1-5 番号の無い少女(4)
翌日は、普段通りに、皐月五郎の授業へ出席した。
いつもなら、少女と長月三十日は、あいさつの他に最低ひと言くらいは言葉を交わすのが常だった。
しかし、お互いに目を合わせることすら出来なかった。長月三十日はふくれっ面をしていたし、少女はよほど泣いたのか、まぶたを腫らしていた。
心配した級友がそれぞれに声をかけたが、二人とも浮かない顔のまま、曖昧な返事をするばかりだった。
皐月五郎が現れて、いままでナンバーレスだった少女の名前が、神無月十子になったということを皆に告げた。その後は普通の授業が始まった。
昨日の視察の結果がどうだったのかということは、まったく教えられなかった。
授業が終わると、スリングか棒術の練習をするのが日課だった。
しかし、長月三十日と顔を会わせることを思うと、どうしても行く気になれなかった。
少女は、ただひたすら階段を昇っていた。
上の階に行くにつれ、ときどき窓がある。五十七階の踊り場までやってきた時、少女は一度立ち止まり、呼吸を整えた。背丈より高いところの小窓から、外の光が差し込んでいた。
目の前をふわふわと、虹色の小さな虫が飛んでいる。
少女は、首から下げているレンズのことを思い出した。
それは不思議なレンズだった。楕円形で、銀色のフレームがついており、チェーンで首から下げられるようになっている。ちょっと風変わりなペンダントと表現することもできるだろう。
鎖の途中に、青いかざり石がついている。それだけは綺麗なので少女のお気に入りだ。
このレンズを通すと、何故かは知らないが、インビジブルが見えなくなるのだ。少女の場合、普通の人間が視認できる世界を見ることができる、唯一の方法であった。
レンズ越しに前を見ると、さっきの羽虫が消えていた。レンズをずらして裸眼で見ると、また姿を現す。
つまり、この羽虫は、普通の人には見えていないという事だ。
幼少の頃から、この奇妙なレンズは手元にあった。
しかし、少女が何故これを持っているのか、人に与えられたのか、それについては誰も教えてくれなかった。
長月三十日もそういうのを持っているのかと思いきや、彼は持っていないと言う。師走一子は、このレンズはお守りだから、常に持ち歩くようにと言っていた。だが、少女にはその理由も出所もまったくわからず、納得できなかったため、家に置きっぱなしになっていた。
なんといっても、活発な少女にとっては、邪魔くさいばかりだ。
何も悪いことなどしていないのに、どうして、わざわざ『普通の子』に合わせなくてはいけないのか。――そう考えていたが、長月三十日を怒らせてしまったことを思い出し、少女は自分の考えが正しくなかったことに気づいた。
人と違うということは、他人から色々な感情を向けられるということだ。
長月三十日は、少女の才能に嫉妬していた。その三十日だって、周囲の普通の子たちからは嫉妬されているのかもしれなかった。彼もまた孤独であるのかもしれない。
少女はレンズを首に下げ、ふたたび駆けだした。
五十八階、五十九階……。何かを振り払うように、夢中で走った。
六十階。
ついに、最上階に到着した。
この階には、住居も生活関連施設もない。普段は、一般の住人が立ち入る区画ではなかった。ほとんどのフロアが立ち入り禁止であり、施錠されている。噂では、塔長の住居がどこかにあるのだというくらいだ。
しかし、少女は知っていた。ただ一つだけ、入れる場所があるかもしれない。
「展望台」だ。
少女は、重いすりガラスの扉に手をかけて押した。ゆっくりと扉が開く。
そこは壁一面がガラス張りになったフロアだった。備え付けの双眼鏡が、間隔をあけて三台設置されている。床はタイル張りで、ぴかぴかに磨かれていた。
この場所には、初めて夜空を泳ぐウミヘビを見た日から、わけのわからないまま何度も呼び出された。
塔長の補佐官がじきじきに迎えにやってきて、エレベーターで昇ったものだ。それはいつも決まって夜だった。ある日は、立派な洋服を着た偉そうな人が立ち会っていたこともあった。今にして思うと、きっと中央塔の人間だったのだろう。
そして、外の景色を見せられて、このように訊ねられるのである。――何か生き物が見えるかい? と。
何かいる日もあったし、特にいない日もあった。
ある時、窓に黒いオオトカゲが貼りついていて、それを大人たちに告げたところ、屋上のほうから色付きの霧が降ってきた。驚いたトカゲは、走って視界の外へ出ていった。
窓ガラスには、染め残されたトカゲの形が残っていた。
――こいつの『目』は本物だぞ。
大人たちはそのように言った。その日を境に、突然の呼び出しは減っていった。
展望台から見える外の世界は、よく晴れていた。青い空がまぶしい。
魚の形をしたインビジブルたちが、数十匹の群れになり、塔の周囲を旋回していた。レンズなしで遠目にみたならば、カワラバトやムクドリの群れにそっくりで、両者を区別するのは難しい。
魚の群れが、突然ぱっと散開し、そこらに散り散りになった。
塔のてっぺんから、もっと大きいインビジブルが飛び降りてきたのだ。サメのような姿だ。
きっと、小さな魚たちを捕食しようとしているのだろう。その狩りのやり方は、小鳥の群れを高所から狙うハヤブサにそっくりだ。
「カワラバト」「サメ」「ハヤブサ」……。
自分が見たものを大人たちに説明するために、少女は最初の地球時代の動画データをたくさん鑑賞し、勉強した。
しかし、その例えが通じるのはせいぜい皐月五郎くらい。師走一子はかろうじて下層の窓からハトを見たことがあるくらいで、結局は説明に苦労する羽目になった。
そう――この塔にもハトは住み着いている。古い映像データのカワラバトにそっくりだった。
どうして、遥か遠い世界であるはずのオールド・アースの生き物たちが、この土地にいるのか。少女はそのことを、皐月五郎に訊ねてみたことがある。すると、意味ありげに微笑んで、こう答えたのだった。
――それを教えるのは禁忌ではない。きっと蜘蛛玉も見逃してくれるだろう。けれど、ナンバーレス。もう少し大人になるまでの間、自分で考えてみたらどうかな?
……じゃあ、ヒントだけ。中央塔の方々はこの世界を、新しい古き地球と呼んでいるよ。
眼下に広がる森と荒野、その向こうにそびえる青い山々を眺めて、少女はぼんやりと考えていた。
――新しく古い、って、どういう意味だろう。
ふと、背後から風の流れを感じた。
振り返ると、フロアの隅に光が差しこんでいる。近寄ってみると、柱の陰になっているところに、上に通じる小さな階段があった。四角く開いた天井の穴から青い空が見える。
――こんなところに、屋上への抜け道があったなんて。
少女はこの展望台に何度も訪れているが、階段の存在に気が付いたのは初めてだった。おそらく、普段は閉鎖されているのだろう。
階段の一段目に足を乗せてみた。壁の蜘蛛玉は何も反応しない。
思い切って、二段目、三段目……と、歩を進めてみる。蜘蛛玉はびくともせず、警報も鳴らなかった。
昇りきると、そこは屋上だった。
頬に風があたり、毛先の跳ね返った黒髪がなびく。日の光が暖かい。
屋上は、周りに低い塀があるだけの、だだっ広くて平らなところだった。さきほど見たサメの片割れなのか、大きなインビジブルの魚が一匹いたが、少女に気づくと塀の外へ姿を消してしまった。
あとは何もいない。強いていうなら、蜘蛛玉が数個見えた。
ぐるりと周囲を見まわしてみる。
遠くにそびえている白灰色の建物は、中央塔だ。そばに寄り添うようにして、もっと背の低い建物がいくつか固まっている。先程の展望台からは、死角になっていたのだ。南塔と北塔も見えたが、距離が遠いのでもっと小さく感じられた。
あとは荒野と森林が広がっている。その他の建造物の存在や、人の暮らしている気配は見て取れなかった。
はるか向こうの青い海を眺めていると、周囲を飛ぶものがあることに気が付いた。
白い大きな鳥が、この塔を軸にして旋回するように飛んでいる。
長い翼を一切羽ばたかせず、風に乗り帆翔している。その後を追うように、小さな黒い鳥――カラスが一羽。
しかし、白い鳥は空を飛ぶ鳥にしては大きすぎるし、黒い鳥も普通のカラスではなさそうだ。
「インビジブル、かな?」
少女は目にレンズを当ててみた。二羽とも見えている。インビジブルではないようだ。
大きな白い鳥は、ゆっくりとした旋回をやめ、こちらへ向きを変えたようだった。翼を広げた長さは、大人がふたり並んで両手を広げたよりも長いかもしれない。
巨大な鳥はあっという間に近づいてきて、少女のすぐ目の前で、その翼と尾羽を大きく開いた。風が激しく渦を巻く。
「きゃあっ!」
少女はその場にしゃがみ込んだ。
強烈な蹴りを食らうか、足でつかまれて捕食されるか――そう思った。怖くて目を閉じた。しかし、風はすぐに収まり、翼でさえぎられていた陽光がふたたび感じられた。
おそるおそる目を開けてみると、そこに巨鳥はいなくなっていた。代わりに、一人の男性が立っている。逆光のせいで、その表情はよく見えない。
少女は座りこんだまま、声も出せずにいた。
男は、すこし申し訳なさそうな様子で、少女へ手を差し伸べた。
「ごめんな、お嬢ちゃん。怪我しなかったか?」
「――え? あれっ?」
光に目が慣れてくると、たったいま男だと思った人間は、女になっていた。
頭の後ろで束ねられた長い銀髪。腕と足は筋肉質だが、細く締まっていて、体のラインは女性らしくしなやかだ。それに、広く開いた襟元から覗く、豊満な胸の谷間。
誰がどう見ても女性だと言うだろう。
念のため、レンズを通してもう一度見た。やはり女性に見える。しかし妙だと思った。さきほどは顔もよく見えないのに男性だと思ったのに。
「お姉さん、いったい誰? それとも、男の人なの?」
「――え? それって、まさか俺のこと?」
銀髪の女性は、目を見開いてぽかんと口を開けている。まるで男のような口のききかたであったが、それでいて男と間違われるのは心外な様子であった。
その女性は、少女に興味を持ったのか、じろじろと観察し始めた。
「お嬢さん、きみの名前は」
「ナンバーレス――あっ、間違えました! 神無月……十子だったかな」
「……? 歳は?」
「じゅ、十二歳。――あの、もう、下に戻ってもいい?」
「そのペンダント、ちょっと見せてくれる?」
そのとき、一羽のカラスが銀髪女の肩に舞い降りてきて、鋭く鳴いた。
警戒を意味する声だった。一瞬おくれて、二人も気が付いた。塀のほうにくっついていた蜘蛛玉どもが、アラームを鳴動させ、赤い光を点滅させながら、こちらに向かって転がってきたのだ。
『屋上の侵入者に警告。識別番号未確認。速やかに、正式な入館手続きを行いなさい』
『識別番号・仮〈E-1010-F〉に命令。侵入者と接触したため、連行し事情を聴取する』
仮〈E-1010-F〉とは、きのう少女に与えられたばかりの番号である。
蜘蛛玉たちの疑いのまなざしは、この侵入者ばかりでなく、少女にまでも向けられているということだ。
「あっ、やば。こいつら黙らせるの忘れてた」
銀髪女はそう言うと、左腕に装着した小型端末に向かい、呪文のようにつぶやいた。
――虫ども、静かにしてな。俺は管理者のひとり。いいから寝てろ――
蜘蛛玉たちは、アラームを鳴らすのをやめ、ごろごろと転がって戻っていった。元の場所にへばりつくと、青いランプを灯しておとなしくなってしまった。
少女が驚いていると、女の肩に乗ったカラスが喋った。
「もー。危なかったじゃんか、大丈夫?」
「いや、まずい。アラームが鳴っちまったから、すぐに塔長が飛んでくるぞ。こうなったら時間稼ぎ、いったん離脱だ!」
「えーっ、いま来たばっかりなのに?」
流暢に喋るカラスを目の当たりにして、少女は感心していた。
カラスは塔の窓から見えることもあるし、資料映像でもおなじみの、賢い鳥だと知っている。――それにしても、まともに人と会話ができるとは知らなかった。
察するに、なにやら緊迫している様子ではあったが、少女は自分には落ち度がないと思っていた。仮に塔長がやってきても、起こったままを説明すれば済む話だと考えていたのだ。
しかし、もはや無関係な話ではなくなってしまったらしい。
侵入者の女は、素早い動きで少女に近寄ると、軽々と抱き上げた。喋るカラスは空へ飛び上がった。
「お嬢さんには、もうちょっと聞きたいことがある。付き合ってくれ」
「――えっ? 何? どこへ――」
「お散歩だよ、お散歩!」
銀髪の女は少女を抱えたまま、塔の端へ向かって全力で駆け出した。縁が迫っていても減速する気配はない。
落ちる――と、少女は思った。
女は、低い塀の手前で跳躍した。『無理だ、失速する!』――そんな声が、上のほうから聞こえた気がした。
少女は悲鳴をあげた。自分を抱えた女ごと、落下している。