1-6 番号の無い少女(5)
急速に大地が近づき、もうだめだと思ったときだ。
いつのまにか、風を切って滑るように飛んでいた。少女を抱えていた女の腕は、するどい爪がついた爬虫類の足のように変わっていた。
眼下には森林が広がっている。
しかし、危なかった。もう少し落ちていたら、背の高い針葉樹に衝突していたかもしれない。
斜め前方では、さっきのカラスが先導するように飛びながら叫んでいた。
「高度が落ちるよ! 不時着しなよ!」
「だめだ、降りたら二度と上がれん!」
少女を抱えている大きなものが、そう答えた。
おそるおそる目線を動かし、上のほうを見た。大きく広がった白い翼が、少女の頭上を覆っている。前方には、先がまがった鋭いくちばしが見えた。そして、自分自身の体は、鳥の足につかまれている。
――きっと、塔の上から見た白い鳥に抱えられているんだ!
信じ難いが、ほかに説明がつかない。
さっきの女が白い鳥の正体だったとすれば――女には余裕がなさそうだ。塔から下降する際に、かろうじて風をとらえて滑り下りているというだけで、このままではいずれ失速して墜落するか、樹木と衝突してしまうだろう。
カラスのほうも懸命に羽ばたいている。
白い鳥は、おもりを抱えているぶんスピードがついている。それについていくのは容易な話ではない。そして、鳥の足につかまれた少女には、何をどうすることもできない。
離されかけながら、カラスは大声で叫んだ。
「左に向かって、ゆっくり! 稜線の上にトビ野郎が舞ってるから!」
「しめた、上昇気流だな……!」
白い鳥は緩やかに方向を変えた。カラスはくたびれたのか、一気に引き離されてしまった。ここで舵取りを間違えば、下降を待たずにバランスを崩して墜落するだろう。
まもなく、丘陵地に差し掛かった。白い鳥は、稜線をなぞるように一回りすると、帆翔するトビの後についた。すると、羽ばたかずともどんどん上昇していく。気流をとらえたのだ。
「ふいー。これでひと安心だ、お嬢さん」
白い鳥の声を聞いて、少女は、やっと窮地を脱したらしいことに気が付いた。
眼下には、木々の茂った山々。頂上のあたりは紅葉が始まっていて、黄色に色づいている。山裾には、アシの茂った広大な湿地帯が見える。その中を大きな川が蛇行しながら流れ、さらに海へと注いでいる。
「――すごーい! 鳥になったみたい」
「へえ、怖くないのか?」
「落っこちたときは怖かったけど、もう大丈夫なんでしょ?」
「それはそうだけど、俺のことが怖くないのかな、って。――まあ、いいや」
きらきらした泡のようなものが連なって漂っている。野生のカゼクラゲたちだ。風に乗り、どこまで行くつもりなのか、はるか高くまで吹きあげられていってしまった。
空飛ぶウミヘビは、川の上あたりに数匹集まって、お互いをかすめるように飛び回っている。小競り合いをしているようにも、じゃれて遊んでいるようにも見えた。
「お嬢さん――ええと、さっき名前を聞いたんだったな。何だったっけ」
「あれは名前じゃない。ただの番号だもん」
「東塔の中じゃそうだろうな。よし、俺が名前を考えてやる! ――『バーディー』なんてどうだ? 小鳥っていう意味なんだが」
「『バーディー』? なんか変なの! お姉さんの名前はなんていうの?」
「俺は『アルバトロス』だ。意味は――」
そのとき、背後から、笛のような鳴き声が聞こえた。少女は後ろを見ようとしたが、あまり体をひねることもできない。いつのまにか、二、三羽のトビが並走するように飛んでいる。
後ろのほうから、さきほどのカラスが猛スピードで飛んできて、そのトビのうちの一羽に蹴りを入れた。トビは、いかつい風貌に似合わない細い声でピーピー鳴いた。続けて、二度、三度と空中で踏んづけながら、カラスは叫んだ。
「トビ野郎どもに狙われてるよ! お嬢ちゃんを、獲物だと思ってるみたい!」
「あらら、残念。のんびりしていられないな」
白い鳥は旋回コースを外れ、どこかを目指すように一直線に飛び始めた。
トビは、どこからともなく集まってきて、いつのまにか数を増やしていた。本当に少女を横取りしたいのか、近くにまとわりついてくる。カラスは片っ端からトビに蹴りを入れていくが、体格が違いすぎて、たいした痛手にはなっていないようだ。
アルバトロスはうんざりした様子で言った。
「うっとうしい奴らだなあ」
「もうちょっとの辛抱だよ! ほら――この下はもう僕らの森だから!」
少女が何のことかと思っていると、物音を聞きつけた森のカラスたちが、いっせいに飛び出してきた。そして、アルバトロスたちを追い回していたトビたちを目がけて、次々と襲い掛かかる。
トビたちはたまらず、ピーピー鳴きながら周囲から離れていった。
「ねえ、あのカラスたち大丈夫かな? トビにやられたりしない?」
少女は心配になって訊ねた。猛禽類であるトビが本気で戦えば、カラスに負けることなどないだろう。お喋りカラスが返事をした。
「あいつらは、ねぐら森の哨戒部隊さ。ああやって、タカ属の連中が来たら嫌がらせして追っ払うのが仕事なの。お互いに慣れたもんで、怪我しない程度で終わるから平気さ」
時々は打ちどころが悪くて、失神したまま落ちて死ぬ奴もいるけど――と、言おうとしたが、やめて正解だった。そんなことを口に出していたら、少女の不安をあおるだけだったろう。話を続けなかったのは、目的地が近づいていたからだ。
アルバトロスは、さきほど飛び立った東塔の屋上に舞い降りた。
尾羽と左右の翼をいっぱいに広げて、ブレーキをかけたものの、勢いをじゅうぶんに殺すことはできなかった。少女は屋上に足をつけたが、そのまま前のめりになっていって、転んでしまった。
「きゃあ!」
「うわっと――悪い、大丈夫か?」
少女が振り向くと、白い鳥はいつのまにか人間の男の姿に変わっていた。黒い髪の、筋肉質で精悍な大人の男だ。
しかし、それはほんの一瞬のこと。少女が見上げているうちに、その姿はふたたび銀髪の女性へと変化してしまった。
女にしては逞しい体つきだ。さきほど、軽々と少女を持ち上げていただけのことはある。豊満な胸に対し、腰は細く締まっている。少女は、自分が転倒して膝を打ち付けてしまったことなど忘れ、呆然と見つめていた。
アルバトロスは、転んだ少女を心配して駆け寄った。
「どこも怪我してないか?」
「――ねえ、アルバトロスは男の人なの? それとも、本当は鳥なの?」
カラスが一声、大きく鳴いた。
アルバトロスは、目を丸くして、助けを求めるように相棒のカラスを見た。知らぬ、というようにカラスはそっぽを向く。
あきらめたのか、アルバトロスは少女に向きなおり言った。
「えーと、困ったな。俺は完全に女に見えてなきゃマズいんだわ。あっ、今の内緒な」
「じゃあ、やっぱり男の人なのね?」
「いや、その。――お嬢さんには、俺がどう見えてんの?」
「飛んでるときは大きな鳥で、着地したら男の人になって。――でも、すぐに髪の長いお姉さんになった」
「ふーむ。鳥はいいんだが、その、変身の合間に男に見えるっつーのが奇妙だな……」
アルバトロスは、ふたたびカラスに視線を送った。発言を促され、カラスは迷いながら渋々口を開く。
「仕方ないな。――ほら、あれだよ。この子は『目』を持ってる。もしかしたら昼間でも――」
「まさかだろ? いや……」
アルバトロスは言いかけてやめた。代わりに、ポケットを探り何かを取り出した。虹色に輝く、小さな真ん丸の球体だ。
「これが見えるか、お嬢さん」
「きれい! ――もしかしてこれ、インビジブルの化石? こんなに光ってて真ん丸なの、初めて見た!」
ほらね、とでも言いたげに、カラスはガァと一声ないた。
普通の人間に、この石が見えるはずもない。アルバトロスは驚いたが、すぐに睫毛を伏せ、悲し気にうつむいた。そんなことには気づかず、少女はご機嫌になり、自分のポケットをがさごそと探りはじめた。
「あたしも少しは持ってるの!」
少女はポケットから、インビジブルの小石をひとつ取り出した。アルバトロスが差し出したものよりは小さく、形もいびつだ。
それを見ていたカラスが言った。
「お嬢ちゃんのは、まだ結晶化してない破片だね。それ、どこで採れたんだい」
「どこって――塔の中よ。あたしたち、他に行けないもの」
「塔の中に、そんなに大きなやつが落ちてるの?」
「えーとね。落ちてるときは、もっとずーっと小さいの。そういうのを拾ってきたり、羽虫が採れたりしたときに、お皿に乗せて部屋のどこかに置いておくのよ。すると、少しずつ大きくなるの」
へぇー、と、カラスが感嘆の声を漏らした。
いっぽう、アルバトロスは渋い顔をして頭をがりがり掻いている。カラスはアルバトロスの肩に乗り、興奮した様子でしゃべり始めた。
「母ちゃん、いまの聞いた? このお嬢ちゃん才能あるよ! 連れてって仲間にしようよ!」
「そ、そんなの駄目だろ! 人さらいかよ」
もしかしたら、アルバトロスは開拓騎士団の人間かもしれない――少女はそう思った。少なくとも、東塔にこんな人物がいるなどとは聞いたことがないし、中央塔の人間と同じ小型端末を装着している。それに、視察係の凪美由紀とは雰囲気がまったく違うからだ。
「ねえ、アルバトロスは騎士団の人? あたし、騎士団に入れると思う?」
「騎士団……?」
アルバトロスは、不思議そうな顔で訊ねた。
少女は、ここ最近の出来事を話した。
中央塔から視察の女性がやってきたこと。二つ目のテストで失敗したこと。なぜか、長月三十日を怒らせてしまったことも話してしまった。
二人が話しているあいだ、屋上の蜘蛛玉たちは、ずっと大人しくしていた。さきほど鳴ったアラームのことも、とうにやり過ごしてしまったのか、そこに塔長たちが駆けつけることもなかった。
「――ねえ、アルバトロス。『目』を持っている女の子は、中央塔にお嫁に呼ばれるって本当?」
「うーん……。今までは、大体そうだったな。――あ、俺は中央塔の者でも、騎士団の人間でもないんだ。噂で聞いただけだ」
――相変わらず、嘘が下手だねえ。
カラスが小声でそう言った。アルバトロスにだけは聞こえたようで、むきになって拳を振り回していた。すばしっこいカラスは、ジャンプで難なく身をかわした。
少女はすっかり落ち込んでしまった。
「あたし、頑張っても騎士団に入れないのかな? お嫁さんになるしかないの?」
「そんなに悲しい顔をすんな、バーディー」
落胆している少女の頭をアルバトロスが撫でた。その時、アルバトロスには一つの考えが浮かんでいた。
――もしも、この子が本当に「そう」だったとしたら、自分に出来ることがあるのではないか。いや、「そう」でなくても構わないんじゃないか。
使命感というよりは、自然に生まれた答えだった。
「なあバーディー、良く聞いてくれ。――もしもだ、きみが十六歳になったときにも結婚が嫌だったら、俺が迎えにきてやる! さっきみたいに飛んで逃げれば、中央塔のやつらも追いつけまい」
少女は、未来に希望の光が差したように感じた。
アルバトロスの正体は分からないが、少なくとも、きのう会った中央塔の凪美由紀よりは、信じられると思った。人としての温かみが感じられる気がするのだ。
「それなら、お嫁に行かなくてもいいかもね。 ――でも、騎士団は?」
「すぐには無理かもしれないが、騎士団には俺の知り合いがいる。きっと何とかできる」
少女はアルバトロスの目をじいっと見た。
どこか懐かしい気がする、まっすぐな眼差しだった。師走一子や、皐月五郎のように、少女をいつも心配してくれる大人たちと同じ、優しい瞳だった。
「ほんと? 絶対に? ――じゃあ、どうやってアルバトロスに合図をすればいいの?」
「仮の結婚式は、ここ――塔の屋上と決まっているんだ。盛大なイベントになるから、俺だって見逃しはしない。
結婚式のとき俺の姿が見えたら、ブーケかヴェール――まあ、ドレスでもなんでもいい。俺が見えるようなものを、空に向かって放り投げろ。それを合図にしよう」
「わかった。忘れないでよ!」
「約束するよ」
アルバトロスは、少女と指切り――古くから伝わる、約束の儀式らしい――をしてから、現れたときと同じように、塔から飛び立っていった。お喋りカラスも後をついていった。
少女は手を振りながら、飛び去っていく白い鳥を見送った。
「どう思う、ネーロ。あの子のこと」
森の上を飛びながら、アルバトロスは並行して羽ばたくカラスに訊ねた。少女に見せた穏やかな表情はとうに消え去り、深刻な顔つきになっていた。
「――ひとつ確実に言えるのは、あのお嬢ちゃん、『第二次環境適応者』だね」
「やっぱりか」
「それ以外に考えられないよ。母ちゃんを男だって見抜いてたし、太陽光の下で結晶が見えてた」
「凪美由紀は気づいただろうか」
「わかんないよ。でも、たぶんね」
アルバトロスは無言になった。
いつもなら、それぞれの塔の上空を巡回したあとで、隠れ家に戻るというのがお決まりのフライトコースだった。しかし、今日のアルバトロスはそのような気分ではない。
丘のあたりで上昇気流に乗り、昇れるだけ昇ると、海へ向かって滑空をはじめた。
ネーロは自分からは何も聞かず、ただあとをついていった。
「それに、あのペンダントのことだ。瑠璃石がついたウィングフィルターなんて、この世界にふたつとあるまい。年齢から考えても、あの子は……」
「――でも、おかしいよ。決めつけないほうがいいと思うよ」
海の上を飛ぶと、カモメたちがからかうように付きまとってきた。アルバトロスは、また陸側へ方向を変えた。切り立った断崖へ向かって飛ぶと、崖を吹きあがり急上昇する風に乗った。
「確かめなきゃな。まだ時間はある」
アルバトロスはつぶやいた。そして、そのまま西塔の方角へと飛び去っていった。