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エピローグ(前)

 この森で最も美しい場所とは何処だろう。

 心に刻まれて色褪せずに残っているような。幾度も力尽きてまた目覚めたとしても、必ず思い出して帰ってこられるような。

 アルバトロスは白い翼で飛翔する。

 夜明けがおとずれて雲が流れ、暗い空に明かりがさす時刻には東塔の上空に来ていた。周囲をくるりと旋回してから屋上に着陸する。蜘蛛玉たちはおとなしく、黙って青くちかちか光っていた。

 アルバトロスは何かを探すように屋上を歩きまわった。だが、探し求めるものはなかった。次はどこへ行こうかと、中央塔の方向を眺める。深い緑の森が広がり、果てには海もみえた。五本ある塔のうち、いちばん遠くにある北塔は青くかすんでいた。

 いちばん美しい場所は何処にあるのか。こんな殺風景な塔の屋上などではないのか。果てしなく青い海なのか、風が渡る丘なのか。ここは見晴らしがいいし、魚たちやウミヘビが空を泳ぐ姿も見られる。それにバーディーと初めて会ったところだからと、いつも必ず訪れているのだが。

 もう一度、屋上をぐるりと歩き回る。

 やはり見つからない。アルバトロスは白い翼になり、ふたたび空を舞う。




 展望室は朝の光に満たされていた。

 夏は盛りを過ぎたのか、早朝の空気は涼しく爽やかに感じられた。きょうは暑くなるという。青い空には綿をひきのばしたような雲がわずかに浮いているだけだ。

 ガラス張りの壁の前で、備え付けの双眼鏡に手をかけたひとりの女性が振り向いた。束ねた長い金髪をふわりと揺らしながら。

「……『そうかもしれない』の答えが、やっと今になって頂けたということですね、皐月先生?」

 展望室の中央では、ひとりの男がうつ向いている。外がいちばんまぶしくない所にいるのだが、立つ瀬がないといった様子で背中を丸めていた。そして独白のように静かな声で打ち明ける。

「あのときは――つまり、名前のない赤ん坊を、両親不明のままで面倒をみてほしいと頼まれたときは、ただごとではないと感じたのですよ。しかも、連れてきたのが伊吹団長ご本人。わけを訊ねても答えてくれず、難しい顔をするばかりで、レンズのついた奇妙なペンダントだけを黙ってよこしたのです」

 皐月五郎は十五年前のある夜のことを思い出す。

 深い事情を抱えているであろう女の子。だが、理由はどうあれ、いまは小さな命を守ることが先だった。赤ん坊は東塔の託児所に預けながら、自分は唯一の手がかりを持って、心当たりがある者はいないかと慎重に調べてまわった。その結果、ペンダントに見覚えがあるという師走一子が名乗り出た。

「私はともかくとして、実の父親には教えてあげたら良かったでしょう?」

「いえ、確証がなかったですし、アルバトロス氏とは自由に会うこともできませんでした。接触したら反逆者です。何よりも、その……わたし自身が思い違いをしておりまして」

「思い違いというのは?」

 師走一子は青い瞳を向けた。あのウィングフィルターと呼ばれるペンダントについた、瑠璃という石のように青くきらきらしていた。

「ええと……私はてっきり、伊吹団長が赤ん坊の父親なのだと思ってしまって……。だってそうでしょう。人目を忍んでやってきて、いかにもわけありで、何もいわずに面倒をみてくれと頼まれたら……」

「なんですって!」

 師走一子は白い頬をぱっと紅潮させた。そして、殴りかかってきそうな勢いで拳を作ると五郎をにらみつけた。

「い、いえ。だから、私の勘違いであったと……」

「姉はそういう人間ではありません!」

 思いがけず大きな声で叫んでしまい、師走一子は口元を抑えた。そしてまた頬を赤らめて恥じ入るように微笑んだ。

「ごめんなさい。だって、そうだもの。最後に会ったときの姉は、とても幸せそうだった。赤ちゃんは元気な女の子で、陽気で優しいカラスが一羽と、そしてちょっと頼りないけど大好きな夫と暮らしているって。ほとんど里帰りできないけど大丈夫だよって。あのときの姉にやましい影なんて何もなかったわ」

 皐月五郎は深々と頭を下げた。師走一子はそっと近寄ると、頭がおなじ高さになるまで屈みこんで耳を傾けた。

「あなたにはとんでもないご苦労をかけてしまった」

 絞り出すような謝罪の言葉だった。頭を上げようとしない五郎の様子をみて、師走一子は隠すように持っていた小さな花束を見せる。

「素敵な男性が二人もわたしに頭を下げてくれるだなんて。ほら、こうして、いまも中央塔からこっそりお花が届くんですよ。伊吹団長を慕う方々が知ったら、わたしはさぞかし恨まれるんでしょうね」

 そう言って師走一子は笑った。瑠璃色の目は夢多き少女のように輝いていた。




 霜月(しもつき)二十二子(ふじこ)は屋上に立ち、鉄塔を見上げながら言った。空は晴れ渡って抜けるような青だ。

「休憩にしなよ。みんなの飲み物を用意したよ」

 そこには数名の工事作業者がいて、なぞの爆発で破損した電波塔を修復していた。そこに混じって、睦月十四郎と如月(きさらぎ)(うるう)の姿もあった。南塔の長である二十二子は彼らと酒を飲むうちに親しくなっていた。

「ああ、助かります、二十二子どの」

「まだ暑い日が続くからね。部下を大事にするあんたが指揮官でよかったよ。以前のほかの男たちは偉そうにするばっかりでさ、いつもあたしが蹴飛ばして強引に休憩をとらせてたのさ」

「無理をさせても士気は上がりません」

 睦月十四郎は鉄塔から降りた。小柄な体の中年だが、その動きはまだ俊敏で腕はたくましい。それに続いて如月閏も下りてくる。彼には少々口が悪いところもあるが、仲間うちでは年上からも年下からも信頼されつつあった。

「そんで、あんたたちはどんな名前にするんだい?」

 飲み物と菓子をふるまいながら二十二子は言う。睦月と如月は互いに顔を見合わせ、相手の出方をさぐりながらぼそぼそと答えた。

「自分は……直ちにどうするかなどの予定は……」

「俺も、別にいま困ってねえし……」

「おやおや、そんな感じかい?」

 二十二子はつまらなそうに口を尖らせる。彼女はおそらく何か面白い答えを期待していて、新しい名前のことを自分なりに評価したり、冷やかしたりして楽しみたかったに違いない。彼女の調べによると、塔の住人のほとんどは、まだ決めていないと答えるのだと言う。

「少し落ち着いてきたら名前を変える人が増えるかもしれないよね。それに、これから生まれる子供たちには親がつけてやるんだし」

「えっ、名前って親が考えるもんなのか?」

 日陰で座り込んでいた如月閏は驚いた顔で訊いた。「赤ん坊には先生とか上官どのが名前を考えてくれるんじゃないのか」

「そういうのも悪くないけど、もとの地球では、親が子の名前を考えてたんだ。簡単な届け出をすれば、たいていの名前はそのとおりになってたらしいね」

 如月をはじめとして、そばにいる者たちは興味を示して聞き入っていた。その時代の親たちは、それぞれに期待や想いをこめて子に名前を与えていた。生まれた命に贈る祝福のひとつだ。

 飲み物を配り終わると、二十二子は荷物をまとめてすみやかに下へ降りるそぶりをみせた。普段ならもっと居座るのだが。睦月が気づいて、不思議そうに声をかける。

「もうお戻りですか? お忙しいのですか」

「そうなんだよ。育て甲斐のある新人が入ったところでね。彼女、びっくりするほどなにもできやしないんだ。あたしと違って、生まれたときから女をやっているくせにさ。誤解されているようだけど、ここの南塔は女が偉いわけじゃない。女の仕事を率先して引き受ける者が頼られて上に立つんだよ」

 霜月二十二子はそう言うと、籠を抱えて階段の下へと消えていった。その体躯はよく見ると女性にしては長身で大柄だし、見事に筋肉質でもあった。

 

 

 

 夕暮れの小さな畑に若い雌のモズがいた。

 作物を荒らす小動物を警戒し、追い払うのが彼女の役目だ。このあたりで彼女を知らぬものはおらず、ねぐら森のカラスたちは彼女を見かけると頭を振って挨拶をした。そうすると時々いいことがあった。この日の最後にとらえたネズミを、クイーンはぽいと放り投げる。獲物はカラスの三兄弟たちの真ん中に落ちて、すぐに騒がしい奪い合いが始まった。

「あげちゃって良かったのか?」

 長月三十日が声をかける。農具を抱えて小屋にしまいこむところだ。

「捕ったものをぜんぶ食べていては太りすぎてしまいます」

「でも、甘やかすのは良くないって前に言ってなかったか?」

「ですから、あの三兄弟に対してひとつだけです。競り合って奪ってとる、強い者に媚びて残り物を頂くなど、彼らはそれぞれの得意分野を磨くべきですね。生き物を狩りたいというならそれも結構です。わたしが教えてあげられます」

 木立の間から涼しい風が吹いてくる。庭の外周から流れてきた光るインビジブルの群れを見つけると、クイーンは憶えたばかりの歌を歌ってみせた。いつかの作戦行動で巨大化した体は、あの後すぐに自然界へ返した。

「夏のあいだだけ来ている鳥に教えてもらった歌です。あのハシボソの兄弟たちも、まもなく独立するでしょう。もうじき秋ですし、ここで余った糧は早贄にしますね」

 そうしていつもの高鳴きをする。きょうの仕事を終えて畑を去る合図だ。

 彼女に見張りを頼っていた小さなカラ属たちはねぐらに向かい、藪を飛び移りながら消えていった。クイーンが引き上げるのは日没が近いためだけではない。主人の姿を見つけたからだ。長月三十日はすこし遅れて気がついた。

 道の向こうから誰かがやってくる。クイーンは枝を飛び立ち、現れた少女のもとへまっすぐに向かった。気づいて差し出された手に飛び乗り、お決まりの挨拶をする。

「お嬢さま、お帰りなさいませ!」

 そうして互いに何かを確かめるように顔を覗きこんだ。そして双方が黙る。真っ先に報告するような、特筆すべき出来事は無し。お互いに。

「あれ、三十日? 来てたんだ?」

「来てたんだ、とは冷たいな。午前中から俺はいたんだけど」

「しばらく騎士団にいるんじゃなかった?」

「こっちに派遣されてきた。畑作試験場の警備任務でね。でも安心しろ、いまのうちだけだ。いずれは俺の代わりがくるよ」

 二人はきょう収穫できた作物を籠に放り込むと、手分けして持った。薄暗くなりつつある庭を並んで歩き、かつての隠れ家に向かう。いまは試験場拠点という名前がついた。

「代わりが来るってどういうこと? 誰かが地上に降りるの?」

「ああ、おそらく騎士団の誰かがな。二宮博士の新作の出来しだい、用意が整いしだいってことだけど」

「新作って?」

「あれ、聞いてないのか。それだよ、バーディーがいつも下げてるやつ」

 三十日はバーディーが首からかけているウィングフィルターを指し示す。幼い頃から持っている、レンズがついたペンダントだ。

「それは白のインビジブルから作ったやつで、俺たちの視界にインビジブルの姿を見えなくする。その逆の考えで、黒のフィルターを作ることができれば、見えない人たちの目にもインビジブルが見えるようになるかもしれない。二宮博士がこのあいだ、カエルを操って戦っている時にひらめいたらしいよ」

「もしも本当にそうなったら、たくさんの人が地上で暮らせるんじゃない?」

「試験品の第一号は騎士団でもらうことになってる。もしかしたら、伊吹団長に配布されるかもな。それでここに来たりしてな」

 長月三十日はバーディーの反応を横目でうかがった。たとえば恥じらいながら顔を真っ赤にするとか、期待で瞳を輝かせるとか、そういうことが起こるかと思った。だが、彼女はふくれっ面をしてみせるだけだった。

「からかわないでよ。伊吹団長との婚約は解消したって知ってるくせに!」

「まあ、新作のダークフィルターが完成したら、俺たちだって特別じゃなくなるもんな。きみは玉の輿に乗り損ねたな」

「しつこく言わないで! ああーそのとおりです。お姫さまになれなくて残念でした!」

 二人は笑いながら小道を行く。

 その途中でバーディーはふと立ち止まった。夕闇が迫る暗がりの中に何かを見ているようだが、長月三十日には分からない。いや、じっと目を凝らすと、黒い粒子の流れがあるのがわかった。それは注意深くしないと気が付かないはずだが。

「結晶がとれるかも。仕掛けていくね」

「そうか。いまは研究室でいくらでも欲しがってるからな」

「うん」

 バーディーは手荷物から黒い核をひとつ取り出すと、木の根元の隙間に隠した。そして枝に目印をくくりつけた。長月三十日はその様子が奇妙だと思った。彼女はそもそも黒い流れが見えないはずではなかったか。

 二人は日没前に隠れ家に到着した。少し前に戻っていたらしいアルバトロスが迎えてくれた。

「おう、お帰りバーディー」

 玄関先でアルバトロスとバーディーは表情を探り合う。ここでも特別な報告はなかった。

「畑から三十日を回収してきてくれたか」

「あっ、アルバトロスは知ってたの? 教えてくれてもいいのに!」

「俺も出かけてから知ったんだよ。伊吹のやつ、忙しいふりして昔からそういうのいい加減なんだ。メッセージをよこすならすぐよこせってんだ」

 アルバトロスはぶつくさ文句を言いながら、食事の支度にとりかかった。長月三十日は収穫した野菜を保管庫に入れ、その一部をバーディーが受け取って下ごしらえをした。クイーンは肩にじっと止まっていた。とくに用事のない限り彼女はおしゃべりをしないが、作業をする手元を眺めるのは好きなようだ。鳥の雌はおとなしいとバーディーは思う。

「あっ、俺は飯のあとに出かけるんだが」

「お酒?」

 アルバトロスの言葉に、長月三十日が間髪を入れずに訊ねた。

「そうそう……って、いや! お前が来ると知ってたら約束しなかったけどな! お前たち二人を残していくが、婚姻前の男女がまちがいを起こしたらゆるさんぞ! そうだ、クイーン。しっかり見張っていろ」

「旦那さま、鳥の世界では契りを交わしたらそれが婚姻です」

「ああーめんどくさいな。と、に、か、く! きみたちは少年少女らしく、これで一晩じゅうババ抜きでもやってなさい」

 アルバトロスは片手に収まる大きさの紙箱をひとつ渡した。バーディーには初めて見るものだった。そうして夕飯が終わると、アルバトロスは大急ぎで出て行ってしまった。

「今夜のは酒が出るが、中身は大事な打ち合わせだからな!」

 そう大声で言い残しながら。

 食事の片づけを終えてから、二人してアルバトロスがくれた小箱を見た。中には模様が描かれたカードが数十枚と、使い方を記した小冊子が入っている。どうやらこれでゲームができるようだ。

「トランプだ。お前、触ったことない?」

「し、知らないよ。三十日はなんで知ってるの」

「先輩たちと色々な。よし、俺が教えよう。なかなか面白いんだよ」

 テーブルについた長月三十日はひらひらと手招きをする。片目をつむり、戸惑うバーディーに微笑みかけながら。

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