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いつも通りにスマホのアラームが鳴る前に目が覚める。どうやらこれといったトラブルもなく年が越せたようだ。今年も……去年以上に充実できるといいなあ。勿論仕事も重要だけど、本音を言えばプライベートかな。誕生日がきたら僕も三十歳になる。出会いがないと嘆きたい時もあるけど、焦ったっていいことなんてないという事がわかっているから。別に理想が高いわけではないと思う。この仕事をしていると、いわゆる業界の人との出会いはある。けれども僕は普通の……会社勤めをしている人がいいんだ。マネージャーをしている限りは不規則な生活だからすれ違いが多い事は目に見えて分かっている。業界の人は、もちろん素敵な人はいるけれども、恋をした相手で共に歩みたいと思う人でないと無理だろう。
僕が国家公務員を辞めてこの業界に転職して五年。そんな僕の条件に見合った女性は未だに現れてくれない。一番理想に近い人は里美さんだが、彼女は社長公認の元、うちの樹と交際をしている。芸歴が長いカレなので、オンとオフはしっかりとしているし、あの二人だからスキャンダルを撮られる事もないだろう。
二月になったら樹は今まで住んでいた事務所の量からセキュリティーがしっかりしているマンションに引っ越しが決まっている。場所は山の手と言われる地域にあると聞いている。本来なら居住するには厳しい地域であると思うが、そういった話がないという事はこちらが気に揉むことはないだろう。多分物件の方は、彼の両親が親しくしている最近話題の国会議員の先生が絡んでいるのだろう。樹と彼の両親からは良心と離れて暮らす彼にとって親代わりと聞いている。樹本人もそのことを隠すことなく先生と一緒にトークバラエティーに二人でゲストで呼ばれる程だ。あの政治家さんには確か樹より年下の息子さんがいたはずだが……そのうち樹にでも聞いてみるか。
客間から足音を立てずにダイニングに移動する。コンロにやかんをセットしてリビングのヒーターの電源を入れる。コーヒーメーカーでコーヒーを作りながら床下収納から寸胴鍋を取り出す。カレーの材料は全くないので今は鍋を洗うだけだ。本当だったら玉ねぎがあったはずなのだが、昨日の天ぷらで全部使い切ってしまった。勝手口においてあったお節をダイニングテーブルに置く。雑煮のつゆあすでに出来上がっているので皆が起きて来てからで十分に間に合う。マグカップに牛乳を入れて、出来上がったコーヒーを注いでカフェオレを作る。マンションではエスプレッソマシンがあるのでカフェラテを作れるのだが、実家にはエスプレッソマシンがないのでカフェオレになってしまう。本音を言うとこだわりがある訳ではない。
今日の予定は双子と一緒に初詣に行って、お年玉代わりに初売りで何かを買ってやって、家に戻る前にカレーの食材を買って帰る位だろうか。双子にいくら使われるか分からないから、財布の中にはいつもより多めに現金を用意してあるし、それでも足りなければカードもあるからこまることはないはずだ……と思いたい。
テレビのリモコンを押して毎年恒例となった情報番組の特番を眺める。芸能コーナーでは、昨日の歌番組の話題になっていて早速なっちゃんの事も話題になっていた。
番組では、事務所の公式プロフィールを紹介している。なっちゃんはジュニアピアノコンクールでの入賞歴がある。今流れているのはその時の画像があったようで、今よりも幼いなっちゃんがピアノを弾いている。マスコミ各社では君想いマカロンのデュエットがなっちゃんのデビューになったらしい。
natsuの方は、なっちゃんの音声を少しだけ加工してあるし、本人の顔を出さないので新しい歌い手さんという位置になっているようだ。今のなっちゃんにはちょっと忙しい位がいいのかもしれない。貼る前にはティーンズ誌のモデルデビューの本が発売されることが決まっている。
ふうのお弟子さんという事なので、僕も多少は関わると思うが、基本的に里美さんと社長が担当していくのだろう。ふうの実家が茶道教室をしているが、本当は柏木流の一人息子。最終的には家元になるのだろうけど、今はその経歴を隠している。こちらもそれを理解したうえでの芸能活動で、今までは特に困ったことはなかった。
のんびりとスマホでメールとSNSのチェックをする。毎年のように新年会という名の飲み会のお誘い。僕の仕事始めは三日からだ。でも事務所自体は四日からなので三日の出勤の時は外線には出ないで内勤に専念できる。年内処理にして貰いたい経費電表や経理からのお手伝いのお願いと称した指示書が付いた伝票類が僕の机の上に積み上げられていることだろう。経理で必要な知識も資格も取得しているせいか、保険以外でも内勤をすることが最近は増えてきているので、いずれは内勤に専念したい旨を社長には話してある。やはり語学に堪能な新人マネージャーを採用しないと現実には無理だろう。
僕が入社した五年前に比べて事務所スタッフも増えたし、タレント達も増えている。入社した当時は、僕のようにマネージャーと何かしらの業務を皆も兼務していた。今になるとそうったスタッフも減ってきてはいるのだが、その名残が僕と社長秘書だろう。社長秘書は人事部長も兼ねている。社長秘書も人事に専念したいと社長に訴えているのだが、後任者が見つからないまま今も兼任しているのだ。この事務所はこれからももっと大きくなるはずだと思う。そんな時に僕は何をしているのだろう。
「明日は……ここに帰って来いよ」
「えっ?」
「だから寿。明日の朝には、ここに帰って来いよ」
「なんで?:
「お前の実家なんて、一晩いたら十分だろ?」
「ちーちゃん……」
全員がリビングに揃ったのを見計らって僕は雑煮の支度をしつつ、白戸に話しかける。いきなり僕が明日僕の家に戻って来いと言われて意味が分かっていないらしい。
「そうだよ。昨日のことを言われたら、僕らが勉強を教えてほしいって強請って教えてもらっていたことにすればいいじゃん」
「それいいね。賢、ナイス」
「でも、流石に……それは……」
「いいんじゃないの?今回の事は白戸君がついてもいい嘘になるわよ」
「なんで……そこまで……」
「いいんだよ。おじさんがビール飲ませて千紘も飲んでしまったことにすればいい。そんなことなら、おじさんが言い訳位しておこうか」
「そこまでは」
「大丈夫だよ。寿君には知らないこともまだあるんだよ」
そうすると、父さんはスマホで誰かに電話をかけ始めた。
「新年あけましておめでとうございます。久し振りだね、元気かい。今年の活躍は期待しているよ。ところで、君の弟君は寿君でいいのかな?」
唐突に寿の名前を切り出した。もしかして……今通話している相手は寿の兄なのだろうか?
「そうか。それなら申し訳ない。実は寿君はうちの長男の高校からの同級生で昨日は飲ませてしまって僕の家に泊めてしまったんだ。今から朝食を食べてから寿君は帰すから彼の事は責めないでくれないだろうか?寿君は下の子達の家庭教師役をしてくれたんだ……創かい、申し訳ないね。明日は朝からかい?大変だね。今年も頑張ってくれよ」
暫く父の一方的な話が続いて通話は終わった。
「えっ?父さん?」
「ああ。実は寿君のお兄さんの大学は僕の母校でね。ひょんなところから去年知り合いになったんだ」
「それって、仕事関係?」
「まあ、そういうこと。彼から寿君の事は聞いたことがなかったから知らなかったことにしておいたよ。もちろん、それは真っ赤な嘘だけど。彼の事を調べれば寿君のこと位は分かるんだけどね」
「おじさん……」
「お兄さんからは寿君の名前は聞いたことはないよ。一度だけ弟がいることを漏らした位だから。ギリギリセーフだよね」
それって本当にセーフなのか?僕が実家に白戸を何度となく連れてきているのに知らなかったで済ませられることはできるのだろうか?」
「まあ、父さんがこれでいいっていうならいいけどさ。一度聞いてもいい?どうしてその大学だったのさ」
「家から近いからな。母さんとのデートの時間の方が重要だったし」
……聞く必要すらなかった。当時の母さんはお試し受験だったはずの隣の区の職員試験を受けたら囲い込まれたんだっけ。まあ、父さんが通った大学というのもマンモス大学だったのと、学力的に相当余裕だったらしい。元々語学が得意だったのと、ジムで必要な資格は二年生までに取得して他学科のゼミ室にも出没した結果、学内推薦で今の商社から内定をもらったという事は知っている。
ただ商社に勤務してからも父さんがエリートコースに乗ることを拒否して少々揉めたらしい。その断った理由も「妻が区役所勤務なので、転勤な望んでいません」ときっぱり。最初に配属された部署こそ内勤だったけれども、気がついたら国内と単身赴任で転々としてからのニューヨーク勤務。そして僕は学園で寮生活をしたから寿や修吾と今でもこうやって付き合っているんだから本当に園とは不思議なものだと思う。。
「ちーちゃん、千紘?」
はっ、ちょっと意識を遠くに飛ばしてしまったようだ。
「大丈夫?」
「今日の買い物は……いいよ。無理しないで」
「でも行かないとカレーはどうするんだ?」
言えにはカレーを作りたくても材料は一切ない。初詣とカレーの材料を買いに行くのが今日の最低限の僕のノルマだろう。
「そうだよね。今日からの福袋……ネットで買うからいいよ」
「紗良が好きなブランドは三日になるけど一つは届くぞ。お兄ちゃんからのお年玉だ」
「ええっ、予約大変じゃなかったの?」
「それはそうだけど……まあいろいろな」
事務所のモデルと採用してくれたアパレルで運よく僕もおこぼれに預かれただけなのだが、妹はそんなことはまだ知らなくてもいい。
「じゃあ、バーゲンの下見をしてもいい?」
「構わないぞ。賢はどうしたい?」
「俺はすぐに欲しいものがある訳じゃないからお金でもいい」
賢が着ている服は僕が着なくなった服で十分らしい。本人もあまり物欲がなく、手がかからないと言うけど、兄としてはちょっとだけ寂しい。
「明日はカレーよね?」
「今更辞めるの?」
「父さんも楽しみなんだが……」
「じゃあ、やっぱり行こうよ。しーちゃんは明日帰ってきてね」
「俺も……またバスケ教えてよ」
「ちーちゃん……俺……いいの?」
「今更だよ。僕のマンションだって普通にいる癖に」
「そっか。じゃあ、おじさん達の提案に乗っかろうかな」
「そうだよ。それでいいよ」
その後はのんびりと元旦の朝を堪能するかのように和やかに雑煮やお節を僕たちは食べた。
「じゃあ明日な?」
「ああ。明日な」
「しーちゃん、またね」
出かける僕たちも一緒に白戸も家を出て、一緒に駅まで歩いた。駅からは僕らは電車で白戸は路線バスに乗る。白戸の実家は私鉄駅が最寄駅なので、僕の家からはバスに乗るのが一番早いという。駅前で僕らは別れ、JRを乗り継いで初詣に向かう神社のある駅に着いた。毎年の事だけど、今年もホームに降りるとすぐに身動きが取れないほどに混雑している。
「ちゃんと傍にいろよ」
「なんでこんなに混んでいるの?」
「文句は言うなよ」
だらだらと進みながら二人は僕に学校の事や部活の事とかを教えてくれる。逆に僕の仕事の事はここでは聞いてこない。正しくは僕というよりは事務所のタレントやモデル達の事だ。事務所ブログには本人のオフィシャルページがあってSNSのアカウントははユニット用の告知用として事務所が管理して、個人のものは一応本人に任せている。ビビットのメンバーは、学校とかラジオ番組とかオフの画像とかもアップしている。樹とふうは日記代わりに使っているようだ。ファンたちの間ではふうのものはお弁当日記、樹のは目覚まし日記と呼んでいる。お昼に食べたものを中心にアップしているふう。年末からは自宅で飼い始めたロシアンブルーの子猫が登場することも増えてきた。学校に行く時は、自分で作っているらしいお弁当。ロケ弁はロケ弁としてしっかりとアップしている。事務所のランチボックスるの時は、使用しているランチボックスをどこで購入したのかと問い合わせがあったという。
(あれは里美さんが頼まれて購入したもので、本人はそこまで把握はしていなかったらしい)僕もメンバー故人のSNSまではチェックはしていない。僕個人の垢運土は澤田ちひろ。あえて名前を平仮名にしてある。フォローも事務所関係と取引先と後は友人たちだ。ツイートは専らプライベート。メンバーにはDM送信。別行動で変更がある時は送ることにしている。
やっと最前列までやってきた僕らは二人にお賽銭を渡した。
「願い事は決まったか?」
「「うん」」
僕を見てにっこりと笑った二人はせえのと声をかけてからエイッと小銭を投げる。緩やかな放物線を描いてチャリンと音を立てて賽銭箱の中に入っていった。
正しい作法をしてからゆっくりと願い事をする。
今年こそは……と意気込んだが、結果的に去年よりはいい年になることを祈ってしまった。
無事に初詣も終わり、僕らは紗良の買い物に付き合うことにした。
「ねえ二人とも。ビルの一階にあるカフェで待っていてもらってもいい?」
「ああ、いいよ。それじゃあ何かあったら連絡しろよ」
「紗良メールでもLINEでもいいそ」
「分かった。行ってくるね」
僕らは紗良に指定されたカフェに行くことにした。
カフェに着くと店内も開いていたのだが、僕たちは外のテラス席に通された。
「なんで外?」
「中の方が暖かいからレディファーストなんだろう?」
「成程ね。ひざ掛けはあった方がいい?」
「足元を冷やさない方がいいぞ。レギュラーが近いんだろ?」
賢は僕がバスケットをやっていたのもあってか、小学校からバスケットを続けている。当時の僕より背も高くてスタミナもあるから、レギュラーポジションを目指している。
「うん、今は控えのチームには入れたからさ。きっともうすぐかな」
「そっか。無茶はするなよ」
「うん」
僕たちは生クリームがたっぷりと乗せられたカフェモカを飲んでいる紗良はコーヒーは甘くないと飲めないが賢はブラック(本当はアメリカンらしいが)で飲めるようになったよと僕に報告してくれた。
そんな二人の成長を見ているのは楽しい。これが自分の子供だったらもっと楽しいのだろうかと自分の未来に思いを巡らせていた。




