横の休憩スペースで自宅にいる白戸に電話をする。
午前中は眠らないで起きていようかななんて暢気なことを言っていたので熱が上がったら新年会には置いていくからなと脅しておいた。多分薬に負けて僕が戻ってくるまでぐっすりと寝ていると思うけど。
今朝、起きたら隣に白戸がいて驚いた。どうやら寝付くまで見守るつもりで僕まで寝落ちしてしまったようだ。白戸に文句を言うつもりはないけど、これが大好きな彼女だったら本当に幸せな目覚めだったのにな。
事務所のエアコンを入れて作業するほど今日は出社しないから、靴にいれるカイロと貼るカイロを体に貼ってある。後は事務所のジャンパー(スーツの上から着られるように大きめのサイズにしてある)を羽織って集中して仕事すればすぐに終わるはず。極端なことを言えば、データを自分のUSBにコピーして持ち帰って自宅で作業もできるから、書類仕事だけに絞って今日は作業することにした。
年末調整は先月の給与で処理をしてあるから、今月の給与はいつも通りで然程忙しいわけではない。問題なのはアイドルとモデルたちの確定申告だ。3月15日までは経理部をメインに確定申告サポートチームが結成される。僕も大学で税法の授業を受けたこともあってサポートチームの参加している。マネージャーからはモデルとして確定申告の経験がある里美さんも一緒だ。それに僕の場合は、社会人になってすぐに中古のマンションを購入していたのだが、今はそこでは手狭だし暮らしたくはないので、不動産屋に管理をお願いして収入家賃を貰っている。事務所の通勤も本当は最初に買ったマンションの方が近いけど、もう僕はそこに立ち寄ることもないだろう。人気のある街の築年数のたったマンションだけど、僕が住む前に徹底したリノベーションを施してあるので、かなりお買い得な買い物だったはずだ。買うときはローン減税を使った方が得だったので、国土交通省を辞めるまではローン返済をして、退職後に一括返済を済ませている。ハローワークに行く前に自宅療養という名の引きこもりで更にFXの収益を増やして、次の年の確定申告はかなり涙目になったのは笑い話だ。あれから5年。あの時の痛手はもうない。職場の異動を申し出たけど、かなりな専門職な為異動ができるかどうかわからない状況で業務を続けていく中、徐々に心が壊れていって職場で倒れたのは本当に申し訳なかったと思う。重度の睡眠障害と抑うつ症状という診断書を貰って、休職をしてそろそろ外の世界を見たいと思って公務員を辞めて民間に転職しようかなと思ってハローワークに行って社長に捕獲されて……3月まではそのまま休職で4月1日から事務所で勤務しましょうと言ってくれた。どうして僕が休職してしまったかという理由を知っているのは、あの時婚約不履行の手続きをするために相談した高校の先輩と修吾と白戸。手続きを代行してくれた弁護士さん。僕が学園の後輩だということで職場に休職手続き等も一手に引き受けてくれて、かなりの格安で請け負ってくれた。そういえばあの時の相手方になった人たちは……僕自身は一切接触していないけど、今でも当時の仕事を続けているのだろうか?誰もいない職場だとつい普段は考えないことを考えてしまうのは僕の良くないところだろう。
「あれ?今年は澤田君?」
僕がある程度作業が進んだときにやってきたのは、事務所のネット部門の責任者だ。でも、事務所にいることはほとんどない。彼を探すのなら、事務所の横にあるコンビニに行った方が早い。彼の表の顔は社長の奥さんがオーナーのコンビニチェーンの店長となっている。店長専用の部屋には、事務所とつながっているパソコンがあってそこで不正アクセスがないか監視をしてくれている。
「そうみたいです。でも、書類仕事だけなのでもうすぐ終わります」
「あっ、そうなの。事務所のブログとかで使いづらいことない?」
「ああ。年末の歌番組のブログの情報をアップして暫くしたら繋がりにくくなったとか?」
「あれ、知っていたの」
「ツイッターから報告があったので」
「マネージャーたちは仲いいね。あれね、不正アクセスがあったみたい。澤田君が情報アップのメールを僕に送ってくれてから一応監視していたんだ」
「大丈夫でした?」
「もちろん。これでも元ハッカーですから」
そう、この人元々はハッカーだった。とは言っても、悪いことをするよりは不具合を見つけた業者さんに丁寧に報告メールと対応策を教えていたという。そんな人がどこで社長に釣られたのかと思うとまた不思議だ。
「そうでしたね。オフのときに双子と初詣と買い物に行ったんですよ」
「おお、双子元気か?」
「それなりに。で二人ともスカウトされたんですよ」
「断っただろ?」
「話を受けたければ連絡するって言っただけですよ。うちの事務所にいるのにね」
「で、どこ?」
「沙良は、こないだ社長がクレームを入れたところ。賢は……これまた微妙な所です」
「ふうん。それはご愁傷様。あれか?双子のパパとか言われたんだろう?」
「何で分るんですか?」
「そんな恰好だったらね。俺も似たようなものだろ」
カジュアルなだけで父親に見えるだなんて、はっきり言うと納得できない。
「でもって、駅に入る直前に僕もスカウトされたんですよ。でもその事務所僕も知らなくて」
「ふうん。俺が知っているかどうか知りたいわけ」
「ええ。これなんですけど」
僕は財布に入れていた名刺を見せた。見せた途端、彼はあちゃーって顔をしている。
「澤田君、これはダメだ。相手にしないで大正解」
「えっ、どんなところですか?」
「無修正のアダルトビデオを製作するところ。澤田君をスカウトね。男優はないだろうから、女の子のマネージャーとかかな。リアルなマネージャーを引き抜こうとはこっちもびっくりだ」
あっさりと帰ってくる言葉に僕は少しだけ納得した。あの時の僕のそばには双子がいた。だから業務内容を話すことができなかったわけか。
「で、転職する?」
「するわけないじゃないですか。アダルト系の事務所なんて」
「お世話にはなるだろう?」
「ノーコメントです」
「まあ、この話はそれで終わりにしようぜ。まあ、今年もよろしくってことで」
「はい、今年もよろしくお願いします」
その後彼とは会話をすることはなく、互いの仕事を済ませて僕は1時間後に事務所を後にした。
「……だめ?」
「しかたないなあ。皆にはメールしてあるけど、分かっているよね?」
「うん。アルコールは飲まない」
「そう。飲みたかったら、全快祝いにマンションで飲み会しよう。それでいいだろ?」
「ちーちゃん、ありがとう」
マンションに戻った僕を待っていたのは白戸。昨日の具合の悪かったのはどこに消えたって位回復はしたように見える。検温をさせると、平熱より少しだけ低かった。
「薬を飲んでいるから、落ち着いただけだからな」
「うん、分かっている」
「明日も僕は午前中で勤務終わるからどこかで飯でも食うか?」
「いいの?」
「ああ、行きたいところがあったら13時で予約入れておいてくれ」
「うん」
ちょっとテンションの上がった白戸はスマホを弄っているから行きたい店でも探しているのだろう
「寿、お前仕事始め5日だろ?どうするんだ?」
「うーん、社長の訓示を聞いて、部長たちは初詣で、僕らは大会議室で立食パーティーみたいな感じ?」
「行くか?無理に行くことなさそうだよな」
「まあ確かに。5日は休もうかな。一日ここにいていい?」
「今更何を。いいよ。今日は冷え込みそうだから……俺のベンチコート着るか?」
「いいの?ちーちゃんは何を着るの?」
「俺はダウンジャケットでも着るさ。後マスク忘れるなよ」
「うん。昨日からありがと。ちーちゃん」
「もう慣れっこだよ。今夜は誰が来るんだろうか?」
「まあ、いいじゃん。お前なら大丈夫だろ?」
僕らは手早く準備をして、集合時間よりかなり早かったけど新年会の会場になっている店に行くことにした。
「今年もよろしく。乾杯」
「「「乾杯」」」
歴代の生徒会長の乾杯の音頭で新年会のスタートだ。これを決めるのは毎年じゃんけんというアナログな所が気に入っている。
「ちーちゃんは酒じゃないのかよ」
「だからちーちゃんは嫌だと何回言えば」
「いいじゃん。ちーちゃんだし」
「もうそろそろ諦めたらどうですか?」
「そんな。先輩もあんまりです」
「白戸と二人でウーロン茶か。どうした?」
「白戸は風邪です。俺はもう仕事が始まっているので」
「そっか。それなら仕方ないな」
「週末に僕の部屋で飲み会をやる予定なのでよければ来ませんか?」
「詳しくはメール送ってください。部屋って品川の方ですよね」
「あっ、今は実家に近い吉祥寺の方なんです。なので吉祥寺の駅まで迎えに行きます」
そっか、僕が引っ越しをしたことを知らない人もまだいるんだ。僕が公務員を辞めたことは卒業生でもかなりの人数が知っているけれども、転居したことは僕の家で飲み会をしたことがない人じゃないと分からないか。
「その飲み会って、俺のせいだから当日俺とちーちゃんの家に行きませんか?」
「白戸君とですか。確かに話すことはあまりないから新鮮でいいかもしれません。よろしくお願いします。」
「寿……いいのか?」
「うん。少しは外に出て体力回復しないとダメだろ?5日休むとちょっと長い人の冬休みと同じ位だから、少しは歩いたりした方がいいと思うんだ」
「そうだな。じゃあお前に頼むよ。僕はその日はレコーディングとあいさつ回りで18時には帰れるから」
「そうなんだ。他には?」
「寿が出社予定日の月曜日なんだけど、その日番宣の為に朝のニュース番組からずっとアイドルに同行するんだ。で、アイドルと一晩同じ部屋でもいいか?嫌なら俺の部屋で寝るか?」
「何時にテレビ局?」
「4時」
「だったら行くときに起こしてよ。いつもの通りにして仕事に行くから」
「頼むな」
「ねえ、二人とも同棲しているの?」
「「違います」」
「ふうん。カップルなのかなって思った」
「「女の子方がいいです」」
悲しいくらいに白戸とハモるのが更に辛い。
「そうなんだ。じゃあ本当に仲がいいんだね。気にしないで」
先輩の言い方にちょっと気になるところがあったけど、僕も白戸も女の子が好きなことはみんな知っていたと思うんだけどなと少しだけ考えてしまった。
「そうそう、ちーちゃん」
「だから、ちーちゃんって言うなって」
「あはは……もう無理だって。諦めろよ」
「僕は一人しかいないんです。一気に話しかけないでください」
あぁ、今年もどうやら学園関係者に振り回されそうな気がします。それは嫌いじゃないけどさ、そろそろ卒業させてくださいよ……。
次回は久しぶりの閑話「そして僕は途方に暮れる2」です。




