2-2 塔から降りた日(2)
怯んではいけない。――バーディーは、持っていたスリングを構えた。弾はアルバトロスからもらってあった。しかし、平坦な訓練場と違って、足場が安定せず、いつものような力が入らない。
「大丈夫だ、お嬢。母ちゃんに任せて」
頭の上から声がした。
アルバトロスは、ナイフを鞘から抜いた。それは山刀といい、料理に使う出刃包丁のようでいて、もっと分厚く、鋭い刃物であった。そして、黒毛熊に向かい、ゆっくりと近づいていった。
それで獣は退くこともあるのだ。彼らとて不要な争いは望まない。
しかし、この熊のようなインビジブルは違った。
姿勢を低くし、アルバトロス目がけて突進してきた。その駆ける速度は凄まじく、悪い足場をものともしない。人間の足で逃げたところで、あっという間に追いつかれることだろう。山歩きに慣れていないバーディーが相手になるものではない。
アルバトロスは、鈍く輝く山刀で素早い突きを放った。
――だめ、腕をやられる!
本能的にバーディーは思った。次の一撃はこちらへ来ると予想し、自らの頭をかばうように腕を上げた。
しかし、それは普通の山刀だったら、の話。
黒い獣と刃がぶつかりあう寸前、青白い火花が散った気がした。獣は、弾かれたように素早く後ろに飛びのいた。一瞬の隙に、アルバトロスは光る小石のつぶてを投げつけた。
石が獣の鼻づらに当たると、石は音もなく弾けて散った。引き換えに、獣の頭の半分を吹き飛ばした。
黒毛の熊は、たまらず道を引き返し、茂みの中へと消えていった。
アルバトロスに怪我はなかった。腕にはかすり傷ひとつ受けていない。しばらくその場で待ってから、長い銀髪をなびかせながら歩き出す。そして後ろのバーディーに声をかけた。
「――と、いうわけでな。塔の外にはこうやって、見えない獣がうろついている。開拓が進まないのもわかるだろ」
我に返ったバーディーは、遅れるまいと歩き出す。これでも、騎士団に入ることを夢見て鍛えていたつもりだったが、実際に目の前で戦いを見ると足がすくんでしまう。
運よく誰も怪我をしなかったが、それはアルバトロスが落ち着いていたからだ。
致命傷を負ったように見えた黒毛の熊も、死んではいなかった。傷が癒えたら、ふたたび出くわすかもしれない。それも怖いことだ。
「あんな獣って、たくさんいるの?」
「この道では、ときどき顔を合わす。もっと大きいのもいる」
「散弾銃を使ったら?」
「あれは使わないにこしたことはない。弾薬が貴重なんだ」
インビジブルの姿が見えているバーディーでも、あれと一人で遭遇していたら、追い払うことも逃げることもできなかっただろう。見ることもできない普通の人間にとってみれば、どうしうようもない。
見えるはずのない獣であるが、アルバトロスには見えているとしか思えない立ち振る舞いであった。子供のころ会ったときにも、そのように感じた。バーディーは訊ねてみた。
「ねえ、アルバトロスは、昼間も見える人なの?」
「……ああ、俺の目はちょっと特殊なやつでな。ネーロもそうだが」
「あたしと同じってこと?」
「バーディーの目とは違うんだ。俺たちは、最初から見えていたわけじゃない」
「生まれつきじゃなくても、見えるようになることがあるの?」
「……まあ、そういう方法もあるってことだ」
ならば、みんながそれをすれば良いのに。せめて騎士団の人間だけでも。――そう言おうとしたが、ネーロが頭の後ろから無言でつついてくる。きっと、今は聞くなと訴えているのだろう、とバーディーは思った。
何より、アルバトロス自身が聞かれたくなさそうな様子なのである。
バーディーは、騎士団を目指して訓練していたおかげで、足腰は強かった。山道にもだんだんと慣れ、隠れ家に到着するころには、アルバトロスの手を借りずに、軽々と歩くことができるようになっていた。
ネーロはずっと頭に乗ったまま、気が向いたときには陽気なおしゃべりをして、気持ちを和ませてくれた。鳥は飛ぶものだとバーディーは考えていたが、乗り物に乗ったほうが楽に移動できるというのは、人と変わらないのだなと思った。
獣道のような細道を行くと、森が開け、四角い建造物が目の前にあらわれた。
外見は直方体の大きな箱である。出入り口らしいスライド式の扉と、ガラスの窓がいくつか見えた。外壁は緑色と茶色のまだら模様に塗装されていて、森に溶け込むような色合いになっている。建物の裏手は傾斜した林になっているが、正面側は木立がまばらで日当たりもよさそうだ。
「あの……まさか、ここが隠れ家?」
隠れ家というから、木々の間にひっそり建っているおんぼろ小屋なのだろう、と想像していた。しかし、それは予想に反して頑強そうで、自然とは不釣り合いの人工的なたたずまいを見せていた。
バーディーが目を見張っていると、ネーロが自慢げに言った。
「なかなか立派だろ? 母ちゃん、これ建てるのに、すんごい苦労したんだぞ。廃塔になってる西塔から、建材パーツと大工作業ロボットを盗んできたんだけど、これがまた大変で――」
「余計な事は言わんでいい! さっさと入れ!」
アルバトロスに急かされて、バーディーとネーロは建物の中へと入っていった。確かに、いつまでも外にいては中央塔の哨戒機に見つかってしまうかもしれない。アルバトロスは最後に入り、周囲を見渡して確認したのちに、扉を閉めた。
「塔よりも狭いし、快適とはいかないが、我慢してくれ――って、あーっ! 靴はここで脱ぐんだよ!」
アルバトロスが気づいたとき、既にバーディーは泥のついた靴でダイニングまで踏み込んでいた。
東塔の住人たちは、裸足で生活するのが普通だ。バーディーは、靴を脱ぐとか履くとかいうことが、よく分からなかったのだ。アルバトロスはあたふたしながら、雑巾を探しまわっていた。
「アルバトロス、ごめん」
「母ちゃん、お嬢は悪くないよ。僕が教えなかったからだ」
バーディーとネーロがしょげているのを見て、アルバトロスは怒る気が失せた。
東塔の中で暮らしてきたということは、知らないことがたくさんあるということだ。この程度のことで苛立っていたら、今後、バーディーの保護者など務まるはずもない。アルバトロス自身が、そのことを一番よくわかっていた。
「床は俺が掃除する。その間、ネーロはバーディーを部屋に案内してやってくれ」
「わかった! お嬢、こっち!」
ネーロはダイニングの奥のほうへ飛んでいった。
物置になっているようで、狩りや山歩きの道具と思しきものが雑然と置いてある。その上に、中二階となったスペースがあり、木のはしごがかけられていた。
「ここ、お嬢のなわばりにしていいって!」
「なわばり――って、あたしの部屋ってこと?」
はしごを使って中二階に登ってみた。
床は頑丈な木材で作られている。二人や三人程度が乗ったところでびくともしないだろう。床面積は案外広く、布団を敷いたとしてもまだ余る。簡素な寝具があり、他には大きな木箱が置かれていた。
ネーロに促されて木箱をあけてみると、女性用の衣服が入っていた。
天井からは大きな布が垂れさがり、横方向にスライドして動かせるようになっていた。目いっぱい大きく広げると、中二階をすっぽり覆い隠すことができる。年頃の女の子が着替えをする際にも困らないように、との配慮がされていた。
「この布を吊り下げる仕掛け――カーテン、っていったっけ? 母ちゃんが自分でつくったんだ」
「そんなことまでしてくれたの? あたしのため?」
「そりゃそうさ。お嬢の喜ぶ顔を見られるならね。――って、あれっ? 僕の止まり木もつけておいてくれって頼んだのに、やってないじゃん! もう!」
ネーロは、黙々と床掃除をしているアルバトロスの背中めがけて、すいっと飛んでいった。そして、自分の要求が満たされなかったことについて、延々と文句を言っていた。アルバトロスはうんざりした様子だ。
「ああもう! わかってるって! 枝は用意してあるけど、明日までは日に当てなきゃならん」
「ええー」
「どのみち、もうすぐ陽が沈む時間だ。今日はあきらめろ」
ネーロはしぶしぶ引き下がり、バーディーのところへ戻ってきた。
その後、アルバトロスは食事の用意に取り掛かった。バーディーが手伝いを申し出ると、アルバトロスは照れくさそうな顔をしていた。
夕食は、運よく獲れたという、イノシシの肉と根菜の鍋だ。バーディーの知らない、さわやかな香りの山草が入っている。アルバトロスが持ち歩いている猟銃は、こういった大型の獲物を狩るときに使っているのだという。
ネーロは、滅多にないご馳走だと言いながら、生肉を千切ってはおいしそうに飲み込んでいた。
イノシシ鍋は、塔では食べたことのないような、芳醇な味わいだった。やや脂っこいのは気になったものの、体からエネルギーが湧いてくるような感じがした。
使い慣れない箸の扱いに苦戦しながら、バーディーはアルバトロスに、ずっと引っかかっていたことを訊ねた。
「あ、あの……。アルバトロスは、どうしてあたしを助けてくれるの?」
アルバトロスの箸がぴたりと止まる。
ネーロですら、肉をむしるのをやめて、顔をあげてこちらを見ていた。何かまずいことを聞いてしまったのだろうか、と、バーディーは不安になった。
「――いや、そうだよな。俺だけが納得していてもだめだよな」
アルバトロスは箸を置き、背筋を伸ばしてバーディーのほうへ向きなおった。そして意を決したように、笑みを浮かべながら言った。
「バーディーは、今日から俺の娘になるからだ!」
ネーロは嘴をあんぐりと開き、くわえていた肉を取り落とした。
バーディーは、さすがに箸を落としたりはしなかったが、声も出せず硬直していた。空気を察したアルバトロスが、焦った様子でその場を取り繕う。
「……あ、いやいや。そのくらい責任を持って面倒を見る覚悟だ、って言いたかったんだ! べ、別に変な目的で連れてきたわけじゃないぞ!」
ネーロが呆れた様子で口を挟む。
「母ちゃん……。今はいちおう女の姿をしているんだから、それはやぶへびって言うんじゃないの」
「はっ、そうか! ――というか、お前も『いちおう』とか言うな!」
バーディーの見る限りでは、いまのアルバトロスは女性である。
身長は高めで、筋肉質で、喋り方も男のようだったが、ふくよかな胸や細い指、長い睫毛は、女性であることを明確に示していた。エプロンをしめて夕食の支度をする様子は、育ての母親である師走一子を彷彿とさせるものだった。
「ねえ、アルバトロスは何者なの? やっぱり、本当は男の人なの?」
バーディーがそう言うと、アルバトロスとネーロは顔を見合わせた。あのとき、塔の上で出会った幼い少女は、もう子供だましがきかない年齢まで成長していたのだ。
話さなくてはならない。アルバトロスは意を決した。
「――もう少しあとで説明するつもりだったんだが。バーディーも、もう子供じゃないんだったな。知る権利もあるだろう。まあ、食いながら聞いてくれ」
アルバトロスは、玉杓子で鍋をすくって自分の椀に入れた。バーディーのほうへ持ち手をよこし、食べるようにすすめながら、自分も椀の汁を飲んでいた。
生肉を平らげてしまったネーロは、室内の物干し用らしき竹竿の上に飛び乗った。