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エピローグ(後)

 人々のざわめきや食器がぶつかる音、それに酒や料理の匂い。中央塔の慰安所でもある酒場は、あちこちで繰り広げられる噂話や愚痴をこぼす声であふれていた。テーブルの間を縫うように、若い男や女の給仕が忙しく歩き回っている。

 その片隅に揺れる水色頭を見つけた。あの髪は間違いようがない。アルバトロスは迷うことなくテーブルへとたどりついた。

「やほー、飛島くん! ずいぶん早い到着だねぇ」

 ご機嫌にグラスを傾けているのは二宮楓だ。小皿からナッツをつまんではポリポリかじっている。

「飛島……。お前、まだそんな姿をしているのか……」

 その隣にひっそりと座っているのは伊吹雄介だ。人目を避けたいのか、服の襟についたフードを目深にかぶっている。しかし、隣に水色頭の女博士がいては台無しだ。ふたり揃って有名人であり、そこにアルバトロスまで加わると静かに飲むのは絶望的である。

「そんな姿とはなんだ?」

「まだ男に戻らんのかと言ってる」

「これか? 変身ってのは、そんなに思い通りになるわけじゃなくてだな」

「嘘だぁー。奥さんが帰ってくれば男に戻れるって話じゃん?」

 二宮楓は野菜スティックをつまんでは兎のようにポリポリやっている。アルバトロスも席につき、楓が勝手にオーダーした飲み物が運ばれてきた。まさか、この三人で酒を飲む日が来るとは想像しなかった。

「すると、奥さんの冷凍庫はまだ開かないのか」

「誰かさんから聞いたパスワードが解けねえんだよ。管理者権限も通じないようになってるしな」

「それって伊吹くんのこと? 奥さんの冷凍庫入りに立ち会ったのは伊吹くんなんだから知ってるでしょ? 教えないなんて陰険だねぇ」

「おい、勝手なことを言うな。俺が聞いてるはずがないだろ」

 瑠璃はまだ、この中央塔の冷凍庫の中で眠っていた。彼女の眠りは百年間に設定されており、それを解除して起こすには親族による生体認証と、本人が設定したパスワードが必要だった。

「俺が聞いたのはヒントだけだ。間違いなく飛島に伝えてある」

「つまり、飛島くんが鈍いってこと? なーんだ、つまんない。てっきり意地悪して隠してたのかなって。男の嫉妬は壮絶だな~って感動してたのに!」

「きみの感動の基準がわからん」

 伊吹は控えめに笑っていた。あの迷彩服を着けているときよりは、年相応の感情を備えた男に見えた。八坂銀次郎にはそれほど似ていないが、目元のあたりは血のつながりを感じさせる。

「そういえば、伯父さんの具合はどうなんだ?」

「順調に回復している。車椅子で動けるようになったから、すぐにでも毎日の演説放送を再開したいと言っていた」

「やめなよ」

「おやめ下さいと伝えろ」

 あの演説は、どうせ大半がスクリプトによる合成映像だったのだ。不老不死の秘術により統治するリーダーの姿はまやかしであり、その事実は全住民に公開されることになっていた。

「あ、そういえば、誰か南塔に潜入できるやつはいないか?」

 アルバトロスが言うと、あとの二人は呆然とした。なぜそんなことを聞くのか。南塔にいちばん顔がきくのは彼本人のはずで、いまでもよく立ち寄っているらしいと知っていた。

「あんたが無理ならあたしたちには不可能です」

「そこをなんとか!」

「一体どしたの? 二十二子さんと揉めたとか?」

「いやいや、そうじゃなくてな……。ちょっとこの目で確かめたいことがな。ぜんぜん俺の勘違いかもしれないんだが、それどころか、まったくのガセ情報かもしれないし……」

 話すのをためらっているうちに二人ぶんの視線が集中する。あとに退けなくなったアルバトロスは周りを見渡し、声をひそめて白状した。

「実は、南塔に最近、女の新入りが来たっていうんだ」

「転入ってこと? どこから?」

「それが記録にない。ほかの塔にも転出した女はいない。だから増えてるはずがねえんだよ。しかもその新入り、台所仕事も掃除も託児所の子守りも、家庭的な仕事がまったく全然ダメときてる。わりと美人で、裸足じゃ歩けんから靴を履かせろだとか、この服は寒いだとかで文句が多く手がかかるらしい。どう思う……?」

 二人は神妙な顔をして視線を交わしあった。

 短い沈黙のあと、伊吹雄介は額を押さえて考え込み、二宮楓は必死で笑いをこらえていた。我慢しすぎて肩が震えている。

「ねぇ、それってさぁ……凪……」

「い、いや。わからんぞ。似ているだけかもしれない。というか笑うところではない」

「確かに飛島くんが行くのはナシだわ……う、くぅっ、だめ笑いそう」

 この調子だと二宮楓には頼めない。アルバトロスは伊吹へ視線を送る。隣にいる女博士がこれでは仕方がないので、伊吹は気乗りしない顔でしぶしぶ首を縦に振った。

「やむを得んな。俺のほうでなんとかしよう」

「ああ、頼む。バーディーが彼女のことを気にして悔やんでるんだ。あいつを置き去りにして、自分だけ逃げちまった、って」

「わかった。確認しだい連絡しよう」

 そうこうしているうちに、二宮楓は三杯めの酒を飲み干した。南塔の二十二子と飲み比べをしたらいい勝負になるだろう。だが、アルバトロスは決してそこに同席したいとは思わなかった。

「おい、お前たちは趣旨を忘れていないか。楓、あれを」

「あーはいはい。今後の土地開拓計画ね。それには、あたしんとこで開発してる、ダークフィルターの完成が不可欠なんだけど……」

 伊吹に促され、二宮楓は鞄から資料の紙の束を取り出した。それを伊吹とアルバトロスが覗きこむ。

「いまどこまで進んでいるんだ」

「理論上でいえば生産は可能。でも、すぐにたくさん作れるかっていうと困難かな。黒結晶が稀少すぎるのと、薄く加工する技術がね。試験品だけならわりと早いかもしんない」

「それだったら、誰もが手に入る前提では考えないほうがいいな。騎士団に優先配備させて、開拓チームを護衛させる形になるか?」

「原料が貴重だ。いま睡眠サイクルに入ってる技術担当者を起こして手伝わせるのはどうだ? 何人かいるだろう」

「じゃあ、誰を起こすか私が選んでいい? 迷うなぁ、誰にしよー?」

 酒場の端のほうの席で、三人は知恵を出し合っていた。これをもとにして、もっと広く意見を集める必要があった。八坂銀次郎はもちろんのこと、ほかの幹部たち、騎士団員たち、時を超えてきた多くの仲間たち、そして塔で暮らす全ての市民たちにも。誰にでも自らが考えて発言し、道を選ぶ権利がある。

 この世界でのヒトの暮らしは、これから始まる。

 そして二宮楓は五杯めのグラスを空にしても顔色を変えなかった。




 夜更けの冷凍庫は静まり返っていた。

 アルバトロスは一人でやってきた。酒はほどほどにしておいたが、実はもっと酔っておけば良かったと後悔していた。これまで何度かパスワードの入力に挑んできたが、まだ認証されていない。

 一定期間内に入力できる回数には限りがある。間違いを繰り返すと、次に試すのにはまたしばらく待たねばならない。

 ヒントは伊吹から聞いていたのだが、それがいくらでも解釈できるのだ。

「大事な名前と、大事な日付を組み合わせた……って言ったってなぁ」

 アルバトロスの独りごとが無人の廊下に響いた。

 名前といったら、おそらく娘のつばさの名前だろうと思う。だが、妻の瑠璃だって自分にとっては大切だし、逆に瑠璃から見て大切なのは海渡かもしれない。日付はふたりの結婚記念日とも解釈できるし、誰かの誕生日かもしれない。こんなに悩む羽目になるなら、いっそのこと泥酔するほど飲んでおけば良かったと思った。

「あー、わかんねえ……」

 アルバトロスは冷たい壁にもたれて床に座り込んだ。

 今日はすでに入力を二回も失敗している。ここで外したら、しばらくは入力を試すことすらできない。瑠璃はどういうパスワードを選んだのか。あの追い詰められた状況でなにを考えたのか。

 酒が回ったのか頭がぐらぐらした。軽いめまいの中、さきほどの席で、騒音を浴びながら伊吹と交わした会話が思い出される。

『おい……伊吹。聞いたならちゃんと正確に聞いておけよ』

『俺は他人だ。きみの妻が俺にそのまま言うほうがおかしいだろう』

『だって迷うじゃねえか。大事なものも、大事なことも、ひとつだけじゃねえんだから』

『そうじゃない。間違いようがないと思ったから彼女はそれにしたんだ』

 ――間違いようがない、とは。

 アルバトロスは跳ね起きた。二人にとって同じくらい大事なこと。絶対に忘れたりしない、いちばん最初に思い浮かぶもの。やはり、つばさのことに違いない。娘の名前と誕生した日付、これは間違いなく大事な名前であり数字だ。

 吹っ切れたようにアルバトロスは壁に浮かぶ操作パネルを指で叩いた。

「俺はなにを悩んでたんだ。つ・ば・さ。そして生まれた月日だろ。あれ……そうか、すごい偶然だ。本当の誕生日でも、つばさは神無月十子になっていたのか。凪美由紀は超能力者だな!」

 ぽん、と迷いなく、認証キーを叩いた。すると電子音声が響く。

『パスワードを受け付けました。生体認証にお進みください』

 アルバトロスは立ち尽くした。

 あれだけ悩んでいたのが嘘のように、道はあっけなく開かれた。魂が抜けたようになり、ひと呼吸してから、喜びはじわじわと湧きあがった。さらに数秒経ってから拳を振って跳びあがると、海渡は廊下に響き渡るほどの声を響かせた。

 鳥が高らかに歌う鳴き声のように。




 バーディーが最後に見た凪美由紀は笑っていた。

 彼女に憑いていた大蛇が持ち去られ、燃え尽きていなくなっても、その場に空いた穴のような渦はなくならなかった。入れ替わりに黒い生き物がたくさん集まってきて、屋上は埋め尽くされていた。彼女は満面の笑みを浮かべていた。ふたたび渦を巻く黒いものたちを待ち望み、腕を広げて迎えていた。

「凪さん! ここから早く逃げないと!」

「どうして? 素敵じゃない! ごらんなさい、ここには恨みと哀しみばかり。飢えて寂しいものたちばかり。世界とはこういうものよ。本当は誰でも闇を見ているくせに、知らないふりをしているだけ。愛や希望なんて幻想でしかないわ!」

 凪美由紀の足や腕に、黒い渦が巻きついていった。膝から蔓のように腿を這い上がり、腰まで闇に飲み込まれている。その足元には暗い穴が口を開けていて、奥では風が捻じ曲がり、どこに続いているのかわからない。このままでは彼女が深淵に連れ去られてしまう。

「逃げるならどうぞ。わたしのことなんて放っておけば? あなたのカラスは、わたしのせいで死んだのよ!」

「だめ、凪さん、そっちに行かないで!」

 深い穴から伸びてきた黒い腕を、バーディーのスリング弾が撃ち砕いた。

「愛や希望は幻想じゃない! 凪さん、よく見て。ずっとあなたに付きまとっていたのが何かわかった。たぶん臆病すぎたの。やっと出てきてくれた。いま肩に乗ってる。気付いて触れてくれるのを待ってる!」

 凪美由紀は自らの肩に視線を向けた。

 闇に取り込まれかけている彼女には見えるかもしれない。肩の上に、色は黒いがふわふわの羽毛で覆われた小鳥がいた。それはまだ飛べない。孵化して間もない雛のように頼りなく、毛が生えただけの翼をぱたぱたやっている。

「その子は闇に生まれたけど、まだ小さくて不器用だけど、凪さんが好きで、好かれたいから来たの! それは愛って言わないの?」

 黒い色をした雛は、美由紀に餌をねだろうと、頬にくちばしを擦りつけている。細い鳴き声も聞こえる。

「あら、可愛いじゃない。ちっとも私に似てないわ」

 凪美由紀の目に宿る刃のような鋭さがゆるみ、肩の小鳥に釘付けになった。深淵から闇へといざなう蔓に構いもしない。まもなく、黒い渦が噴水のように沸き上がり、肩に乗っていた雛ごと美由紀を覆ってしまった。

「凪さん、凪さん!」

 叫んで呼んでみたが返事はない。

 そのとき、夜空から白い翼が近づいてきた。屋上は立っていることも難しいほどの渦巻く波に飲まれている。凪美由紀の姿はどこにも見えなくなった。

「アルバトロス!」

 バーディーは手を伸ばして空に向かい叫んでいた。




 部屋に光が差し込んでいる。

 バーディーは寝台に横たわっていた。傍らの木の枝にはクイーンが丸くなって眠っていた。起床するはずの時刻には少し早いらしい。バーディーは音をたてないように身支度を整え、部屋を仕切っているカーテンをそっと開けた。長月三十日はまだ眠っているらしい。

 はしごに足をかけて床へと降りる。肩にふわりとした軽さが飛び乗ってきた。クイーンだ。寄り添ってきた頭を軽く撫でてやると、小さな女王は気持ちよさそうに羽毛を膨らませた。

 歩く音をひそめながら、玄関扉をあけた。朝の庭がまぶしい。

 バーディーは靴ひもを結び直してから、森へゆく小道に向かって走り出す。

 ――消えてしまったインビジブルに、もういちど会う方法がある。

 アルバトロスの言葉を思い出す。

 彼らの肉体が滅ぶとき、粒子となって大きな流れに還る。そこには魂のかけらも混じっていて、どこかで生まれ変わって新しい命になる。彼らの輪廻は独特で、生も死も縁に導かれるのだ。縁が薄ければ長い長い眠りにつき、縁による呼び声が強いものは帰ってくる。

 ――その命があったとき、いちばん美しいと感じ、いちばん深く思い出に刻まれた場所で、ふたたび産まれるんだそうだ。

 バーディーは木漏れ日の中を駆けた。緑の中に光がさして斜めの縞模様をつくっていた。生命の流れがきらきらと光っている。以前は見えなかった黒い粒子の川だってある。この道をバーディーは何度も歩いた。いつも陽気で優しくて、おしゃべりなカラスのネーロを乗せて。朝に出発して、彼はこのあたりまでくると、大抵くつろいで眠ってしまう。

 そう、このあたりで――。

 バーディーは足をぴたりと止めた。道沿いの木のまたにある、古い鳥の巣から光が漏れている。さらさらと音が聴こえそうなほどに粒子が満ちている。

 慎重に小枝をかき分けると、羽毛で覆われた柔らかな寝床を見つけた。

 そこには結晶があった。白くてすこし細長い形で、まるで鳥類の卵のようだ。表面は薄い殻で、中から殻をつつくような音がする。背伸びをして見ていると、それは内側から破られて細いひびが入った。

「やっと、戻ってきてくれたみたいだな」

 バーディーの背後から小さな声がした。振り向かずともわかる、アルバトロスだ。

 小さな命の誕生をふたりで息を止めて見守った。やがて、殻に小さな穴があいて、隙間からくちばしが現れた。そして、残りの殻を蹴破って、雛が姿をあらわした。まだ開かないまぶたをして、頭を自力で懸命に持ち上げる。

「ねえ……きみはネーロなの? 私のこと憶えているの?」

 囁くほどの小声でバーディーがたずねてみる。

 生まれたての鳥の雛は、ぴぃ、と頼りなく鳴いて、そして知っているよりもずっと細く高い声で答えた。

「ああ、ひどいめに遭ったよ。だめかと思った。お嬢だね。僕を呼んでくれてありがとう」

 言葉の合間に、いかにも鳥の雛らしく、ぴぃぴぃという鳴き声が混じる。

 アルバトロスはその黄色いくちばしを指先でそっとつついた。

「無茶したな、ネーロ。よく帰ってきてくれた」

「あ、かーちゃんもいる。お腹減ったよ。ごはんちょうだい」

 アルバトロスは懐かしさに目を細めながら少し笑った。そして、羽毛の布団からまだ小さなネーロをすくいあげて、両手の中にそっと包みこんだ。

「こいつ、雛のうちは素直なんだ。かわいいだろ?」

 父と娘は並んで歩きはじめた。木陰に陽の光が漏れる道を、ただひとつの帰る家に向かう。

 かけがえのない命をのせて、揃いの形に結んだ髪を揺らしながら。




【 終 】

最後までお付き合い頂きましてありがとうございました。

応援して下さった方々、および、貴重なお時間を割いて立ち寄って頂いたすべての読者さまに感謝いたします。

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