1-7 自由の空へ
東塔の屋上で、晴れ姿を披露していたはずの神無月十子、もといバーディーは、アラームを鳴らした蜘蛛玉に取り囲まれ、塔の縁まで追い詰められていた。
窮地を脱するためには、いとも簡単である。中央塔の誰かに嫁ぐことを宣言すれば良いだけだ。
しかし、奔放で強情な性格の彼女にとって、それはたやすい話ではない。
「ごめんね皐月先生! あたし、結婚なんてしたくないの!」
「十子、意地を張ったって仕方がないんだぞ! 断ったとして、そのあと一体どうするつもりなんだ!」
かつての恩師であり、現在の塔長である皐月五郎も、気が気ではない。
無理もない話である。下級民の少女が、中央塔の命令に従わなかったとしたらどうなることか。少なくとも反逆罪だ。おそらく、皐月五郎も責任を問われる羽目になるだろう。
それ以前に、彼女は既に蜘蛛玉に囲まれている。電気ショックで失神させられ、強制連行されてしまうかもしれない。
このとき皐月五郎は、ある疑念を抱いていた。
――おかしい。神無月十子がいくら無鉄砲とはいえ、そのくらいのことを想像できないはすがない。何よりあの子は、人に迷惑をかけてまで自分の勝手を通すような娘だっただろうか?
皐月五郎は周囲を見渡し、育ての親である師走一子の姿を探した。彼女のほうはすぐに見つかった。加えてもう一人、ここにいるべき少年の姿も。
――やはり奇妙だ。こんな事態なのに、師走一子の表情には余裕がある。……それに、長月三十日はどこだ? 十子の幼馴染で親しい友人のはずだが――まさか、参列していないのか?
しびれを切らした蜘蛛玉が、態勢を低くした。
いままさに、命令違反の少女に飛びかかろうとしたとき――鋭い音と同時に、蜘蛛は弾かれたように跳ね上がり、その場に落ちてひっくり返った。
けたたましい警報音が鳴り響く。しかし、何が起こっているのか、誰にも分からなかった。
やや間を置いて、二体目の蜘蛛がひっくり返る。そして、三体目も。
『緊急事態! インビジブルによる襲撃と判断。住民は指示に従い避難せよ!』
『哨戒機〈ビー〉出動。周辺警戒レベルを引き上げる』
観衆から大きな悲鳴が上がった。
インビジブルという言葉を聞いたためだ。塔の保安システムは、このあたりにインビジブルがいて、攻撃してきていると判断したのだ。実際、蜘蛛玉が見えない何かに弾き飛ばされたのだ。
参列者たちは、わめきながら我先にと階段へ駆けこんでいく。会場は大混乱だ。
騒ぎの中、人の波をかき分けながら、一人の少年が姿を現した。真っ白な、下級民にしては精いっぱい上等なジャケットを羽織った、赤毛の少年である。
彼はその手にスリングを持ったまま、少女へ向かって呼びかけた。
「おおい、十子! 何もたもたしてんだよ」
「なによ! 三十日こそ、ずいぶん遅かったじゃない!」
長月三十日はスリングを引き絞り、弾を放った――ような動作をした。しかし、弾は出ない。何も起こらない。もう一度、おなじ動きをする。ガチン! と鋭い音がして、また一体の蜘蛛玉がひっくり返った。
「さすがに十子のように、百発百中とはいかないな」
「じゅうぶん上出来よ!」
二人のやりとりを聞いて、皐月五郎は理解した。
蜘蛛玉に攻撃を仕掛けておきながら、インビジブルのしわざに見せかけている方法だ。長月三十日は、監視カメラにさえ見えない弾を撃っているのだ。
――そうだった。あいつらは子供の頃から、どこかから見えない石ころを集めてきて、投げていたずらしていたっけ。
十六歳になったとはいえ、何も変わらない、やんちゃ坊主とおてんば娘。
おごそかな式典を台無しにされておきながら、皐月五郎は、不思議と微笑ましく思っていた。
子供たちの健やかな成長を祈りながらも、ささやかな権力の座につき、中央塔の手足となっている自分と比べたら、なんと健全に成長したことか。
外壁に貼りついていた、プロペラ付きの小型監視機『ビー』が飛んできた。図体の大きな羽虫のように動きが緩慢なので、長月三十日は難なく撃ち落とした。
「――っていうか、十子! なんでお前が一体も仕留めてないわけ?」
「わ、忘れたのよ! 弾を」
「ああ、そうなんだ……」
さして驚きもせず、長月三十日はため息をついた。彼女がそそっかしいのは、今に始まったことではなかったのだ。
蜘蛛玉たちの警戒は、皐月五郎でもバーディーでも、更には長月三十日でもなく、見えない敵に向けられていた。屋内で眠っていたほかの蜘蛛玉たちも集まってきて、あたりは騒然としていた。
「皆、落ち着いて! 大丈夫だ! 怪我をしないように、順番に塔の中へ入って!」
混乱を極める会場で、皐月五郎が声を張り上げていたときだった。空から、飛来するものがあった。
巨大な鳥だ。それも、白い鳥と真っ黒い鳥の二羽。
皆が逃げることに夢中だったので、それらの接近に気づいた者は少なかった。
――虫ども、静かにしてな。いいから寝てろ――
長月三十日は、空からそんな声を聞いた気がした。
見上げると、二羽の巨大な鳥が、まさに頭上すれすれをかすめるところだった。特に黒い鳥は大きい。両の翼を広げたまま上に差し掛かると、分厚い雨雲が天を覆ったかのように視界が暗くなった。
過ぎ去ると同時に強風が巻き起こる。人々は悲鳴をあげた。
長月三十日は、とっさに頭をかばい伏せていた。しかし、二羽の巨鳥は、そのまま引き返すことなく、飛び去って行ってしまった。
まるで嵐が去った後のようだった。
保安システムの警報は停止し、蜘蛛玉たちは元の位置に転がって戻っていった。逃げ遅れていた人々は、狐につままれたように立ちすくんでいた。
いったい、今の騒ぎは何だったのか――人々は首を傾げながら、顔見知り同士で話し合っていた。そんな中で、重大な異変に気付いたのは、皐月塔長だった。
「な、なんと! ――十子はどこだ? 神無月十子がいない!」
屋上はふたたび騒がしくなった。
人々は消えた花嫁の姿を探し回った。屋上にも、下の階の展望台にもいなかった。外壁から下を覗きこんでいる者もいたが、いるはずもない。しまいには、皐月五郎が蜘蛛玉に依頼し、塔の内部を捜索させた。しかし、さっぱり見つからない。
師走一子と長月三十日だけが、人知れず微笑んでいた。
「ああ、困ったことになった。中央塔から迎えのヘリコプターが来てしまうぞ……」
皐月五郎は真っ青になっていた。
本日、花嫁として『神無月十子』を引き渡すということは、中央塔からの絶対命令であったのだ。塔長である皐月五郎が責任を問われることは間違いない。
それよりも、心配なのは逃亡した花嫁のほうだ。どんな手品を使ったのかは分からないが、中央塔が黙って見逃すはずもない。反逆者として追われる身となるだろう。
――ああ、あのおてんば娘め。自由奔放に生きようなどと、この世界では無謀だぞ。
頭を抱える皐月五郎の肩を、ぽんぽんと叩く者があった。
振り向くと、長月三十日が晴れやかな笑顔で立っている。そして言った。
「皐月先生、中央塔には俺が行くよ。いちおう『目』も持ってるし、あちら様だって、たまには花婿も欲しいかもしれないだろ?」
まあ、それなら辛うじて、塔長としての面目も立つかもしれないが――。
皐月五郎は大きくため息をついてから、うつむいていた顔を上げた。ヘリコプターが飛んでくるのが遠くに小さく見えた。もうじきここへやってくる。あれこれと考えている暇もなさそうだ。
「もはや、やむを得ないな。中央塔側がなんと言うかは知らないが――」
皐月五郎は、予定を変更して長月三十日を推薦することを決めた。
神無月十子が逃げたのは確かであるが、不可抗力であった。最悪でも、自分が極刑に処されたりはするまい。――いや、それならそれで構わない。
このようなコンクリートの塔で暮らしていても、自分の育てた少年少女たちは、自らの意志で未来を選択し、希望を見出すことができるのだ。なんと喜ばしいことか。
塔を渡る風に吹かれながら、皐月五郎と長月三十日は、一緒にヘリコプターの到着を待った。神無月十子と呼ばれていた少女にまつわる昔話をしながら、もと教師とその生徒は、おそらく久しぶりに、心から笑い合っていた。
音とともにヘリコプターが近づいてくる。
塔の上の二人の心は晴れていた。まるで、この六月の爽やかな青空のように。
〈第一話 おわり〉