7-3 竜の言い分
八坂銀次郎は、祖父の代から続く政治家の家で生まれ育った。
自分自身にその才能があるとは思わなかったが、ちっとも向かないわけでもないらしかった。政界に入ると、まだ三十代半ばにして党内では要の存在になった。次かその次の選挙で、あるいは風向き次第では政権がとれるかもしれないという情勢になっていた頃で、銀次郎の所属する一派では『ニューアース・プロジェクト』を提唱し推し進めていた。
構想に十年、準備に十年を要したその計画は、ついに実行されることになった。銀次郎のいた政党は分裂や再結束を繰り返し、気が付くと小規模野党のひとつになっていた。計画は与党政権が引き継いだ。
銀次郎は結婚もせず子供もいないまま五十歳を過ぎていた。
そんなある日、弟の慎吾から食事に誘われた。割烹の和室をひとつ貸し切った晩餐になった。銀次郎の予想に反して、彼は甥っ子を伴っておらずに一人で現れた。
「……雄介を連れてくると思ったが?」
いまや、甥についての話題くらいしか共有できていない兄弟だった。弟の属する政党は単独与党であり、彼自身は次期大臣と噂されていた。
「雄介も子供じゃなくなってな。いろいろ忙しいんだ」
「防衛大学の卒業祝いだと聞いたからだ。ふつう、来ると思うだろう」
「そう言わないと兄貴は来なかっただろ」
慎吾は給仕の女性を部屋から下がらせた。ふすまが閉まる音がして、すこしの沈黙のあとで、弟はようやく本題を切り出した。
「ニューアース・プロジェクトが最終段階を迎える。出発は三年後になるだろう」
銀次郎は苦々しい思いでグラスの酒を空けた。慎吾はおもむろに酌をする。
「――過去へ旅する箱舟たちか。そうか、ついに……」
「ああ。船という名の巨大ビル群だ。各種工場が付随したメインタワーが一棟と、居住用の周辺タワーが四棟。結局、遡航用の船はそれだけしかできなかった」
時をさかのぼる、『遡航』に耐える船はそれほど多く確保できない。それでいて彼ら旅人たちの任務は重大だ。大昔の地球に戻り歴史をたどり直す――「より良い方向へと」世界を導くために。いま、ヒトという種族は地球の重力圏につかまったままだ。そこを脱出できるような技術を、次の歴史でこそ完成させるというのが計画の狙いだ。
「だが、過去を変えたところで、既に歩んできた歴史が変わるわけではない」
銀次郎は含み笑いをした。酢の物に添えられていた蓮根を箸でつまみあげ、根菜の田楽焼きの上にひょいと乗せてみる。兄弟はふたりとも酢の物が嫌いだった。
「こうしてみたって、蓮根が酢に浸かっていた事実は変わらん」
「まったくだ」
「だが、小鉢ではない別の皿に乗ってみたい気持ちは分からなくもない」
――新たな故郷に旅立とう! 笑顔と希望のあふれる未来を!
銀次郎が自身の公約として何度も反復した文言だった。その甲斐あって、ニューアース関連の法案はどう転んでも賛成多数で可決である。いまの世界とは違う、誰も傷つかない楽園みたいな国がどこかにあるはずなのだと、人は夢見てしまうのだ。それを煽ったのも自分たちだ。
「酢蓮根に生まれても、メイン料理の皿に乗ってみたいという人々が大勢集まる見通しでな。動力をもたない『波乗り』用の箱舟は、けっこうな数を建造できる」
「『時を切り離し、浮き上がる』だけの船なら低コストで済むからな」
つまり、計画が始動した瞬間に、国民たちは――日本国籍を持つものだけが計画に参加できる――三つの群れに分岐する。
ひとつは、自分たちが生まれて育ってきた地球に残る集団。実際はこれが大多数だ。もうひとつは、過去に遡行するニュー・オールドアース移住集団。これらはおよそ二千人規模か、もっと増えると見込まれる。
そして、三つめがニューアース集団だ。これらは箱舟に乗りはするが過去へは飛ばない。計画起動の波がおこる瞬間だけ世界とのつながりを断ち、いわば真上にジャンプする。着地したと思ったときには、ニュー・オールドアース集団が書き換えた延長線上の、新たな世界に着くというわけだ。
「さて、我々は今度こそ、太陽系を脱出して新たな故郷にたどり着けるかな」
「いやいや。その前に火星のテラフォーミングが完成しているかもしれない。それを取り合うために手足のついた戦闘機でレーザービームやらミサイルやらを撃ち合ったりしているかもしれない」
「小惑星帯で岩石を盾にしながらガンシューティングか。そいつはいい。おれはパイロットに憧れているだろうな」
慎吾は少しだけ顔をほころばせた。子供だったころにはふたりで古いアニメーションに熱中した。自分より弟のほうが、いまでも幼い頃の面影があるような気がする。雄介が小さい頃は彼にそっくりだったかもしれない。
どこか別の和室から人々の笑い声がする。やけに遠くから聞こえる気がする。
しばしの沈黙を破ったのは慎吾だった。
「兄貴は遡航チームへ加入する気はないか?」
銀次郎は深くため息をついた。そういう話だという予感はしていた。
「ないな。ニューアース・プロジェクトは党の方針だったから賛同はしたが、私が行きたいとは考えていない」
「雄介が遡航チームに志願すると言ってる」
銀次郎は手酌で酒を注ぐ。慎吾は膝の上にこぶしを丸めて固まっている。
「息子が心配ならば、お前も志願すればいいだろう」
「総裁がニューアース行きの船に乗ることになるんだ。おれにはこの地に残る責任がある。どのみち、雄介はおれよりも母親と一緒に行きたがるだろうな」
「仮に私が志願したところで、選抜されるとは限らないぞ。お前と違って私にはなんの利用価値も――」
「いいや」
慎吾は首を横に振る。その眼光は暗い決意に満ちている。
「確実に選ばれる条件がある。針金虫を飼うんだ」
「なんだと」
銀次郎もその名称くらいは聞いたことがある。だがそれは裏切りが許されない情報局員などに使用されるもので、日本には存在しないはずだ。もし、本当にあるとしたら――
「同盟国に大金を払って買ったということか」
慎吾は答えなかった。答えないことが返事だった。
「おれは本当は総裁からついて来いと言われていた。だが、針金虫を飼うことで残留の許しを得た。もしも雄介が選考から漏れたときにはおれが見守ることができる。だが、遡行チームに入ってしまったら……」
うつむく弟の姿はすでに老いが始まっていた。
自分たちは家庭というものに縁が薄いらしい。慎吾は妻と離婚し、甥の雄介は母親の姓を名乗っていた。親やその親たちから連なる血統は、いまや雄介だけがひとりで受け継いでいる。
彼の行く未来を守り続けたかった。もしも弟にそれが叶わないとするなら、引き受けるのはもちろん自分だった。
八坂銀次郎は、かつての地球の思い出に浸っていた。
足元には棺のような箱があった。強化ガラスの蓋からのぞく内部には、銀次郎とまったく同じ背格好をした男がひとり眠っている。自身のクローンだった。しかも、いまの自分よりもかなり若い。いまは微動だにしないが、覚醒手順を踏めば間もなく起きだして、その足で歩き回ることができるだろう。だが、これが自分に似ているのかは分からない。分からなくなった。凪美由紀が用意したという、まったくの偽物の銀次郎だって似てはいないが、もはやその区別すらもおぼつかない。
さきほどから蜘蛛玉たちの動きがおかしいと気づいていた。どうやら、屋上に来客があったらしい。
八坂銀次郎は顔を上げる。
凪美由紀からの報告によると、叛逆は今夜あたりだろうとのことだったので、別に驚きはしなかった。背後の扉が開いて、そこに立っていた人物を見ても不思議ではなかった。
「――久しぶりだな、飛島海渡くん。それとも、アルバトロスと呼んだらいいのかね?」
冷凍室の扉の向こうには銀髪の女性の姿があった。彼女――いや、彼はためらわずに歩を進め、ひんやりとした空気の中で簡潔に言った。
「俺の妻を――瑠璃を返してもらいに来た」
彼も以前はなかなか男らしい風貌の奴だったのにと思い出す。妻と娘を奪われて運命を呪ったせいか、もとの姿に戻れなくなっているらしい。海渡がやってきたのも銀次郎の想定内だった。
「さて、なんの話かな」
「あんたが知らないはずがない。瑠璃が落ちて死んだと聞かされた時、俺は動揺してたんだ。バーディーを初めて隠れ家に入れたとき、室内を土足で泥だらけにしちまったのを見て、やっと気づいたよ。東塔ではな、誰も靴をはいて暮らしてないから、彼らの中に習慣がないんだ。だから……瑠璃が塔から身を投げるのに、靴を揃えてから飛んだってのは妙な話なんだよ!」
聞き届けると、八坂銀次郎は取り出した拳銃を向けた。アルバトロスはその手に何も武器を構えていない。
「フフッ……そうかね。で、私にどうしろと?」
「冷凍庫を開けさせてもらう。そこに眠っているのは娘のつばさじゃない。おれの妻の瑠璃なんだろう!」
「まあ、良かろう。自分の目で確かめてみたらいい。それで、きみは花嫁を引き渡してくれるのだろうな?」
八坂銀次郎は青白い顔で薄気味悪い笑みを浮かべる。その目は虚ろに澱んでいて、とうの昔に喜びなど忘れてしまった死者のようだ。
「バーディーは取引の道具じゃねえ!」
「だが彼女には価値がある、それは事実だ。花嫁をこちらにくれるなら釣りをやってもいい。つまり、きみの要望をもうひとつくらい聞いたって構わんのだが?」
アルバトロスは身の毛がよだつ感覚をおぼえた。声が震えそうになるが、冷凍庫の風のせいだと自分に言い聞かせた。
「俺の望みをあんたが知ってるっていうのか?」
「知っているというか、必然的にそうなる。北塔のあれは失敗作だ。これだけの年月とコストを費やしたのに、環境適応者をひとりも出していない。私がドラゴンを入れたのは、それが北塔に必要な刺激だからだ。しかし、お節介な誰かが駆除してしまった」
「ドラゴンを始末したのは俺じゃない。あんたの甥だ」
「そのようだな。私はついさきほど、一部の幹部たちに新たな試験を発動する権限を与えた。きみも幹部のひとりなら、ホムンクルス計画を忘れたわけではないだろう。北塔と東塔を次の試験場とする」
「ふざけるな!」
アルバトロスは腰に下げていた短刀に手をかけた。だが、銀次郎は身動きをせず、引き金を引こうともしなかった。ただ淵のような黒い目だけがこちらをにらみつけている。
「私を刺しても試験は止まらんぞ。だが、花嫁を差し出すというならば考えてもいい。私がやめろと言えば北と東の塔は延命するかもしれん」
誤算だ――いや、ただの見落としだった。
アルバトロスはともかくとして、バーディーや長月三十日、ほかの周辺塔の住人たちに、もとから自由など無かったのだ。師走一子や皐月五郎を取り戻したところで意味はない。彼らは支配される側だと思い知るだけの、最悪の結末だ。
「はやく返事をよこさなければ手遅れになるぞ。彼らがいつ瓶の中身をばら撒いてしまうのか、私にも分からないのだからな」
北と東の塔、およそ千人近い命を救うため、愛娘を差し出せというのか。神話に出てくる竜の言い分とおなじだ。
やはり無謀な賭けだったのか。アルバトロスは息をのんだ。