1-4 番号の無い少女(3)
ナンバーレスの少女は、ふと、視線を感じて振り向いた。
ガラス越しに、心配そうにこちらを覗きこんでいる保護者たちの姿が見える。その列を押しのけるようにしながら、一人の女性が姿を現した。
中央塔から来た人だ――少女は思った。
見た目ですぐに違いがわかる。
切れ長の目のまぶたには紫色の粉が塗り付けられており、唇は不自然に鮮やかな紅色だ。化粧を施しているのだ。
これが、上級市民たちの身だしなみであるらしい。
服装も異質だ。紺色の上着には大きな襟と銀色のボタンがついて、体にぴったりするよう仕立てられている。スカートも同じ上等な生地で、丁寧に縫製されているようだ。
東塔の下級民が配給される服は、布を簡単に縫い合わせて腰のあたりを紐で縛ったような、単純なものばかりだった。皮のベルトでさえ、滅多にない高級品だ。化粧品などもちろんない。どれもこれも、下級民には許されていないのだ。
だから、中央塔の人々は、一目でそれと見分けがつく。
「――お見えになられた。きみたちは、そのままここにいたまえ。わたしは挨拶をしてくるよ」
不安げな子供たちを残して、皐月五郎は前の部屋へ戻っていった。
中央塔の女性に向かって、皐月五郎がぺこぺことお辞儀をしている様子が、ガラス越しに見える。言葉は聞こえない。女性のほうは頭を下げるわけでもなく、ただ腕組みをしてなにかを話していた。
しばらくして、皐月五郎は中央塔の女性を伴って訓練場へやってきた。少年と少女は、背筋をぴんと伸ばして礼をした。
「さあ、君たちご挨拶なさい。わざわざ中央塔から来られた――」
「凪美由紀よ。なんとまあ、ひ弱そうな子供たちね。目がいいっていうから、もうちょっと鍛えているかと期待したんだけど」
凪美由紀と名乗った女性は、眉ひとつ動かさずにそう言った。
まるで鉄仮面。いや、もしかしたら、最初の地球の時代に実在していた人間型ロボットというのがいたら、こんな感じなのかもしれない。
「では皐月五郎。さっそくおやりなさい」
「は、はい」
皐月五郎は、大きな木箱をふたつ持ってきた。その間に凪美由紀は、赤いフレームの眼鏡を取り出し装着した。
箱のふたが開かれると、中から大きな泡のようなものがふたつ出てきて、宙に浮いた。もう一つの箱からも、ふたつの泡が出た。
訓練場に、四つの泡の玉が浮かんで漂い始めた。よくよく見ると、泡玉の下のほうには、糸の束のようなものがぶら下がっている。そして、空中で浮き上がったり沈んだり、を繰り返していた。
役目を終えると、皐月五郎はガラスの向こうへ引っ込んでいった。
「こんなこと、聞くのも馬鹿馬鹿しいけれど――あなたたち、見えるのよね?」
低く無機質な凪美由紀の声が、訓練場に響く。
その意味を、少年少女は察知していた。あの漂う泡の玉は、インビジブルだ。この訓練場が薄暗かった理由もわかった。きちんと『見える』ようにするためだ。
「特殊加工したインビジブルで、カゼクラゲというわ。何を使ってもいいから、それぞれ二体ずつ仕留めなさい」
長月三十日は、自分の身長ほどもある棒を手に取り、カゼクラゲに向かい振り上げた。
しかし、クラゲは風にのってふわふわと流れていってしまう。やたらと棒を振り回してみても、風圧で飛んでいくクラゲを捉えることができない。そうしている間に、ナンバーレスの少女が、お得意のスリングショットで二体を撃ち落としてしまった。
悔しさをこらえながら、三十日は念のために腰に差してあったスリングを取り出し、残りの二体を撃ち落した。無事に仕留めたとはいえ、女の子に後れを取ってしまったことは屈辱だった。
「もういいわ。二人とも目は確かなようね」
凪美由紀は、喜びも落胆もしていない様子で言った。振り返り、ガラスの向こうにいる皐月五郎を手招きして呼び寄せた。
「終わったわ。あれ、片付けておいて」
床に落ちたカゼクラゲを指さし、凪美由紀は言った。しかし、皐月五郎にインビジブルが見えるはずもなく、きょろきょろとうろたえている。
「おかしいですね――さっき、あちらの部屋からは見えたのですが」
「あのクラゲは、特別なフィルターを使えば見えるように仕掛けをしてあったの。この眼鏡とか、あそこのガラス窓を通せば見られるわ。――じゃないと、ちゃんと仕留めたのかどうか、誰にもわからないでしょう」
凪美由紀は、予備の眼鏡をしぶしぶ皐月五郎に手渡した。眼鏡をつけ替えた途端に、五郎にもインビジブルが見えるようになったらしい。
「なるほど! 本当に『見える者』なのかどうかの、テストだったのですね」
「わかったなら、とっとと片付けておしまい。……さて、次は――そっちの男の子のほう、先に来なさい」
凪美由紀は、長月三十日を連れて訓練室の隅に向かった。そこには小さな扉があった。
鍵を使って扉を開くと、中からまぶしい光が漏れて、二人は部屋の中へ消えてしまった。それっきり扉は閉まり、様子は分からない。
少女は薄暗い訓練場に残されていた。後ろで、皐月五郎が落ちたカゼクラゲを片付けていた。
五分とかからず長月三十日は戻ってきた。代わりにナンバーレスの少女が呼ばれた。訓練場の隅の扉へ招かれる。
最初は、あふれるような光に目が眩んだ。
狭い部屋だ。しかし、珍しいことに窓がある。眩しかったのは、大きな窓から差し込む陽光のせいだ。
階層が低いので、葉が黄色くなりかけた木々がやたらと近くに見える。もしもこのガラス窓が開いたなら、すぐにでも外へ飛び出していけそうな気がする。
「はるか昔から伝わる、囲碁っていうゲームがあってね」
凪美由紀は、机の上を指し示した。
小さな壺が二つ並んでいた。それらは堅い木をくり抜いて作ったような丸い器で、蓋がついて中身が見えないようになっている。
イゴなんて言葉は、聞いたこともなかった。それが、騎士団に入るための試験なのだろうか? 少女が不安になっていると、凪美由紀が言った。
「別に、囲碁をやれと言うわけじゃないわ。ただの視力検査。蓋を取りなさい。――両方ともよ」
少女は、器の蓋を取り外した。中には、小さくて平たい、丸い石がたくさん入っている。片方の器には白い石が、もう片方には黒い石が。
凪美由紀は、それぞれの器から一掴みの石を取りだして、机に広げて置いた。滑らかに磨かれた白と黒の丸石たちは、自然光を受けてきらきら輝いていた。
「どちらか片方に、違う色の石がひとつ混じっているわ。選び出しなさい」
少女は躊躇した。
見たままを正直に言ってしまえば良い――のかもしれなかった。
しかし、どういうわけか不安が拭いきれない。いま悟られてはいけない気がするのだ。自分は誰とも――そう、長月三十日とも違う、ということが。
果たして、どう答えるのが正解なのか。思考が回り、息が苦しくなる。伸ばそうとする指が震える。
凪美由紀が笑ったのは、おそらく、この日それが初めてだったのだが、少女は石をじっと見ていたがために気づかなかった。
「迷っているということが、あなたの答えね」
「あ――あの……! でも……これは」
「もう結構よ」
凪美由紀は、石をふたつの壺にしまい、蓋をした。そして、他には何も訊ねなかった。少年と少女を保護者のもとへ帰すと、木箱を片付け終わった皐月五郎をつかまえて聞いた。
「いまの子たちの識別番号を教えなさい」
「は、はい。――男の子のほうは《E-0930-M》で、女の子は、《E-0000-F》……」
「――はぁ?」
氷のように冷たい視線を感じて、皐月五郎はあわてて弁解した。
「いえ、あのですね。――女の子のほうは、親も出生日も不明なんです。当時の塔長が中央のお方に訊ねたところ、無番号で構わないとのお返事だったらしく……」
凪美由紀は、それを聞いているのかいないのか、左手首に装着していた小型の端末を指でなぞり、操作をはじめた。住民のデータを検索しているようである。
「ああ、確かにいるわね、そんな子が。――こんなもの、適当にちゃっちゃと登録しちゃえばよかったのよ。今日は十月十日だから、《E-1010-F》でいいわね。あんたたち流の呼び方だと、神無月十子ってとこかしら」
その瞬間、本人も知らないうちに、ナンバーレスの少女の名前は、神無月十子になった。
午後になり、日課の訓練をする時間になった。
練習場にやってきた長月三十日と、さきほど神無月十子になったばかりの少女は、訓練用の棒を抱えたまま、ぼんやりと座り込んでいた。いつもであれば、汗を流し疲れ切るまで棒術の練習をしているところなのだが、どうもそういう気分にならなかった。
長月三十日は、大きなため息をつくと言った。
「あーあ、おれ、だめだったかな」
「そんなことないと思う」
「だって、ナンバーレス――いや、なんだっけ、十子? ――に負けたし」
「早い遅いは、たぶん関係ないと思う。見えるか見えないかだけだよ」
「でもさ、どっちかひとりだけが騎士団に入れるなら、十子のほうだ」
長月三十日は、悔しそうにじっと前を向いていた。
その横顔を見て、ついつい慰めたくなってしまったのかもしれなかった。少女は、いままで決して打ち明けなかったことを証明するため、立ち上がると、何かを探すようにうろうろ歩き始めた。
「――あたしね、ふたつめの試験、答えられなかったの」
「なんでだよ、あんな簡単なの。石を探すやつだろ?」
「中央の女の人、『どちらか一つの器に、違う色の石がある』って言ってたでしょ」
「うん。あれ、きっとインビジブルの化石か何かだよな」
少女は、床の上に何かを探していた。
天井から吊られた琥珀色の照明は、部屋をまばらに照らしていた。明るいところもあったが、物陰は薄暗い。それでも、あの下層階の訓練場ほどではなかった。
いったい何を探しているのかと、長月三十日が駆け寄ってきた。彼も目を凝らしてみたが、別段変わったものはない。しばらくして、ふと気づいたように、三十日は言った。
「あー! おまえまさか、おれに遠慮して答えなかったんだろ!」
「ちがうもん」
「じゃあ何だよ? 太陽の光の下では、色違いの石がひとつだけ見えた。あれは『普通』に色が違う石だった。最初にそれを答える。……次に、黒い布で外の光を遮ってみたら、別の壺にもう一個あった。そっちはインビジブルで、薄暗くなると初めて見えるっていう仕掛けだった。順番に答えるだけだ」
少女は返事をしなかった。
ふらふらと、何かに導かれるように練習場を出ていく。長月三十日もその後を追った。そのままフロアの隅っこのほうまで歩いて、階段へ到着した。青白いダイオードの照明が、コンクリートの床を寒々しく照らしている。
やっと少女は立ち止まり、言った。
「ねえ、三十日。どうしてあたしたちには、インビジブルが見えるの? どうして他の人には見えないの?」
「え、それは……」
少女はしゃがみこみ、段差で陰になっているところに指を伸ばした。そして、虹色をした小さな何かのかたまりを拾い上げ、三十日に差し出した。
大きさも重さも、小石そのもの。それを手のひらで受け取って、少年は言う。
「インビジブルの欠片だろ。たまに落ちてるよな。他のやつらは気づいてないけど」
少女は頷くと、照明の真下へ進み出た。
また同じようにしゃがみこむ。床へ指を伸ばし、何かをつまみ上げる。
それを見た長月三十日は、背筋がざわりとするのを感じた。一体、少女は何をしているというのか。そこには何も見えないのに。
「こっちに来て、手をだして」
まさか。
三十日は光の下まで行き、ある予感を抱きながらも手の平を出す。少女が、何かをつまんで三十日の手に置いた。先程とおなじような、重さと感触。
もう一方の手で光を遮り、陰にしてみる。これも、インビジブルの欠片だった。
「おまえ――見えていたんだな、光の中でも」
未だかつて、前例がない。明るい場所でもインビジブルが見えるなどと。
少なくとも、長月三十日が知る範囲では。
「そうか。――さっきの碁石のテストのとき、おまえには最初から『色違いの石』が二つ見えていたんだ! でも、質問は『ひとつだけ答えなさい』だったから、迷ったんだろ。
――でもそれ、すっげえチャンスだったぞ! 明るいところでも見えるなら、絶対おれより優秀じゃんか!」
長月三十日は、興奮気味に少女に詰め寄った。しかし、少女のほうは戸惑い、悲しげな表情で訴える。
「わかんない――わかんないよ。優秀って何? 人と違うことが?
あたし、これは練習して見えるようになったわけじゃない。それが優れていること? もしも、スリングや棒のテストで三十日に勝ったなら、嬉しかったかもしれないけれど――」
何をどう伝えたいのか――まるで、言葉を手探りで拾い集めるような、要領を得ない答えだった。長月三十日は失望した。全てに於いて劣っている自分への苛立ちは、すぐに怒りへと変わった。
「いいよ、もういい! やっぱりそうだ、おまえはおれに遠慮したんだ!」
「違うの三十日、あたしは――」
「こんなことされたって、かえってみじめなんだよ! それがわかんないのかよ!」
長月三十日は吐き捨てるように叫び、見えない石を放り投げると、走り去っていった。
ひとり残された少女は、脱力したようにその場に座り込んだ。
コンクリートの床はひんやりと冷たくて硬かった。照明の下で、捨てられた虹色の石がふたつ光っている。
抱えたひざの間に顔をうずめて、少女は泣いた。