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7-5 名前はいらない

 宵闇は東塔の上空をも覆いつくそうとしていた。

 凪美由紀は手にガラスの小瓶を持っている。ネーロはバーディーの傍らでじっとしながら、吸い寄せられたように瓶の中身を見つめていた。

「お嬢、あれ、インビジブルだ。なんかすごく嫌な感じがする」

「あれって、どれ? どっちのこと言ってる?」

 バーディーが目を奪われているのは、凪美由紀の背後にいる巨大で漆黒のものだった。生物――なのだろうと思う。どろどろした液体のように形がはっきりしない。闇が形を得たような黒い体で、這いながら渦を巻くヘビのようでもあり、地の底から這い出した虫の集合体のようでもあった。

「僕はあの瓶の中の小さいネズミが嫌だ」

「あたしは凪さんが連れてる黒いのがまずいと思うけど……」

 凪美由紀は顔色を変えずに、銃口をバーディーに向け続けていた。

「私が何を連れているですって。いつからいたのか分からないけど、勝手にまとわりついてくるの。私だってこれが何なのか知らないわ」

 これ、と凪美由紀が指したところに黒い塊はいない。それは間違いなくインビジブルであり、美由紀に見えていないということは、彼女は共生体の契約を交わしていないということだ。

「ネーロ、あの黒いヘビみたいなの、なんだかわかる?」

「黒のインビジブルの中で、人に取り憑いたやつらだね。とくに寂しかったり、伴侶を得られなかったりして、無念で消えてったインビジブルたちが寄り集まっているんだ。今のままだと、凪美由紀は彼らの怨念に引きずりこまれちゃうよ」

「凪さん聞いた? そのインビジブルは危ないって! いま着色弾を撃つから、すぐに離れて!」

 バーディーはスリングショットを取り出した。所持していた弾を素早く撃ち込むと、黒い蛇の胴体に発光塗料が飛び散った。凪美由紀はバーディーの足元へ向けて威嚇射撃をする。音に驚いたネーロは両翼を浮かせた。

「離れるもなにも、連れてる覚えも飼ってる覚えもないわ。それより、私の言うことを聞く気がないの? このフラスコの栓を開けたら最後、こいつらは東塔のどこかに巣を作って、感染症をばら撒き続けるわよ。下級市民は良くて壊滅、悪ければ全滅ね」

「凪さん、あたしが従ったら、凪さんも言う通りにして! その大蛇をなんとかしないと――」

「黙りなさい! あなたには指図をする権利なんてないの! それとも、そのスリングで私の拳銃と勝負してみる?」

 凪美由紀は銃口を向けながら笑った。

 ただし、狙いはバーディーから外れている。銃が向く先はバーディーの隣のネーロだ。回復能力を持つネーロでも、頭部を銃弾で撃ち抜かれたらどうなるか分からない。

「おかしな動きをしたら本当に撃つわよ。それとも、その鳥と東塔の住人たちを犠牲にして、あなた一人が自由を選ぶ?」

 バーディーは腰につけていた短刀を屋上の床面へ放り投げた。携帯している武器はこれとスリングショットだけだ。

「スリングと弾もそこに置きなさい。携帯端末は……そうね、アルバトロスに最後のお別れを言うくらいならいいわよ。あなた、私のことを鬼みたいな女だと思っているでしょう。でも本当に恐ろしいのは私じゃない。二宮楓――あれは狂っているわ。人の形をした悪魔ね」

 バーディーは腕から携帯端末を外して足元へ置いた。不思議なことに怖くなかった。ただ、寒いと思った。凪美由紀を取り巻いている暗いものが起こす冷たい風のせいかもしれない。

「スリングも置くのよ。今度こそ純白のドレスが似合うようにね。伊吹雄介は鈍感だけれど悪くない男だと思うわ。正式に名前だってもらえるわよ。バーディーなんていう安っぽい響きはお忘れなさい」

 幼少の頃より得意で、ときにはそれを掴んだまま眠っていたスリングショットを握りしめる。結婚式の日には服の中へ隠し持っていた。これさえあれば自分でいられる気がしていた。

 ナンバーレス、神無月十子、そしてバーディー。

 どれも自分を示す音の響き。どれが安いとか価値があるとかを考えたこともない。名前、それにどんな意味が込められているのだろう。自分や誰かに名前をつけようとしただけでも、蜘蛛玉たちは赤い目を光らせて怒っていた。

 スリングと弾の入った袋をつかみながら、バーディーは凪美由紀へと問いかける。

「あたし、言うことを聞きます。だから教えてほしい。あたしたちが名前を名乗ってはいけないのは何故。中央塔の人たちと何がちがうの? あたしたちは、誰もがおなじ人間なのに!」

 凪美由紀の鋭い目つきが一瞬にして緩んだ。

 赤い紅のひかれた唇が開いて白い歯がのぞく。彼女は顔をほころばせて笑顔になっていた。偽りのない、嬉しいという感情があらわになっている。いま、この私に、よくぞ聞いてくれたという喜びが、永年の戒めから解き放たれたような瞳の輝きがそれを示していた。

「いいわ! あなたは特別だから訊ねる権利がある。私は処罰を受けるでしょうが構わない。手短に説明するにはどう話したらいいかしら? 何よりも重要なのは、おなじ人間ではないということ。人間というのは、わたしたちのこと。人間は中央塔幹部と、もとから中央にいる上級市民だけ」

 バーディーは背筋が寒くなるのを感じた。喉が詰まったように声が出ない。いやな予感に胸が不快でいっぱいになる。

「あなたたちのルーツは全く異なるものよ。この地に来てから作り出されたものなの。あなたは名前の話をしたけれど、考えてごらんなさい。実験用にたくさんのマウスを飼育しているとき、あなたならそれらの一匹ずつに名前をつけたりするかしら? しない可能性が高いわね。でも、個体を識別するために番号を記したりはするでしょう?」

 凪美由紀は憑かれたような笑顔でしゃべるのに夢中だ。黄色が塗られた蛇がとぐろを巻いて彼女を包んでいる。

 バーディーがスリングを握る手指は冷え切って震えていた。なにか小さな影が美由紀の足元からよじ登り、肩のあたりをうろうろしていた。あれもインビジブルなのか。考えが混乱してまとまらない。

「あなたたちのご先祖さまは猿の親戚ですらない。あなたたちの種族を生んだのは二宮楓。彼女が――あの科学者だとか名乗っている悪魔が、その手の中の試験管で作った生命体なのよ!」


 はじめにスクリーンで見た映像が、脳に焼き付いたように残っている。

 凪美由紀はあの日の、ミーティングルームでの光景を思い出す。ピンクの指示棒が指し示す画像は、ヒトよりもはるかに小型の二足歩行の生き物だった。定規の目盛りと比較すると、それらの身長は自分の指一本くらい。頭部がやけに大きいために全身のバランスがおかしい。髪の毛はなかった。

 二宮楓は相変わらずの緊張感がない声で説明を続けている。

「たとえばですが、小型のインビジブルが生息する居住棟のひとつを締めきって、これらを放ち自然繁殖させます。これらは――ええと、まだ呼び名がないんですが。ホムンクルス? ではそう呼びましょうか――小型とはいえ、インビジブルの脅威に晒されながら、時には捕食されながら世代を重ねます。彼らが覚醒するには、とても長い年月がかかるでしょう。私たちは冷凍睡眠をとりながら待ちつづける。起きて監視をするのは時々で構いません。やがて、ホムンクルスたちはインビジブルに対抗しうる能力を持つでしょう。その頃にはヒトとまったく同じ形態まで進化しており、交配が可能です。私たちは、環境に適応(エボリューション)した彼らと配偶し、直系の子孫を残すことが……」

 伊吹雄介はスクリーンをじっと見据えていた。飛島海渡は青ざめた顔をしていた。いまにも叫びだしそうな怒りを含んでいるようでもあった。彼の感性は正しいと思う。あの二宮楓とかいう女博士は悪魔の化身だ。

「……という点から推測すると、ホムンクルスたちは高度な社会性を備えたコロニーを形成します。知能指数も我々と変わらないようになるでしょう。すると、そのホムンクルスの群れを、どうやって円満に管理するかが将来的な課題となるわけで……それについては社会心理学担当の、凪美由紀先生にご意見を伺いたいと思いますが?」

 凪美由紀は硬直した。なぜ、自分が名前を呼ばれたのか分からなかった。社会心理学――ひどい冗談だ。実験用のマウスの群れに? いきなりの指名に頭から血の気がひいていく。

「凪先生、いかがでしょう。あぁ、失礼しました。この質問は事前通告していませんでしたね。のちのち、改めて見解をお聞かせ願えたらと……」

 美由紀はすいっと立ち上がった。内心では苛立っていた。ヒトという種族は、そこまでして自分たちの血統を残したいのか。ホムンクルスのほうが優秀なら、彼らにこの地球ごとくれてやればいいのだ。

「そうね。いくつか方法はあるでしょうね。ホムンクルスたちの中からリーダーを選定して自治をさせるとか。でも、個々に名前は与えない。名乗らせない。番号だけで管理するべきです。彼らが自分たちで名を与えたりもらったりするようになったら、私たちのほうが精神を病んでしまうわ。いま言えるのはこのくらいかしら」

 凪美由紀は適当なことを言っただけで、実際はほとんど出まかせに近かった。それが、周囲には感心した様子でうんうんと頷いている者も多くいる。

 この場には誰ひとりまともな人間がいないと思った。飛島海渡をのぞいては。少しは見込みがあると思っていた伊吹雄介は無表情だし、八坂銀次郎に至っては、おそらくこの計画を容認して許しを与えた共犯者に間違いがなかった。それから、美由紀は自らが放った言葉に縛られながら過ごした。

 やがて、飛島海渡は東塔で育った女と恋に落ちた。それを知ってからというもの、日が経つごとに余裕がなくなった。

 彼が離反して塔に戻らなくなり、しばらく過ぎたあとに気がついたのは、失意とはこういうものかもしれず、無謀な飛島海渡こそが誰よりも賢いのかもしれないということだった。

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