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6-0 少しだけ古い話

現在、アルバトロスの最終章を書き進めております。その冒頭部として書いたエピソードがどうにも収まりが悪いような気がしたので、中途半端なところに置かせていただきます。もっと書き溜めてから連載再開のご案内をいたします。

 その頃の世界はまだ、地球がまだ単なる地球と呼ばれていた。

 ある研究室に黒髪の女性助手がいた。まっすぐな髪をいつも輪ゴムでひとまとめにして、銀のふちの眼鏡をかけていた。化粧は地味だったし、ふだんの服装は黒や灰色の膝が隠れるスカートに白のシャツ、踵の平たい靴。そういう女性だった。見る人によっては、せっかくの若くてきれいな時期を無駄にしていると言いたくなるような。彼女の名は二宮楓といった。

 彼女の頭のなかは研究のことばかりだった。女性が結婚をせず出産もしないことは珍しくなかったが、遊びも恋愛すらも眼中になさそうなのは少し問題かもしれなかった。二宮楓は研究が楽しくて仕方がなかった。本来は望ましいことではないが、勤務時間が終わっても、休日のはずでもその姿が研究室にあることが多かった。

 同じように、週末のあいだも自分の椅子を占拠している人物はもうひとりいた。当時の研究室長だった秋野という男で、彼もまた仕事以外に居場所を見つけられない男だった。

 秋野室長が二宮楓を食事に誘ったことが始まりとなる。

 日ごろから真面目で、独自にレポートをまとめあげるほどの楓を秋野は高く評価した。しばらく経つと、楓は突如として研究チームリーダーに抜擢された。食事に誘われることは増えていき、それは昼だけでなく夕方の誘いもあった。

「楓くん、きみはずっときみのままでいてほしい。短いスカートに穴だらけのタイツだとか、日本人なのに髪をピンク色にしているとか、瞼の上に金銀の粉を塗りつけているような、ああいう輩になってほしくない。目立つことでしか主張できない女性は低俗でしょうがないね。賢いきみには分かるだろう?」

 秋野室長に妻子があることを二宮楓は知っていた。

 あるとき、専門からは少し外れるがいい展示会があると秋野が誘い、楓は男の車に乗った。展示会というのは確かにあったが、車はやけに遠回りな海沿いの道を行った。夕方になったので一緒に食事をした。車はそのあと、帰路につくものだと楓は思っていた。しかし、秋野の言葉でやっと状況を知ることになる。

「二人きりの部屋をとってあるんだよ。明日は非番だし、構わないよね? 私がきみをリーダーに推した。きみの論文が認められるように少々手直しと口添えもした。きみが私と共に、ニューアース・プロジェクトに参加できるよう推薦したのも、すべてはきみのために――」

 聞き終わる前に、楓は助手席のドアロックを解除し、走る車の扉を開けた。

「おい、馬鹿なことを!」

 秋野が何か叫んだが、かまわずに外へ転がり出た。たしかに自分は馬鹿だった。リーダーに任命されたのも、論文が掲載されたのも、純粋な実力だと信じていた。政府プロジェクトに名を連ねることになったのも。

「楓くん、戻れ! この道ではタクシーさえも拾えないぞ!」

 車を急停止した秋野が大声で怒鳴っていたが、楓は呆然として来た道を引き返した。パンツスーツだったおかげなのか、転落のときに大きな怪我をしなくて済んだらしい。ここが何処かは知らないが、ひとりで歩いて大通りへ向かうつもりだった。

 そんなとき、偶然にも巡回していた自動タクシーがあらわれた。楓は携帯端末から信号を送り、誰も乗っていない車を止めて乗り込んだ。

《ご利用ありがとうございます。お客さま、端末より目的地を入力してください》

 人の女声で作られた音声が耳に響いた。ここは安全だ。震える指で自宅の位置を入力しながら、楓は泣いていた。痛む膝を見るとズボンが擦りきれていた。束ねていた髪もぐちゃぐちゃだった。

 ――馬鹿だ。わたしが一番なにも分かっていなかった!

 チームの面々が、自分と秋野のことについて陰で何か言っているのを知っていた。噂話などするほうが愚かだと思っていたが、皆のほうが真相に気づいていたのだ。ひいきされている、女という武器を使っていると。涙は流れ続けた。楓は誰もいないタクシーの中で子供のようにわあわあ泣いた。

 ようやく馴染みの街のあかりが見え始めたころ、楓は赤い目をハンカチで拭きながら深呼吸をした。

 自分が傷ついたのは、秋野の愛人候補にされたせいではない。

 そんなことよりも、自分の愚かさが悔しくて、腹立たしくて、肩書きも論文もぜんぶ破り捨ててしまいたかった。優秀とおだてられて舞い上がっていた自分を消し去りたかった。もしも彼が、はじめから婚外恋愛の望みを白状したならば許容したかもしれないのに、今となってはそれも分からなくなった。


 そのことがあってすぐに、二宮楓は髪の色を抜いて金髪にした。

 ニューアース・プロジェクトには既に名を連ねていたので、楓は残りの人生を秋野と同じ職場で過ごす覚悟を決めていたが、秋野のほうがプロジェクトをあっさり降りてしまった。旅に同行するはずの家族が反対したらしく、いまの地球へ残るのを決めたという。

 時空の旅をする塔が五つ揃った頃だった。

 楓は周辺の塔の中心となる中央塔にいた。窓から眼下を見降ろしたとき、地上に秋野の姿があった。自分が行くはずだった計画を見届けにきたのだろうか。彼の妻と娘がその傍らで笑っていた。妻の腕の中には、誕生したばかりの新しい命があった。彼らがいる陽だまりが眩しく感じられる。二宮楓はその場に座りこみ、胸から重い息を吐きだした。

 ――わたしが過ごした時間は何だったんだろ。時を跳んだらわたしも、新しい自分になれるのかなぁ。

 まだ備品の揃っていないフロアは風が抜けていくばかりで誰もいない。旅立ちの時は迫っていた。




 伊吹雄介が彼女と初めて会ったのは、屋内蹴球(フット・サル)の試合のときだった。

 彼女は一段高いギャラリー席にいた。さらさらとした金髪、海の色の瞳が追いかけてくる。だが、それはどうやら自分に向けられたものではないらしい。敵対チームに所属する飛島(とびしま)海渡(かいと)という男を彼女は追い続けている。カラスに餌付けする奇妙なあの男は冷凍庫のセールスマンだと言っていたが、その運動能力と競技センスは並はずれて優秀だった。おかげで伊吹のチームはさんざん苦しめられた。

 試合終了のホイッスルが鳴る直前に伊吹は点を取り返したが、反撃はわずかに及ばなかった。騎士団の構成員が大半を占めるチームメイトのねぎらいを受けながらも、伊吹はギャラリーの中にいた彼女の存在が気になっていた。

 理由はおもにふたつある。

 ひとつは、彼女が下級市民であること。いや、正確には、下級市民でありながら上級市民のような身なりをしていることだ。屋内蹴球の試合は、その所属にかかわらず招かれた者はだれでも観戦することができる。周辺塔の人間がいても不思議ではないから、わざわざ変装のような真似を彼女がしている点については違和感があった。

 もうひとつは、彼女が美しかったこと。

 伊吹はこれについて自らに言い訳をする気がなかった。魅力的だと感じる女性について、彼女が上級市民だとか、違うとかの隔ては無意味なのだ。なぜなら、そうなるように仕組まれているためだ。中央幹部の自分たちは、中央所属の人間たちと周辺の者たちを差別で引き離しておきながら、いざというときには惹かれ合うのだと計算している。それは見事に当たっていたというわけだ。

 試合が終わり、飛島海渡がギャラリーに向かって大きく手を振るのが見えた。

 伊吹はベンチに預けてあった携帯端末を取り出し、彼女の所属を確かめようとした。飛島の口がどう動くのかを見ていると、

 ――勝った! またあとでな!

 そう言ったらしい。彼女の透き通った白い頬が花弁のように染まったことで伊吹は確信する。飛島とその女性が親密な関係である、あるいは、その関係が始まりかけているというのは明らかだった。

 彼女はのちに、飛島瑠璃という名をもらうことになる。

 結局、伊吹雄介にとっては手の届かない女性だった。飛島が中央塔からの逃避行に失敗し、屋上から転落した夜にも、彼女の態度は毅然としたものだった。凪美由紀が勝手に下品な部屋を手配してくれたが、そんなことで彼女を奪えるわけではない。女でありながら、美由紀はどうしてそれを分からないのか。

 瑠璃は勇敢にも家族を守った。自らの誇りも、愛も、命も。およそ希望というものに分類されることがらを全て守ってみせた。

 伊吹雄介が手を貸した理由はそれだ。

 ただし少しだけ。とても完璧とは言い難い。これは瑠璃に対する敬意に過ぎないもので、屋内蹴球の試合で勝ち星をひとつ取られたぶんと相殺すれば、多少の不親切はあろうがこんなものだろうと思っている。

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