7-4 ピンクの矢印
ニューアースプロジェクトにより、過去の地球に送り込まれた人々が見た世界は、すでにある歴史とだいぶ違っていた。
古代文明とやらに遭遇し接触することも想定されていた。だが、周囲の観察できる範囲には集落どころか、ヒトの気配がまったくない。カメラを積んだ無人プロペラ機の電源が切れるまで飛ばしてみたが、やはり人間どころか文明の痕跡すらも見つからなかった。
そうこうしているうちに、人々は見えないものの襲撃で命を落とし、数を減らしていった。野に天幕を張っていた開拓部隊は猛獣の牙や爪にかかり、ほとんどが生きて帰ってこなかった。ある居住棟は見えないネズミが媒介する病でほぼ全滅した。窓の壊れた空き部屋に毒虫が巣をつくり、カエルや蛇が棲みつき、それらを捕食する大型の獣がやってきてねぐらにした。ついに、居住棟ビルのひとつが完全に乗っ取られた。
凪美由紀が、噂で聞いた女科学者とはじめに会ったのはそんなときだ。
きっと銀縁眼鏡をかけて、髪は無造作に後ろで束ねているだろうと想像していたのに、彼女は水色の派手な髪の毛をしていた。裾の長い白衣もつけていなくて、カフェの店員みたいな丈のみじかいエプロンを締めていた。ショートパンツの裾はさらにその上にあった。
そんなふうに職業を間違ってしまったような外観の彼女は、スクリーンに映し出された画像に矢印を動かしながらまず言った。
「えー。みなさん、現時点でのわたしたちの状況は、つまりそういうわけです。西側居住棟は、不可視生命体群――インビジブル、と呼ぶことになりました――それらに占拠され、東側居住棟も危険判定されました。住人たちはヘルスチェックが完了しだい、中央のメインタワーに一時避難をします。まあ、それについては保健衛生担当とか、保安担当からあとで説明するみたいなので」
凪美由紀はこみあげる不快感をおさえるのに精いっぱいだった。
ふざけた女だ。多人数の前に立ってものを言うのに、あの服装も言葉づかいも、なにもかも不適切だ。なんといっても彼女には緊張感というものがまるでない。ポップコーンを頬張りながら女友達に映画のあらすじでも語っているのかと思うくらいに、彼女の言葉は軽くて薄っぺらいと感じた。
聴衆のひとりが挙手をして何か質問をした。水色髪は答える。
「あっ失礼しました。私は二宮楓です。研究室所属で、生物学とか遺伝学とかをやってます。だからつまり、私はそこらへんの説明担当です」
彼女が科学者だというなら、凪美由紀は社会心理学者だった。
だから、紺色のスーツというそれらしい服装をしてきたのに、二宮楓とかいう女が説明のための指示棒をピンクに光る矢印にしているという時点でもはや意欲が失せた。あの矢印は、時々くるくる回転したり、色を変えながら点滅したりする。無駄すぎる。気になって何も頭に入ってこない。最高責任者の八坂銀次郎も同席しているなら、どうして注意しないのだろうか。
「で、このまま私たちが全滅してしまったら――あっ失礼しました。もっと将来的な話です。種族には存続可能個体数というのがありまして、このまま居住区を広げることなく、計画もなしに交配を続けるだけでは、私たちほんとに滅亡しちゃいます。たとえば、いまここにいる私たちの子供とか孫の代で、インビジブル生命体に対して有効な突然変異体が生まれる可能性がきわめて低いことはお分かりいただけますよね」
薄暗いミーティングルームのスクリーンの前で矢印が赤点滅をしていた。椅子にかけている聴衆たちの何人かは疑い深い顔でしぶしぶ頷いた。その中には、護衛官の伊吹雄介や、コールドカプセル保守点検担当の飛島海渡もいた。
「遺伝子の進化、突然変異を促進するテクノロジーも研究室は持っています。ですが、子孫に与える影響はあまりにも不安定で危険で、とても実用的ではありません。これをご自身が授かる子供で試したいという方はおられますか? はい、おられませんね。私だってお断りします」
実験用のマウスならばともかくだ。あれを試した実験体が奇怪な子を産んだらしいと噂で聞いて、凪美由紀はこっそり極秘の研究データを取り寄せた。そして想像の範囲を超えたひどい奇形の写真をいくつも見た。出産すらできずに母子ともに絶命したマウスもいた。興味本位で結果を覗いたことを美由紀は後悔した。
だが、インビジブル生命体に対して反応を示したマウスが一体だけ出現した。膨大なデータの中のただ一つ。統計学的な数値の低確率。それに自らの命を賭ける人間などいるはずがない。
「実験用のマウスならともかく――って、いま思いましたよね? たとえ突然変異体が現れたとしても、それがいくら殖えたとしても、マウスはマウスです。はい。というわけで考えたんですけど、マウス並みの世代交代速度で、しかも、世代を重ねながら形態がヒトに限りなく近似していく種族ならどうでしょう。勿論、このためだけに新しくデザインした生命体です」
二宮楓がスクリーンに表示した被検体の画像にどよめきが起こる。指示棒の先の矢印がくるくる光り、七色に変化するのがやたらと鬱陶しい。それが示すものを凝視しながら、美由紀は身震いするような嫌悪感をおぼえていた。
陽が暮れた北塔の屋上で対峙するものたちがいた。空を吹き抜けてきた風の中で、二宮楓の女性らしい高めの声だけが響いている。
「さあさあ! はやく投降しちゃいなよ、長月三十日くん!」
その隣には、騎士団長の伊吹雄介。底の丸いガラス瓶を持たされているが、その中身については彼も知らないようだ。長月三十日が要求に応じない場合は、瓶に封じられている中身を塔に撒く、と言う。とても嫌な予感がしながら三十日は訊ねる。
「団長が持っているその瓶が何なのか教えてくれ」
伊吹雄介は怪訝そうな顔で手の中の瓶をじっと見ていた。この瓶はフラスコと呼ばれる形状であり、特別な視力をもたない雄介にとってはただの透明な瓶にしか見えていない。つまり、中身はインビジブルだ。
「いいよー。条件を提示しないとフェアじゃないもんね。では、私からも質問です。きみの目で、そのフラスコの中には何が見えますか? 先に白状すると、わたしにはなんにも見えてません! うっかり詰め忘れちゃったかな~って、実はいま心配になってるんで」
長月三十日はフラスコを見る。ここで嘘を言ったところでどうにもならないだろう。丸底をうろうろ動き回る黒いものたちが数匹。体のわりに長い無毛の尻尾が見える。
「わかった人は手を挙げて答えをどうぞー」
「俺たちが知っているよりも、ずっとすごく小さなネズミ……でいいのかな。もっと近づいたらはっきりするけど、普通の人には見えないインビジブルだ」
伊吹は眉を寄せて不快感をあらわした。心当たりがあるといった様子だ。楓はいつもより青白い頬をして、浮かべるほほ笑みもどこか薄暗い。
「あなたたちの基準でいうと、遠い遠いむかし。西塔を壊滅させたインビジブルの種族がいたんだ。それらはドラゴンでもなく熊でもなくて、小さなネズミたちだった。小さくてよく殖えるものは厄介だよ。これらは人を噛むことで感染症を媒介する。治療法も原因もわからなかった頃の西塔がどんな地獄だったか、って……まぁ、その話はまた今度」
伊吹雄介はため息をつきながら、フラスコを軽く振ってみせる。丸い底で小さなネズミがたちが揺れた。そして嫌悪の表情をあからさまにする。
「いまの話が本当ならば、一組のオスとメスが入っただけでも大惨事だ。俺はこいつを塔に放したくはないが、お前を簡単に通してやるつもりもない。そこで提案だ」
フラスコを片手に持ったままで、伊吹雄介は腰に下げていた護身用の警棒を取り出して言った。
「長月三十日、俺から一本取ってみろ。俺はこのとおり片手を使わない」
二宮楓は興ざめしたように不満の声をあげる。
「えぇー? 何それ! さては自分だけ楽しむつもりでしょー?」
「お前に言われたくはない。このネズミも、その怪しげなカエルのことも俺は聞いていなかったが」
「うう、しょうがないな……。じゃあ、お互いの不手際は上の人に黙っているってことで!」
「それでいい」
伊吹雄介は警棒を構える。棒といっても、硬く重い木製のバトンにサイドハンドルのついた、かつてはトンファーとも呼ばれた形状の武器である。長月三十日が使う長い護身棒とは、間合いも使い方も異なるものだ。
「お手合わせ願います、伊吹団長」
三十日は背丈ほどもある長さの棒を構えた。こちらは両手で、間合いも長く届く武器を使えるのだが、力量差を考えると有利とも言えない。伊吹の鋭い眼光に晒されると寒気すらおぼえる。
「では、私はあちらの相手をして構いませんね、三十日さん」
背後から訊ねる声はモズのクイーンだった。彼女は隙をみて飛び立とうとするが、巨大化した重量のおかげで容易に浮き上がれない。そこへ楓の大蛙が跳びあがって体当たりをする。
「おーっと、飛ばせるもんですか~!」
均衡を崩したクイーンは倒れこむ。楓の大蛙は巨大な口を開いて飛びついた。大型化したいまのクイーンすらも飲み込まれそうで三十日は叫ぶ。
「クイーン、危ない!」
「よそ見をするな、長月三十日!」
目を逸らしたのはほんの一瞬だったのに、伊吹雄介はその刹那で間合いをつめていた。三十日はとっさに飛びのいて棒で牽制する。だが、相手は鍛錬の度合いがまるで違っていた。三十日が繰り出した突きはトンファーで容易に受け流される。
「しっかり動きを見ろ!」
三十日の脚に重い衝撃が走る。蹴りを喰らったのだ。
伊吹雄介の武器は、その腕に構えているトンファーだけではない。射程の短い武器だからこそ足技もある。蹴りの威力を逃がすのが一瞬でも遅ければ、三十日は膝を壊されていた。致命的ではないが、蹴られた脚は感覚が鈍くしびれている。
「いまのがまともに当たったら終わりだったな」
伊吹雄介の言う通りだった。長月三十日は足を引きずりながら身構える。目の前のことに集中しなければ。クイーンはきっと大丈夫だ。負けるはずがない。なぜなら、彼女は天才的なハンターなのだから。