7-8 夜は金色に染まる
「さて、質問には答えたわよ。これでやっと、自分たちが何者なのか分かってもらえたかしら」
凪美由紀は暗黒の渦が取り囲む中心に立っていた。
その渦は彼女に見えていない。無念や怨念の情だけが形に残ったインビジブルの集まりが、大蛇のような姿になって憑依している。それは時々、砂のように崩れて無数の虫になり、また繋がって蛇になる。
「そう、だったんだ。あたしたちと、アルバトロスたちは違うものだったんだ」
バーディーは呆然とつぶやいた。自らの一族は――東塔で家族のように育った住人たちは、みなホムンクルスだった。それに対して、アルバトロスや二宮楓たちこそが本当の人間だと彼女は言ったのだ。
「お嬢、しっかりして! ヒトだってはじめはサルだったよ。お尻丸出しで歩いてたんだからおあいこじゃん!」
「お黙りなさい、そこの鳥! あなたの知恵はしょせん借り物でしょう!」
青い顔をしたバーディーからは言葉も出ない。スリングを握ったままの手は脱力して垂れ下がっていた。そのとき、屋上には風と轟音が迫ってきていた。
「あら、ちょうどヘリが到着したわね」
凪美由紀がヘリコプターを呼んでいたのだ。昼でも夜間でも、この地を移動するには空が最も安全だ。陸上に多い獣型のインビジブルと遭遇しないからだ。
「さあ、大人しく乗ってもらおうかしら。まさか、自分のために東塔が全滅してもいいなんて言わないわよね? 指示を聞かないというなら、最初に散るのはそこのカラスの命になるでしょうけど」
「僕は避けられるよ。当たっても死なない。お嬢、従うことないって」
銃を向けられながらもネーロは言った。いつになく静かな声色だ。ネーロが言うことは、もしかしたら本当かもしれなかった。
だが、生まれ育った東塔を犠牲にするつもりなどない。ヘリは既に着陸し、扉を開いて待っている。バーディーは病人のようにふらふらと歩き、凪美由紀の横をすり抜けると、ヘリに乗り込むためのステップへ足をかけた。
「凪さん、あたし行きます。行き先は中央塔ですね? これで、皐月先生と一子さんを自由にしてもらえますね?」
「ええ、もちろんよ」
バーディーは、結婚式へ向かうあの日の階段を思い出していた。慣れない靴を履いて一段ずつ踏んだのだ。いまも同じで、ステップにかけた足をもう一度踏み出す。今度こそ戻れないだろう。バーディーのつま先が完全に屋上を離れる。
そのとき、凪美由紀の紅い唇が微笑んだ。
彼女は持っていたフラスコの栓を開け、指が滑ったそぶりをした。ネズミが入った瓶は美由紀の手を離れて落下する。その先には塔の内部へと続く階段があった。
「あら、しまったわ」
バーディーの呼吸が止まる。景色がゆっくりと動いて、フラスコは塔の中へ向かって吸い込まれていく。すぐに駆け出しても間に合わない。
「やめて!」
ヘリから飛び降りた。目の前を大きな翼が横切った。
ネーロの大きなくちばしがフラスコをとらえていた。彼はとっさにその脚で跳ね、落下する前にガラス瓶をつかんでいた。そうして止める間もなく、瓶ごとネズミたちを飲み込んでしまった。バーディーは絶叫する。
「なんてことを、ネーロ!」
「ば……馬鹿ね! そのネズミは病原体よ、どうなったって知らないわよ!」
凪美由紀はうろたえながら銃を構える。だが、その足元を鞭のような大蛇の尾が払った。美由紀は転倒する。蛇の体から黒い蔓が伸びてきて彼女の足首に絡みついた。蛇と蔦の合間を黒い小さなものが駆け回っている。
「な、なに? 何が起こってるの?」
「危ない! その短刀で蔓を切り離して!」
バーディーはスリングで着色弾を引く。凪美由紀は、バーディーが投げ捨てた短刀を拾って鞘から抜いた。色がばらまかれると黒い蔓が黄色に染まった。美由紀は懸命に切り離すが、新たな蔓が次々と生み出されて追いつかない。
蛇はいつしか闇のかたまりとなり、四方に向けて蔓を伸ばしはじめた。ヘリコプターが捕まり、操縦士は慌てて転げ落ちてきた。蔓は階段の下のほうへ伸びて棟の内部を探りはじめた。ネーロは飛び上がって警告する。
「そいつは塔に入るつもりだ! 仲間を呼び始めてる!」
空には黒いコウモリ型のインビジブルが群れでやってきていた。屋上には黒いトカゲや虫たちが集まり始めていた。
「ネーロ、アルバトロスのところへ行って知らせて!」
「お嬢、それよりいい方法がある。僕に結晶をおくれよ」
見上げるとネーロは電波塔を足場にしていたが、そこにも黒い蔓が伸びて迫っていた。
「結晶を飲んだ僕が熊と戦ったの憶えてるよね? 僕はあのときよりずっと大きいから、その黒いやつにだって勝てるよ。なんたって不死身だから死なないし」
持っている弾のうちで、完成した白結晶はひとつだけだ。バーディーはそれを構えると、上方にいるネーロへ向かって撃った。わずかに飛距離が及ばないが、ネーロが跳んで結晶をとらえる。
「お嬢、その人を黒いのから切り離して!」
凪美由紀はすでにその腕までも蔓に巻きつかれていた。闇をすり抜けながらバーディーは駆けつけ、短刀を手に取ると、絡んでいた蔓を端から切り捨てた。夜なのに周りが明るくなっている。ネーロの黒い羽根が光っているのだ。彼は空から舞い降りると、肢で黒い渦の本体をつかみ、くちばしで蔓を払い続けていた。
「ネーロ、あたしも手伝う!」
バーディーはインビジブルの弾を構えた。これも効果があるはずだ。しかし、伸びてきた蔓に体ごと跳ね飛ばされた。短刀は奪われ、屋上から外へと放り出されてしまった。バーディーは凪美由紀をかばうように抱えるが、二人を狙った闇が鎌首を持ち上げる。それを寸前でネーロの肢が踏みつけた。
「ごめん。僕はお嬢に嘘を言った。僕は病原体を飲んじゃったから、これを処理しないとみんなのところに帰れない。だから……」
ネーロは燃える翼をいっぱいに開いた。夜空が金色に染まり輝いた。目が眩むほどにまぶしくて、その姿は蜃気楼のように揺れて霞んでいる。
「だから、お嬢。思い出してほしいんだ。どうか忘れないで、僕の名前を」
風が巻き起こる。翼が羽ばたいて銀河のような軌跡をつくる。バーディーは炎の鳥を見た。彼はその脚に闇をとらえたまま浮き上がり、細く伸びた蔓を糸のように引きちぎりながら空へ飛んだ。高く高く舞い上がると、地平線のほうへ勢いをつけて滑空した。
炎の鳥を追ってバーディーは駆けた。塔の端で落ちそうになりながら叫んだ。
「ネーロ、だめ、戻ってきて、ネーロ!」
絡みつく闇を抱えながら、一羽の鳥は光熱の珠となった。熱い輝きは地平に落ちる太陽のようだ。中心の輝きは砕けて散り、真昼のような閃光に視界が染まった。
眩んだ目がもとに戻ったとき、そこに飛んで動くものはなにもなくなっていた。
静かな夜の森が遠くまで広がっていた。
冷凍庫の前でついに伊吹雄介は白状した。アルバトロスはその言葉を反芻しながら夜の空を駆ける。瑠璃が塔から身を投げたと聞かされたあの日、最後まで一緒にいたのはやはり伊吹だったのだ。
『あの日、凪美由紀が部屋を用意してくれたのは確かだ。だが俺は彼女にふしだらなことはしていない。ホムンクルス計画など付き合っていられるか。俺たちは表面上で従ったふりをして、適当に時間がたったら出るつもりでいた。そこに、お前が塔から転落したとの報せが入った』
アルバトロスは中央塔から飛び立ち、夜の森を東塔へと向かって飛んでいた。胸騒ぎがする。なにか大変なことが起こっている。
『俺は呼び出しに応じ、捜索隊を組織した。瑠璃は目を離した隙に冷凍庫へ向かっていた。そこで、娘と一緒に眠るつもりでいたらしい。飛島、お前がいなくなったあとの彼女がどんな扱いを受けるか想像できるだろう。だが、冷凍庫で眠りについてしまい、覚醒手続きがお前にしかできないとなれば、彼女自身のことも娘も同時に守れる。瑠璃はそう考えた』
だが、乳幼児を冷凍睡眠に入れるのは難しい。飛島海渡ならともかく瑠璃には困難だった。そこで途方に暮れていたところを、伊吹雄介にみつかった。鬼の母親のような厳しい目で、そしてひとりの無力な女性として懇願した、瑠璃の瞳を伊吹はいまでも忘れない。
『俺は瑠璃の望みどおりに、彼女を冷凍睡眠に入れた。画像と名前を差し替え、娘の飛島つばさが眠っているように偽った。覚醒にはパスワードを用いた親族認証以外は受け付けないようにした。瑠璃が屋上から身を投げたと報告したのは俺だ。ほかの目撃者が一人もいないのはそのためだ』
アルバトロスの視界に東塔が近づいてくる。
一台のヘリが逃げるように飛び去って行くのが見えた。妙な雰囲気だ。上空に黒い影が無数に舞っている。黒のインビジブルで飛べる種は少なく、このあたりではコウモリくらいのはずだった。
『赤ん坊だった娘のつばさは東塔に運んだ。あそこで信頼できるという、皐月五郎という男に娘を預けた。これは誰の子かと訊かれたが、俺は答えずに、母親から預かったウィングフィルターを渡した。彼はそれ以上を訊ねなかった』
東塔の屋上は黒いもので埋め尽くされていた。
アルバトロスは旋回する。黒いインビジブルの生き物たちだ。ヘビ型、カエル型、イモリやトカゲのようなものたち。なにか大きな渦があり、それが中心となって仲間を呼んでいるようだった。
黒い生き物の洪水の中で、手を伸ばして助けを呼ぶものがいた。
「アルバトロス!」
髪を頭の上のほうで束ねた少女、バーディーだ。悲壮な顔で叫んでいる。階下に続く階段扉は閉ざされていた。塔を降りて逃げることはできない。
「いま助ける! 俺につかまれ!」
視界の端に大きな翼がもうひとつ現れた。クイーンが長月三十日を連れてやってきたのだ。彼女は勢い余って上空を通過し、手荒い飛翔で切り返して戻ってくる。
「旦那さまには無理です! お嬢様は私が運びます!」
確かにアルバトロスは、子供のころのバーディーを乗せたときに墜落しかけていた。
「わたしがいま、三十日さんを降ろして戻ってきますから――」
「時間がねえ! あの黒い渦に喰われちまう!」
アルバトロスはクイーンの飛翔を真似て、宙返りをしてから速度をつけて戻ってきた。塔の屋上のすれすれの線をかすめるように飛ぶ。あたりは押し寄せた黒いものたちであふれかえっている。
「つかまれ、バーディー!」
突き出した足をバーディーがつかみ、それをアルバトロスがとらえる。
少女は屋上から浮き上がった。両の足が地から離れ、片方の靴に蛇が絡まって落ちた。群がっていたヘビやカエルがばらばらと振り落とされ、最後の一匹を振り切ると、もう塔から離れていくところだった。
「アルバトロス! 凪さんが、まだあの中に!」
「なんだと……引き返す余裕はねえぞ!」
「それに、ネーロが……ネーロが!」
風と景色が墜落に近い速度で後方へ飛び去っている。羽ばたいても高度を上げるのは厳しく、このままでは森の木々に捕まってしまう。長月三十日をぶら下げたクイーンが近寄ってきて横にならび、そして追い越した。
「わたしが気流をつくります、後ろについてください!」
「ちくしょう! 娘を連れて飛べなくて、なにが父親だ……!」
アルバトロスは懸命に風をとらえる。クイーンが起こした気流で体勢を持ち直すと、迫る森の直前で頭を起こした。そのままの勢いで、木々の梢と紙一重だけ上の側を高速で滑っていく。
「ネーロが、炎のかたまりになって……消えちゃった……」
バーディーは泣き叫んでいる。アルバトロスの脚に抱きつき、頬を擦りつけながら涙をぼろぼろ零している。
アルバトロスは少女の嗚咽とともに夜空と森のあいだを駆けた。
背後には黒で埋め尽くされた塔がひとつ立っていた。
次はエピローグとなります。もう少しだけお付き合い頂けましたら幸いです。




